「明治十四年の政変」がなければ海城はなかった?

  「明治十四年の政変」と呼ばれる事件は、教科書ではサラッと触れられる程度で、ほとんんどの人が歯牙にもかけません。しかしながら、実は、後世に多大な影響を与えた日本の歴史上、重要なターニングポイントになった政変でした。議会開設と憲法制定のきっかけにはなりましたが、最大のポイントは、明治維新の功労藩と呼ばれた薩長土肥の四藩のうち、この政変によって、肥前が追放され、その前に土佐が脱落し、薩長二藩の独裁体制に移行したことでした。

 結果的に、この政変で中央政府から弾き飛ばされた肥前(大隈重信)と、明治六年の政変で政権から脱落した土佐(板垣退助)は自由民権運動に走り、それぞれ立憲改進党や自由党などを創設します。こんなに歴史上重要な政変だったのにも関わらず、あまり人口に膾炙しなかった理由は、この事変があまりにも複雑怪奇で、憶測の域を出ないことが多く、先行研究が少なかったからということに尽きるかもしれません。

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 恐らく、現在手に入る一般向けの研究書で最新資料が盛り込まれ、最も充実した関連書は、久保田哲(1982~)武蔵野学院大学教授著「明治十四年の政変」(集英社インターナショナル新書、2021年2月10日初版)だと思われますが、この本を読んでも、結局、あまりよく分かりませんでした(笑)。なぜなら、本当に複雑怪奇な政変で、この政変を境に薩長独裁政権ができたわけではなく、政変後でも政府内には大隈に近い副島種臣や佐野常民らが留まったりしていたからです。(「開拓使官有物払い下げ」を沼間守一の「東京横浜毎日新聞」に誰がリークしたのかさえ分かっていません)

 ただ、肥前の大隈重信が参議の職を剥奪されて追放された背景には、議会開設と憲法制定問題があり、大隈が進めたかった英国型議員内閣制と長州の伊藤博文ら(フィクサーは肥後の井上毅)が推し進めようとしたプロシア(ドイツ)型立憲君主制が対立していたこと。同時に、薩摩の黒田清隆(バックに政商の五代友厚がいた)が関わっていた北海道の開拓使官有物払い下げ事件があったという構図だけは理解できました。

 また、政変の主役の一人である大隈重信の背後では、「福沢諭吉と三菱が裏で糸を引いて操っている」といった噂が宮中・元老院グループや中央政府の薩長出身者の間で、真面目に信じられていたことをこの本で知りました。後に早稲田大学と慶應義塾の創立者としても知られる大隈と福沢は肝胆相照らすところがあり、 英国型議員内閣制を日本に導入する考えで一致し、日本で初めて外国為替業務が出来る横浜正金銀行(戦後、東京銀行、現在、三菱UFJ銀行)が設立されたのは、この2人の尽力によるものだったこともこの本で初めて知りました。(政変の「敗者」となった福沢諭吉は、その翌年、「時事新報」を創刊します)

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 私自身が、明治十四年の政変の重要さを認識したのは、4年ほど前の高校の同窓会で、恩師の目良先生から御教授を受けたからでした。我々の高校の創立者は、古賀喜三郎(評論家江藤淳の曽祖父)という肥前佐賀藩出身の海軍少佐でした。この明治十四年の政変をきっかけに、政官界だけでなく、軍人の世界でも肥前出身者はパージされ、陸軍は長州、海軍は薩摩出身者が優遇されるようになります。古賀喜三郎少佐も、限界を感じて、海軍を去り、教育界に身を投じて、明治24年に海軍予備校(海城高校の前身)を創立します。ということは、明治十四年の政変がなければ、古賀喜三郎はそのまま海軍軍人として生涯を終えていたかもしれません。

 そんなわけで、私はこの政変には人一倍興味を持ち、先ほどご紹介した 久保田哲著「明治十四年の政変」を読んだわけです。 久保田教授は学者さんにしては(失礼)、文章が非常に上手く、名文家で、大変読みやすい。あれだけ複雑怪奇な政変をよくここまでまとめ上げたものだと感心しました。「維新三傑」と呼ばれた木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通がそれぞれ、病死、戦死(自決)、暗殺という形で亡くなり、混沌とした中で、政変は、権力争いで勃発した内紛と言えるかもしれません。

◇井上毅は日本のキーパースン?

 この内紛で勝利を収めた伊藤博文のバックには肥後の井上毅が暗躍していたこともこの本では描かれていました。司法官僚の井上毅は、法制局長官などを歴任し、明治憲法を始め、軍人勅諭、教育勅語、皇室典範などを起草した人として知られています。結局、明治という国家、と言いますか、日本の国のかたちをつくったのは、この井上毅ではないかと、私なんかは一人で思い当たってしまいました。官僚として優秀ながら、「反・福沢諭吉」の闘士として、最高権力者である岩倉具視や伊藤博文らに取り入り、かなり政治力を使って暗躍したようです。暗躍といっても常套手段であり、悪いイメージを帳消しにするほどの功績があるので大したものです。

 井上毅こそ日本史上で欠かせない、とてつもない人物だという認識を私は新たにしました。

【追記】

 ・伊藤博文は1885年の内閣制度創設により、初代首相に就任しますが、大日本帝国憲法には首相について、特に規定はなく、行政権も国務大臣の輔弼によって天皇が行使するのが原則でした。ということで、首相とはいっても、他の国務大臣と同格の「同輩中の首席」に過ぎなかった。

 戦後、日本国憲法は、首相を国会議員の中から国会の議決で指名する議員内閣制を採用し、首相に国務大臣の任免権を付与したため、「最高権力者」となった。

 ・大隈と福沢が設立した横浜正金銀行の本店ビル(現神奈川県立歴史博物館、重文)を設計したのは、明治建築界の三大巨匠の一人、幕臣旗本出身の妻木頼黄(よりなか)。他に、東京・日本橋、半田市のカブトビール工場などを設計。三大巨匠の残りの2人は、辰野金吾(唐津藩、「東京駅」「日銀本店」など)と片山東熊(長州藩、「赤坂離宮」など)。

 

 

