「第三の男」

オーソン・ウエルズ(ハリー・ライム)主演作品「第三の男」をNHKのBSでやっています。今見ているところです。

 

監督キャロル・リード、音楽はアントン・カラス、主演ジョゼフ・コットン(ホリー・マーティンス)、アリタ・ヴァリ(アンナ)、トレヴァー・ハワード(キャラウエイ少佐)。原作は遠藤周作も大好きだったグレアム・グリーン。ここまでは諳んじて言えます。不思議ですね。

 

何しろ、57年も昔の映画です。オーソン・ウエルズをはじめ、ここに出演している役者は、子役以外ほぼ全員、死亡しているでしょう。

 

ここに映画のすごさがあります。

 

1949年作品。57年経とうが、人間のエートス(心因性)は、全く変わりがないのです。

 

昔、見たとき、登場人物が異様なジジイに見えましたが、みんなすごーーく若く見えるのです。

 

単に私が年を取ったに過ぎないのですが。

「ミュンヘン」

<a title=”スピルバーグ監督の映画「ミュンヘン」、ドイツで議論に (ロイター) – goo ニュース” href=”http://news.goo.ne.jp/news/reuters/geino/20060127/JAPAN-201334.html?C=S” target=”_blank”>スピルバーグ監督の映画「ミュンヘン」、ドイツで議論に (ロイター) – goo ニュース</a>

スティーブン・スピルバーグ監督の「ミュンヘン」を見ました。

1972年のミュンヘン五輪の開催直前に、「黒い九月」と呼ばれるアラブ人のテロリストがイスラエル選手団を襲い、11人の選手・コーチを殺害した事件を元に、イスラエルの秘密諜報機関「モサド」が、報復のため、テロリストを次々と殺害する話です。

暗殺者のリーダー、アヴナーも最後は、自分は何をしているのかわけがわからないくなり、発狂寸前まで追い込まれます。生まれたばかりの娘にも危害が及ぶのではないかという不安に駆られ、すっかり祖国に対する不信感すら感じでしまいます。

見終わっても、カタルシスがなく、スピルバーグは何を言いたかったのかわからなくなりました。これでは、同胞のユダヤ人からもアラブ人からも批判されるはずです。

「事実に触発されて」と最初に断り書きが登場しますが、結局はフィクションなのでしょう。辻褄が合わないというか、ちょっと可笑しいなあというシーンがいくつかあります。

例えば、情報提供者のフランス人のルイ。モサド陣にアテネでのアジトを提供する一方、アラブのテロリスト(とこの映画の作者が呼ぶ)にも同じアジトを提供し、敵対する二者が鉢合わせすることを仕組んでおきながら、モサドのアヴナーは少しも、ルイを疑わない。これは、おかしいですよね。

やたらと、ドンパチ打ちまくるシーンが多く、これでは、ヤクザ組織の縄張り争いと変わらない、バックが国家か、愚連隊の違いに過ぎない、その程度の違いなのです。

真の背景にはユダヤ人問題やパレスチナ問題がからみ、一筋縄ではいかないのに、単純な物語にすること自体、とても危険なのです。さすがにエンターテインメント映画ではないでしょうが、サスペンス映画にしては中途半端です。

とにかく、この作品でアカデミー賞を狙っているらしいのですが、私にとっては、よく分からない映画だなあ、言っておきます。

金持ちと文化遺産 NHK日曜美術館

5日にNHK教育で放送された日曜美術館はとても面白かったです。タイトルは「名品流転・コレクターの興亡と美術商」。美術の名作の持ち主がどうのように変遷していったか、その時代の景気や社会背景が美術市場と連動しているのでとても興味深かったです。

 

テレビなので、ボケーと見てしまったのが、残念です。大学の講義ならちゃんとメモを取っていたことでしょうが…。そこで思い出すことができたことをここに書きます。

 

例えば、野々村仁清の国宝「色絵藤花図茶壷」。旧丸亀藩の家宝でしたが、維新後、没落し、明治半ばになって、手放さなければならず、今で言うオークションにかけます。

 

見事、入札したのが、九州で鉄道業など幅広く実業を営んでいた松尾公蔵。(この人に詳しい人はコメントください)しかし、栄華も長くは続きません。

 

