思考パターン

あなたはネガティブな思考パターンに陥っています。

苦しみや辛いことに目を向ける癖が習慣的についています。

ジャーナリストという職業柄、身につけてしまった思考パターンかもしれません。

苦しみや辛いことにフォーカスしているから、人生が辛い悲しいものになってしまっているのです。それは、被害者意識からきています。
被害者意識でいると、更なる苦しみを招きます。
自分自身を許していないからです。

人生の中で、人は何かを選択して生きています。
テレビのチャンネルを選んでいるようなものです。いい悪いの話ではありません。

人生は一瞬なのに、そんな辛い過去だけにしがみついていることはないのです。

しかし、人生はそれほど長くないのです。

例えば、コップの中に大好きなお酒が半分入っているとします。
これを「もう半分しかない」と悔しがるか、「まだ半分もあるのか」と喜ぶか。その程度の違いです。

つまり、どういう観念を持つかなのです。

だから「苦労しなければ幸せにならない」と思っているのも間違いなのです。
楽をしながら幸せになった人もいっぱいいます。
好きなことをしているから、どんなことでも辛いとは思わないからです。

「人生は辛い苦しいものだ」という思考パターンが、その人の人生を作ってしまうのです。「生きることは苦しいものだ」「人生は苦とみつけたり」といった思考パターンから抜け出さない限り、負の連鎖から抜け出すことはできません。

そうでなければ、10代や20代の若さで何の苦労もなく、成功してしまう人がいることをとても説明できません。10代や20代の苦労など、40代、50代の苦労と比べれば高が知れています。

ユリウス・カエサルの言う通り「人は見たいものしか見ない」のです。

これを援用すれば、人はなりたいものしかなれないのです。

如是我聞⑩

あなたは、被害者になりたがっているだけです。
被害者でいたいだけなのです。
そう望んでいるから、今のような状態が続いているのです。

そもそも被害者も加害者もいないのです。

人は自分を幸せにすることだけに責任があるのです。
なぜなら自分が幸せでなければ、人を幸せにすることができないからです。

人を幸せにしようと思うのではなく、自分が幸せであれば、愛が溢れ、周りを幸せにすることができるのです。

自分を許していない人は、いい人になろうとして補償行為をしたり、被害者であろうとしたりしてしまうのです。「おまえのせいで俺はこうなったのだ」という被害者になることで、人を怨み、復讐を遂げようとするのです。

いい人間であろうという証明のためだけにエネルギーが使われ、結局、疲れ果ててしまうのです。

人を許していないということは、深いところで自分自身を許していないのです。自分自身を許していないと、周囲のせいにします。世間が悪いとか、会社が悪いとか、学校が悪いとか、親が悪いとか、大人が悪いとか、子供が悪いとか、いろいろ理由をつけて、責任を転嫁します。

自分が幸せなら、池に投げた小石の波紋が広がるように、周囲に幸せが広がっていきます。エネルギーの奪い合いにはならないのです。賞賛されたいとか認めてもらいたいとか、自分の外の世界に目を向けることなく、自分の内面を見つめることになるのです。

自分は一体、何をやりたいのか。
自分は一体、何のために生まれてきたのか。

―自ずと分かってきます。

自分を満たすということは何のか。そこから始まります。
それは、実に単純です。
自分のしたいことをすることです。
自分のしたいことをすることを許すことです。
自分自身を喜ばしてあげることです。
そうすれば、世の中のせいだとか、社会のせいだとか思わなくなります。

だからこそ、人は自分を幸せにすること以外に責任はないのです。

鬱症状の方へ

鬱症状というのは同じことを悩んで、なかなか抜け出させないスパイラルにはまりこんでしまっている状態のこと指します。

「自分は幸せになれない」「うまくいかない」「自分は駄目な人間なんだ」「自分は生きる資格がない」というひとつの思考パターンにはまってしまっているのです。

ポジティブに考えられる人は、どんなことがあろうと、希望的な明るい現実を作ることができるのです。

しかし、否定的に考える人は、過去から来るものにいつも影響されます。不安も心配も過去から引っ張ってくるのです。過去の失敗体験から自分で勝手に想像して、現実を作ってしまうのです。

