奴隷を巡る内戦と債務上限引き上げ問題との関係

  昨日のブログで、奴隷狩りするアマゾンアリや奴隷取引をする人間のことを書きましたが、読売新聞を読んでいたら、国際経済欄に米国の奴隷問題の話が出てきたので、その偶然の一致に驚いてしまいました。

 それは、国際経済学者の竹森俊平氏が、デフォルト危機に陥るのではないかと不安視された米連邦債務上限引き上げ問題について解説した記事でした(2023年6月2日付読売新聞朝刊)。債務上限の決定権を何故、議会が持つようになったのか、その経緯について歴史的に説明してくれています。近年は民主党の大統領の時に、共和党が議会の過半数を握る「ねじれ状態」が生じたりすると、共和党は、歳出削減を勝ち取ろうと、この上限引き上げを拒む瀬戸際作戦を画策するといいます。最初にそれが起きたのがカーター民主党政権時代の1979年5月で、不慮の不履行(テクニカルデフォルト)となりました。当時の私は、経済音痴の不勉強な学生でしたので、あまり覚えていません(苦笑)。同じ年に起きたホメイニ師らによるイラン革命はよく覚えているのですが。。。

「隣りの席に鞄を置くな」と言われた

 竹森氏は、「もともと政治の根本理念を巡る国内対立の深刻さこそが米国史の独自性だ」ということで、その典型的な例として南北戦争(1861~65年)を挙げています。この南北戦争は、奴隷制度を「自由の侵害」と考える北部と、奴隷禁止を国民の奴隷に対する「所有権の侵害」と考える南部の理念が真っ向から衝突したものだったといいます。

 つまり、19世紀になっても人間はいまだに奴隷を巡って争いを続けていたのです。ダーウィン先生(1809~82年)の進化論が正しければ、人間はもっと進化して賢くなっていいはずなのに、です。(ダーウィンは、南北戦争は同時代の戦争として経験していました!)

 また、この記事で、この奴隷を巡る南北戦争での戦死者は、米国史上最大の70万人だったことが書かれていたので、私なんか「えっ!?」と驚愕してしまいました。先日、この渓流斎ブログで、第二次世界大戦中の独ソ戦について触れ、ドイツとソ連の戦死者は、民間人も併せて3000万人だったと書いたばかりでしたので、不謹慎ながら、「えっ?70万人が最大なの?」と思ってしまったわけです。

 そこで、調べてみたところ、過去の米軍の死者数は、第2次大戦が40万5000人、ベトナム戦争5万8000人、朝鮮戦争3万6000人(米ABCニュース)でした。米国は、海外での戦争より、国内の内戦での死者数の方が多かったということになります。

 日本が先の太平洋戦争で犠牲になった戦死者数は民間人も含めて、310万人と言われています。この中には「米国の若者の犠牲を防ぐための正義の手段」と米国で教育されている原爆投下による犠牲者も含まれています。

「いらっしゃいませ」も「有難う御座いました」も言わない! ファストフード店でもない高い店なのに、食器を返却させ、制限時間まで通達する。こんな店、二度と行くかあ~!金輪際。

 もう一度書きますが、米軍の第2次世界大戦での犠牲者は40万5000人。奴隷を巡る内戦での死者数は70万人でした。ということは、米国は、海外での戦争や外交より、内政を重視しないと損害が大きいと米国史が教えてくれているようなものです。先に、バイデン米大統領が債務上限引き上げ問題で、G7会議を欠席するだの、参加してもすぐ帰国するだの、色々と話題になったのは、こうした外交より内政を重視せざるを得ない国内事情があったわけですね。

 話はダーウィンの進化論から奴隷問題、債務不履行問題にまで及び、何か、脈絡がないような話でしたが、根っ子はつながっているのです。

奴隷狩りするアマゾンアリから独裁者の末路を思う=ダーウィン「種の起源」

 相変わらず、チャールズ・ダーウィン(1809~82年)著、渡辺政隆訳の「種の起源」(光文社古典新訳文庫)を読んでいますが、この本では、同時代の多くの自然科学者の論文や観察記録等が引用されています。

 この中で、「昆虫記」で有名なジャン・アンリ・ファーブル(1823~1915年)の名前が出て来てたので、「へ~」と思ってしまいました。調べてみたところ、ファーブルはダーウィンより14歳年少ですが、ダーウィンがファーブルの観察者としての実績を評価して親交があったようです。ただし、熱心なカトリック教徒だったファーブルは進化論に関しては批判的だったといいます。これまた、「へ~」です。二人の話はかみ合っていたのかどうか、不思議です。

築地・町のパスタ屋さん「ソノコンテント」

 さて、ダーウィンは、当時、アリの研究で有名だったピエール・ユベールやF・スミスの観察記録を引用しています。ただし、本文の記述が難解ですので、そのまま引用するとよく分からないと思われるので、私が勝手に補弼編纂して引用してみます。