続いて、現れたのが、胃腸薬の「わかもと」の創業者、長尾欽也。長尾美術館を建設し、奥さんのよねさんが、夫の死後、最後までこの国宝を守ったようですが、詳しくはわかりません。(コメント募集)

 

戦後になって、この国宝を手に入れたのが、岡田茂吉(1882-1955)。世界救世教の始祖です。静岡県の熱海市にMOA美術館を建て、今でもそこに展示されています。私もそこで見たことを記憶しています。MOAって何の略かわからなかったのですが、Mokichi Okada Asociationの略だったのですね。世界救世教に詳しい方も是非コメントください。

 

続いて「源氏物語絵巻」。

 

詳しくは、酔っ払っていて覚えていないのですが、当初は尾張徳川家などに伝わっていたのが、明治33年に、三井物産の設立に参加して社長を務めた益田孝男爵(1848-1938、雅号鈍翁)が8万円(今の1億円)で手に入れたようです。その後、コカコーラの日本代理店の代表を務めた高梨仁三郎が入手し、程なく東急財閥の創業者の五島慶太が豪腕を発揮し、現在も五島美術館に展示されています。

 

乗っ取り屋として「強盗慶太」の異名で知られた、いくら評判の悪い実業家でも、文化人でもあったのです。美術品に関して値切らずに、言い値で買っていたようです。

 

そして、彼らは文化人としては見上げたものです。日本の文化遺産が海外に流出することを防いだわけですから。

 

ライブドアのホリエモンも文化人として何か社会に貢献していたのでしょうか?東大文学部出身だというのに、文化的素養も教養もなかったようにみえます。もし仮に、有り余った金で、家賃220万円の豪華マンションに住まず、プライベートジェット機も買わず、私産を文化事業に投入していれば、少しは名を残すことができたでしょうに。

旭山動物園長講演 

動物園の歴史は意外と古く、紀元前1050年ごろには、人類最初の動物園ができ、三千年の歴史があるようです。しかし、大昔はもちろん、皇帝や王侯貴族のための動物園。市民のための動物園は19世紀のロンドン動物園が最初と言われています。

旭山動物園は旭川市営の「日本最北の動物園」として1967年に開園します。当初は約40万人の入場者を維持しますが、1994年にエキノコックス症で西ローランドゴリラが死亡するなどして一時休園に追い込まれ、96年には、わずか26万人にまで落ち込みます。

さあ、これから「プロジェクトX」計画が始まります。

入場者にアンケートを取ると、キリンは立っているだけ、熊は寝ているだけ、水鳥は浮かんでいるだけで、動物たちは動かないので面白くない。あと、動物を触れないし、餌をやれない。見ているだけではつまらないーなどといった苦情ばかりでした。

そこで、考え付いたのが「行動展示」と「能力展示」です。動物たちはもともと、「目的」がなければ動きません。目的とは、餌や異性を求める時です。それなら、餌をただ盛り付けて単純に出すのではなく、散々苦労して餌が取れるように仕向けてやろう、と考えたのです。

例えば、お猿さんたち。大好物のピーナッツを一箇所だけ穴のあいた立方体の木箱の中に入れておきます。お猿さんは、その箱を何度もひっくり返して、ピーナッツをとりださなければなりません。しかし、それが、結果的に「行動展示」「能力展示」となるのです。

動物たちにとって、よく、人から見られるからストレスになる、と言われます。しかし、動物たちにとって、最もストレスになることは、「何もすることがない」ことなのです。人間なら、暇になれば、テレビを見たり、本を読んだりして暇をつぶすことができるでしょう。しかし、動物たちにはそうはいきません。

旭山動物園では、動物たちの視線に立って、さまざまな工夫をこらします。一度、行った方はご存知でしょうが、ペンギンもアザラシも本当に生き生きと動き回っています。ペンギンなどは、水の中では飛ぶように移動しています。それぐらい速くなければ魚は捕まえられませんからね。これも「能力展示」です。

サル山の話に戻します。ここはボスザルを中心にした集団社会です。ここに、餌のピーナッツを至る所に隠しておきます。一箇所に30粒もあれば、一箇所に1粒しかない所もあります。または、餌を1粒も置かない日もあります。