政友会と民政党の覇権争いの怨念は今でも

  自民党の岸田文雄総裁(64)が第100代の総理大臣にもうすぐ就任されるということで、まずはおめでとうございます。最近メディアがよく使う「3A」(安倍、麻生、甘利)采配によって担ぎ上げられたということで、またまた彼らの操り人形になるということを意味するわけで、「あまり政策には期待していません」と、釘を刺しておきますが。

 政策よりも、64歳の岸田さんという「人となり」の方に興味があります。各紙を読むと、「こんなこと書いて大丈夫?」と思われるようなことまで、書いちゃってます。まず、「東大合格全国一位」の名門開成高校から3回も東大受験に挑みましたが失敗、とか、御子息が3人いて、そのうち2人は同居だとか…これ以上書きませんが、想像力が逞しくなります。

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 さて、岸田さんは第100代総理大臣ということですが、初代総理大臣は勿論、御存知ですよね?ー伊藤博文です。それでは、彼がつくった政党は? はい、政友会です。自由民権運動華やかりし頃ですから、板垣退助がつくった自由党や、「明治14年の政変」で参議を追放された大隈重信がつくった立憲改進党など、明治は政党がたくさんつくられました。

 同時に、全国で「大新聞」と呼ばれた政党系の新聞も多く創刊されたわけです。改進党は、進歩党、憲政党などと幾度か名前を改称しますが、昭和初期までには民政党の名称で落ち着き、政友会との「二大政党制」になり、代わる代わる首相を輩出します。このブログの2019年7月6日に「『政友会の三井、民政党の三菱』-財閥の政党支配」という記事を書きましたが、この中で、筒井清忠著「戦前日本のポピュリズム」(中公新書)から、以下のくだりを引用しています。

 (昭和初期の)大分県では、警察の駐在所が政友会系と民政党系の二つがあり、政権が変わるたびに片方を閉じ、もう片方を開けて使用するという。結婚、医者、旅館、料亭なども政友会系と民政党系と二つに分かれていた。例えば、遠くても自党に近い医者に行くのである。…土木工事、道路などの公共事業も知事が変わるたびにそれぞれ二つに分かれていた。消防も系列化されていた。反対党の家の消火活動はしないというのである。(176ページ)

 このように、政友会と民政党は「水と油」なのですが、1941年12月の新聞事業令の制定によって、「1県1紙」の統合が行われました。

 その熾烈な合併の代表が愛知県です。政友会系の新愛知新聞(1888年創刊)と憲政本党(後の民政党)系紙として創刊された名古屋新聞(1906年創刊)が強制的に合併させられて中部日本新聞となるのです。

 新愛知の創刊者は、自由党の闘士だった大島宇吉で、政友会の衆院議員を務めたことがあり、1933年には東京紙の国民新聞を東武財閥の根津嘉一郎から買い受けて傘下に置くなど有力紙として存在感を示していました。

 一方の名古屋新聞は、大阪朝日新聞の名古屋支局長だった小山松寿が、中京新報を譲り受けて同紙を改題して創刊したもので、小山も民政党の衆院議員となり、1937年7月から1941年12月まで衆院議長を務めた人でした。

 中部日本新聞は今の中日新聞であり、都新聞と国民新聞が統合した東京新聞を戦後になって買収し、大手ブロック紙というより、系列新聞を合計すれば、読売、朝日に次ぐ全国3位の販売部数を誇る大新聞です。

 中日新聞は、戦前の新愛知と名古屋が合併したという経緯から、現在も、大島家と小山家が交代で2オーナー制を取っていることは知る人ぞ知る話です。オーナーが代わる度に、プロ野球の中日ドラゴンズの監督やスタッフまで変わるというのは、熱烈なファンの間では周知の事実のようです。何となく、今でも、名古屋は、政友会と民政党の怨念を引きずっている感じがしますねえ(笑)。

 以上「1県1紙」統合などについては、里見脩著「言論統制というビジネス」(新潮選書)からの一部引用です。もう一つ、この本から、特筆すべき点として引用させてもらいますと、戦時中、新聞業界は、軍部など政府からの圧力によって、仕方なく言論統制した被害者のように振舞っていますが、事実は、部数拡大のために、積極的に新聞は軍部に協力し、「社史」からその事実さえ消している、という著者の指摘です。

 例えば、陸軍は1942年9月、「南方占領地域ニ於ケル通信社及ビ新聞社工作処理要領」という軍令によって、同盟通信社は、南方軍総司令部が置かれたシンガポール、マレー、北ボルネオ、スマトラ、朝日新聞はジャワ、毎日新聞はフィリピン、読売新聞はビルマと担当地域が割り当てられ、続いて、海軍も同じように、朝日は南ボルネオ、毎日はセレベス、読売にはセラムの担当を命じたといいます。命令を受けた同盟通信と全国三紙は、ぞれぞれ現地で新聞発刊作業を展開し、同盟には北海道新聞、河北新報、中日新聞、西日本新聞など有力地方紙13紙が参加して、邦字、英語、中国語、マレー語など16もの新聞を発行したといいます。

 このブログでは書きませんでしたが、9月11日の第37回諜報研究会(インテリジェンス研究所主催)で、講師を務めた毎日新聞の伊藤絵理子氏が書いた「記者・清六の戦争」(毎日新聞出版)の主人公で彼女の曾祖父の弟に当たる東京日日新聞の従軍記者だった伊藤清六は、大陸で従記者を務めた後、フィリピンで「マニラ新聞」の編集発行に従事しました。何故、マニラ新聞なのか?と思っていたら、陸軍が決めたこと(毎日新聞はフィリピン)だったですね。この本を読んで初めて知りました。

【追記】

 新聞社だけではなく、通信社も「政友会」系と「民政党」系があったことを書き忘れました。

 1936年に聯合通信社が、電報通信社の通信部を吸収合併する形で、国策通信社の同盟通信(戦後は解散し、共同通信、時事通信、電通として独立創業)が設立されます。

 この電報通信社を1907年に創業した光永星郎は、自由民権運動の自由党の闘士だった人で、保安条例の処分対象となる経歴の持ち主で、政友会系の地方紙を顧客としました。陸軍にも食い込み、1931年の満州事変は、電通によるスクープでした。

