またまた休筆です…

 十勝

 

 

 

突然ですが、昨日、「続く」と書いておきながら、明日からまたまた「渓流斎日乗」を休載させて戴くことになりました。

よんどころのない事情です。

毎日、このブログにわざわざ電源を入れて、アクセスして戴いている方がいらっしゃることを私は知っているので、本当に申し訳ないと思っています。

アメリカのI君、Tさん、帯広のSさん、Nさん、Hさん、苫小牧のYさん、松山のT君、東京のFさん、Kさん、Nさん、Yさん、Aさん、I君、Kさん、Gさん、Mさん、神奈川のNさん、埼玉のOさん、Mさん…あたりでしょうか?

あと、面識はない(と思われる)のですが、毎日のように熱心にコメントして戴いている「インド象」様、「K3」様、「通りすがりのフリーター」様、「桃太郎」様、「隆章山人」様、「NAKA」様…(以下省略)…ごめんなさい。

まあ、いつも私の独断と偏見に対して、「カリカリ」しながら読んで戴いていた方にとっては、少しは平和な穏やかな生活を送ることができるかもしれませんが…(笑)

恐らく、再開は12月2日頃になると思います。約2週間のお休みです。

特に旅行に出かけるというわけではありません。が、それほど多くは自分のパソコンを開かないと思います。

その間、例の早瀬圭一「大本襲撃」(毎日新聞社)を読み終わったら、

●海野弘「秘密結社の日本史」(平凡社新書)

●中江兆民「三酔人経綸問答」(岩波文庫)

●魚柄仁之助「冷蔵庫で食品を腐らす日本人」(朝日新書)

●原信田実「謎解き 広重 『江戸百』」(集英社新書)

あたりを読んでみようかと思います。今、積読状態になっています。

先回りして読まれた方は、コメントして戴ければ幸甚です。

それでは、いつもながら私の勝手な振る舞いをお許しください。

渓流斎敬白

 

「大本襲撃」

公開日時: 2007年11月16日

今、大宅賞作家の早瀬圭一著「大本襲撃」(毎日新聞社)を読んでいます。本の目利きになったせいか、私が選んだ本は何でも面白いです。まあ、そう自負しています。今回もそうでした。大当たりです。

 

当時一世を風靡した新興宗教の大本教(おおもと・きょう)の大弾圧という歴史的事件には、以前から興味はありましたが、適当な本が見当たりませんでした。この本は、入門書としては難しいかもしれませんが、歴史的事実をほぼ網羅されており、(巻末には裁判資料まであります)昭和史研究家、宗教研究家、メディア研究家、読書人には必読書であると確信しています。

大本教は、大正と昭和の二度に渡って、徹底的に壊滅され尽くされますが、第二次大本事件は昭和十一年十二月八日のことですから、わずか、七十一年前の出来事です。戦前の話ですが、先鋭の軍隊があり、日中戦線は拡大しつつあり、治安維持法があり、「国体護持」という大義名分があり、特高と呼ばれる警察組織もありました。今の時代では全く想像できない凄惨な事件だということがこの本を読んで分かりました。

大本教は、江戸天保年間生まれの出口なおが、貧窮のどん底の中、明治25年、55歳の時、突然、何の前触れもなく神に取り付かれます。(「帰神」と呼ばれます)ろくに学校に行けず、読み書きもできなかったなおが、やがて、神のお告げを半紙に文字で書き連ねる(「筆先」と呼ばれます)ようになり、噂を聞きつけた上田喜三郎(後の出口王仁三郎=でぐち・おにさぶろう)が理論付けをして、宗教運動が始まります。

時の権力者は、大本教は、天皇制を否定し、国家転覆を図る邪教として、不敬罪、治安維持法違反、新聞紙法違反などの容疑で徹底的に弾圧します。特に特高による大本教信者に対する拷問は凄まじく、正岡子規の高弟で子規十哲の一人、岩田久太郎は獄死、王仁三郎の女婿の出口日出麿(ひでまる)は、精神に異常を来たし廃人になってしまいます。