だからこそ「自分を信頼する」「自分は大丈夫なんだ」という観念が大事です。

日々の生活の中で、自分が何を発信するかにかかっています。

「こういう人に出会いたい」「こういう体験したい」という観念の発信がそういう人や体験を引き寄せます。

すべての人には愛と調和が、個々の心の中にもうすでに備わっています。その事実は、エゴがいくら反発しても魂は知っています。

要するに「自分の人生は、自分の思う通りになる」ということを信じるべきなのです。百パーセント、自分自身が自分の人生に責任を持つということなのです。

朝起きて、「嫌だなあ」「面白くないなあ」と思った瞬間、その観念は宇宙に発信されます。そして、その日は、つまらない、面白くない一日で終わってしまいます。

落ち込む人は、マイナス観念を想像して、「そうなってしまうのではないか」といことを引き寄せて、現実を創造していることになるのです。

周りの人は「そんなことできるわけがない」というのに、実際に不可能を可能にしてしまう人がいます。それは、「できる」ということを信じきっているからなのです。

例えば、かつて、陸上競技の男子100メートルで、10秒の壁を破ることは不可能だと思われていました。マラソンだって、2時間10分の壁を破ることはまず無理だと思われていました。しかし、どうでしょう。

現在の陸上の男子100メートルの世界記録は、アサファ・パウエル(ジャマイカ)の9秒77。マラソンの世界記録は、1999年にK・ハヌーシ(モロッコ)が出した2時間5分42秒です。

どうですか。人間に不可能はないのです。壁を作っているのは、そういう風に考えている人なのです。「世界記録を破ってやるぞ」と挑戦する人間だけが、壁を打ち破るのです。

幸せになる人というのは、「自分は幸せになるんだ」とい信じる心が強い人のことです。夢を実現する人は、「自分ならできる」と信じる力が強い人のことです。

信じる力のことを「念」と言ったりします。念とはエネルギーなのです。

不安や恐れは外から来ると信じている人が多いのですが、実際は、自分の内なる感情が創造しているのです。それは自分がつかんでいる過去のパターンからそうなってしまうのです。

結局は自分が引き寄せているのです。

真理は本当はシンプルなのです。発信したものを受信しているだけなのです。

交通事故でさえ、自分で引き寄せているのです。

「過去はこうだった」というのも同じです。
今しかないのに、過去にしがみついているだけなのです。

物事はシンプルです。

与えたものが返ってくるのです。

人を憎めば、憎しみが返ってきます。

人を愛すれば、愛が返ってきます。

結果を求めてはいけません。

人は与えることによって、安心を得られるのです。

永遠の相の下に

スピノザ(1632-77)の言う「永遠の相の下に」という言葉が好きです。

彼の主著「エチカ」によれば、理性の本性とは、物事を偶然的なものとしてではなく、あるがままに観想することである。理性の基礎は、概念であり、時間とは関係なく、永遠の相の下で考えなければならない。永遠の相の下での認識とは、身体の現在の時空的存在を考えることではなく、神の本性の必然性から生じるものとして考えることである。このように認識したとき、はじめて我々の精神は、神をも認識するという。

現在、盛んにマスコミで取り上げられているホリエモンも東横インも「永遠の相の下」ではすっかり、忘れ去られてしまうことでしょう。あと、10年、いや5年、はたまたこのようなドッグイヤーの時代に3年もつでしょうか?

私が先月20日に取り上げた光クラブ事件の山崎晃嗣も60年近く経ち、すっかり忘れ去られました。

「金こそがすべて」と言って時代の寵児になっても「永遠の相の下」では取るに足らないということでしょう。

それより、「愛こそはすべて」と歌ったミュージシャンの方が、永遠の相の下では、いつまでも人々の心に蘇ることでしょう。
私はそう信じます。

 

人生の定理

ある大手企業に勤める前田隆(仮名)さんという人がいます。57歳。

彼は、入社以来、若い頃は、遅刻はするわ、仕事は手を抜くわで、周囲に迷惑を掛け通しで、あまり真面目な社員ではありませんでした。それでも、大企業ですから、いわゆる「ぶら下がり」として、給料はそれなりもらっていました。

それでも、幾星霜を経て、前田氏は、本社東京から離れたとはいえ、幸運も味方して地方の営業所長の地位を確保することができました。
しかし、好事魔多し。今度は、あれやこれや言い訳を繕って、真面目に働かない、ほとんど新規契約を取って来ない部下に当たってしまいました。

それでも営業成績は上げなければなりません。本来なら、営業所長として踏ん反り返って部下を指図していればいいのですが、背に腹はかえられません。自ら足を棒にして、お得意先を回って、契約をまとめる日々となりました。そして、自分は思った以上に口先がうまく、営業向きで、新規契約を60口もまとめた時は、さぼっていた若い時の借りを返したような気分になりました。