ある日、若いサルが収穫物を発見して、大声を出します。喜びの声だったのでしょうが、それを聞きつけたボスザルがすぐさま駆けつけて、獲物を横取りします。そういうことが、4日も5日も続きます。

そのうち、あるサルは、どうせ横取りされるからといって、ピーナッツを探さなくなりました。そして、あるサルは、獲物を見つけると、さっとお尻で隠して、まるでなかったかのように再び獲物を探すふりをします。ボスザルが「今日は獲物がない日か」と諦めて立ち去ると、そのサルは、口いっぱいにピーナッツを頬張って、残りのものを抱えて物陰に行くと、また独りで黙々と食べているのでした。

いわゆる猿知恵です。見ていたお客さんも感心しきりだった、ということです。

こうして、旭山動物園は、徐々に集客力を回復していきます。

2004年夏には、月間入場者数が、東京・上野動物園を上回り全国一位に躍り出ました。年間145万人です。

05年度は、年間186万人の集客が予想され、年間でも名古屋の東山動物園を超えて、全国第2位となることがほぼ確実です。

小菅園長さんは、テレビや映画などの映像を批判します。ライオンや虎などは、しょっちゅう獲物を狙って走り回っているようなイメージを植えつけられているからです。実際、ヒョウなどは、狩をするのは月に1回か2回で、お腹がすくギリギリまで寝ているそうです。狩にしても、百発百中ではなく、10回に一度程度しか成功しないそうです。だから、ほとんど動かず寝ている動物の姿こそが、自然というわけです。

小菅園長さんは、動物園の役割として4つ挙げました。?教育?研究?自然保護?レクリエーションです。最後のレクレーションは、娯楽とか遊びとかいう意味ですが、再び創造するということで、「人間性の回復」も意味するそうです。

しばらく動物園に行っていない皆さんも、人間性の回復のためにもお出かけになったら如何でしょうか。

旭山動物園長会見記ー動物的カン 

 

旭川市旭山動物園の「名物園長」小菅正夫さんの講演会を聞きました。これはこれで、非常に面白く、興味深かったのですが、個人的に小菅園長とお話しして、大変勉強になったことを皆さんにお伝えしたい、と思います。(講演の話はまた、機会を譲って、後のブログに書くことにします)

 

以下の話はどこの講演会でもされたことはないし、(もちろん今回もそうでした)、恐らく活字になって、世間に公にされるのは、これが初めてではないかと思います。

 

きっかけは、小菅園長が、時計を持っていない、ということでした。

 

一応、講演なので、いつ始まるかは、こちらの指示で始められますが、決められた時刻で話を終えるためには、本人が時計を持っていなければ、確認できません。

 

それでも、普段、園長さんが時計を持っていなかったのは、理由がありました。

 

園長さんが若い頃、飼育係として動物園に配属された頃、一応、身分的には、市役所の職員なので、定時に帰ろうと思えば、帰れます。でも、動物たちを夜中、戸外にほっぽらかしておくわけにはいかず、最後は、室内の檻に入ってもらわなければなりません。それが、一日の最後の仕事です。

 

ある日、彼は、夜6時にある会合の約束がありました。その時間に間に合うためには、せめて5時半には園を出なければなりません。当然、時間が気になって、5時くらいからソワソワして、時計の針を見たりします。

 

しかし、こういう時に限って、動物たちは、檻の中に入ってくれません。普段はすんなりと5時を過ぎれば、檻の中に戻ってくれる動物たちが、です。

 

動物たちは、人から見られると、かわいそうにストレスを生じると言われます。

 

しかし、本当のストレスとは、何もすることがない、ということなのだそうです。できれば、飼育係とは出来る限り、長く遊んでほしいのです。

 

だからこそ、飼育係が、早く帰ろうとすると動物たちは、事前に察知して、わざと檻に入ろうとはしません。意地悪をするつもりでもないのですが、人間の発する「気」が、手に取るようにしてわかってしまうのです。

 