 一方の聯合通信社ですが、まず、1897年に立憲改進党の機関通信社として設立され、改進党(後の民政党)系の地方紙を基盤とした帝国通信社と1914年に渋沢栄一らが創立した国際通信社、それに外務省情報部が経営していた中国関係専門の東方通信社などを吸収合併して、1926年に岩永裕吉が創立したものでした。ということは、聯合は、民政党系で、外務省のソースが強かったといいます。

 

今からでも遅くないから地球環境保全を=小林武彦著「生物はなぜ死ぬのか」

  今、ベストセラーになっている小林武彦(1963年~)東大定量生命科学研究所教授の「生物はなぜ死ぬのか」(講談社現代新書、2021年4月20日初版)を読了しましたが、話題になっているだけあって読み応えがありました。そして、本の帯広告に「死生観が一変する」とあるように、確かに、一読して、私の死生観も変わりました。

 でも、正直に言って、私自身は、内容の半分も理解できなかったと思います。またまた帯広告ですが、「現代人のための生物学入門!」と銘打っていますが、入門書にしてはかなり難解です。

 例えば、194ページに、いきなり

 体内ではNAD+(エヌエーディープラス)に変化する前の NAD+ 前駆体(NMN=エヌエムエヌ)をマウスに投与すると、寿命延長効果が見られるばかりか、体力や腎臓機能の亢進、育毛などの若返り効果が見られます。

 と書かれていますが、この文章を理解できるのは、専門家はともかく、生物分子工学等を専攻している理系の学生さんか、日頃、研鑽を積んでいる人ぐらいでしょうね。

 私の場合は、今年1月に、デビッド・A・シンクレア著「ライフスパン 老いなき世界」(東洋経済新報社)を読んでいたので、ここだけは、かろうじて理解できました。この単行本には巻末に図解入りで語彙解説が掲載されているので、NADは、「ニコチンアミド・アデニン・ジヌクレオチド」、NMNは、エヌエムエヌではなく、「ニコチンアミド・モノ・ヌクレオチド(核酸)」と無理して覚えていたので、抵抗なく受け入れることが出来ました。

 でも、本書は新書なので、情報収納量が限られているので、一つ一つ、専門用語を説明できないので仕方ないかもしれません。

 さて、本書は、生物の死を扱っていますが、「死」の前に「生」を知らなければなりません。最新科学が教えるところによると、まず、138億年前にビッグバンにより宇宙が誕生し、46億年前に地球を含む太陽系が生まれます。太陽との距離など絶妙な「度重なる偶然」と奇跡により、地球では38億年前に生物が誕生します。勿論、アミーバのような単細胞です。

 多細胞生物が誕生したのは、10億年前です。この後からが、著者の小林教授の説と私の勝手な解釈を取り入れたものですが、またまた「度重なる偶然」で、生物は、生まれ変わり(「ターンオーバー」という言葉を教授は使ってます)を繰り返し、遺伝子の変化で生物の多様性が生まれ、進化することで生物をつくっていったというのです。(生物が進化したのではなく、逆に、進化することで生き延びる生物が生まれていった、ということです)その進化する際には、生物は絶滅(死)という形態を選択するために、いわば、死は、生物が生態系や環境変化に適応して生き残っていけるように、進化のプログラムとして繰り込まれているということなのでしょう。(つまり、生物は死なないと進化しない。進化しないと生き延びることができない)

 当たり前の話ながら、生物にとって死は必然であり、ヒトも例外ではないということです。そもそも、自然界で、動物のほとんどは捕食(食べられてしまう)されるか、餓死するかで、天寿を全うできる生物はヒトか、大型の象さんぐらいです。魚のサケは産卵すると死んでしまいますし、昆虫のほとんども生殖活動の後は直ぐに死んで世代交代してしまいます。(地球上に名前が付いている生物種は180万種存在し、その半分以上の97万種が昆虫!)

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 38億年前に地球上に生物が誕生して以来、過去5回、大量の絶滅の危機があったといいます。その一番の「最近」が6650万年前のことです。中世代白亜紀で、恐らく、ユカタン半島への隕石の衝突により、気候が激変して恐竜など生物種の70%が絶滅したというのです。

 しかし、逆に、そのお蔭で、つまり、恐竜が絶滅したお蔭で、哺乳類が生き延びて霊長類が生まれ、今のような「ヒトの時代」が誕生したことになります。

 とはいえ、46億年の地球の歴史、38億年の生物の歴史から見れば、「ヒトの時代」などほんの瞬きするほど「一瞬の時間」です。恐竜の時代は1億6000万年間も繁栄しましたが、現生人類はせいぜい20万年前に誕生し、農耕生活を始めたのはわずか、たった1万年ですからねえ。

◇100万種が絶滅の危機

 この本には、恐ろしいことが書かれています。生態系を評価する国際機関IPBES(Intergovernmental science-policy Platform on Biodiversity and Ecosystem Services)によると、地球に存在する推定800万種の動植物のうち、少なくとも100万種は数十年以内に絶滅の可能性があるというのです。小林教授は「そのペースは、これまでの地球史上最高レベルです」とまで書いています。

 それ以上は書かれていませんが、ここまで書かれると、私なんか、別に皆さんに恐怖を煽るつもりは全くありませんが、人類滅亡の危機すら感じてしまいます。

 恐竜絶滅と同じですが、恐竜の場合は、不可抗力というか、自然災害によるものですが、人類の場合は、自らの手で地球環境を破壊し尽して、生態系を壊した故意の結果ですから自業自得です。

 今からでも遅くはありませんから、国連の提唱するSDGsを含め、環境保全運動を広め、生態系を元に戻して、少しでも絶滅種を少なくしていくしか人類が生き延びていく道はないことでしょう。宗教や覇権主義などで、国際間で人類がいがみ合っている暇などないはずです。

 この本に巡り合ってよかったです。色々と考えさせられました。

【追記】

《日本人の平均寿命》

・旧石器〜縄文時代(2500年前以前)13〜15歳(人口10万〜30万人)

・弥生時代 20歳(人口60万人)

・平安時代 31歳(人口700万人)

・室町時代 16歳(天災と戦乱等による)