そう、これが世に言う「人生の定理」だったのです。波動の法則で、無能の部下を引き寄せたのは前田氏だったのです。まるで、仕事をしなかった若い時の自分を引き寄せたようなものです。若い時に楽をした前田氏は、その分を定年間近になった年になって返すことになったわけです。プラスマイナス・ゼロです。

そのことに前田所長は恐らく気づいていないでしょう。

前田所長の「部下が全く働かないから、俺が現場に出るしかないんだよ」という愚痴を聞きながら、私は思わず「それは自業自得でしたね」と言いそうになってしまいました。

まさしく「知らぬは本人なりけり」。前田氏が如何に、全く働かない「無能人間」だというレッテルを貼られていたということさえ、本人は知らなかったのです。

でも、世の中、うまくできたものです。
因果応報。努力すれば報われる。サボって楽をすれば、いずれしっぺ返しが来る。

これこそが人生の定理です。
人生の定理は、まずそのことを信じることからはじまります。

四苦八苦

医療ジャーナリスト松井寿一さんの近著『がんを友に生きる』(元就出版)を面白く読んでいます。

仏教で「四苦八苦」といいます。

「四苦」とは、生老病死。「八苦」とは、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦のこと。この「苦」とは苦しみのことかと思っていたら、「思い通りにならないこと」を意味するらしいのです。

つまり、まれてきたのも、誰かに頼んで生まれてきたわけではない。いてをえてぬのも同じ。全く思い通りにならない。愛別離苦は、どんなに愛し合っていても必ず別れがくる。怨憎会苦とは、顔も見たくない嫌な人に会わなければならないこと。求不得苦とは、欲しいものが手に入らないこと。五蘊盛苦は、身体の機能が思うように働かず、思うようにならないこと。

まさに世の中は自分の思い通りにならないことを、お釈迦さまは喝破したのです。

松井さんは、無着成恭さんから聞いた話を書いています。この話をしたいがために、今日はこのテーマにしました。

「財布から一万円出そうとして落としました。すぐ拾いますよね。なぜですか。自分のものだからです。傘をぶらぶら振っていて落としました。これも拾います。自分のものだからです。では生命を落としたら拾えますか。拾えないでしょう。生命は自分のものではないからです」

今日、私はあまりいいことがありませんでした。要するに、全く思い通りにならないことばかりが起きました。しかし、この本を読んで、元気をもらい、自分の陳腐な思考回路が馬鹿らしくなりました。これからは、度々、引用させてもらおうかなあと思います。

ウォーキング・メディテイション

ウォーキング・メディテイションというものがあることを今日、初めて知りました。

 

「歩行瞑想」と訳せばいいのかもしれません。瞑想といえば、座禅を組んでじっとして、只管閉じこもって精神を集中するものかと思っていたのですが、歩きながら、戸外の景色を眺めながら、想念を巡らせていいようです。

 

今回、私自身、全く「歩行」の基本を知らなかったことがわかりました。つまり、着地する時、いつも、爪先ほどではないにせよ、足の裏の先端部分で着地していたのです。随分と前屈みとなり、言ってみれば、猫背になっていたのです。全くみっともないのですが、もう半世紀近くもこんな歩き方をしていました。本当にぞっとします。道理で、しょっちゅう、ほんの小さな石や段差で転んだり、バランスを崩していたものでした。

 

本来の歩き方というのは、踵から着地していたのですね。知らなかった!(皆さんは知っていましたか?私は歩き方を習わなかったので、本当に知りませんでした)

 

踵で着地すると、自然と背筋が伸び、5歳は若返った気分になります。

 

「歩き方には人生観が出てしまうのですよ!」とメンター(師)は言いました。「渓流斎さんの場合、性格がとてもせっかちで、いつも時間や締め切りに追われている、というのが露骨に現れています。いつも、いつも、先のことばかりを心配している歩き方です。『今』を素通りにしているのです。『今』しかないのに、起こりもしない将来のことばかり心配しているのです。もし、地に足が着いた生活を自信を持って送っているとしたら、そんな歩き方はしません。まさしく、地面に踵をしっかり着けて、大地を踏みしめています。もし、渓流斎さんが、そういう歩き方をすることができれば、そういう人生を送ることができるのですよ!」

 

私は、歩き方を変えました。一歩一歩、雪道を踵からゆっくり降ろして、踏みしめて歩きました。「ザクッ、ザクッ、ザクッ」。心地よい音が自然の大気にこだましました。『今』を感じながら、しっかりと大地を踏みしめました。

 

ああ、何と幸せな気分なのでしょう。これこそが、ウォーキング・メディテイションだったのですね!