当時の拷問がどれくらい凄まじかったのか、著者の早瀬氏は、作家の江口渙氏らの回想録などを引用し、昭和の8年の作家小林多喜二の例を挙げています。(引用は換骨奪胎)

東京の築地警察署の道場のような広い部屋に引き立てられた小林多喜二。刑事らは「おまえは共産党員だろう」と畳み掛けると、小林は「そうではない」と毅然と答えた。その態度に激高した水谷特高主任ら5人はそれから約4時間に渡って桜のステッキや野球のバットで小林を殴りつけ、金具が付いた靴で滅茶苦茶に踏みつけた。それでも、小林が黙秘していると、さらに首と両手を細引で締め上げた。やがて、小林は気絶し、留置場へ放り込まれた。間もなく寒気で意識を取り戻した小林は「便所へ行きたい」と訴えた。便所では肛門と尿道から血が吹き出して、辺り一面は真っ赤に染まり、しばらくして息絶えた。

多喜二、29歳。杉並区の自宅に帰った遺体から包帯をほどくと、目をそむけたくなるような無残な状態である。首にはぐるりと一巻き深く細引の跡が食い込んでいた。余程の力で締めたらしく、くっきりと細い溝がでい、皮下出血が赤黒い無残な線を引いていた。左右の手首にも同様丸く縄の跡が食い込み、血が生々しく滲んでいた。このほか、多喜二の睾丸もつぶされていた。

(続く)

徒然なるままに 

WOWOW

いやはや、毎日、渓流斎日乗に遊びに来てくださって、有難うございます。

最近、ちょっと体調が悪くて、病院に検査に行ったら、6500円も取られましたよ。自宅近くのクリニックで、東大医学部出身の先生らしいのですが、口の利き方が悪く、最近開業したらしく、元を取るのに必死なのがありありで、もうあまり行きたくないですね。アメリカの「シッコ」みたいな世界が日本にも来るのですかね。暗鬱な思いに駆られてしまいます。

お昼に喫茶店に入ったら、30代のOL風の女性が、おしゃべりをしていて、隣に座っているので、聞こえてきてしまいました。

「ねえ、聞いて、びっくりしちゃった。この間、中央線に乗っていたらすごいもの見ちゃった」

「何、何?」

「もう、ここまで来たか…って感じ」

「どうしたの?」

「歯を磨いていたのよ、電車の中で。若い子が化粧するのは見慣れたけど、さすが、歯磨きだけは、初めて…」

「若い人?」

「いやあ、60代くらいのおじさんかなあ…」

「頭おかしい人じゃないの?」

「狭いところで、歯を磨いているから、周りの人は、避けるようにして遠くからチラチラ見てるけど、一向に意に介していない感じだったしね…」

うーん、それ以上の詳しい状況は分かりませんが、今の日本は確かに変わっている。それは本当に確かです。

「族譜」 


青年劇場の宮部さんのお導きで、同劇団による「族譜」を見に、はるばる六本木の俳優座劇場にまで出かけていきました。無理をしてでも見に行ってよかったですね。本当に感動しました。何度も涙が流れてきて、困ってしまいました。「ボーン」とは感動の度合いが違いました。

原作はトップ屋から作家として活躍し、45歳の若さで急死した梶山季之氏、脚本演出は、俳優からシナリオ作家に転じたジェームス三木氏。

テーマは重いです。創氏改名という大日本帝国政府が植民地同然だった朝鮮民族に対して行った歴史的事実を扱っています。700年もの血統と両班だった祖先を持つある朝鮮人の地主とその民族としての誇りをズタズタに切り裂いた当時の下級官僚が狂言回しの役割で登場します。