・江戸時代 38歳

・明治・大正 女性44歳、男性43歳

・戦時中 31歳

・2019年 女性87.45歳、男性81.41歳

ヒトの最大寿命は115歳か

【再追記】

 またまたcoincidence(偶然の一致)です。朝日新聞10月3日付日曜版「Globe」で、英ケンブリッジ大学のパーサ・ダスグプタ名誉教授(78)が、国内総生産(GDP)の成長至上経済主義を重視するのではなく、持続可能な自然資本を重視するべきだと主張しています。

 人類は、温室効果ガスの排出や熱帯雨林の伐採など自然資本である環境を破壊して経済発展をしてきたお蔭で、生物圏を劣化させ、生物多様性を減少させてきました。川の上流の森林を伐採したお蔭で、下流での洪水や土砂崩れを増やし、土壌劣化で農家の収穫物の減少につながりました。

 また、環境劣化によって、より頻繁に新型コロナのような病原体が人間の経済活動の中に出現するようになった、とダスグプタ氏は分析しています。私は、自然科学者だけでなく、経済学者までも問題意識を共有していることを知り、安堵しました。地球人78億人が手を合わせて、地球環境保全に全力を尽くすしかありません。

 

満洲事変を契機に戦争賛美する新聞=里見脩著「言論統制というビジネス」

 今読んでいる里見脩著「言論統制というビジネス」(新潮選書、2021年8月25日初版)は、「知る」ことの喜びと幸せを感じさせてくれ、メディア史や近現代史に興味がある私にとってはピッタリの本で、読み終わってしまうのが惜しい気すら感じています。

 実は、著者の里見氏は現在、大妻女子大学人間生活文化研究所特別研究員ではありますが、20年前に同じマスコミの会社で机を並べて一緒に仕事をしたことがある先輩記者でもありました。でも、そんなことは抜きにしても、膨大な文献渉猟は当然のことながら、研究調査が深く行き届いており、操觚之士の出身者らしく文章が読みやすく、感心してしまいました。

 この本は「言論統制」が主題になっていますが、それは、政府や官憲によるものだけでなく、メディア(戦時中は新聞)や国民までもが一躍を担っていた事実を明らかにし、検証に際しては、戦前の国策通信社だった同盟通信の古野伊之助社長の軌跡を軸として追っています。

明治 銀座4丁目の「朝野新聞」本社(江戸東京博物館)

 先日9月11日(土)、第37回諜報研究会(インテリジェンス研究所主催)にオンラインで参加したことについて、この《渓流斎日乗》ブログに書きました。その際、講師の一人で「記者・清六の戦争」を書かれた毎日新聞社の伊藤絵理子氏は、大変失礼ながら、「勉強不足で」(本人談)、質問(新聞紙条例のことなど)にお答えできなかった場面がありましたが、この本を読めばバッチリですよ(笑)。

 例えば、日本の新聞は、あれほど戦争や軍部に反対していたのに、ガラッと変わったのは、1931年9月18日(実に今年で90周年!)の満州事変がきっかけだった、とよく言われますが、その経緯が詳しく書かれています。

 東京日日新聞(1943年に大阪毎日新聞と統合して毎日新聞)は、もともと陸軍と親密な関係がありましたが、満洲事変をきっかけにさらに戦争ムードが広がり、満洲事変のことを社内では、「毎日新聞後援・関東軍主催・満洲戦争」と自嘲する者さえいたといいます。しかも、社論を代表する東日と大毎の主筆だった高石真五郎は、外国生活が長く、リベラルな考えの持ち主でしたが、満洲事変に関しては非常な強硬論者だったというのです。彼は「領土的野心を持つものではなく、正当に保持している経済的権益を守るもので、第三国の介入を許さぬ、というものだった」という証言もあったといいます。

 これでは、毎日新聞は、政府や官憲から命令されるまでもなく、戦争に協力していったことがよく分かります。(部数拡大の営業戦略もあったことでしょう)

 一方の「全国二大紙」(1930年まで、読売新聞はまだ22万部程度の小さな東京ローカル紙でした。しかし、正力、務台コンビで販売戦略が奏功し、1937年になると、東京日日、朝日を抜いてトップに浮上します)の朝日新聞はどうだったかと言いますと、その豹変ぶりが実に興味深いのです。例えば、大阪朝日は、事変発生直後の9月20日付朝刊社説で「必要以上の戦闘行為拡大を警(いまし)めなければならぬ」などと戦線拡大に反対の立場を断固主張しておきながら、そのわずか11日後の10月1日付朝刊社説では「現在の国民政府が…日本の有する正当な権益を一掃してしまおうとするには、必ず日本との衝突は免れないであろう」などと満洲独立支持へと主張を一転させてしまうのです。

東銀座「改造」書店 閉店してしまったのか?

 それまで、軍備費削減の論調を張っていた朝日は、在郷軍人会などから猛烈な不買運動に遭っていました。1930年に168万部余だった部数が、翌31年には143万部余と減少し、厳しい経営状態に立たされていたといいます。(しかし、「戦争ビジネス」で起死回生し、部数拡大していきます)

 こうした豹変ぶりについて、月刊誌「改造」は「朝日新聞ともあろうものが、軍部の強気と、読者の非買同盟にひとたまりもなく恐れをなして、お筆先に手加減をした」と揶揄され、月刊誌「文藝春秋」(1932年5月号)からは「東京朝日は昨年の秋、赤坂の星が丘茶寮に幹部総出動で、軍部の御機嫌をひたすら取り結んで、言論の権威を踏みにじった」と暴露されています。

 この「星が丘茶寮」と書いてあるのを読んで、本書には全く書いていませんでしたが、私は、すぐ、北大路魯山人じゃないか!とピンときました。調べてみると、魯山人は1925年にこの会員制料亭「星岡茶寮」の顧問兼料理長に就任しましたが、36年には、その横暴さや出費の多さを理由に解雇されています。でも、1931年秋でしたら、魯山人はいたことになります。あの朝日新聞の編集局長だった緒方竹虎も、朝日不買運動をチラつかせた軍部の連中も、魯山人のつくる食器(重要文化財クラス?)と料理に舌鼓を打ったのではないかと想像すると、何か歴史の現場に踏み込んだような気になってニヤニヤしてしまいました。(文藝春秋が朝日を批判するのは、昔からで、お家芸だったんですね!)