森の哲人、帯広入り

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いつぞや、このブログでもご紹介した「森の哲人」オジジとオババこと徳村彰、杜紀子夫妻が、帯広に来て、帯広の隣町の幕別町札内で講話会を開きました。

講話会といっても、ごくごく少数の人(15人くらい)で、ゼロ歳から50歳代ぐらいの人まで様々でした。

約1時間半、オジジがどうして、北海道上川管内滝上町滝西にある森に移り住んだのか、といった話から、今、森に暮らして感じていることを淡々と話していました。

初めてオジジのことを聞いた人のために、ここで再び彼のことを紹介しますとー。
彼は金沢市出身で、現在78歳。詳しくは分かりませんが、東京大学を出て、物書きの仕事をしていたようです。中国やソ連にも行っていたというので、貿易関係の仕事もしていたようですが、本人は口を閉ざしているので謎です。

彼の生き方を変えたのは1971年のこと。仕事のしすぎで、肝硬変と肺気腫に罹り、当時、名医中の名医と言われていた医者に、「あなたの命は、もってあと2年」と宣告され、「どうせなら、残りの人生好きなことをやろう」と心に決めたそうです。

そこで、横浜の日吉で子供たちのための「文庫」(「図書館」と言えるほど大きくなかったのでそう名づけたらしい)を作ったところ、今で言う登校拒否の子供たちが沢山集まるようになり、もっと広い、環境のいい所を探します。そして、紆余曲折を経て、北海道にその地を見つけますが、「永住」覚悟したのは、1990年のことでした。

約6㌶の国有地を借りて掘っ立て小屋を建てますが、電気もガスも水道もありません。しかも真冬は、マイナス25度にもなる極寒地です。

それでも、「この15年間は本当に幸福だった」と振り返ります。「余命2年」と言われて、30年以上、生き延びています。しかも、「森の精」のおかげで、肝硬変が消える奇跡が起こり、左右裸眼で0・1しかなかった視力も1・2まで回復します。「森のおかげ」とオジジは言います。

6㌶の土地には、ミズナラ、ニワトコ、ホウノキ、ハルニレ、アモダマ、シラカバなど80種類の樹木もあるそうです。ヨーロッパ全体で65種類しかないので、その数字がいかにすごいかお分かりになるでしょう。

オジジはそんな森の自然に一切手を加えることなく共棲しているのです。

春から秋までは、都会の子供たちらを受け入れ、冬は、毎日8時間の雪かきです。北国育ちのオジジは子供の頃、雪かきが大嫌いだったそうですが、健康を害して、余命2年と宣告されたのに、雪かきのおかげで、すっかり体力を回復したそうです。

「幸福とは、日本になかった言葉です。明治になって、Happinessを翻訳したものです。それでは、古来の日本では、幸福のことを何と言っていたのかー。幸(さち)と呼んでいたのです。幸の『さ』境目、境界線のこと。『ち』は霊力のことです。つまり、自分の肉体や精神の内部と外部の境目で不思議な力を感じることなのです。私は、一日の雪かきの仕事が終わって、五右衛門風呂に入ると自分の肉体とお湯が溶けて境目がなくなって、何とも言えない恍惚感を感じるのです。こんな幸せなことはありません。これから私は100歳、いや140歳まで生きて、森の素晴らしさを伝えたい」

オジジの素敵な笑顔を皆さんにもみせたかったです。

なお、オジジについてもっと知りたい方は、彼の著作『森に生きる』『森に学ぶ』(雲母書房)をご参照ください。

壮年の生き方 

弟子「私はこれまで、道に迷った時、大変そうに見える苦難の道ばかり選んできました。決して安易な道を選びませんでした。私も若かったし、その方がやりがいがあったからです。それに、これまでの人生で読んできた書物の影響もあったかもしれません。何の本だったのか、たった一冊の本を挙げることはできませんが、アンドレ・ジイドの『狭き門』であり、夏目漱石や太宰治の一連の小説であったり、です。

しかし、私も老い、壮年を迎え、そろそろ自分に正直に生きようかと思っています。岐路に立たされたら、もう苦難の道を選ぶ気力も体力もありません。決して楽をしようというつもりはないのですが、楽しそうな道を選びたいと思っているのですが…」

メンター(師)「いいえ、もう、楽な道を選んでいいのですよ、マイ・サン。安易な道で何故悪いのですか。あなたは、もう十分苦しんできました。十分過ぎるほど苦しみぬいてきた。それは、あなたが欲した道だったからです。苦しめば何かご利益がある、と誤解していたからではありませんか?

