大丸と松坂屋

ローマ


大手百貨店の大丸と松坂屋が経営統合を検討しているようですね。合併すると、売上高の総額は約1兆1600億円となり、首位の高島屋(1兆311億円)を抜いて、業界トップになります。


大丸(大阪市)は、享保2年(1717年)、京都・伏見に開業した呉服店「大文字屋」が前身で、全国に16店舗。松坂屋(名古屋市)は、慶長16年(1611年)、名古屋で開業した「いとう呉服店」が前身で、全国に9店舗あります。


百貨店の履歴について、今、たまたま読んでいる広瀬隆著「持丸長者 幕末・維新篇」(ダイヤモンド社)にもう少し詳しく書いています。


「大丸は、下村彦右衛門が、京都伏見に呉服店「大文字屋」を創業。将軍吉宗の時代にそれを2000坪の『大丸』に発展させ、江戸大伝馬町に進出した」とあります。大伝馬町は、伊勢商人など、豪商たちが競って、今で言うチェーン店を開店したところです。


松坂屋については、もう少し詳しく書いています。織田信長の「三蘭丸」の一人、伊藤蘭丸の孫の伊藤次郎左衛門が、今の名古屋市の茶屋町に呉服商を起こした、とあります。


この茶屋町を切り開いたのが、「京の三長者」の一人に数え上げられた茶屋四郎次郎の兄弟である茶屋新四郎で、尾張徳川家の御用達呉服師となった人です。京の三長者とは、金座の頭役の後藤家(大芸術家の本阿弥家と縁戚)と、帯座頭の角倉家(角倉了以ら。琳派の尾形光琳は角倉一族)、そして呉服商の茶屋四郎次郎の三家のことです。


茶屋家については、こう書かれています。


室町の将軍足利義輝が、呉服太物商、中島(中嶋)四郎左衛門のもとに立ち寄って、しばしば茶をすすったので、中島家は「茶屋」の屋号を名乗るようになる。中島四郎左衛門の息子、中島清延は、関が原の戦いの前から徳川家の戦略物資の調達商として活動し、本能寺の変の際には、武装していない家康の伊賀越えを先導して、窮地から救い出して、命の恩人となり、家康の隠密として暗躍する。この清延が、初代の「茶屋四郎次郎」を名乗る。


そういうことだったのかー。著者の広瀬氏は、いつも「ポッと出はいない」というのが、口癖でした。大丸も松坂屋も今、急にポッと出てきたわけではないのです。こういう歴史的背景があったとは知りませんでした。


「持丸長者」は日本の歴史を、経済戦略の面から捉えなおした画期的なノンフィクションで、本当によく調べています。武田信玄も、浅井長政も戦国時代の武将として、負けて消えてしまったと思いがちですが、彼らが残した遺産や血脈は、脈々と受け継がれているのです。これは、驚異的です。


また、追々、この本については紹介していきたいと思います。

謎の慈善団体

ヴァチカン博物館

1月にテレビ、新聞、週刊誌等で全面的に広告を展開していたアメリカのフロリダ州に本部を置く慈善団体がありました。有名歌手やプロ野球監督らを広告塔に使い、広告費総額は10億円と言われます。私は、テレビの広告は見ていないのですが、新聞の全面広告を何紙かで見ました。「何だろう?随分、お金をかけているなあ」というのが、第一印象です。

ただ、住所と名前を通知すれば、無料で書籍が送ってくる、ということで、私も早速、試してみました。本来ですと、私はこういうことは滅多にしないのですが、興味本位と、ブログに書いてしまおうという魂胆があったためです。

かなり時間が経って、恐らく、1ヶ月経って、小誌が送られて来ました。週刊誌等の報道によると、この慈善団体の創立は1955年で、創始者は、競馬のノミ屋から保険会社を興して財をなした人で、1978年に53歳で亡くなっています。彼の妻が財団を継ぎ、その資産は600億円あるといわれます。

キリスト教プロテスタント福音派の支援者で、進化論を否定し、妊娠中絶や喫煙、同性愛などを強硬に反対しているということですが、財団の入会者は、秘密保持契約のサインをすることが規則になっているので、財団の実態については秘密のヴェールに包まれています。