 ちなみに、この 「星岡茶寮」 はもともと、日枝神社の境内だった所を、明治維新で氏子の減少で維持できなくなり、三井財閥の三野村利助ら財界人により買い取られて料亭が作られたものでした。戦時中に米軍による空襲で焼失し、戦後は東急グループに買い取られ、ビートルズが宿泊した東京ヒルトンホテルになったり、キャピタル東急ホテルになったりし、現在は、地上29階の東急キャピトルタワーが屹立しています。

 この本を読みながら、私は、行間から一気に、勝手に色々と脱線しますが、新たに知らなかった知識を得ることができて、ますます 読み終わってしまうのが惜しい気がしています。

 

「幻の商社」昭和通商と謎の特務機関=斎藤充功著「陸軍中野学校全史」

 斎藤充功著「陸軍中野学校全史」(論創社、2021年9月1日初版)をやっと昨日、読了しました。2週間ぐらいかかりましたかね。何しろ627ページに及ぶ大著ですから、情報量が満載です。この《渓流斎日乗》ブログでも何度か取り上げさせて頂きましたが、内容に関して全て御紹介できませんので、是非とも皆様もお読みください。

 繰り返しになりますが、著者の斎藤氏は40年に及ぶ中野学校関係者への取材で100人以上にインタビューし、これまで上梓された中野関係の著作は8冊。その中から5冊を中心に再録したものが本書です。新たに増補、書き直しされた箇所もあるようですが、固有名詞の表記で一致しなかったり、平仄が合わなかったり、たまたま誤植も見かけたりしましたので、「永久保存版」として読み継がれるために、御担当編集者の谷川様におかれましては、次の版では改訂して頂ければと存じます。

江戸東京博物館

 本書後半の第5章「陸軍が主導して創った巨大商社」では、陸軍中野学校の卒業生も社員として偽装していた「幻の商社」昭和通商が出てきます。この商社は、昭和史を少しでも齧った人なら聞きしに及ぶ有名な商社ですが、中野学校生が絡んでいたことを御存知の方がいれば、よっぽどの通ですね。

 昭和通商は1939年4月、陸軍の監督と指導の下で兵器の輸出入を手掛ける趣旨で設立された会社で、資本金1500万円は、三井物産、三菱商事、大倉商事に三社が三等分で醵出したといいます。本社は、東京市日本橋区小舟町の5階建ての小倉石油ビル内にあったということですが、現在の東京メトロ人形町駅から歩いて5分の一等地にあったといいます(現在は7階建てのビル)。

 社長の堀三也は、陸士23期、陸大卒の元軍人ですが、夏目漱石の門下で、「三太郎日記」などで知られる阿部次郎の実弟だといいます。へーですね。

 昭和通商が「幻の商社」と呼ばれるのは、公式資料がほとんど残されていないからです。その理由は、「阿片」や「金塊密輸」などのダーティービジネスに手を染めていたからだといいます。海軍嘱託で「児玉機関」を率いていた児玉誉士夫は戦後、GHQ・G2による尋問により、昭和通商はヘロインをタングステン(電球のフィラメントに利用)とバーター取引していたことを暴露しています。

 昭和通商が阿片を扱っていたことを知る社員は当時ほとんどいなかったといわれ、当然ながら、中野学校卒業生が社員になりすました事実を知る人はまずいなかった、といいます。彼らが何をやったのかと言うと、まさに阿片によって得た軍資金を、軍需物資購入資金に充てるため、例えば卒業生の一人である小田正身は、バンコクにまで運んだのではないか、と著者は推測したりしています。

江戸東京博物館

 他にも書きたいことがありますが、長くなるので、あとは私があまり知らなかった5項目だけを特記します。

・昭和17年当時、満洲の関東軍情報本部(哈爾濱ハルビン=最後の本部長は中野学校創立者・秋草俊少将)の支部機関は、16カ所あった。それは、大連、奉天、海拉爾(ハイラル)、牡丹江、佳木斯(ジャムス)、黒河、斉斉哈爾(チチハル)、満洲里、間島、雛寧、東安、三河、興安、通化、承徳、内蒙古アパカの16カ所(343頁、348頁)。

・軍機保護法では、情報の重要度に応じて、「軍機」「軍機密」「極秘」「秘」「部外秘」の5ランクに分けて取り扱っていた。(317頁)

江戸東京博物館

・「阪田機関」「里見機関」「児玉機関」の三人のボス(阪田誠盛、里見甫、児玉誉士夫)は、上海では「特務三人衆」と呼ばれていた(442頁)

・「梅機関」は、汪兆銘の軍事顧問団で参謀本部謀略課長の影佐禎昭大佐(谷垣禎一・元自民党総裁の祖父)がつくった謀略機関。「松機関」は、陸軍登戸研究所がつくった偽札を現場で工作した機関で、責任者は支那派遣軍参謀部第二課の岡田芳政中佐。実行部隊は「阪田機関」(442頁)。他に、上海では「竹機関」「藤機関」「菊機関」「蘭機関」などが乱立し、横の連絡もなく、勝手に活動していた(445頁)。その後、上海での特務工作は、新設された「土肥原機関」(機関長・土肥原賢二中将。陸士16期。終戦時、第二方面軍司令官で、A級戦犯となり刑死)が実権を握って指揮することになった(446頁)。

・大陸だけでなく、南方でも「民族独立」を支援するマレー工作やインド・ビルマ工作、インドネシア工作、ベトナム工作などが企画され、中野学校卒業生も配置されていった。代表的な機関が「藤原機関」「岩畔機関」「光機関」「南機関」などだった(446頁)。

加害者意識もなくしてはいけない=立花隆著「最後に語り伝えたいこと」

 今年4月に亡くなった「知の巨人」立花隆の遺作「最後に語り伝えたいこと」(中央公論新社、2021年8月10日初版)を読みました。

 遺作というより、過去に雑誌等に発表した論文や講演録や対談の中で、書籍未収録だったものをを即席にまとめたものです。

 第一部の「戦争の記憶」では、2015年に長崎大学で行った講演「被爆者なき時代に向けて」などを収録。第二部「世界はどこへ行くのか」では、ソ連が崩壊した1991年に、21世紀の未来を見通そうと大江健三郎氏と行った対談を収録。ーと、ここまでは目次の丸写しです(笑)。

