レッキング・クルーのいい仕事

街角で Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur
 今、ケント・ハートマン著、加瀬俊訳「レッキング・クルーのいい仕事」(Pヴァイン・ブックス)にはまっています。

 音楽好きの友人松ちゃんから、この本の存在を教えてもらいました。

 レッキング・クルーとは、日本語に訳せば、「救難隊」、まあ、「お助け部隊」といったところでしょうか。匿名のスタジオ・ミュージシャンのゆるい集まりのことです。

 スタジオ・ミュージシャンと言えば、いわば影武者、黒衣です。表に出てきません。しかし、なかなか。実際にレコーディングしているのは彼らであって、表舞台に出ているアイドルは、楽器が弾けないので、弾いている真似をしているだけで、実際の音楽の本質の屋台骨は、彼らが支えていたわけです。

 例えば、ビートルズに対抗して米国でオーディションで集められたアイドル・グループ、モンキーズがいます。マイク・ネスミスら彼らは演奏できたことはできましたが、レコーディングはスタジオ・ミュージシャンによるものでした。

  最近、非常に便利な世の中になりまして、ネットで、無料で1950年代のロックンロール創世記や60年代のポップスを動画で見ることができます。

 その中でよく見ると、明らかに、レコードの「口パク」で、演奏していないということが、バレバレなグループがいることが分かります。

 例えば、バーズの「ミスター・タンブリンマン」(ご存知、原曲はボブ・ディラン)は、12弦ギターを弾いて歌っているロジャー・マッギン(もともとの名前はジム・マッギン)以外は、ほとんど演奏していないようにみえます。かろうじて、デビッド・クロスビーはギターを弾いているように見えますが、ベーシストは全く弾いていません。左手の指がフレットを移動していないからです。  

 以下は、非常にマニアックな話になりますので、1960~70年代のポピュラー・ミュージックに関心のない方は、この先読んでもつまらないと思います。では。

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 私の多感な時代、唯一の愉しみは、ラジオから流れる米英のヒットチャートのポップスを聴くことでした。

 当時は、エルヴィス・プレスリーは、人気に陰りが出て、シュレルズ(ジェリー・ゴフィン、キャロル・キングによる「ウィル・ユー・ラブ・ミー・トゥモロー」全米1位)クリスタルズ(「ヒーズ・ア・レベル」)、ロネッツ(「ビー・マイ・ベイビー」が全米2位)、シフォンズ(「イカした彼」が全米1位)といったガールズ・グループの全盛期でした。

 このほか、リトル・エヴァの「ロコ・モーション」(ジェリー・ゴフィン、キャロル・キング作詞作曲)やトーケンズの「ライオンは寝ている」フォーシーズンズの「シェリー」なども日本で大ヒットして、洋楽ポップスの嵐が日本のシンガーにも大きな影響を与えます。

ダニー飯田とパラダイスキング、九重祐三子、田辺靖雄、梓みちよ、弘田三枝子、坂本九らが盛んに欧米ポップスをカバーしていました。

しかし、これら、アメリカン・コーラス・ポップスもビートルズを始め、ローリング・ストーンズ、ディブ・クラーク・ファイブ、アニマルズ、ハーマンズ・ハーミッツなどの英國のバンドに席巻されてしまいます。

米国では、当時は、British envasion =英国の侵略と呼ばれていました。

その中で、人気、実力ともにビートルズなどに唯一対抗できたのが、ビーチ・ボーイズです。

このビーチ・ボーイズは、兄弟従兄弟のコーラス・ロックバンドですが、実際は、ブライアン・ウィルソンが一人で作詞作曲、演奏をやっているグループで、昔の古い動画を見ても、楽器を演奏しているようにはみえません。(コーラスは、やっているようですが)

最初にご紹介した「レッキング・クルーのいい仕事」によると、やはり、レコードになった演奏は、スタジオ・ミュージシャン「レッキング・クルー」が担当していたことを暴露しております。

暴露というのは、大袈裟で、当時はそれがほぼ当たり前だったようです。

レッキング・クルーの中には、グレン・キャンベルがギタリストとして参加していました。グレン・キャンベルと言えば、私は、日本でもヒットした「トライ・ア・リトル・カインドネス」のカントリー歌手だとばかり思っていました。

それが、レッキング・クルーの屋台骨のギタリストとして、プロ生活を確立していたことが、この本で初めて知りました。しかも、グレン・キャンベルは、ビーチ・ボーイズのツアーメンバーとして、表舞台でも活躍していたんですね!

レッキング・クルーのメンバーには、先日亡くなったレオン・ラッセルもピアニストとして参加していました。当時は、ラッセル・ブリッジと名乗っていたとは、またまた、この本で初めて知りました。

レオン・ラッセルは、私は、ジョージ・ハリスンの呼び掛けで行われた1971年の「バングラデシュ・チャリティー公演」で知りましたが、こんなキャリアがあったとは知りませんでした。

街並みで Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

そもそも、この本「レッキング・クルーのいい仕事」は、松ちゃんと過日、鶯谷の居酒屋で音楽談義をしていた時に、紹介されたものでした。ボブ・ディランからバックバンドの話になり、私が「サイモン&ガーファンクルの『サウンド・オブ・サイレンス』で、エレキギターを弾いているのは、確かマイク・ブルームフィールドだったよね?」というマニアックな話に及ぶと、松ちゃんが「それは分からないけど60年代のヒット曲の殆どを演奏していたのが、レッキング・クルーというスタジオ・ミュージシャンなんですよ」と教えてくれたわけです。

60年代のアメリカン・ポップスの最重要人物の一人がフィル・スペクターだということに異論ある人は少ないと思いますが、スペクターが、このレッキング・クルーの産みの親みたいなものだったことも、この本で教えられました。

フィル・スペクターは、ビートルズのアルバム「レット・イット・ビー」をアレンジしたことでも有名ですが、薬物中毒になり、殺人を犯して、今は収監中のようです。

10代でテディ・ベアーのメンバーとしてデビューし、「彼氏に一目惚れ」をヒットさせています。(この曲は、ビートルズが初期の頃にカバーしてます。「BBCライブ」などに収録)

この後、プロデューサーに転向し、前述のクリスタルズやロネッツをプロデュースします。スペクターは、ロネッツのリードボーカルのヴェロニカ(ロニー)・ベネットと一時結婚しています。