梶山氏は、創氏改名を苦にして自殺した全羅北道に住んでいた実際の人の話を元に小説に仕立てたそうです。族譜というのは、韓国朝鮮で、一族代々の当主が、家系図とともにそれぞれの時代の出来事を書き残して、子孫に伝えるものです。

梶山氏自身は、朝鮮総督府の官僚の子息として昭和5年にソウルで生まれています。戦争中は、子供だったので、直接の加害者ではなかったとはいえ、植民地支配下だった朝鮮に対して日本人が行ってきたことについては、ずっと「原罪」として意識し続けて、作家として作品を書き続けてきたそうです。

作品の粗筋は書きませんが、今、書いたことで、大体、内容は斟酌して頂だけると思います。日本人として、この舞台は、カタルシスがありませんが、多くの人に見てほしいと思いました。本当によくできた作品です。青木力弥、佐藤尚子、船津基、葛西和雄…役者さんも本当に素晴らしくよかったです。

来年、青年劇場は、この作品を全国で再々演するそうなので、頭の片隅にでも入れておいてください。(少し宣伝になってしまいました)

TSUTAYA online

「ボーン・アルティメイタム」

 マット・デイモン主演の映画「ボーン・アルティメイタム」を見てきました。

 

いやあ、ハラハラドキドキというのは、素晴らしかったという意味での感想で使われますが、最初から最後までハラハラのし通しで、心休まる時間がなく、途中で逃げ出したくなってしまいました。

全編を通して、殺し合いをしているか、殴り合いをしているか、車かバイクでカーチェイスしているか、人間同士で追いかけっこをしているかの場面ばかりで、止まらないジェットコースターに乗っている気分でした。

アメリカの人は、ここまで、精神的に追い込まれているんですかねえ?茲までストレスが溜まっているんですかね。こういう映画でないと、ストレスの発散ができないんでしょうかね?私は、途中で何度も目をつぶってしまいました。

同じマット・デイモン主演のCIA映画「グッド・シェパード」とは、正反対の映画でした。

映画を見終わった後、日本人として、もっと、落ち着いた侘びとか、寂びの世界に浸りたくなってしまいました。そしたら、一緒に見た野寺さんが、今度、表千家の茶の湯にご招待してくれることになりました。

本当に楽しみです。茶の湯は、精神修養と優美な礼儀作法を学ぶ場でもあるからです。

哲学者の梅原猛氏によりますと、昔の日本人は50歳を過ぎれば隠居したといいます。隠居というのは、一切の世事を免れ、ひたすら自分の中にこもって自己の生を反省し、また生まれ変る日に備えるというのです。近代哲学の祖、ルネ・デカルトも「よく隠れる者はよく生きる」というストア派の哲学者の言葉を自己の生活のモットーにしたそうです。

しかし、梅原氏の昔とはいつの時代を指すのか分かりませんが、今の日本では、80歳過ぎてもギラギラして、世事にかまけるどころか、あからさまに介入してくる輩が多いようですね。

私は、人間が生まれ変るという思想は持ち合わせてはいないのですが、ある程度の年齢になったら、世事から解放されて、日本人らしく侘び寂びの世界に浸ってみたいと思っています。「ボーン・アルティメイタム」を見て、そのきっかけとなり、気持ちがはっきりしました。

極秘情報 新聞業界の内幕

公開日時: 2007年11月11日 @ 11:20

昨日は、おつなセミナー。ゲストは某マスコミの内幕と昭和史を描いたI氏。こんな面白い話なのに、参加者はわずか十人ちょっとというので、驚いてしまいました。セミナーのメンバーは500人くらいいるんじゃないかと思いますが、出席率の少なさには本当に驚きです。

こういう話は、どうも、色々と差し障ることが多く、著作権やら秘匿の暗黙の了解があるので、色んな事を暈して、備忘録書きにしてしまうことをお許しください。ですから、興味がない人にとってもはつまらないかもしれません。

