STAND BY ME 

公開日時: 2005年8月21日

言わずと知れた1950年代のベン・E・キングの名曲。

このスタンド・バイ・ミーとはどういう意味なのでしょうか?

先日、ジョン・レノンのフィルムをBSで見ていたら「そばにいてくれ」という訳詞がテロップに流れていました。
何か、違和感を感じてしまいました。確か、stand byは「~の味方になってくれ」という意味じゃなかったっけ?

辞書でみると、確かに「側に立つ」という意味も載っていました。もちろん、「支持する」「肩を持つ」という意味も…。

そうか、この歌詞は、これらすべてのことを言いたかったのではないか!

「側に居てくれ」「僕を支えてくれ」「僕の気持ちも分かってくれ」
そんな意味を込めているのではないでしょうか。

これらがミックスされた意味を一瞬聞いて判断するのは日本人には無理です。
ネイティブでしかできません。

それなら、お返しに日本人しか「意味」が分からない歌詞を。

桜田淳子の歌う「真夏のヴィーナス」

去年のトマトは青くて硬かったわ
だけど、いかが?
もう今年は甘いでしょう。
たぶん、きっと、唇とろかすはずよ。
そんな言葉、突然言われたら、
あなたは、どうしますか?

徳川家康

「人の一生は重荷を負って遠き道を行くが如し、いそぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。心にのぞみおこらば困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基。怒は敵と思え。勝つ事ばかり知って負くる事を知らざれば、害、その身に至る。己を責めて人を責むるな。及ばざるは過ぎたるより勝れり。」

徳川家康(1542-1616)江戸幕府の創始者。三河国岡崎城主松平広忠の子。1600年の関ヶ原役で石田三成らの西軍を破り、天下統一。03年、征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開く。05年、将軍職を秀忠に譲り、07年、駿府に移り、大御所と呼ばれる。死後、久能山に葬られたが、翌17年に日光山に改葬。東照大権現の号を勅諡される。

【釈義】あまりにも有名な徳川初代将軍の遺訓。慶長三年(一六〇三年)正月十五日の日付があるので、家康、御年六十一歳。三年前に天下分け目の関ヶ原の合戦で勝利を収め、この年の二月に征夷大将軍に任じられて江戸に幕府を開くことから、この頃は悠悠自適、余裕綽綽といったところか。それにしても何と素晴らしい人生訓なのだろう。正直の話、私は、若い頃は家康が大嫌いだった。権謀術数に長け、「狸親父」の異名通り、権力を獲得するためには手段を選ばぬ冷血漢の印象が強かったせいかもしれない。

しかし、家康は決して順風満帆の人生を送ったわけではなかった。時は戦国時代。幼少から、織田信秀、今川義元の人質となり、長じても連戦連勝どころか、何度も九死に一生を得た。関ヶ原の戦いでも、小早川秀秋らの内通がなければ勝てていたかどうか。後世の人間にとって、歴史上の人物は最初からその人の運命を与えられていたものと錯覚しがちだが、家康も五里霧中の中で神仏に縋りながら、必死で生き抜いてきたのだろう。それが、こういった金言となって自然と口から出てきたはずだ。

【結局】人間は、失敗からしか自らの教訓を引き出すことができない。他人の成功からは嫉妬を、自分の成功からは慢心と油断を学び取ることしかできないのだ。残念ながら、これは人間の性(さが)だ。

ひかりごけ     

知床旅行の時、羅臼町のマッカウス洞窟に立ち寄りました。

ここに、光る苔があるというのです。

ヒカリゴケ?

ああ、そういえば、武田泰淳(1912-76)に名作「ひかりごけ」があったなあ、と思いながら、痛い膝と腰をかがめながら緑色にボーと光る苔を眺めてみました。

そしたら、何と言うことでしょう。

この光る苔こそが武田泰淳のひかりごけだったのです。

「ひかりごけ」は1954年の作品。北海道大学の助教授を辞めて作家に専念した武田泰淳が満を持して発表したものでした。

知床沖で難破した船の船長が死んだ船員の肉を食べて生き延びた実話を元に創作したもので、もともと、羅臼町長を1995年まで3期12年務めた佐藤盛雄さん(76)が「羅臼郷土史」に書いたものでした。
佐藤さんは、1953年に武田泰淳の訪問を受けて会ったといいます。

「実際に武田さんと会ったのは10分程度でした。あの頃丁度、洞窟のヒカリゴケが話題になっていた。別な場所であった事件とヒカリゴケを結びつけた武田さんの文学的発想は、さすがと思った」という佐藤さん。(この項、北海道新聞による)

そのひかりごけ。
よく分かりにくいですが、とくとご覧あれ。

ナノバブルウオーターとは?

ヤマベや岩魚と鮪や鰯と共存できる?

最近、REO研究所の千葉金夫さんと産業技術総合研究所の高橋正好さんがナノテクノロジーを使って水を「ナノバブルウオーター」に換えることに成功したという記事を雑誌で読みました。

このナノバブルウオーターは、10年前から理論的に可能と言われていましたが、誰も成功していなかったのです。

この「水」があれば、海水魚も淡水魚も暮らしていけるそうです。それだけではなく、瀕死の状態だった魚をこの水の中に入れるとすっかり健康を回復したそうです。

今、人間にもこの水が応用できないか、研究されているそうです。

知らなかったですね。

地上では相変わらず、人間同士の醜い足の引っ張り合いをしていますが、何と清々しいニュースなのでしょうか。

コスモス

公開日時: 2005年8月17日 @ 20:14

散歩していたら、コスモスの花が満開でした。本州育ちの私としては驚きでした。
何しろまだ8月です。コスモスは「秋桜」と書くくらいですから、秋の花です。

でも、よく見ると面白いのです。隣の花壇では真紫色の紫陽花が満開なのです。

そのまた隣は、カンナ。その隣は真っ白いカサブランカ。
茲彼処に真っ赤なサルビアも、赤紫のサフィニアも咲いていました。

北海道は、本州の季節感は持ち込めないのです。

お盆を過ぎて、朝晩は大分涼しくなってきました。いや、寒いくらいです。
もうすぐ秋で、今日から小学校も2学期が始まりました。早いところでは、もうストーブをたいているでしょう。

咲ける時に咲いてしまえ、というのがこちらの花々のたたずまいなのでしょう。

ですから、この時期、花花花のオンパレードなのです。見飽きません。

タキシード

非常にトリヴィアなクイズ。

タキシードはどこから来た名前でしょうか?

