生物に運命なし、全ては偶然の産物=ダーウイン「種の起源」を読了

 「わーお、やったーー」。通勤電車の中で一人、心の中で快哉を叫んでしまいました。ダーウインの「種の起源」(渡辺政隆訳、光文社古典新訳文庫)をついに、やっと読了出来たのです。ハアハアと3000メートル級の高山を登頂できた爽快感と疲労感が入り混じったあの感覚が押し寄せて来ました。

 「種の起源」は1859年11月24日に初版が発行され、ダーウインはそれ以降、13年間も地道に改訂作業を続け、1872年2月に「第六版」まで出版しました。訳者の渡辺氏によると、ダーウィンと言えば直ぐに連想できる「進化」evolution という言葉は、この最後の第六版になってやっと出て来た言葉だといいます。(それまでは「変異を重ねて来た」といったような表現。)また、ダーウィン主義のキーワードとなる「適者生存」も、1869年の第五版になって初めて登場したといいます。「進化」も「適者生存」も社会学者のハーバート・スペンサーが命名した造語でした。

日比谷公園

 いわゆるダーウィンの進化論は、今や定説になっていて疑問の余地はないと私は思っていましたが、今でも、キリスト教原理主義者だけではなく、科学者の中でも反ダーウィン主義者がいるとは驚きでした。訳者の渡辺氏も「あとがき」の中で、同氏が1970年代の前半、大学の生物学の最初の授業で、高名な教授から「ダーウィンの『種の起源』は読む必要もない。あそこに書かれているのは嘘ばかりだから」と聞かされたといいます。

 ダーウィンの進化論とは、一言で言えば、「全ての生物は共通の祖先から進化してきたという考え方」で「生物の進化は世代交代を経た枝分かれの歴史であって、一個人が進化することはありえない」ということになります。しかし、「種の起源」は決して読みやすい本ではなく難解のせいか、正しく読まれずに、ダーウィンの業績も正しく評価されないまま、学界で論争を生んだのではないか、と訳者の渡辺氏は書いております。

 なるほど、そういうことでしたか。「種の起源」の最後は「実に単純なものから極めて美しく素晴らしい生物種が際限なく発展し、なおも発展し続けているのだ。」という文章で終わっています。「種の起源」第六版を出版した時のダーウィンは63歳になっていました(その10年後の73歳没、ニュートンやヘンデルら著名人が眠るロンドンのウエストミンスター大寺院に埋葬)。

内幸町

 この難解の書物を私自身、どこまで理解できたのか心もとないのですが、読破できたことだけは自分自身を褒めてあげたいと思っております。「種の起源」を読まずに進化論を語る勿れですね。

 訳者の渡辺氏も「解説」の中でこう書いています。

 進化の起こり方は、常に偶然と必然に左右され、行方が定まらない。あらかじめ定められた運命など存在しないのだ。生存することの意味を問う中で虚無に走るのは容易い。しかし、偶然が無限に繰り返された結果として人生は存在するという考え方には荘厳なものがある。「種の起源」を読まずして人生を語ることができない。

 これ以上、付け足すことがないほどの名言です。

 

 

これが世間の実体、実相だ=マンション・ゴミ捨て騒動

 マンションの掃除のパートをしている知り合いの遠藤さん(仮名)から頭の痛い嫌な話を聞いてしまいました。

 50歳も過ぎると、なかなか再就職が難しいことは体験者なら分かるはずです。終身雇用を廃止して、転職を推奨する学者もマスコミも、何も分かっていません。儲かるのは、政商が会長を務めていた人材派遣会社や転職紹介会社だけなのです。

 遠藤さんも、社内のパワハラ上司とウマが合わず、思い切って退職しましたが、次の転職先がなかなか見つかりません。3カ月もの就職浪人の末、結局、マンション掃除人のパートがやっと決まりました。応募が殺到していて、3倍の難関を突破して採用されたといいます。募集元は、テレビでもよく宣伝する有名な不動産仲介管理会社です。

 散々苦労してやっと決まったので、彼はかなりのプライドを持って真面目に仕事に取り組んでいます。「掃除人だと人は皆、馬鹿にするけど、なくてはならない仕事ですよ。俺たちがいなくなったらどうなると思いますか? 俺たちは縁の下の力持ちというか、政治家さんよりも余程偉いと思っていますよ」と言うのが彼の口癖です。確かにその通りです。

 彼が担当しているのは某駅から数分の一等地に建つマンションですが、ワンルーム・マンションなので、全員独身者です。それなのに、ある日、小学校4年生ぐらいの女の子がマンションの住民用のゴミ置き場にゴミを捨てに来ました。そう言えば、ここ半年以上、「ゴミの日」ではないのに、ゴミが置いてあったり、キチンと分別しないで、そのまま乱雑に捨てられたゴミを目にするようになり、気になっていました。駅近の高級マンションなので家賃も高く、居住者は一流企業にお勤めの富裕層とみられ、ゴミのルールは守る人ばかりだったので、不審に思っていたところでした。仕事はパートの午前中だけなので、それまで怪しい人物と出食わすことがなかったのです。

 遠藤さんは、その女の子を捕まえて、「ここは、ここに住んでいる人だけだから、駄目だよ。ここに捨てろと言ったのは誰なの? えっ? お母さん? それなら、今日だけは許してあげるけど、今度から受け付けないからね。帰ったらお母さんに言っておいてね。ここは監視カメラが付いているから、隠れて捨てても駄目だからね」