 アマゾンアリと呼ばれる蟻がいます。南欧とアジアの一部に自生する蟻です。この蟻は、クロヤマアリなどを奴隷として使う蟻として知られています。アマゾンアリの雄と妊性のある雌は働かず、不妊の雌である働きアリは、奴隷狩りでは勇壮活発に働きますが、それ以外の仕事はしません。自分たちの巣を作ることも、幼虫の世話もできないといいます。「それ以外の仕事」は奴隷アリがやるわけですね。

 このアマゾンアリは、完全に奴隷に依存した生活を送っていることから、「奴隷がいなければ確実に絶滅する」とダーウインは書いています。ユベールが実験で、30匹のアマゾンアリを奴隷アリなしで容器に閉じ込めたところ、多くの個体が餓死したというのです。容器には、彼らの一番好きな食べ物をたっぷり入れて、仕事の意欲をわかせようと幼虫やサナギまで一緒に入れたのにも関わらず、アマゾンアリは一切何もせず、自分で食べることさえも出来なかったというのです。

 また、ダーウィンは「アカヤマアリが奴隷狩りするアリであることを最初に発見したのもピエール・ユベールである」と紹介しています。ダーウィン自身も、アカヤマアリがクロヤマアリを奴隷化しようと闘って、撃退されている現場を目の当たりし、クロヤマアリのサナギ一塊を掘り起こして、彼らの「戦場」近くの露出した地面に置いたところ、アカヤマアリが大慌ててそのサナギをくわえて運び去ったと書いています。

 これらの記述を読むと、蟻でさえ、奴隷狩りをするぐらいですから、同じ動物界の霊長目ヒト科の人間も、同じように奴隷狩りや奴隷取引をしていたことがよく分かりました。奴隷取引の話は、古代やリンカーンによる奴隷解放の19世紀どころか、21世紀の現代でも似たような話は聞きますからね。

築地「千里浜」刺身定食950円

 そして、何と言っても、「アマゾンアリは、完全に奴隷に依存した生活を送っていることから、奴隷がいなければ確実に絶滅する」という話を読んで、どうも北の独裁国家の独裁者のことが思い浮かんでしまいました。自分たちの国民を奴隷化して、彼らが餓死しても見て見ないふりして、好き勝手に、好きなだけミサイルを飛ばして大喜びをしておりますが、実情は、独裁者は、完璧に「民主主義人民共和国民」という名の奴隷に依存して生きていて、自分一人では何も出来ないのです。アマゾンアリのように、奴隷がいなくなってしまえば、独裁者は絶滅するのはないでしょうか。

 それこそが、自然淘汰と言いますか、自然の法則の理に適う話です。

 ただし、英オックスフォード大の研究チームが運営する国際統計サイト「Our World in Data」によると、世界で民主主義を享受する割合は2017年の50%を頂点に下落し、2021年では世界人口(78.6億人)のうち23億人(29%)に下がったといいます。つまり、世界人口の71%に相当する55.6億人が「投票権」の保障を十分に受けていない、つまり独裁国家だというのです。

 あんりまあ、です。でも、人間も自然界の動物ですから、ほとんどが、奴隷アリや働きバチに似た同じようなもので、独裁国家の方が自然の理にかなっている、と言えないこともありません。何だか、よく分からなくなってきますが、そう考えると、自然の法則と実体が見事に一致します。あくまでも、私の意見ですが、インドはカースト制のある身分社会と批判されますが、先進国の欧州やアジア諸国でさえ、王政や貴族がいまだに残っている国が多くあります。

 自然界が生存闘争の末の適者生存で自然淘汰されるとしたら、身分社会は自然の理に適うということになってしまうことに気付かされます。語弊を恐れずに言えば、エジプトのピラミッドにせよ、姫路城にせよ、身分社会から生み出された世界遺産であり、逆に言えば、身分社会でなければ生み出せなかった世界遺産だからです。(私は身分社会を是認しているわけではなく、結果的に、世界は独裁国家と身分差別社会が大半を占めているという現状を暴露したかったのです。)

自然界は生存闘争だけの世界なのか?=真の自己に目覚め生き延びる

  相変わらず、ダーウィンの「種の起源」を読んでおります。先日は「自然淘汰」が頭にこびりついて離れない、とこのブログに書きましたが、まだまだありました。「生存闘争」もそうでした。struggle for existence の訳ですが、私の世代は「生存競争」と習い、そう覚えていました。かつての「競争」より新訳の「闘争」の方がどこか熾烈な争いの印象があります。

 生存闘争とは、自然界で、動物も植物も、弱肉強食のジャングルの中で、生き残りを懸けて、熾烈な闘いを繰り広げるということです。それによって、弱者は自然淘汰され、絶滅していくのです。勝ち残った強い者だけが生き残るのです。そこには、ダーウィンの造語ではありませんが、「適者生存」という法則で絶滅を免れたものだけが子孫を残すことが出来て、生き延びていくわけです。