いくら資産が600億円ある、といっても使うだけでは、すぐなくなってしまうでしょう。米国では1993年に初めて中絶禁止のCMを放送し、1998年から99年にかけての半年間で、キャンペーンのために33億円がメディア戦略費として使われたといいます。広告費に年間60億円も使えば、10年でなくなってしまいます。何らかのインカム(収入)があるはずですが、謎です。

「勧誘などはしていないので、カルトではない」という識者談話もあります。

早速、送られてきた小誌を読んでみましたが、神の子イエス・キリストを信仰することによって、奇蹟が生じ、心の平安を勝ち得た様々な事柄が書かれていました。日本ではキリスト教徒は人口の1%以下と言われていますが、この本に感銘を受けて、信仰の道に入る人もいるかもしれません。

何十万部印刷したのか、何百万部印刷したのか、分かりませんが、この謎の慈善団体の目的はさっぱり分かりません。豊富な資産を惜しげもなく投入しての伝道活動が目的なのかもしれません。最後には、進化論を否定し、中絶や喫煙や同性愛を否定する運動家を作ろうとしているのでしょうか。

あ、もしかして、物好きな暇人にブログに書かせるのが目的ではないかと、今、気が付きました。

遅かりし、蔵之助

アンダーグラウンドの話 住吉会

その筋というか、アンダーグラウンドの世界が今、喧しいね。

2月5日に指定暴力団住吉会小林会系の杉浦良一幹部が白昼に射殺されたのをきっかけに、都内で発砲事件が相次ぎ、ついには、15日、山口組系国粋会の工藤和義会長が自殺するまで混乱が続いています。

マスコミ情報を総合しますと、国粋会は大正8年に原敬首相(当時)らの肝いりで結成された「大日本國粋会」が源流。関東博徒の老舗組織で、渋谷、六本木、新橋、銀座などを縄張りにしています。昭和30年代に関西の山口組の関東進出に歯止めをかけるための共同戦線「関東二十日会」に参加しましたが、2005年9月に、国粋会の工藤会長が山口組の六代目司忍会長と兄弟盃をかわし、国粋会は二十日会を脱会し、山口組の傘下に入ってしまうのです。

住吉会小林会は、国粋会から六本木の縄張りを借り受けて、ショバ代を納めていましたが、その慣習もあいまいになり、ついに国粋会を傘下に収めた山口組との軋轢が表面化したと言われます。

先頃、発売された『東京アンダーナイト』(廣済堂出版)の著者は、「東洋一のクラブ」と称された赤坂の「ニューラテンクォーター」の元社長山本信太郎氏ですが、それによると、昭和38年12月に同クラブで起きたプロレスの力道山刺殺事件は、計画的なものではなく、「偶然のバッティング」であったことが明らかにされています。(興味のある方は本書を読んでください)

加害者は、住吉連合小林会の村田勝志組員(現住吉会副会長補佐)。ニューラテンクォーターが、赤坂を縄張りにしていた小林会の小林楠扶会長に顧問を依頼していたので、用心棒として同クラブに出入りしていたようです。在日朝鮮人だった力道山の背後には東声会があったといわれ、東声会の町井久之会長(本名鄭建永)は山口組三代目田岡一雄組長を後楯にしていたことから、当時は、両組織の抗争事件のように推測されていましたが、事実は、全くの偶然だったというのです。

東声会は、力道山事件の一ヶ月前の昭和38年11月に、当時、政界の黒幕と言われていた田中清弦暗殺未遂事件を起こします。「田中が、三代目を利用して関東ヤクザを攪乱しようとしている」という風評がたったためと言われます。関東ー関西の抗争は今に始まったわけではないのです。