 彼としては、優しく、かんで含めて、説諭したつもりでしたが、それから5分も経たぬうちに、女の子の母親らしき女が血相を変えて、まくし立ててきたというのです。

 「あんた、ウチの子に何言ったのよ。泣きじゃくって、帰ってきたじゃない。怖いおじさんに怒られたって! ウチはね、前からここに捨てて良い、とC(例の有名な不動産仲介管理会社)から言われているのよ。娘を脅迫するつもり? こっちは間違ったことなんかしていないのに、あんた何様なのよ、一体。冗談じゃないわよ。たかが、掃除人のくせに。あんた、名前何て言うの? Cに言って、やめさせてもらうわよ」

日比谷

 「全く、取り付く島もない、とはこのこと」と遠藤さんは後から振り返って言いました。彼の説明によると、女の住む低層集合住宅の1~2階は保育園になっていて、3階に居住している住民は3軒だけ。集合住宅のゴミ捨て場は、保育園専用になっていて、居住している3軒は、自治会にも入っていないので、そこには捨てられない。そこで、不動産仲介管理会社は、そこから50メートルも離れた遠藤さんが掃除を担当しているマンションのゴミ捨て場にゴミを捨ててもいいよ、と居住している3軒の住人に許可していたというのです。保育園とマンションの土地(建物)のオーナーは、同一人物だったからです。

 しかし、不動産仲介管理会社は、遠藤さんに一言もその「事実」を知らせていませんでした。1年前からそういう状態になっているにも関わらずです。一言あれば、「ああ、また、あの3軒の住人の誰かがが来たのか。ゴミ分別もしないけど、仕方ないな」と彼も納得したといいます。

 心優しい遠藤さんは、散々、モンスターペアレントみたいな女にこっぴどくどやされて、落ち込んでしまい、その日は夜も眠れなかったといます。

 悪いのは、連絡怠慢の大手の不動産仲介管理会社ですが、謝罪もなく、孫請けの人材派遣会社の担当者から遠藤さんに電話で一言、「それは大変でしたねえ」と慰めの言葉があっただけだったそうです。

【追記】

 町内会や自治会に入会する義務はありませんが、デメリットとして、町内会や自治会が管理するゴミ捨て場にはゴミは出せないといいます。不動産仲介会社ならそれぐらいの法律は知っているはず。遠藤さんが担当するゴミ捨て場は、マンションの住人が自治会費を支払って設けられたものだからです。となると、遠藤さんは、自治会費を払っているマンションの住人のためにゴミ捨て場を掃除し、その見返りに給料をもらっているようなものです。テレビで宣伝する有名不動産仲介管理業者も酷い会社だなあ。違法スレスレじゃないのかなあ。。。その後、遠藤さんは例のモンスター女と会ったのかどうかは、聞いていません。

またまたお土産をいただいてしまいました

  カナダにお住まいの辻下さんが一時帰国され、久しぶりに銀座の何処かでお会いして食事を伴にしましょう、という話になりましたが、結局、日程の都合がつかず、食事会は中止になってしまいました。

 と思ったら、本日、銀座にある弊社にわざわざ訪ねてくださり、「お土産」ということで、世界に名だたる台湾コーヒーの高級ブランド「世界冠軍珈琲」を持って来てくださったのです。1階の受付で、数分間程度の立ち話で終わってしまいましたが、数年ぶりの再会でした。

台湾コーヒーの高級ブランド「世界冠軍珈琲」

 辻下さんは、おつな寿司セミナーの会員だった片岡みい子さんの御主人の正垣さんと成城学園時代の親友で、片岡さんが6年前の2017年に亡くなった時に、この渓流斎ブログにそのことを書いたところ、たまたま、カナダの自宅パソコンで御覧になった辻下さんが、小生に連絡してくださったのでした。調べてみたら、片岡さんが亡くなった翌2018年5月に一時帰国した辻下さんと、私もお会いして、銀座で食事をしましたから、それ以来5年ぶりの再会でした。

 前回は、ドイツ製のワイン「聖母」を「手土産」に頂き、今回は台湾の「世界冠軍珈琲」です。何か、戴いてばかりですねえ。私が好きな言葉が、綾小路きみまろと同じ「もらう」「いただく」「ただ」ということを御存知だったからでしょうか(苦笑)。

 今回、日程が合わなくなった理由の一つに、辻下さん御夫妻が一時帰国して、京都旅行された際、彼が某有名神社の急勾配の参道でつまずいて、足を捻挫してしまったことがありました。駅や空港で車椅子を借りるほど重傷だったようです。(1カ月近く経ち、やっと平地なら少しずつ歩けるようになったといいますが、移動はタクシーでしょう。)

 今回ゆっくりお話しする時間が取れず残念でしたが、不思議なことは、何でこれほどまで彼が私に御親切にしてくださるのか、ということです。

【証拠写真】築地「魚月」ランチ握り1500円 何か足りない? あっ!ガリがない! でも箸を付けて後で気が付いたから、「遅かりし由良之助」。店員さんは50メートルぐらい遠く離れてますし、そのまま、黙って食べましたよ。

