ジョージ没後15年

伊太利亜ローマ・パンテオン 「ラファエロ」

先程、ラジオを聴いていたら、ビートルズの「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」がかかり、「あれっ?何でかな?」と思ったら、今日11月29日(日本時間30日)はジョージの命日だと教えてくれました。

いやあ、すっかり忘れていました。2001年ですから、もう15年も昔です。時間の経つのは早過ぎます。

享年58ですから、日本で言えば、まだ定年退職もしていない若さです。早かったんだなあ、と今更思います。

ジョージの死因は、肺がんでした。彼は若い頃からかなりのヘヴィースモーカーでしたからね。

亡くなったのは、米ロサンゼルスで、病院とも友人宅とも言われてます。何しろオリヴィア夫人が亡くなった場所どころか、何処で埋葬されたのかさえも公表しておりません。

私は、掃苔趣味があるので、お墓が分かれば、お詣りに行きたいと思っているのですが、私が生きている間は、実現することはないでしょうから、せめて、今日は一日中、ジョージ・ハリスンの曲を聴いて供養したいと思ってます。

またまた、とてもマニアックな話ですが、ビートルズがレコードデビューする前、リバプールのキャバーンクラブで演奏していた頃、リードギタリストのジョージがかなりリードヴォーカルを担当していたことが、初期の録音で分かります。

「ヤング・ブラッド」「クライング・ウェイティング・ホーピング」「シーク・オブ・アラビー」「スリー・クール・キャッツ」などです。

まるで、初期のメインヴォーカルは、ジョージ・ハリスンだったかのようです。

先日も書きました1962年1月1日のデッカ・オーディションでも三分の一以上はリードヴォーカルを担当していました。中でも、「テイク・ケア・オブ、マイ・ベイビー」のヴォーカルが非常に光っていましたが、これまた、ヴォーカルはジョージでした。

この曲は、あのメロディーメイカー、ジェリー・ゴーフィ&キャロル・キングのコンビで作詞作曲、ボビー・ヴィーが唄い、1961年9月18日から連続2週、全米ビルボード・チャートで1位になりました。

つまり、9月のヒット曲をすぐカバーしていたわけですね。

こうしてビートルズは当時、全米の最新ヒットを常にキャッチして、最新の音楽を取り入れていたことが分かります。