 立花隆氏の本名は、橘隆志。戦前の血盟団事件、5.15事件の黒幕で、「右翼の巨魁」とも呼ばれた農本主義者の橘孝三郎は、立花隆の父橘経雄(日本書籍出版協会理事など歴任)の従兄に当たる人です。ちなみに、立花隆の兄弘道は、元朝日新聞記者、実妹菊入直代氏は立花隆の秘書を務めていた人でした。

 立花隆は、父経雄が長崎市内のミッションスクールの教師として在職していた1940年に長崎で生まれたことから、広島・長崎原爆について、人一倍以上、関心があったようです。そして、1942年には、父が文部省職員として中国・北京の師範学校副校長となったため、一家で北京に滞在。日本の敗戦で、5歳で引き揚げ者となった経験についても、「日本人の侵略と引揚げ体験 赤い屍体と黒い屍体」に書いています。

 私は結構、立花隆氏の著作は読んでいましたが、自分自身を語ったエッセイなどはほとんど読んで来なかったので、実兄が朝日新聞の記者(後に監査役)だったことなどは知りませんでした。

 しかし、縁戚に橘孝三郎がいたことは知っていました。立花隆が「日本共産党の研究」を発表した時に、「親戚に右翼の巨頭がいるから、立花は共産党批判の本を出版したのだ」と一部の人が批判したりしましたが、実は、橘孝三郎は、「右翼の巨魁」だのと一括りにされるような浅薄な人間ではないことを、実際に何十回も面談して取材した昭和史研究家の保阪正康氏がこの本の「解説」に書いております。

 保阪氏によると、橘孝三郎という人は、人類史に何らかの貢献をさせることで選ばれた「歴史の神」の一人だというのです。保阪氏は昭和史関係で4000人以上の人にインタビューしましたが、その中でも、橘孝三郎は特別な存在で、それだけ、近代日本における知性と感性の優れた人物だったというのです。つまりは、右翼とか左翼といった、そんな浅薄な概念には収まり切れないとてつもない知性と教養と感性の持ち主だったというわけです。

 どうも、橘家という知的家系を見ると、古代の聖武天皇時代の学者肌だった「宰相」橘諸兄の血筋を引いているんじゃないかと思わせるほどです(笑)。

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  立花氏は、自分の引き揚げ体験などを書いた「赤い屍体と黒い屍体」の中で、アフリカのコンゴが1960年に独立した際に、多くの白人女性が暴行されたり、輪姦されたりした悲惨な宗主国だった「ベルギー人の悲劇」を書きながら、凄いことを書いていたので吃驚しました。少し引用します。

 …コンゴにおけるベルギー人の苦難は、確かに悲劇に違いないし、むごたらしいものではあると思うけれども、心の片隅では、ザマアミロとい気持ちがあるのを隠すわけにはいかないのである。それは、事態がここまでに至るまでの、コンゴにおけるベルギー人の植民地支配の苛酷な現実を、私が知っているからだ。

 アフリカを支配した列強の中では、比較的温和な政策を取っていたといわれるベルギーではあるが、それが52年の統治の間、毎年、2億ドルもの収奪を続けていたのである。…原住民は二世代にわたって人間の扱いを受けずに、もし、コンゴ人の有能なレポーターがいれば、ベルギー人引き揚げ哀史を顔色なからしめるような分厚い悲劇の歴史を書くことができたはずである。…

 うーん、強烈ですね。

 広島・長崎の原爆、日本大空襲、シベリア抑留、生死を彷徨うほど苛烈な引き揚げ、残留孤児…等々、日本人は被害者ではあったとはいえ、先の大戦では、明らかに日本はアジアの民衆に対しては加害者であったことを決して忘れるべきではない、という立花隆のメッセージだと受けとめました。

◇文芸春秋の皆様へ

 立花隆の1000冊に及ぶ著書を全て読んだわけではありませんが、私が最も知的興奮を覚えて感銘したのは「天皇と東大」です。どうも増刷されていないようで、某ネット通販では、上巻1冊(中古)だけで6000円近い値段が付けられています。是非とも、増刷か復刊してもらいたいものです。宜しくお願い申し上げます。

偽札、本物金貨、何でもあり=斎藤充功著「陸軍中野学校全史」

 既にこのブログで何回か取り上げさせて頂きましたが、最近はずっと斎藤充功著「陸軍中野学校全史」(論創社、2021年9月1日初版)の大著を読んでいます。

 この本は、1986年9月から「週刊時事」(時事通信社、休刊)に連載した「謀略戦・ドキュメント陸軍登戸研究所」をきっかけに中野学校について関心を持った著者の斎藤氏が、その後刊行した「陸軍中野学校 情報戦士たちの肖像」(平凡社新書、2006年)、「スパイアカデミー陸軍中野学校」(洋泉社、2015年)など「中野」関係本8冊のうち5冊の単行本を元に再編集して、627ページの一冊の大著としてまとめたものです。

 40年近い取材活動で、斎藤氏が中野関係者に会ったのは100人以上。参考文献も120点ほど掲載され、「陸軍中野学校破壊殺傷教程」など資料も充実していて、これ以上の本はないと思います。ただ、誤植が散見致しますので、次の版で改訂して頂ければと存じます。

 中野校友会がまとめた校史「陸軍中野学校」によると、昭和13年7月(当時は後方勤務要員養成所)から昭和20年8月までの7年間で、「中野学校」の卒業生の総数は2131人で、そのうち戦死者は289人(戦死率約13.6%)だったといいます。約40年前から取材を始めた斎藤氏が取材した中野の生存者は70歳代~90歳代でしたから、今ではほとんど鬼籍に入られた方々ばかりです。それだけに、この本に収録された「証言」は貴重です。中野学校は、いわゆるスパイ養成学校でしたから、「黙して語らず」という厳しい暗黙の掟があったようですが、死を意識して遺言のつもりで告白してくださった人たちも多かったように見受けられます。