 帰り際に、辻下さんは「いつも色々と情報を教えて頂き感謝してます」と仰ってくださったので、恐らく、いつも渓流斎ブログを御愛読して頂き、その御礼だったのではないか、と勝手に解釈してしまいました。間違ったらごめんなさい。

 こちらこそ、いつもお読み頂き、そして、お土産まで頂き、感謝申し上げます。有難う御座いました。

🎬小津作品を観たくなります=平山周吉著「小津安二郎」

 今、話題になっている平山周吉著「小津安二郎」(新潮社)を読んでいます。同時並行で他の本も沢山読んでいますので、乱読です。

 巨匠小津安二郎(1903~63年)に関しては、様々な多くの書籍がこれまで出版され、いわば出尽くされた感じでしたが、それでもなお、この本では今までとは違った視点で描かれている(山中貞雄監督との関係や、円覚寺の墓石にかかれた「無」の揮毫は本人の遺志ではなかったことなど)ということで、多くの書評でも取り上げられ、脚光を浴びています。また、今年はちょうど小津没後60年の節目の年ということもあります。

 没後60年が何故、節目の年かと言いますと、小津監督自身、今ではとても若い60歳で亡くなっているからです。晩年の写真を見ると、80歳ぐらいに見えますが、まだ60歳だったとは驚きです。あれから60年経ったということで、今年は小津生誕120年ということにもなります。

 著者の平山周吉氏は、いつぞやこの渓流斎ブログで何度も取り上げたあの「満洲国グランドホテル」(芸術新聞社)の著者でもあります。文芸誌の編集長も務めた経歴の持ち主で、古今東西の古書を渉猟して調査研究する手法は、この本でも遺憾なく発揮されています。

 でも、正直言わせてもらいますと、異様にマニアックで、重箱の隅の隅まで突っついている感じがなきにしもあらずで、逆に言えば、マニアックだからこそ出版物として通用するといった感想を抱いてしまいました。

 とは言っても、私は小津安二郎が嫌いなわけではありません。彼がこよなく愛して通った東京・上野のとんかつ屋「蓬莱屋」には今でも通っているぐらいですからね(笑)。世界の映画人やファン投票で、代表作「東京物語」が何度も世界第1位に輝き、私も「東京物語」だけは、10回ぐらいはテレビやビデオで見ています。1953年公開ですから、劇場では見ていませんが。。。(遺作となった小津作品は「秋刀魚の味」ですら1962年公開ですから、小津作品を封切で映画館にまで足を運んで観たのは戦前生まれか、私の親の世代ぐらいではないでしょうか。)

 でも、この本を読んでみて、私自身は、小津作品をほとんど観ていないことが分かり、観ていないと何が書かれているのか分からないので、慌ててDVDを購入して観たりしています。

 早速、観たのは、1949年度のキネマ旬報の1位に輝いた「晩春」と、遺作になった62年の「秋刀魚の味」です。そしたら、あれ?です。何という既視感!

 男やもめの初老の父と年頃の娘がいて、老父は娘が行き遅れ(差別用語で、行かず後家)にならないか心配しています。娘はお父さん大好きで、いつまでも身の回りの世話をしてあげたい。老父は、痛し痒しで、それでは困る。結局、周囲からの縁談を進めて、最後は娘のいなくなった家で、老父は寂しく感慨深気な表情でラストシーンとなる。。。

 「晩春」「秋刀魚の味」ともに、この老父(とはいっても56~57歳)役が笠智衆。行き遅れになりそうな娘(とはいっても、まだ24歳)役は、「晩春」では原節子、「秋刀魚の味」では岩下志麻です。両作品とも、結婚相手は最後まで登場せず、名前だけ。自宅での花嫁衣裳姿は出てきますが、式や披露宴の場面はなし。うーん、同じようなストーリーといいますか、「晩春」から13年目にして、ワンパターンと言いますか、歌舞伎の様式美のような同じ物語が展開されます。それで、デジャヴュ(既視感)を味わってしまったわけです。

 特に老父役の笠智衆(もう40代から老人役を演じていた!)は、意識しているのか、あの独特のゆったりとした台詞の棒読み状態の中で、いぶし銀のような深い、深い味わいを醸し出しています。(「そおかあ、そうじゃったかなあ~」は夢にまで出てきます。)

 小津作品のほとんどがホームドラマと言えば、ホームドラマです。特別な悪人は登場せず(嫌な奴は登場します=笑)、露骨な煽情的な場面もなく、何処の家庭でも抱えそうな身近な問題をテーマにしています。どちらかと言えば、お涙頂戴劇か? 共同脚本を担当した野田高梧の台詞回しは、至って自然で、フィクションではなく、いかにも現実に有り得そうな錯覚に観る者を陥れますが、実生活では、最後まで独身を貫いて家庭を持たなかった小津が、何故ここまでホームドラマに拘ったのか不思議です。この本はまだ半分しか読んでいないので、最後の方に出てくるかもしれませんが、原節子との噂の真相も書いていることでしょう。

  ああ見えてファッション好きで、全く同じ色と柄の服を何着も揃えているとか、酒好きで知られ、行きつけの店は今でも「聖地」になっているとか。 ーこのように、小津安二郎という人が映画監督の枠を超えて、人間的に魅力があったからこそ、世界中の人から愛され、特にヴィム・ヴェンダース監督を始め、超一流のプロの映画人にも愛されたのではないかと私は思っています。日本的な、あまりにも日本人的な小津作品が、海外に通じるのも、人間の感情の機微に普遍性があるからでしょう。