●日本一の新聞社だった大阪毎日新聞社は、三井系など大阪財閥の資本で創刊されたもので、その後、昭和17年に財団法人毎日会を作り、「社内株」に転換した。

●日本経済新聞社の前身である中外新報も三井系の新聞だった。戦前までは、日経よりも、福沢諭吉の創刊した時事新報の方が権威があり、企業の決算報告等は時事新報に掲載されていた。大隈重信の創刊した報知新聞(今のスポーツ新聞ではない)とライバル紙で、新聞界でも早稲田vs慶応の様相が見られた。

●時事新報は、朝毎読の販売店抗争で徐々に部数が低迷する。福沢の死後、鐘紡社長の武藤山治を招聘して梃入れを諮るが、いわゆる帝人事件にからんだ番町会キャンペーンが遠因で、武藤社長は、テロ攻撃に遭い射殺され、ますます衰退。戦後、この時事新報を買収するのが、産経新聞を創刊した前田久吉。前田は、元々大阪西成区の新聞販売店主だったが、地域のニュースをフォローした南大阪新聞を作り、後に、東の「日本経済新聞」に対抗する西の「産業経済新聞」にまで発展させる。前田は後に新聞経営をやめ、関西テレビや日本電波搭の経営に残りの半生を捧げる。

●新聞販売店の収入の半分以上は折込広告で占める。(1部5円)今や少子高齢化で部数が低迷し、これに拍車をかけて若者が新聞を読まない。マンションが増え、拡張もできない。将来性がないので、新聞店主を目指すより、コンビニ経営をした方がいいという若者が増えることになる。

●新聞社の経営に二つのタイプがある。一つは社主家。(朝日の村山・上野家、読売の正力家、娘婿の小林、関根家、河北新報の一力家、中国新聞の山本家、信濃毎日の小坂家、日本海新聞の田村家)、もう一つは社団法人。(徳島新聞、名古屋タイムズ、共同通信)

●販売の神様:読売の務台光雄、朝日の永井大三

●特にスポーツ新聞と夕刊紙の部数急降下が昨今著しい。原因が、大リーグなど海外のスポーツが入ってきて、締め切りの関係で朝刊のスポーツ氏は一日前の話になってしまう。駅売りのスポーツ紙には色物のページがあるが、家に持って帰れない。オウム真理教の影響で駅にゴミ箱が減ったためだ。

●読売ランドは読売新聞の裏金庫だった。競艇の川崎オートや船橋オートも読売ランド。ゴルフ場は最近もうからなくなったので、社会老人福祉施設を作って売り出す構想。

これらの話はネットでも色々と噂が流れているので新味がないかもしれませんね。

さて、今のようなネット社会で、新聞業界より逸早く痛手を受けているのは旅行業界だそうです。旅行代理店には航空券を販売すると5~7%のマージンがあったそうですが、来年からこのマージンも廃止されるそうです。ということは、旅行代理店で、航空券は販売しなくなってしまうのかもしれません。皆、ネットで直接、航空会社からチケットを購入してしまうからなのです。

要するに「代理店」という社会的役目がだんだん、低下していくということです。アルマーニ、ヴィトン、フェラガモなど何でもいいのですが、ブランドものの輸入代理店も同じです。消費者が直接、ネットで注文してしまうので、代理店はいらなくなってしまうのです。

こうなると、世界最大の広告代理店も安閑とはしていられなくなりますね。

テレビも今までのように高給で胡坐をかいている時代は終わることでしょう。「私家版・ユダヤ文化論」を書いた内田樹氏が、先日、毎日新聞紙上に、フジテレビの株がこの7年間で293万円から23万円にまで、10分の1以上も値下がった、と呆れています。「テレビには先がない」とまで公言しておられます。そして、どうしてこういう情報は報道されないのか、と怒りながら、疑問を投げ掛けております。

色々、本当に最近、時代は目まぐるしく動いています。

ナベツネ考 

 

 

 

