今来の才伎 第19刷

山紫水明 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 皆様ご存知のように、「今来の才伎」と書いて、「いまきのてひと」と読みます。渡来人のことです。かつては帰化人とも呼ばれていました。今でもそう呼ぶ人もおります。

 五世紀の頃から、大陸の唐、渤海、そして朝鮮半島の伽耶、百済、新羅、高句麗から渡来し、文字や五経や仏教、土木工学、建築、画、仏像、織物、手工芸、馬と馬具、須恵器など思想や文化、技術を伝えた人たちです。

 そのため、彼らは厚遇されます。天皇の側近として仕える者も数多おりました。

 特に有名な渡来人は、高句麗(こうくり)系(今の北朝鮮)の高麗(狛=こま)氏。新羅(しらぎ)系(今の韓国)の(はた)氏。百済(くだら)・伽耶(かや)系(韓国)の(あや)氏です。

新羅の秦氏は、中国古代の秦の始皇帝とは無関係です。ネット上では、堂々と、秦氏は、秦の始皇帝の末裔だと書いている人がいますが、それは間違いです。坂上田村麻呂らが後世になって自称したに過ぎません。

秦氏の秦は、(1)機織のハタ説(2)朝鮮語のパタ(海)説(3)梵語の綿布説などがあります。「古事記」では、「波陀」と書くので、本来は、ハダ(肌)と呼んでいたのではないかと言われています。

秦氏の名前の由来は、慶尚北道の新羅古碑によって、古地名「波旦」ではないかという説が最新の学説で有力になっています。

漢(あや)氏は、生駒・金剛山脈の東側、奈良県明日香村の檜前(ひのくま)を中心とする東漢(やまとのあや)氏と、その反対の西側の河内に分布する西漢(かわちのあや)氏が有名ですが、中国の漢(かん)とは無関係です。これまた、後世の漢氏が、後漢の帝王の末裔を自称したに過ぎません。

漢(あや)の由来は、今の韓国慶尚南道咸安の地域にあった伽耶の有力な国だった安羅という説が妥当だと言われてます。

漢氏は、百済から渡来した阿知史(あちのふひと)、阿知使主(あちのおみ)、そしてその子孫の坂上苅(かり)田村麻呂らも有名です。

 厩戸皇子(うまやどのみこ=後の聖徳太子)の仏教の師は、595年(推古天皇3年)に高句麗から渡来した僧慧慈(えじ)でした。(他に、百済から渡来した高僧慧聡と儒教博士の覚◆上に加、その下に可=かくか=らも)

 聖徳太子が49歳で亡くなったのを悲しみ、橘郎女(たちばなのいらつめ)が天寿国への往生を念じて作らしめた「天寿国刺繍」の「令者」は秦久麻(くま)で、「画者」は東漢末賢(やまとのあやのまけん)と高麗加西溢(こまのかせい)と漢奴加己利(あやのぬかこり)といった渡来人でした。

 610年(推古天皇18年)3月、高句麗から渡来した曇徴(どんちょう)は、「易経」「詩経」「書経」「春秋」「礼記」の五経を持ちより、絵の具や紙や墨も倭に伝えます。

陽朔のまち Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 新羅系の秦氏は、漢氏や高麗氏と違い、北九州から秋田まで広い範囲で活動しました。

 秦氏は五世紀の頃に、灌漑治水や馬の文化を半島から伝えて京都伏見に移住し、その後、嵯峨あたりに居住します。701年(大宝元年)に秦都理(とり)が松尾大社を創建し、711年(和銅4年)には秦伊侶巨(いろこ)が、稲荷社の総本社となる伏見稲荷大社を造営します。話は前後しますが、聖徳太子の臣下で、秦氏の中で最も有名な秦河勝(かわかつ)が603年(推古11年)、蜂岡寺、後に葛野(かどの)の太秦(うずまさ)寺(今の広隆寺)を建立します。ここでは、現在、国宝となっている弥勒菩薩をまつっていますが、やはり、新羅の仏像の影響が見られます。

仏像といえは、日本史で最も有名な仏師は、法隆寺の釈迦三尊像(国宝)をつくった鞍作首止利(くらつくりのおびととり=通称鳥仏師)ですが、彼は、敏達朝に百済から渡来して仏教を伝えた司馬達等の孫と言われています。鞍作とは、馬具をつくる技術者に付けられました。

その一方で、京都の有名な祇園祭は、八坂神社(祗園社)の祭神をまつったものですが、この八坂神社は、山城国愛宕郡の八坂郷のゆかりの神社です。この地域に本拠を置いた八坂造は、「狛国人より出づ」(「新撰姓氏録」)ということで、高句麗系の氏族だったのです!

またまた、話は前後しますが、666年(天智天皇5年)5月に、玄武若光(げんむじゃっこう)らが渡来し、若光は武蔵国(埼玉県)に住んで、従五位下となって王姓を与えられます。玄武は亡くなった後、埼玉県日高市の高麗神社の主神として祀られます。
 716年(霊亀2年)5月16日には、倭朝廷より、高麗人1799人が武蔵国に移され高麗郡が設けられます(「続日本紀」)。ということで、つい先日の5月16日は、ちょうど高句麗人移住1300周年に当たり、22日(日)には日高市主催で盛大なパレードが行われました。

 大阪府八尾市の許麻神社は、元高麗王の霊神を祀り、この辺りも高麗人が多く住んでいたと言われます。

 現代人が想像する以上に古代の東アジアでの交流は遥かに盛んでした。遣隋使、遣唐使の例を出すまでもなく、高句麗、百済、新羅との交流が深く、渤海(今の北朝鮮北部から中国東北部辺り)からの使者も度々、倭を訪れたらしいのです。

 明治時代に切手や壱円札紙幣の肖像画にもなった第十四代仲哀天皇の神功皇后(第十五代応神天皇の母)は、「三韓(新羅、高句麗、百済)征伐」をしたヒロインとして、日本書紀に登場し、戦前の教科書にも掲載されていましたが、戦後はその実在性と史実性は疑問視されています。しかし、口承伝説として残っていたのは確かなので、何らかの形で倭と三韓との間で争いがあったことは間違いない、と私なんか考えています。また、神功皇后=卑弥呼説もありましたが、三世紀初頭の卑弥呼と四世紀半ばの神功皇后ではあまりにも時代が違い過ぎるし、卑弥呼の跡を継いだ宗女台与としても、まだおかしいです。タイムマシンに乗って古代を覗いて確かめてみたいです。

 何と言っても、史実として特筆すべきは、663年8月の白村江の戦いでしょう。百済救済を名目にした天智朝の倭軍は新羅を攻撃しますが、唐の水軍の挟み撃ちにあって大敗北を喫します。日本は、この時代に、早くも対外戦争をしていたとは、凄すぎます。

 以上、忘れないように記憶に留めるために、多くは、古代史の泰斗上田正昭京大名誉教授の最後の著書「古代の日本と東アジアの新研究」(藤原書店)からの抜粋でした。