 ところで、「秋刀魚の味」で、どこの場面でも秋刀魚が登場せず、少なくとも、何のキーポイントにもなっていないので、何でだろうと思って、この本の当該箇所を読んでみましたら、著者の平山氏は「『秋刀魚の味』は鱧(はも)と軍艦マーチの映画だ」なぞと書いておられました。恐らく、そう言われても、「秋刀魚の味」を御覧になっていない方は、よく分からないかもしれませんけど、確かにそうでした。そして、「秋刀魚の歌」で一躍有名になった詩人の佐藤春夫とその親友の谷崎潤一郎について触れ、文学少年だった小津安二郎は、二人の作品を全集などで読んでいるはずで、かなりの影響を受けていることも書いておりました。

 先ほど、この本について、「異様にマニアックだ」などと失礼なことを書いてしまいましたが、このように、ここまで各作品の細部について、解明してくれれば、確かに、「小津安二郎伝 完全版」と呼んでも相応しい本かもしれません。

 【追記】

 (1)著者の平山周吉の名前は、小津安二郎の代表作「東京物語」で笠智衆が演じた主役の平山周吉から取られたといいます。それだけでも、筆者は熱烈な小津ファンだということが分かります。

 (2)「秋刀魚の味」では、やたらとサッポロビールとサントリーのトリスバーが出てきます。「提携(タイアップ)商品広告」と断定してもいいでしょう。「ローアングル撮影」など小津安二郎を神格化するファンが多いですが、私は神格化まではしたくありませんね。ただ、小津作品は、歴史的遺産になることは確かです。映画を観ていて、パソコンやスマホどころかテレビもなかった時代。冷蔵庫も電話も普通の家庭にはなかった時代を思い出させます。文化人類学的価値もありますよ。

「絶滅種は復活しない」と「アルゼンチンの由来」

 相変わらず、といいますか、いまだに、まだダーウィンの「種の起源」(下、渡辺政隆訳、光文社古典新訳文庫)を読んでいます。

 この中で、「いったん絶滅した種は二度と出現しない」とか「一つのグループが、いったん完全に消滅すると、二度と復活しない。世代の連鎖が途切れてしまうからである」(174~175ページ)といった記述にぶつかり、ハッとしてしまいました。

 そっかあー。当たり前のことですけど、映画「ジュラシック・パーク」などでは、絶滅したはずの恐竜が「復活」したりしましたが、あれはあくまでもフィクションの世界だったんですね。ダーウイン先生に言わせれば、絶滅した恐竜は二度と出現しないし、同じように我々、ホモ・サピエンスの人類に最も近いデニソワ人もネアンデルタール人も絶滅したので、もう二度と出現しない、ということなのでしょう。

 そうなると生物に課せられた「生き延びること」と「生き残ること」は、最大最高の使命であり、最大の目的であり意味であることが再認識されます。(この後、ダーウインは、何百キロも離れた大陸や群島で、ある同じ植物が群生するのは、鳥や魚や動物たちが食べた果実や種子が嗉嚢(そのう)などに残り、遠距離で運ばれ、動物が死骸になっても、中に入っていた種子が長らく発芽能力を維持していることを実験で証明したりしております。)

◇絶滅危惧種を救え

 環境庁が発表している「レッドデータブック」をチラッと拝見しますと、既に「絶滅」した種としてニホンオオカミやニホンカワウソなどがあり、ラッコやジュゴンは「絶滅危惧」で、房総半島のホンドザルや紀伊山地のカモシカなどは「絶滅のおそれ」に分類されています。

 絶滅したニホンオオカミなどは二度と復活しないということになり、人魚姫のモデルになったとも言われるジュゴンなどの危惧種も絶滅したら、二度とその姿を見ることができなくなります。それらは人間の責任と言うべきか、それとも、生存闘争の末の「自然淘汰」と言うべきなのか? 少なくとも絶滅の恐れがある動物や植物たちは「人口問題なんかより、同じ地球に住んでいるんだから、俺たちの生存権をもっと大事にしてくれよ」と主張することでしょう。

 そんなことを考えながら、「種の起源」を読み進めています。

 話はガラリと変わって、先日、化学の元素記号を眺めていたら、ヘリウムheliumはHe、マグネシウムmagnesiumはMgなどと分かりやすいのに、何で金はgold なのにAu、銀はsilver なのにAgなんだろう、と思ったら、ラテン語だったんですね(実は知ってましたが=笑)。

 金は、ラテン語でaurum、銀はargentum。ですから、金の元素記号はAu、銀はAgとなるわけです。この銀のargentum(フランス語の銀は、argent でした!)は、どうも南米のアルゼンチンと関係があるのかな、と思って調べたら、やはり、アルゼンチンという国は、このラテン語の銀から取ったんですね。侵略したスペイン人が銀の鉱山を発掘したからでしょう。ついでながら、アルゼンチンとウルグアイを流れる有名なラプラタ川がありますが、スペイン語で、ラは冠詞、プラタは銀という意味なんですね。