今の現象だけを見ても、なかなか事件背景は見えてきませんが、こうして20年、30年、いや50年、100年の歴史的スパンで見ていくと、その真相が見えてきます。

今回の国粋会の会長は内部抗争で悩んでいたと言われ、彼の自殺で、再び、何か火種が勃発しそうです。

茨木のり子「倚りかからず」

ローマにて

公開日時: 2007年2月15日 @ 10:21

人生を「勝ち組」「負け組」で分類する人がいますが、実に嫌な言葉ですね。

会社で出世して、部長やら取締役やら社長やらになって、豪邸に住むことが幸福だと思っている人なら、そりゃそうでしょうけど、会社員なら皆さん、いつか定年でお辞めになる日が来るわけですし、辞めてしまえば、ただの人で、町内会で、いくら「元部長」だの「元重役」だのと威張ったところで、高が知れているというものです。

それに、いつか、どんな人でも、必ず「あの世」とやらにまかり越さなければならない身であり、いくら金銀小金を溜め込んでも残念ながら、あの世に持って行かれるものでもなし。

知識や教養とて同じ。いくら身に着けても所詮は人様からの借り物。詩人の茨木のり子さんは、詩「りかからず」の中で、「もはやできあいの思想や学問や宗教にはよりかからない」と高らかに宣言していますが、こちらの方が却って気持ちがいいくらいです。

X氏は言いました。

「人生、負けるが勝ちだよ」

有り難い話

ピエタ

Yさんが、色々と体調のことを心配してくださって、何軒か病院まで紹介してくださいました。

一軒は、漢方医薬局で、もう一つは大学病院です。大学病院も、念には念を入れて、その筋では権威と言われている二件の医師まで紹介してくださいました。「医師の診断は、一人だけでは駄目。いわゆるセカンド・オピニオンを求めなければならない」というのがYさんの信念です。何度も何度も電話を戴き、どうして、そこまで、心配して戴けるのかと思っていたところ、何年か前に、Yさんは、知り合いから、それとなく、相談を受けたとき、仕事が立て込んでいて、後回しにしていたら、その方は、亡くなってしまったというのです。その後悔の念が今回、Yさんを駆り立てているようです。

「少しばかりのお金とか、名誉とか、そんなものは、なくたって生きていけますが、生命は、1つしかありませんからね」というYさんの言葉は、本当に心に染み入りました。

ところで、この文章に主語はないですね。ということで、誰のことかは、伏せておきます。

情けない話

岡本綺堂の「半七捕物帳」はわずか70年前から90年前に書かれたものですが、現代人から見て、ほとんど意味が分からない言葉や死語が出てきます。

経師職(きょうじや)や回札者という職業も聞いたことがあっても、絵姿は見たことがありません。池鮒鯉(ちりゅう)様の御符売りという蝮蛇除けのお守りを売る人がいたということもこの本で初めて知りました。

辞書で調べれば出てくるでしょうが、「べんべら物」「柄巻」「山出しの三助」「堤重」などという言葉が何気なく出てきて、昔の人は、こういう言葉は辞書なんか引かなくてもすぐ分かったのだろうなあ、と悔しくなってしまいます。

ただ、次の文章は、よく分かりませんでした。「修善寺物語」など新歌舞伎の台本作者として名を馳せた綺堂のことですから、古典の素養を下敷きにしているのでしょうが、ちょっとお手上げでした。

半七親分と手先の松吉が春の桜時、鬼子母神前の長い往来に出たときのことです。

「すすきのみみずくは旬はずれで、この頃はその尖ったくちばしを見せなかったが、名物の風車は春風がそよそよと渡って、これらの名物の巻藁(まきわら)にさしてある笹の枝に、麦藁の花魁が赤い袂を軽くなびかせて、紙細工の蝶の翅(はね)がひらひらと白くもつれ合っているのも、のどかな春らしい影を作っていた。」(帯取りの池)

昔の人なら情景がパッと浮かんだことでしょうが、どうも、私なんぞは、言葉の一つ一つは分かるのですが、外国語を読んでいるような感じです。情けないので、正直に告白しました。

賢者とは?