それとも、苦難の道を選んで、何かご利益がありましたか?どちらを選んでも同じだったはずです。人は一瞬、一瞬、その場、その場で選択しています。仕事や職業など重大な判断を下さなければならない時もあれば、『今日の晩ご飯は何にしようか』まで様々です。でも、食事なら、まずいものを食べようと選択していましたか?

人生の選択も同じです。好きなことをやって、好きなことだけをして成功している人は世の中にいっぱいいます。その方が、遥かに輝いています。自分の好きな仕事ですから、楽しくてしょうがありません。嫌な人にも会うことはないのです。
『それはできない』『生計が立てられない』と思っているとしたら、前世によほど酷い目に遭って、不遇のうちで亡くなったからです。毎日、不平不満ばかり言って、過ごしていたら、その人の人生は、『不平不満の人生』で終わってしまうのですよ。もし、その仕事が自分に合っていなかったら、その会社が嫌だったら、何故、飛び出さないのですか?人生はそれほど長くはないのです。その人の人生は不平不満を抱えたまま、終わってしまうのですよ。

もったいない!せっかく、この世に役目を持って皆、生まれてきたはずなのに、無駄に過ごしてしまうのですか?もったいない!太宰治なんか読んでいる暇はないのです。人生など本当に一瞬で終わってしまうのです。ネガティブに考えれば、人生を否定的に考えたまま終わってしまうのですよ。人生を否定的に考えて終わってしまう人は、その人がそう望んだからです。だから、その人は結果的に否定的な人生で終わってしまうのです。

逆に肯定的に捉えれば、人生もスムーズに行きます。『楽しくしたい』と思えば、楽しい人生が自ずから開けてくるのです。人間関係も変わってきます。もう、嫌いな人に出会うことはないのです。次元も違うし、波動が違うからです。これまでの友人関係も変わってきます。

宇宙の愛に目覚めます。生きているというより、『生かされている』という感謝の気持ちになります。そうなれば、ちょっとソリが合わないとか、気に食わないとかいった人間関係の些細な次元が全く馬鹿らしくなるか、気にならなくなるのです。だから、もう嫌な人に遭うことはなくなるのです。

楽な道、安易な道、ワクワクするような楽しそうな道…。大いに結構じゃありませんか。もう、そういう時代になってきました。あなたが変われば、あなたの意識が変われば、周囲の人も変わります。そして、大いなる宇宙の愛は燎原の火の如く、たちどころに広がります。疑心暗鬼も猜疑心も消えます。不安や恐怖も消えます。心は信頼と愛で満たされます。

人は、猜疑心や恐怖心というものが、それが高級なものであると勘違いしているだけなのです。決してそうではありません。何も童心に帰れ、とは説きません。心の意識をほんの少し変えるだけで、自然と信頼と愛に満たされてくるのです。
ですから、これから、どうぞ楽な道を選んでください。安易な道を選んでください。ワクワクするような楽しそうな道を選んでください。

こんなことは、若い人には決して説きません。苦労は、体力と気力がある若い時にしか自ら買って出られないからです。

でも、あなたは、もう50歳です。これまで散々苦労を重ねてきました。皆も認めています。そういうあなたにだから言えます。これから、いい仕事をしてください。楽しんで仕事をしてください。世の中のためになることをしてください。あなたはリーダーシップを発揮する星の下に生まれました。必ずや道は開けます。周囲に影響も与えます。あなたが率先して行動すれば、周囲もついてきます。

世の中は、決して、映画の世界のように、善人と悪人だけが住む世界ではありません。マスコミが伝える世界だけでもありません。どうか、魂のレベルで世の中を浄化してください。それが、あなたのお役目です。」

あるものをみつめて

あるものをみつめてー。

或る物を見つめて、ではありません。

「在るものを見つめなさい」「自分に与えられている持っているものを見つめなさい」ということです。
私は、今日、教えられました。

人の不幸は、ないものを欲しがるところから始まります。

-お金がほしい。
-服がほしい。
-恋人がほしい。
-お家がほしい。

いずれも、そう簡単に手に入るものではありません。
ないものを欲しがるからです。

しかし、在るものを見つめたらどうでしょうか。

ー借家だけど、家がある。
-お金はないけど、健康に恵まれている。
-恋人はいないけど、友人がいる。
-何とか食べていける仕事がある。

何となく不平不満が消え、感謝の心が湧いてきます。
感謝の心が湧けば、自然と頭が垂れてきて、自分は生かされているという気持ちになります。

自分が生かされていると思えば、周囲と仲違いしている暇はなく、人のために何か役に立ちたいと思います。

人の役に立つと、相手から微笑みが返ってきます。

こうして、自然と幸福感に満たされます。