 この年にして何ーも知らなかった、と恥じた次第です。

 アメリカの地名の由来は、イタリアの探検家アメリゴ・ベスプッチから取られたことは知っておりましたが、それ以外の北米、中南米の国々の地名の由来はほとんど知りませんでした。そこで、調べたところー。

カナダ=先住民の「村」「村落」を意味する「カナカ」が元になったという。

メキシコ=アステカ族の守護神メヒクトリ(「神に選ばれし者」の意味)にちなんで呼んだメヒコに由来する。

キューバ=先住民の「クーバ」(中心地の意味)の英語読み。

エクアドル=スペイン語で「赤道」の意味。

ブラジル=貴重な赤い染料が取れる「パウ・ブラジル」の木から。

ボリビア=ボリビア独立の功労者シモン・ボリバルに因む。

 まだまだ沢山ありますが、取り敢えず、この辺で(笑)。

1%の富裕層のための新自由主義=ナオミ・クライン「ショック・ドクトリン」を「100分de名著」が取り上げています

 目下、NHKのEテレで放送中の「100分de名著」の第130回「『ショック・ドクトリン』ナオミ・クライン」は頗る面白いので、皆さんと共有したいと思いました。6月12日(月)に第2回が放送されますが、同日に第1回の再放送もあり、見逃した方は、最初から見ることが出来ます。

 実は、私自身はこの名著を読んだことがなかったので、全く期待していなかったのですが、何となく見始めたら、すっかりハマってしまったのです。

 「ショック・ドクトリン」はユダヤ系カナダ人のジャーナリスト、ナオミ・クラインが2007年9月に発表したノンフィクションです。一言でいえば、シカゴ大学の教授でユダヤ系経済学者のミルトン・フリードマンが提唱した「新自由主義」に対するアンチテーゼで、彼女はフリードマンの経済政策を「惨事便乗型資本主義」と批判しているのです。

 番組の解説者として出演しているジャーナリストの堤未果氏によると、ショック・ドクトリンのショックとは、戦争やパンデミック、自然災害、テロといったことを指し、大衆がこのようなショックで正常な判断を失っている間隙を縫って、新自由主義者たちが次々と表向きは都合の良いように見せかけながら、自分たちだけが利益になるような政策を誘導していくことだといいます。一言でいえば、「火事場泥棒」ということで、実に分かりやすい表現だと思いました。

 新自由主義たちが為政者たちに「市場原理こそ全てだ」と言いくるめて、まずは①「規制緩和」に誘導させ、続いて、公共事業を次々と②「民営化」させる。最終的には③「社会福祉の制限」が目的となります。当然、貧富の格差は拡大しますね。堤氏によると、民間企業なら利潤があげられなければ、簡単に逃げられるが、公共団体は、綻びが出たからといって撤退できないといいます。つまり、例えば、2007年に財政破綻した北海道の夕張市は、撤退することが出来ず、国の管理下で借金を返済し、結果的に若者が離散して超高齢化と人口減少という現実があります。そうかと言えば、ハゲタカのようなファンドが、企業を乗っ取り、甘い蜜を吸いつくしてから、高額な金額で転売して逃げ去る構図と似ています。

 私は昔から、誰が世の中を動かしていて、誰が額に汗水たらさずに儲けて楽をしているのか、といった「世の中のからくり」について興味があり、ずっと知りたかったので、この本には目を見開かせられます。

 「ショック・ドクトリン」では、1973年、米CIAの工作員の力を借りてアジェンデ社会主義政権をクーデターで倒したチリのピノチェト将軍による独裁を振り返っています。ピノチェトは、1万3500人の市民を拘束し、数千人に拷問をかけて「ショック」を与え、1950代にシカゴ大学に留学してフリードマンから薫陶を受けた「シカゴ・ボーイズ」と呼ばれた経済学者らに経済政策の指揮を執らせ、国営企業を次々と民営化して外国企業=つまりは米国=を参入させます。その結果、1974年のチリのインフレ率は375%に上り、パンの価格が高騰し、安い輸入品のお蔭で国内の企業が低迷し、失業率も増大します。

 その一方で、富裕層の収入は、アジェンデ政権時と比べて83%も増大したというのです。

 このほか、「英国病」と呼ばれて景気低迷していた1980年代の英国。サッチャー政権も支持率が25%と低迷していましたが、サッチャー首相は、フォークランド紛争という「ショック」を利用して、事業を民営化して景気回復を図り、支持率を59%に伸ばしたといいます。その一方、富裕層に対しては優遇政策を取ったといいますから、フリードマン流の新自由主義です。

 番組では、堤氏は「日本にもシカゴ・ボーイズ(フリードマンの影響を受けた経済学者や政治家)はいます」とキッパリ言ってましたが、具体的にどなたなのかは口を噤んで、言いませんでした。ズルいですねえ。まあ、誰かは想像はつきますが(笑)。

 でも、穿った言い方をすれば、政治の世界は「善か悪」とか「正しいか、間違っているのか」の世界ではなく、結局は、「強いか、弱いか」の世界です。民主主義なら、数が多いか、少ないかの世界です。権力を握った者=恐らく富裕層=が好き勝手な政策をできるわけです。

 だって、フリードマンの新自由主義は、1%の富裕層にとっては、救世主のような正しい善の政策になるわけですからね。

 思えば、日本人は、自分が貧困層だという自覚が全くないから、多くの人が富裕層を優遇する政党に投票しているわけで、勉強が足りないといいますか、自業自得になっているわけですよ。