築地「わのふ」

 何と言っても、「表の歴史」にはほとんど出て来ない証言が多いので、度肝を抜かされます。特に、本書の中盤の第4章では「14人の証言」が掲載されています。

 私が注目したのは、昭和19年卒の土屋四郎氏の証言でした。

 昭和20年8月15日、ポツダム宣言を受諾決定に抗議して、クーデター未遂の「8.15事件」がありました。首謀者の一人、畑中健二少佐は、近衛第1師団長森赳中将を拳銃で射殺しましたが、クーデターは未遂に終わったことから、自らも皇居前で自決します。

 この事件は、今年1月に亡くなった半藤一利氏によって「日本のいちばん長い日」のタイトルで描かれ、二度も映画化されました。私は1967年に公開された岡本喜八監督作品で、畑中少佐役を演じた黒沢年男に強烈な印象が残っています。森師団長(島田正吾)を暗殺した後、手が興奮して硬直してしまい、なかなか手からピストルが放れてくれないのです。白黒映画でしたが、鬼気迫るものがありました。

 そしたら、この中野学校を昭和19年に卒業し、学校内の実験隊(当時は群馬県富岡町に疎開していた)に配属されていた土屋四郎氏が「8月9日に…私は参謀本部に至急の連絡があると、実験隊長(村松辰雄中佐)に嘘の申告をして東京に向かったのです。その時、…リュックに拳銃4丁と実弾60発を詰めて上京したのです。拳銃は参謀本部勤務の先輩に渡すため、兵器庫から持ち出しました。兵器庫の管理責任者は私だったので、発覚しませんでした。…戦後、先輩たちに話を聞かされた時、あの時持ち出した拳銃は『8・15クーデター』事件と結びついていたことが分かったんです」と証言しているのです。

 畑中少佐がその拳銃を使用したのかどうかは分かりませんが、8.15事件に参加した誰かが使用したことは間違いないようです。中野学校出身者たちは、8月10日に東京の「駿台荘」に極秘で集まり、大激論の末、結局、クーデターには直接参加しないことを決めましたが、こんな形で関わっていたとは知りませんでした。

築地「わのふ」魚定食ランチ1000円

 この他、日中戦争の最盛期に、日本軍は中国経済を壊滅するために、陸軍登戸研究所で、国民党政府が発行していた法定通貨「法幣」の偽物を製造していたことを、昭和15年卒の久木田幸穂氏が証言しています。終戦時、国民党政府が発行した法幣残高は2569億元。登戸で製造された偽法幣は約40億元とされ、流通したのは25億元とみられます。しかし、法幣マーケットのハイパーインフレに飲み込まれ、「法幣市場の崩壊」という作戦は不調に終わったといいます。

◇丸福金貨と小野田少尉

 一方、大戦末期には、偽物ではなく、前線軍部の物資調達用に密かに本物の金貨が鋳造されたといいます。大蔵省や造幣局の記録には載っていませんが、「福」「禄」「寿」の3種類の金貨が作られ、特にフィリピン島向けには「福」が持ち込まれ、「丸福金貨」と呼ばれたといいます。直径3センチ、厚さ3ミリ、重さ31.22グラム。陸軍中野学校二俣分校出身の小野田寛郎少尉も、この丸福金貨や山下奉文・第14方面軍司令官の「隠し財宝」を守るために、29年間もルバング島に残留したという説もありましたが、著者はその核心の部分まで聞き出すことができなかったようです。

◇中野出身者は007ではなかった

 中野出身者で生還した人の中で、悲惨だったのが、昭和19年に卒業し、旧満洲の関東軍司令部に少尉として配属された佐藤正氏。諜報部員なので、「もしも」のとき用にコードネーム「A3」を付けられたといいます。「007」みたいですね。この暗号名の使用は緊急時以外禁止されていましたが、一度だけ使ったといいます。

 佐藤氏は、満洲全土で諜報活動をしていましたが、ある日、ハルビンで、支那服姿で、手なずけていたロシア人と接触してメモをしているところを、怪しい奴だと憲兵に見つかり、拘束されてしまいます。この時、相当ヤキを入れられ、右脚が不自由なのはその時の傷が元でした。

 「取り調べの憲兵には話しませんでしたが、隊長を呼んでもらい、私の身分照会を奉天に頼んだのです。その時、初めて『A3』を使いました。誤解が解けたとはいえ、あの時は拷問死を覚悟したほどでした」

 007映画みたいにはいかなかったわけですが、こちらの方が現実的で、真実そのものです。

 それでも、佐藤正氏は生還できたからよかったものの、中野出身の289人は戦死か自決しているのです。かと言えば、シベリアに抑留されることなく無傷で生還した人もいました。人間というものは、つくづく運命に作用されるものだと痛感しました。

 

菅原道真は善人ではなかったのか?=歴史に学ぶ

  「努力しないで出世する方法」「10万円から3億円に増やす超簡単投資術」「誰それの金言 箴言 」ー。世の中には、成功物語で溢れかえっています。しかし、残念ながら、ヒトは、他人の成功譚から自分自身の成功や教訓を引き出すことは至難の技です。結局、ヒトは、他人の失敗や挫折からしか、学ぶことができないのです。

 歴史も同じです。大抵の歴史は、勝者側から描かれるので、敗者の「言い分」は闇の中に消えてしまいます。だからこそ、歴史から学ぶには、敗者の敗因を分析して、その轍を踏まないようにすることこそが、為政者だけでなく、一般庶民にも言えることだと思います。

 そんな折、「歴史人」(ABCアーク)9月号が「おとなの歴史学び直し企画 70人の英雄に学ぶ『失敗』と『教訓』 『しくじり』の日本史」を特集してくれています。「えっ?また、『歴史人』ですか?」なんて言わないでくださいね。これこそ、実に面白くて為になる教訓本なのです。別に「歴史人」から宣伝費をもらっているわけではありませんが(笑)、お勧めです。

 特に、10ページでは、「歪められた 消された敗者の『史料』を読み解く」と題して、歴史学者の渡邊大門氏が、史料とは何か、解説してくれています。大別すると、史料には、古文書や日記などの「一次史料」と、後世になって編纂された家譜、軍記物語などの「二次史料」があります。確かに一次史料の方が価値が高いとはいえ、写しの場合、何かの意図で創作されたり、嘘が書かれたりして鵜呑みにできないことがあるといいます。