「小沢迷走」の舞台を作った張本人は、読売新聞グループ本社会長で主筆の渡辺恒雄氏だったらしいですね。

ここまで、政界を大混乱に陥れた男が、日本最大のマスコミのドンだったとは…。

彼は何を考えているのでしょうか?自らを「憂国の士」か何かと考えているのでしょうか?(福田首相を勝海舟、小沢氏を西郷隆盛、そして渡辺氏を坂本龍馬に例える週刊誌報道もありました)

山里会か山吹会か何か知りませんが、政界の大物と頻繁に会って、元首相をパシリに使って、日本国家を自らの人差し指一つで動かしていくのが自分の使命だと思っているのでしょうか?

本人は主筆として、読売新聞の社説で堂々と「大連立構想」を主張してきたらしく、ジャーナリストとしては、その手腕は認めますが、これでは、まるで、例えは悪いですが、火を付けて火事の原稿を書いているようなものじゃないですか。

本人は一切釈明していないので、真実は分かりませんが、「浅ましい」人だなあと思いました。

彼は大正15年(1926年)生まれですから、先頃の5年に1度の中国共産党大会で完璧に権力を剥奪された江沢民氏と、今でも病床にいるキューバのカストロ首相と同い年です。

そういう世代が、日本という国家をまだ動かしているわけです。

彼について、私は詩人ではないので、最初、言葉が見つかりませんでした。

関西人なら「えげつない」と言うでしょう。若者なら「うざったい」かな?

「みっともない」でも「哀れ」でもないし、「むごたらしい」では、ちょっとはずれます。「品がない」では、ちょっとニュアンスを言い切れていないような気がします。

やはり、「浅ましい」か、「さもしい」が一番、ぴったりです。

 

「私家版・ユダヤ文化論」3

公開日時: 2007年11月9日

内田樹氏の「私家版・ユダヤ文化論」では、まだまだ書き足りないと思っていたところ、変な小沢劇場があったので、伸び伸びになっていましたが、再開します。

内田氏は、この本の中で、以下のように述べます。恐らく、引用というより、盗用に近い長すぎる引用なのですが、この引用文を全部読んで頂かなければ、私の考えを展開できないので、致し方なく引用します。(ただし、原文のままではありません)

●「ユダヤ人とは何か」という問題ついて、フランスの哲学者サルトルはこう言う。

「ユダヤ人とは他の人々が『ユダヤ人』だと思っている人間のことである。この単純な真理から出発しなければならない。その点で反ユダヤ主義者に反対して、『ユダヤ人を作り出したのは反ユダヤ主義者である』と主張する民主主義者の言い分は正しいのである」

●陰謀の「張本人」のことを英語でauthor と言う。オーサーは、通常「著者」という意味で使われ、作家がその作品の「オーサー」であるという時、それは作家が作品の「創造主」であり、「統御者」であり、そのテクストの意味をすみずみまで熟知している「全知者」であるということを含蓄している。従って「単一の出力に対しては単一の入力が対応している」という信憑を抱いている人は、どれほど善意であっても、どれほど博識であっても、こういう陰謀史観から免れない。

●ユダヤ人問題について語るということはほぼ100パーセントの確率で現実のユダヤ人に不愉快な思いをさせることである。だから、ノーマン・コーンは言う。「ユダヤ人は彼らのためだけに取っておかれた特別の憎しみによって借りたてられたのだ」と。

●反ユダヤ主義者たちは、きっぱりとユダヤ人には「特別の憎しみ」を向けなければならないと主張してきた。なぜなら、ユダヤ人が社会を損なう仕方はその他のどのような社会集団が社会を損なう仕方とも違っているからである。

●「ユダヤ人たちは多くの領域でイノベーションを担ってきた」。この言明に異議を差し挟むことのできる人はいないだろう。「イノベーション」というのは普通、集団内の少数派が受け持つ仕事である。「イノベーター」というのは、少数者、ないし異端者というのとほとんど同義である。