暴露好きの弱い人間の部分につけこむ野心的商売=ガーシー元議員について

 昨晩は、出版社を経営する旧友と久し振りに再会し、東十条の「たぬき」で一献を傾けました。

 コロナの影響で、彼と会うのは1年ぶり、いや数年ぶりかもしれません。記録を取っていないので覚えていませんけど(笑)。当然ながら、「出版不況」の話となり、彼が若い頃に入社したマキノ出版が先月、事実上倒産してしまった話が中心となりました。「壮快」「安心」などの健康雑誌がかなり売れて、自社ビルを建てた話を聞いていたので、驚きました(経営権は、違う会社に譲渡し、雑誌発行は続ける見込みのようですが)。

 彼は長らく、雑誌「特選街」の編集者として活躍し、会社が絶頂期の時に退社して独立しましたが、残っていた人は、恐らく、ほとんどが解雇されるようで、これからが大変です。

 マキノ出版を創業した牧野武朗氏は10年程前に他界されましたが、講談社の「少年マガジン」や「週刊現代」の編集長を務めていた方だと彼から聞いて、初めて知りました。出版業界はやはり、ワンマン社長が亡くなると、途端に競争の荒波に揉まれる厳しい業界で、マキノ出版もその御多分に漏れなかったということになります。

 ただ、出版業界が低迷した原因は、やはり、インターネットの影響だということは間違いないでしょう。新聞業界も放送業界も同じことが言えます。つまり、新聞、出版、放送業界の屋台骨を支えている米櫃である「ドル箱」の広告がほとんどネットに移行してしまったことが敗因なのです。ネット広告の売り上げは、ラジオ広告を追い抜き、新聞広告を抜き、出版を追い抜き、ついに2019年にはテレビを追い抜き、「王者」として君臨するようになりました。

 しかし、悲しいことにネット情報は、発信者がズブの素人だったりして信頼性に欠けます。それなのに、時間や場所に拘束されずに、テレビ以上に無尽蔵の情報を垂れ流しすることができます。スマホがあれば、いつでも何処でもアクセス出来ますが、その人が興味を持ちそうな広告がアルゴリズムによって割り出されて、個人に直撃してきます。こんなピンポイント攻撃はないでしょう。広告費の後ろ盾となるテレビの視聴率などという曖昧な数字は、もう田舎芝居みたいなもんです。

 ◇ガーシーとは何者か?

 そして、また、残念なことに、人間というものは、信頼性に欠けるトンデモナイ情報に飛びつきがちです。その典型が、先日、UAEから護送されたガーシー元議員(本名東谷義和)容疑者(51)でしょう。私自身は、彼が開設した暴露系のYouTubeチャンネルを一度も見たことがないので、今回の事件について、新聞を読んでも、何が問題なのか、さっぱり分かりませんでした。

 そしたら、元朝日新聞のドバイ支局長の伊藤喜之さんという方が、「悪党 潜入300日 ドバイ・ガーシー一味」(講談社+α新書)という本を出版され、ガーシー元議員について、詳細に論じていることを知りました。

 ガーシーとは何者か? その本では、ガーシーの生い立ちから、彼の黒幕、それに、警察に追われた動画制作創業者、王族をつなぐ元赤軍派、元バンドマンの議員秘書ら日本に何らかの遺恨を持つ相棒たちまで登場し、大変面白そうな本なので購入しようかと思いました。何しろ、著者の伊藤氏は、朝日新聞の「事なかれ主義」に嫌気がさして、天下の朝日を退社してしまった人ですからね。新聞は「建て前主義」で「本音」はなかなか書けないので、伊藤氏は上司と衝突したようです。

 確かに、新聞やテレビの報道を見ていても、私自身は、この事件の真相がさっぱり分からないのです。だって、警察に被害届を提出している有名俳優や実業家は、もう既に広く知られてしまったというのに、新聞報道は頑固にも固有名詞の名前を出さないんですからねえ。この事件は、ガーシー元議員がたった一人でやった行為ではなく、裏で多くの人間が関わっていることが何となく分かっておりましたが、この本を読めばはっきりするはずです。

 そこでネットでこの本を購入しようと思い、検索したら、普段はまずめったに読んだりしないのですが、購入者のレビューやコメントが目に入って来たのです。その中で、どなたか分かりませんが、こんなコメントをされているのです。

 「著者の文章も、ガーシー以下取材対象者たちも全く魅力を感じず、なんでこんな奴らが話題になるのか全く理解に苦しむ。終始無視して話題にすべきでない。勿論全く読む価値ないし、焚書が適当。。」

 かなりの暴言ではありますが、私はこの方の主張がスッと胸に降りて来てしまったのです。この本のタイトルはまさしく「悪党」です。複数の悪党の素性が明かされて、事件の真相が分かったような気になる自分自身が恥ずかしくなってきました。相手の罠にハマるようなものです。とにかく、暴露してページビュー(PV)を稼ぐのが奴らの戦略だからです。著者も正義感に駆られて朝日を退社したようですが、逆に、向こうに取り込まれて、「ミイラ取りがミイラになった」様相に見えなくもありません。