繊維の種類?
人名?
様式?
国名?

答えは地名でした。

19世紀末。アメリカのニューヨーク州の郊外でパーティが開かれました。

そこは、ある煙草王と呼ばれたロリラード4世が催した夜会でした。

列席者は、通常の燕尾服の尾を切り落としたジャケットを着用してきたのです。

その場所は、かの煙草王が開発した別荘地帯でした。

名前が、タキシード・パーク。

ニューヨーク州オレンジ・カウンティにあります。

タキシードはその地名から取られ、瞬く間に世界中に広がりました。

煙草王が売り出したタバコは今でもあります。

それは「KENT」です!

今井雅之

 タモリの「笑っていいとも」の本日のゲストは俳優の今井雅之でした。
漫才師がタイムスリップし、太平洋戦争末期の神風特攻隊員になっていたという「THE WIND OF GOD」(舞台・映画)の作者であり監督、主演もした人らしく、会場に投げかけた「問題」も彼らしかったです。

 「戦後60年。さて、日本はどこを相手に戦争したか。知らない人はスイッチを押してください」

 ご存知の通り、会場に詰め掛けた百人のうち、その問いに当てはまる人だけがスイッチを押します。それがたった1人だったら、タモリの携帯ストラップをもらえる、というやつです。

今井雅之も、もちろん、「知らない人がいるわけがない。いても一人くらいだろう」ということでこの問題を出したわけです。

私も、二、三人かな、と思ったわけです。
「日本はアメリカと戦争したんだよ」と聞いて驚いた若者がいた、というのは、ちょっと話を大袈裟にしたブラックジョークだと思っていたからです。

知らない人は何人いたと思いますか?

何と13人でした。

この分だと、あと数年もすれば、半分の50人くらいが、「知らない」と言うことでしょう。
その頃、戦後○年でもなくなっているのかもしれませんが…。

戦後60年

 1948年から78年までの30年間、週刊新聞「たいまつ」を刊行していた、むのたけじさんが現在も郷里の秋田県横手市で元気に活躍している記事を目にして、大変頭の下がる思いを感じました。現在、90歳という高齢にもかかわらず、毎日、原稿の執筆を欠かさないというのです。
 
 むのさんは、本名が武野武治。戦中に、中国などで朝日新聞の従軍記者として活動し、「この戦争は間違っている」と確信しながら、記事にできなかったことを悔いて、戦後、新聞記者を辞めて、自ら、週刊新聞を発行した人です。戦後60年ですから、その頃、30歳そこそこだったわけです。

 どうやって、新聞経営を軌道に乗せたのか。家族がいらしたのかどうか。いらしたら、どうやって食べさせたのか…。知らないことだらけですが、「志」を持つことが如何に重要か、教えられます。

 60年前の戦争が如何に悲惨だったか、彼のような生き証人がいたおかげで、「抑止力」が働いたと思います。でも、これから、戦争を知らない世代が大半を占めた時に、日本がどう変わっていくのか…。
 否、もう随分変わっているかもしれません。

 日本人は集団ヒステリーに陥りやすいことは、先の大戦の例をみても明らかです。結局、冷静に戦局を分析して、歴史的にも正しかったのが、あのつむじ曲がりで、世をすねて世間に背を向けて生きていたような作家の永井荷風だった、という事実をもう一度、目を向けるべきだと思っています。

勝毎花火 

全国的に有名になった勝毎花火大会を見に行ってきました。

ある週刊誌で、全国ナンバー1に輝いたとか、ならなかったとかの噂で、とにかく沢山の人出です。

帯広の人口は17万人ですが、この勝毎花火の見学者は15万人にも及ぶそうです。

帯広にこんなに沢山の人がいたのかと思われるくらい、多くの人が詰め掛けました。

それにしても、花火の写真がこんなに難しいとは思いませんでした。

動物写真のように、シャッターチャンスを見つけるのがなかなか大変なのです。百枚近く撮ったのではないかと思います。

ということで、これらの写真は、それらの中から選りすぐったものです。
とくとご鑑賞ください。

バルーン

バルーンの中に何が入っているかご存知ですか?

熱気球、というくらいですからね。

そう、ただの空気が入っているだけなのです。その空気をガスバーナーで暖めて、空中に浮かびます。

気球といえば、思い出すのが飛行船「ツェッペリン号」です。

確か、水素が入っていたため、電線か何かに引っ掛けて大爆発しました。

これに懲りて、ヘリウムを使うようになったのですね。

ツェッペリンといえば、ロックバンド「レッド・ツェッペリン」です。英語の発音では、正しくは「レッド・ゼッペリン」です。

ジミー・ペイジによると、本当は「LED ZEPPELIN」ではなくて
「LEAD ZEPPELIN」という綴りにしたかったのですが、アメリカ人が、リード・ゼッペリンと読む恐れがあるので、LEDにしたのだそうです。

LEADでレッドと発音します。鉛のことです。