 同じ種や仲間同士でも、雌(もしくは雄)を巡っての闘争があります。勝ち抜いた強者しか自分の子孫が残せないのです。

 このように、自然界は、動物も植物も、絶滅せずに、生存闘争に勝ち抜いて生き延びることが、唯一の目的であり、意味のように見えてきます。それは、動物界霊長目ヒト科ヒト属の人間にも同じことが言えるのかもしれません。つまり、人生には目的も意味もない、ということです。もし、唯一、人生に意味と目的があるとしたら、それは、「生き延びる」ということになります。

 人生に意味も目的もない、と言われれば、誰でも戸惑い、ニヒリズムに陥りますね。しかし、それは現実です。一生には限りがありますから、何をやっても一緒です(個人的にはひたすら善行を積みたいと思っていますが)。人間はニヒリズムに陥って絶望したくはないからこそ、芸術や制度をつくったり、宗教や神を創造したりしているのではないでしょうか。

 個人的にそういう思想といいますか、考えに到達しましたので、「迷える子羊」の友人から悩み事の相談メールがあったので、以下のような話に転化してお応えしておきました。

築地本願寺

 ところで、小生は最近、宗教書を乱読しておりましたが、宗教とは「壮大なフィクション」だということを確信しました。

 キリスト教の場合、イエス・キリストが人間として存在したことは歴史上の事実ですが、イエスが神の子であり、磔刑されて死んだのに復活し、最後の審判が下されるということは、壮大なフィクションです。それらを信じることが出来る人だけが、信者です。

 つまり、信仰とは壮大なフィクションを信じることなのです。そして、「信じれば救われる」という教えです。(確かに法悦の中で救済を得た人もいます)

 仏教も同じことが言えます。

  紀元前5世紀のインド(今のネパール)に釈迦という王子がいて、出家して覚りを開いたことは歴史的事実です。ただし、釈尊は「真の自己に目覚めよ」と覚りを開くことを説いただけで、それ以上の話は壮大なフィクションです。「阿弥陀様を拝めば救済され、極楽に行ける」というのも壮大なフィクションです。特に日本では法然を中心に西方浄土に住む阿弥陀如来を(「選択本願念仏集」などの著作で)「選択」しました。となると、東方妙喜世界にいる阿閦(あしゅく)如来や薬師如来を切り捨てたわけです。同時に北の不空成就如来と南の宝生如来も切り捨てたのです。だから日本人は、阿弥陀如来以外の切り捨てられた仏様についてはほとんど何も知らないのです。しかし、その一方で、阿弥陀如来の脇侍に過ぎなかった観音菩薩も独立して、日本では多くの像が作られるようになりました。広大無辺の慈悲を持つ「観音様」は、「救いの神」として広く信仰されるようになったのです。観音信仰がこれほど篤いのは世界でも日本ぐらいではないでしょうか。

 ただし、阿弥陀如来も観音菩薩も、それに加えて、釈迦入滅後、56億7000万年後に現れるという弥勒菩薩も、もともとペルシャ(イラン)の神様だったと言われます。ゾロアスター教の神ともいわれます。

 仏教は、うわばみのように、あらゆる宗教を取り入れて変容していきます。ジャイナ教、バラモン教、ヒンズー教…等です。挙句の果てには、後期密教では人間の煩悩まで肯定します。性欲も肉食妻帯もライバル同士の仲違いも殺人までも呪術として容認します。とてもついていけません。(後期密教は、日本には伝わらず、チベットに残っているだけです)

 インドは複雑で、とても、一言で言えませんが、根っ子には、インダス文明を築いた南インドのドラヴィタ人を征服したアーリア人がバラモン教を創始し、現在、カースト制度を含めヒンズー教に引き継がれていることがあります。このアーリア人というのは、諸説ありますが、イラン系という説が有力です。嗚呼、それでインドなのにイラン神の影響があったのか、と小生は納得しました。

築地本願寺

 話が長くなるので、一つだけ補足します。

 釈迦は、衆生を救済する神を創造したわけではありません。釈尊はただ「真の自己に目覚めよ」と説いたのです。それは、究極的に、「他者に依存せず、独立して生きよ」ということなのです。釈迦入滅間際に、不安になった弟子のアーナンダが、「師がいなくなったら、我々はどうやって生きていったら良いのですか?」と尋ねた時に、釈尊がそう答えたといいます。

 「他者に依存せず、隷属せず」ということは法華経の思想ですが、小生はそれに「他者を支配せず」を付け加えたいと思います。

 後期密教は、とても信仰出来ませんが、この「他者に依存せず、隷属せず、他者を支配せず、独立独歩で生き延びる」という仏教から派生した思想だけは、私自身、信仰したいと思っています。

 不安や悩みは、六波羅蜜の忍辱(にんにく)や諦念などのメンタルヘルス・ケアで克服出来ます。性悪説に近いかもしれませんが、他者に隷属せず、他者を支配せず、「真の自己」を目指して、小生は残りの人生を生き延びていくつもりです。