 やはり、「無視するのが一番」ということで、この本の購入はやめにすることにしました。何度も書きますが、YouTubeのPVとやらで、短期間で1億円以上もの大金が稼げるシステム自体がおかしいのです。となると、話題にすること自体もおかしい、ということになります。話題に乗ることは、罪に加担するようなものです。そう認識しました。

藤井七冠が歴史的快挙達成、しかし…

 将棋の藤井聡太さん(20)が先日、渡辺明名人から名人を奪取し、竜王、王位、叡王、棋王、王将、棋聖と合わせて七冠を手にしました。1996年に羽生善治九段(52)が達成して以来、史上2人目の快挙です。同時に最も歴史のあるタイトルである名人位を20歳10カ月という最年少記録で獲得したことになり、谷川浩司十七世名人(61)の21歳2カ月を40年ぶりに塗り替えました。

 我々は同時代人として歴史的快挙を目撃する幸運に恵まれたわけです。あと残りの「王座」を獲得すれば、全タイトルの八冠となり、その偉業は年内に達成されそうですが、こういう天才はまず50年に一人か100年に1度現れるかどうかです。まさに、我々は歴史的瞬間に立ち合うことができたのです。

 …なぞと大袈裟に書きましたけど、将棋に詳しい会社の同僚から、「彼は六冠も獲ったというのに、昨年の年収は1億円ちょっとだったんですよ。あまりにも少ないと思いませんか?」と耳元で囁かれたのです。えっ? 本当? あれだけ苦労して獲得したのに、たったそれだけ? 報道の推定によれば、藤井六冠の昨年の年収は1億1000万円程度だったようです。今年の年収は七冠となり、広告出演も増えて収入も倍増することから、2億2000万円程度が予測されますが、それにしても少ない。

 1億円は確かに庶民にとっては「高嶺の花」ではありますが、先日、暴力行為等処罰法違反(常習的脅迫)容疑などでUAEから護送されたガーシーこと東谷義和容疑者(51)は、2022年4~8月のわずか5カ月間で、YouTubeなどの広告収入で、1億数千万円も荒稼ぎしたと報じられました。たった5カ月で1億数千万円も稼げるなんて、おかしいですね。そのシステムというか、スキャンダルに群がる大衆というか、そういう土壌をつくっている社会というか、やはり、おかしい。狂ってますよ。

 その点、藤井七冠は自分の努力で、衆人環視の下でプロとして、しかも、かなり超人的なハードスケジュールで堂々と仕事をしているわけですから、その見返りの報酬は、やはり、少ないと誰もが思うことでしょう。

 勿論、理由は色々と考えられます。将棋や囲碁などのタイトル戦は、主に新聞社が近年、部数拡販のために主催して始めたわけですが、最近の新聞販売の部数低迷で、どうしても賞金は少なく抑えざるを得ません。収益として観客を呼ぶとしても、多くても数百人程度でしょう。野球やサッカーのように、一度の試合で5万人も呼べるわけがありません。

 2023年の途中経過で、プロスポーツ選手で一番稼いでいるのは、やはりサッカー選手で、アルゼンチン代表のリオネル・メッシ選手。広告収入を含めて155億円と言われていますから、桁違いです。気になる「二刀流」の大谷翔平選手は、年俸39億円、広告収入は30億円以上が予想され、70億円以上になるのではないかと言われています(あくまでも推定)。

 他人様の懐具合をこれ以上探っても、何の足しにも教訓にもなりませんから、この辺でやめておきます。年収〇万円の私は仏教的諦念と六波羅蜜の忍辱で耐えるしかありませんよ。

用不用説は日常生活で感じられます

ダーウィンの「種の起源」(光文社古典新訳文庫、下巻)を読んでおりますが、ちょっと難解で、正直言って、途中で投げ出したくなります。科学者になる人、科学者になった人は必読書ですが、恐らく、多くの人は挫折しているんじゃないかと断言したいぐらいです。

 私の場合は、翻訳者の渡辺政隆氏が下巻の「訳者まえがき」に「ダーウィンの『種の起源』は手強い本である。決して読みやすい本ではない。」というお言葉に励まされて、息も絶え絶え、何とか読み続けております。

 頑張って読んでいると、20ページに1カ所ぐらい、私のような素人でも面白いと感じる箇所が出てきます。例えば、キリンに尻尾があるのは、その用途の一つとして、蠅を追い払うため、などと書かれたりすると、「へ~」と思ったりします。猿は尻尾で木の枝をつかんだりしますが、人類の尻尾が退化したのは、使わなくなったからでしょう(用不用説)。もう木に登らなくてすむようになったし、蠅や蚊はベープマットを使ったりしますから(笑)。

 でも、牛や馬やキリンさんにとって、蠅や蚊を追い払うことは「死活問題」です。もし、変な病気を持った蠅や蚊にやられたらイチコロですから、尻尾は必需品で、なくならないのでしょう。

有田

 用不用説ーつまり、使わなかったら、退化したり、なくなったりすることは、普段の生活で誰でも感じるのではないでしょうか。先月、私は健康診断でバリウム検査をした時、とんでもない体験をしました。機械の上に乗ってグルグル回されますよね。その時、両手は脇の棒にしっかり捕まって、変な姿勢を取らされる時に我慢しなければなりません。検査する医師が、マイクを通して、「はい、右に90度回転して」とか「左回転で1周回って」とか命令します。その時、私は、普段使わない左腕の筋肉がつってしまい、とても痛くて、脇の握り棒をつかめなくなり、体を回転するのも難儀になってしまったのです。