賢者とは?
すべての人から学びうる人
強者とは?
自己の熱情を統御しうる人
富者とは?
自らの運命に満足を感じうる人
尊い人とは?
人間を尊ぶ人

ベン・ゾーマ

岡本綺堂「半七捕物帳」

ヴァチカン美術館

公開日時: 2007年2月11日 @ 21:1

G先生の薦めで、岡本綺堂の名作「半七捕物帳」を少しずつ読んでいます。

捕物帳とは、与力や同心が岡っ引らの報告を聞いて、さらにこれを町奉行に報告すると、書役が書き留める。その帳面を捕物帳というのだそうです。

●岡っ引は、世間では、御用聞きとか目明しとか言われるが、表向きは小者(こもの)と呼ばれる。

●与力の下に同心が4、5人いて、同心の下に岡っ引(通称親分)が2、3人いる。その下に手先(子分)が4、5人いる。手先の下にも下っ引と呼ばれる諜者がいる。

●町奉行から岡っ引に渡す給料は一ヶ月に一分二朱というのが上の部で、悪いのは一分ぐらい。これでは、手下に渡す給料もないので、岡っ引は大抵ほかの商売をやっていた。女房の名前で湯屋や小料理をやってたりした。

作者の岡本綺堂は、新聞記者(東京日日新聞)出身です。半七捕物帳も若い新聞記者の聞き書きの体裁で話が進みます。

そういえば、「新撰組始末記」などを書いた子母澤寛も新聞記者(読売新聞、東京日日新聞)出身です。

昔の新聞記者は偉い人が多かったですね。

戊辰戦争60年に当たる1928年に、東京日日新聞は、正月企画として戊辰戦争を知る古老から当時の市井話を聞き書きして連載しました。今、岩波文庫の「戊辰物語」として収録されています。

新撰組の近藤勇は「ひげが伸びているというので床屋を呼んで、しかも首穴を前にしたそこでこれを悠々とそらせ『ながなが厄介に相成った』といって、自分でもとどりをぐっと前へかき上げて斬られた」そうなのです。(以上2月6日付毎日新聞)

戦後60年を過ぎてしまいましたね。

相補的なものの見方

ラオコーン

相補的なものの見方とは、量子物理学者のニールス・ボーアの言葉から来ていると、芥川賞作家で、僧侶の玄侑宗久氏が書いています。(1月30日付東京新聞)

微小な量子の振る舞いが「粒子」に見えたり、「波動」に見えたりすることは、相対立することではなく、お互いに相補って全体像を見ていくことだというのです。

難しい言葉をはしょって、簡単に要約すると、実験は、観察者の使う器具の性能や観察者自身の思惑にも左右されるので、世の中に客観的な観察などというものはないというのです。

玄侑氏は「現実に即して云えば、どんなモノサシも絶対化してはいけないということではないか」と結論づけています。

仏教が、死について、病を治す力を象徴する「薬師如来」に任せてばかりいては苦しいので、極楽浄土を願う「阿弥陀如来」を作ったのも、空海が発想した「金剛界曼荼羅」と「胎蔵界曼荼羅」を並置したのも、相補性を尊重しているからではないか、と玄侑氏は言います。ちなみに、金剛界は、ダイヤモンド(金剛)のように輝く真理を求める意志で、胎蔵界は、母親の胎内のように現状を温かく容認する態度だといいます。

国家というモノサシ、学力というモノサシ、老人や福祉というモノサシ…。現代は、あまりにも一つのモノサシで測り過ぎているのではないか。演繹的な見方と帰納的な見方の両方が必要ではないかと同氏は力説しています。演繹的とは、普遍的なことから、特殊なことを導き出すこと。その逆に、帰納的とは、それぞれの具体的なことから、普遍的な法則を導き出すことです。

「物事に絶対はない」という考え方は賛成です。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教はいずれも、唯一の絶対神を信仰する宗教です。日本人のように草花や路傍の石にも神が宿るというアニミズムとは、相容れません。山や日の出に向かって、頭を垂れて祈る日本人の姿は、一神教の人々から見て不思議に思われることでしょうね。

しかし、相補的なものの見方は、一神教の世界からでは発想できません。明らかに東洋思想の影響が見られますが、西洋の科学者であるボーアが「発見」したというのも面白いです。