●「ユダヤ人はどうしてこれほど知性的なのか?」

ユダヤ人の「例外的知性」なるものは、民族に固有の状況がユダヤ人に強いた思考習慣、つまり、歴史的に構築された特性である。
ユダヤ人に何らかの知的耐熱性があるとすれば、それはこの「普通ではないこと」を己の聖史的宿命として主体的に引き受けた事実に求めるべきであろう。

●反ユダヤ主義者はどうして「特別の憎しみ」をユダヤ人に向けたのか?それは「反ユダヤ主義者はユダヤ人をあまりにも激しく欲望していたから」というものである。反ユダヤ主義者がユダヤ人を欲望するのは、ユダヤ人が人間になしうる限りもっとも効率的な知性の使い方を知っていると信じているからである。

●ユダヤ教、ユダヤ人について語ることは、端的にその人が「他者」とどのようにかかわるかを語ることである。

よくぞ、ここまで読んでくださいました。

要するに私がいいたいことは、
●ユダヤ人というのは、人間の差別意識と嫉妬心から生まれたものである。

●何かが起きて、例えば、「サブプライムローンの破綻」でも、「第2次世界大戦」でも何でもいいのですが、人間は、すぐ、ユダヤ人の「陰謀」などとこじつけたがる。しかし、そもそも「陰謀」などというものはこの世に存在しないのだ。

●陰謀説を信じる人たちは、「そうしないと気が済まない」人たちなのだ。

●たまたまユダヤ人だと、その首謀者として血祭りに上げやすい。

●しかし、差別心と陰謀説を信じることは全くコインの裏表で、根は同じなのだ。

●人間は、いつ、どんな時代でも、自己証明と、優越感と安心感に浸りたいがために、常に差別する対象を求めるものだ。

●差別とは、自己と他者との関係性の中で不可避的に生まれるものである。

…そんなことを考えました。

結婚とは…

 

 

 

結婚とは、一組の男女が、一時の熱情にかりたてられて一緒になり、ともに狭い部屋に棲むことである。

と作家の渡辺淳一氏は言います。(出典は省略します)

狭い部屋に一緒に棲むからさまざまなトラブルが生じるのだと言います。

恋人時代や婚約時代にはお互いに見えなかった欠点が一緒に棲むようになると見え、お互いに嫌になるというのです。

「結婚は7年制にして、その都度更新したらいい」と発言したドイツの女性政治家もいました。

私は、コメントを避けます。福田首相みたいでしょう?

小沢氏の続き


昨日は休んで失礼致しました。
急に冷え込んで体調をちょっと崩したのと、帰りの電車で人身事故があり、あまりにも電車が来ないので、某駅から、自宅まで約50分かけて歩いて帰ったら、とても、パソコンの前に座る気力もありませんでしたもので…。

実は、小沢一郎さんの記事も書きかけでした。でも、彼は前言を翻して代表を復帰してしまったので「もう、好きにしてください」という気分です。

唐突な比喩ですが、あの小沢さんの行為は、関が原の戦いで、土壇場になって徳川方に寝返った小早川秀秋みたいなものです。これは、国民は忘れてはならないと思います。

その一方で、福田首相の(説明)責任も問われていますが、その通りだと思います。「私は説明しない」と開き直っていては、また憶測を呼ぶだけです。

読売新聞のナベツネ氏の陰謀説やら、小沢氏を第二の角栄とすべきアメリカの陰謀説とやらが週刊誌に面白可笑しく書かれているようですが、(まだ読んでません)陰謀といわれるほど、今回の話は奥深いものではなく、単なる茶番劇のような気がしてなりません。(アメリカの言うことをきかない小沢を貶めるために、アメリカが罠をかけたという陰謀説は説得力があって、とても面白いですけどね…)

「永田村」に住む甘やかされて育った議員2世の駄々っ子ぶりが露呈しただけのような気がします。