 それでも、検査医師は知らぬか、知ってか、「はい、真面目にしっかり握って!」とか「左じゃない、右に回転して」とか命令し続けるのです。

 あれには参りましたね。

 検査が終わって反省しました。「そう言えば、ここ何年も、鉛筆より重いもの持っていなかったなあ。だから腕がつったりするんだ」という事実に気が付いたのです。毎日、通勤で、書籍やペットボトルなどが入った重い鞄を持参していますが、リュックサックなので肩で背負って、手で持つことはありません。「あっ! 腕は全然使わず、鍛えられていなかったのだ」との用不用説に気が付いたのです。それ以降、なるべく、歩くとき、鞄は手で持つようにしました。(人類が二足歩行したのも、前脚で赤ん坊やモノを持つため、という説もありましたね!)

 1年も続ければ、腕は鍛えられるでしょう。もう腕はつったりしないかもしれません。来年の検診が楽しみになってきました(笑)。

池波正太郎さんの行きつけだった築地「かつ平」

 このように、用不用説は日々の日常生活で感じることが出来ます。歩かなければ、足が退化しますし、笑わなければ、顔面筋肉も退化することでしょう。そう言えば、入院した時、人と話さなかったら、声が出なくなった体験をしたことがありました。

 頭も使わなければ、退化しますので、こうして、私は毎日、一生懸命、ダーウィンの「種の起源」を読んでおります。電車の隣席では、おばさんが熱心にスマホゲームしてますが。

🎬「怪物」は★★★★

 今年3月に観た米アカデミー賞作品賞「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」があまりにもつまらなくて、途中退席した話をこのブログに書きました。私は映画好きなので、結構、劇場に足を運んでいたのですが、それ以来、トラウマになってしまい、どうも映画館に行く気がしなくなってしまいました。

 でも、5月のカンヌ国際映画祭で、是枝裕和監督作品「怪物」が脚本賞(坂元裕二)、ヴィム・ヴェンダース監督作品「パーフェクト・デイズ」(11月29日公開予定)が男優賞(役所広司)を受賞したという朗報が久し振りに入り、「怪物」は公開中ということで、重い腰を上げることにしました。ハリウッド映画はこりごりですが、日本映画の是枝作品なら気心も知れているので、ま、いっかといった感じでした(笑)。

 (この後、内容に触れるので、これから御覧になる方は、この先はお読みにならない方がいいと思います。逆に言うと、御覧になっていないと、何のことを言っているのかさっぱり分からないと思います。)

有田市

 さすが、カンヌで脚本賞を獲っただけに、今や超人気脚本家の坂元さんのオリジナル・シナリオは巧みに出来ていました。特に、前半は、シングルマザー役を演じる安藤サクラの自然な演技に圧倒され、感情移入してしまいましたが、後から考えてみれば、坂元さんのあらゆる無駄を省いた研ぎ澄まされた「少ない会話」のシナリオが、観る者の想像力を喚起させ、安藤サクラを本物のシングルマザーだと錯覚させるほどの力がありました。満点です。

 ただ、あまり褒めすぎると何なので、一家言付記させて頂きますと、確かに人物像から物語の展開まで緻密に構成され尽くされてはいますが、やはり、色んなものを詰め込み過ぎている感じもしました。物語はつながってはいますが、第1話はシングルマザーの視点、第2話は、教師保利の視点、第3話は子どもの視点で描かれ、「事実」が三者三様なところは、芥川龍之介の「藪の中」か、それを翻案して映画化した黒澤明の「羅生門」を連想させます。子どもたちが親に隠れて小さな「冒険」をする場面は、スティーブン・キングの短編を映画化した「スタン・バイ・ミー」を思い起こさせます。

 しかし、そもそも映画はフィクションで、普段の日常生活では味わえないドラマの要素が不可欠だとしたら、この映画は大成功だと言えます。長野県の諏訪市と思われる所を舞台に、最初に街中のガールズバーなどが入った雑居ビルの大火事シーンで始まり、大雨で子どもたちが遭難したのではないかという「事件」も起きます。それだけでなく、この映画では、現実にもある子どものいじめや、責任逃れの学校当局と右往左往する教頭、スキャンダルを取材する週刊誌記者なども登場し、「あり得そうだなあ」と観ている者を引き込んでしまいます。

 先述した通り、物語は3話構成で、違う視点から描かれているので、何が真実か分からなくなってきてしまいます。特に、永山瑛太演じる教師保利が、第1話と第2話では全く違う人物として描かれて驚かされ、「人の噂は怖ろしい」と思わせます。全体的に緻密に構成されていて、ジグソーパズルのように、あらゆる場面に関連性があり、最後に全てのピースが嵌められる、と思わせながら、でも、真実とは何だったのか、もう一度最初から見直したいという感覚にも襲われます。こういう映画なら、日本の庶民の生活事情を知らない欧米人でもよく理解してもらえるのではないか、と思った次第です。

 くどいようですが、色んな要素を「本歌取り」した、ちょっと詰め込み過ぎでしたが、よく出来た巧みな映画でした。