気になる絵島・生島事件

森田座跡

最近、どうも正徳4年(1714年)に起きた絵島・生島事件(えじま・いくしま・じけん)が気になってしょうがありません。

ここ数年、この事件は映画やテレビドラマの「大奥」もので、必ずと言っていいくらい取り上げられますから、今では知らない人はいないかもしれません。

絵島(江島が正式の説も。1681~1741)とは、大奥女中の総頭の大年寄で、老中に匹敵する格が高い地位だったそうです。

生島とは、当時大変人気のあった歌舞伎役者生島新五郎のこと。今で言えば、片岡愛之助か尾上松也あたりか?

この2人の禁断の恋愛沙汰が発覚したことで、大事件となり、死罪や遠流となった者数知れず。しかし、実は、6代将軍家宣の正室天英院ら譜代大名・旗本ら守旧派が、7代将軍徳川家継の生母月光院(6代将軍家宣の側室左京局)派を追い落とすために図った冤罪、もしくは城内クーデターだったという説が今では有力です。

守旧派は、新参者なのに権勢をほしいままにしていた家継の側用人(そばようにん)間部詮房(まなべ・あきふさ)や儒学者新井白石らに反感を持っていたという説もあります。

私がこの事件を最初に興味を持ったのは、当時「江戸四座」の一つで、江戸最初の劇場と言われた山村座が、この事件のとばっちりを受けてお取り潰しになってしまったことでした。残る江戸三座(中村座、森田座、市村座)もこの事件がきっかけで、浅草の猿楽町に移転を余儀なくされます。

それまで、芝居小屋が何処にあったのかと探したところ、木挽町、今の東京・東銀座にあったんですね。

上の写真は、森田座(後の守田座)の跡として、昭和通り沿いにある看板を見つけました。

で、お取り潰しにあった山村座はこの森田座の目と鼻の先にあったはずですが、今では影も形もなく、看板すらありません。

ここら辺だったという今は、コートヤード・マリオット銀座東武ホテルが建っている所だったらしいので、下の写真を撮ってきました。

コートヤード・マリオット銀座東武ホテル

拷問に近い厳しい取り調べの末、評定所の判決は、絵島は死一等を減じ遠流とされ、月光院の願いによって高遠藩主内藤清枚(きよかず)・頼卿(よりのり)父子に預けられることになり、身柄は信州高遠(長野県伊那市)に移されます。
 相手の生島は三宅島に流罪。そして、不可解にも絵島の兄の白井勝昌(かつまさ)は、「監督不行き届き」ということで、死罪に処せられます。しかも、武士らしい切腹ではなく、斬首だったとか。

ほかにも旗本、奥医師や絵島を芝居小屋に案内したと言われる呉服屋、山村座の座元と役者らも連座し、その刑罰も死罪、流罪、改易、追放、閉門蟄居などに及び、大奥女中は67人が親戚に預けられたそうです。

高遠藩と言えば、江戸内藤新宿(今の新宿御苑辺り)に上屋敷がありましたね。

絵島は高遠の囲い屋敷に幽閉され、そこで27年もの歳月を過ごし、寛保1年(1741年)に61歳の生涯を閉じたそうです。

生島は翌年、江戸帰還を許されたとも、そのまま三宅島で亡くなったという説があります。

今では、週刊誌が飛び付きそうな芸能スキャンダルですが、その裏には激しい権力闘争やら派閥争いがあったようで、今でも謎は解明されていません。

そのせいか、単なる過去の出来事ではなく、現代人にも身につまされる事件として、興味が持たれているのかもしれません。はい。