要するに、動物たち、特に野生動物は、毎日、緊張感を持って生きています。命のやり取りをしているわけですから、その察知能力は半端ではありません。日本人もかつてはそういう能力がありました。例えば、「殺気」でもいいです。幕末、いつ、命が狙われるかわからなかった時代、動物的カンで難を逃れる人(一時期の坂本竜馬や桂小五郎)が沢山いました。

 

例えば、野性の鹿を捕まえようとして、5,6人が輪になって囲んで捕えようとします。すると、鹿は、一瞬にして、どの人間が精神的、肉体的に劣って、その「包囲網」から潜り抜けることができるか判断できて、そこから突破することができます。

 

命が掛かっているからです。

 

一瞬の妥協も許しません。

 

それが動物的カンであり、テレパシーのような、人間の目に見えない、声に聴こえない能力がある、ということなのです。

 

「人間は言葉をしゃべることによって、コミュニケーション能力が退化した」と小菅園長は喝破しました。

 

動物は言葉がしゃべれない代わりに、違う形ですばやい伝達手段を駆使しています。

 

思い起こせば、一昨年の東南アジアで甚大な被害を及ぼした津波で、象たちは、事前に津波を予知して、人間には聴こえない「低周波」で仲間と交信して、海岸地帯から山奥へ逃げて、ほぼ全員が難を逃れた話が有名になりました。

 

食うか食われるか、の熾烈な世界に生きる野性動物に、研ぎ澄まされた能力が備わっているわけです。それは見ただけで一瞬に判断できます。

 

動物だから、といって皆さん馬鹿にしてはいけません。動物は動物で、判断しているわけです。

 

どうですか、面白かったですか?

胸の痛みがなくなった

東京から帯広に単身赴任で来ている人からこんな話を聞きました。

帯広に来て2年4ヶ月。この間、ずーとつきまとっていた胸の痛みが消えていることが最近わかりました。

 

いくつか理由が思い当たります。

 

その前に、なぜ胸の痛みが生じたのか。

 

考えられることはー。

 

環境の激変。仕事の激変。家庭不和。孤独と不安。開けぬ将来の展望。そして、父親の死期が迫っていたこと…などです。

 

2年4ヶ月経ち、環境と仕事にはさすがに慣れました。家庭不和は途絶となり、大して気にならなくなりました。父親は昨秋亡くなり、もう夜中にかかってくる電話に怯えることはなくなりました。

 

深い悲しみは、喪失感に変わりました。

 

無常観ではありません。

 

生きていることの素晴らしさと有り難さを誰よりも深く感じることが出来るようになりました。

 

毎日、感謝の念を持って生きていくことができるようになりました。

 

「人に優しく、自分に厳しく」生きるのではなく、「人に優しく、自分にも優しく」生きることを決めました。

 

どん底を知った者の強みでしょうか。

 

最悪な事態が起きるといっても、せいぜい破産するか、死ぬかでしょう。

 

まだ起きもしないことに怯えても詮方ない話。

 

何が起きても大丈夫だという生きる自信も湧いてきました。

 

こうして胸の痛みがなくなりました。

 

永遠の相の下に

スピノザ(1632-77)の言う「永遠の相の下に」という言葉が好きです。

彼の主著「エチカ」によれば、理性の本性とは、物事を偶然的なものとしてではなく、あるがままに観想することである。理性の基礎は、概念であり、時間とは関係なく、永遠の相の下で考えなければならない。永遠の相の下での認識とは、身体の現在の時空的存在を考えることではなく、神の本性の必然性から生じるものとして考えることである。このように認識したとき、はじめて我々の精神は、神をも認識するという。

現在、盛んにマスコミで取り上げられているホリエモンも東横インも「永遠の相の下」ではすっかり、忘れ去られてしまうことでしょう。あと、10年、いや5年、はたまたこのようなドッグイヤーの時代に3年もつでしょうか?

私が先月20日に取り上げた光クラブ事件の山崎晃嗣も60年近く経ち、すっかり忘れ去られました。

「金こそがすべて」と言って時代の寵児になっても「永遠の相の下」では取るに足らないということでしょう。

それより、「愛こそはすべて」と歌ったミュージシャンの方が、永遠の相の下では、いつまでも人々の心に蘇ることでしょう。
私はそう信じます。