 二次史料には「正史」と「稗史(はいし)」があり、正史には、「日本書紀」「続日本紀」など奈良・平安時代に編纂された6種の勅撰国史書があり、鎌倉幕府には「吾妻鏡」(作者不明)、室町幕府には「後鑑(のちかがみ」、江戸幕府には「徳川実記」があります。ちなみに、この「徳川実記」を執筆したのは、あの維新後に幕臣から操觚之士(そうこのし=ジャーナリスト)に転じた成島柳北の祖父成島司直(もとなお)です。また、「後鑑」を執筆したのが、成島柳北の父である成島良譲(りょうじょう、稼堂)です。江戸幕府将軍お抱えの奥儒者だった成島家、恐るべしです。成島司直は、天保12年(1841年)、その功績を賞せられて「御広敷御用人格五百石」に叙せられています。これで、ますます、私自身は、成島柳北研究には力が入ります。

 一方、稗史とは、もともと中国で稗官が民間から集めた記録などでまとめた歴史書のことです。虚実入り交じり、玉石混交です。概して、勝者は自らの正当性を誇示し、敗者を貶めがちで、その逆に、敗者側が残した二次史料には、勝者の不当を訴えるとともに、汚名返上、名誉挽回を期そうとします。

 これらは、過去に起きた歴史だけではなく、現在進行形で起きている、例えば、シリア、ソマリア、イエメン内戦、中国共産党政権によるウイグル、チベット、香港支配、ミャンマー・クーデター、アフガニスタンでのタリバン政権樹立などにも言えるでしょう。善悪や正義の論理ではなく、勝ち負けの論理ということです。

 さて、まだ、全部読んではいませんが、前半で面白かったのは、菅原道真です。我々が教えられてきたのは、道真は右大臣にまで上り詰めたのに、政敵である左大臣の藤原時平によって、「醍醐天皇を廃して斉世(ときよ)親王を皇位に就けようと諮っている」などと根も葉もない讒言(ざんげん)によって、大宰府に左遷され、京に戻れることなく、その地で没し、いつしか怨霊となり、京で天変地異や疫病が流行ることになった。そこで、道真を祀る天満宮がつくられ、「学問の神様」として多くの民衆の信仰を集めた…といったものです。

 ところが、実際の菅原道真さんという人は、「文章(もんじょう)博士」という本来なら学者の役職ながら、かなり政治的野心が満々の人だったらしく、娘衍子(えんし)を宇多天皇の女御とし、さらに、娘寧子(ねいし)を、宇多天皇の第三皇子である斉世親王に嫁がせるなどして、天皇の外戚として地位を獲得しようとした形跡があるというのです。

 となると、確かに権力闘争の一環だったとはいえ、藤原時平の「讒言」は全く根拠のない暴言ではなかったのかもしれません。宇多上皇から譲位された醍醐天皇も内心穏やかではなかったはずです。菅原道真が宇多上皇に進言して、道真の娘婿に当たる斉世親王を皇太子にし、そのうち、醍醐天皇自身の地位が危ぶまれると思ったのかもしれません。

 つまり、「醍醐天皇と藤原時平」対「宇多上皇と菅原道真と斉世親王」との権力闘争という構図です。

後世に描かれる藤原時平は、人形浄瑠璃や歌舞伎の「菅原伝授手習鑑」などに描かれるように憎々しい悪党の策略家で「赤っ面」です。まあ、歌舞伎などの創作は特に勧善懲悪で描かれていますから、しょうがないのですが、藤原時平は、一方的に悪人だったという認識は改めなければいけませんね。

 既に「藤原時平=悪人」「菅原道真=善人、学問の神様」という図式が脳内に刷り込まれてしまっていて、その認識を改めるのは大変です。だからこそ、固定概念に固まっていてはいけません。何歳になっても歴史は学び直さなければいけない、と私は特に思っています。

中野信子著「ペルソナ」は本人の話ではない???

 テレビによく出演されている脳科学者の中野信子氏の代表作なのに、まだ未読だった「ペルソナ 脳に潜む闇」(講談社現代新書、2020年10月20日初版、968円)をやっと読んでみました。彼女の書かれた「サイコパス」(文春新書、2016年11月初版)「シャーデンフロイデ   他人を引きずり下ろす快感」(幻冬舎新書、2018年1月20日初版)などを大変面白く拝読させて頂いたので、「是非とも読まなければ」と思っていました。

 そしたら、「はじめに」の最初から、

 どの本を読んでも、「中野信子」が見えてこない、と言われることがある。

 という文章で始まるので、これは一体、何の本なのか? と、のけぞりそうになりました。「ペルソナ」って何だろう?ー調べてみたら、心理学では、「外向きの人格」、マーケティング用語では「架空の人物モデル、ユーザー像」という意味でした。

 結論から先に言いますと、この本はどうやら、彼女の半自叙伝のようでした。しかも、三島由紀夫の「仮面の告白」にかなり影響を受けたような、そして、太宰治の主人公のような超自意識過剰で、自己顕示欲満々といった感じです。

 それでいて、ペルソナですから、中野信子氏という本人ではなく、かりそめの人物モデルの告白のようで、本人は読者からスルリと身をかわして逃げてしまう。何と言っても、この本の最後は以下のように締めくくられているのですから。

 これは私の物語のようであって、そうではない。本来存在しないわたしが反射する読み手の皆さんの物語である。

 おいおい、ここまで238ページも活字を追って読んで来た読者を、ここに置いてきぼりにするつもりなのかい?いやはや、やはり、著者の方が、一枚も二枚も上手であることを認めざるを得なくなるわけです。

 半自叙伝ですが、書き手の社会や世間に対する恨み、つらみ、怨念、ルサンチマンが、これでもか、これでもか、と溢れかえっています。著者は1975年生まれという「団塊ジュニア」世代で、社会に出ようとした時、超氷河期の就職難で、「自己責任」という新自由主義の嵐が吹き荒れ、ほとんどが、アルバイトやパートや嘱託や派遣など非正規雇用に甘んじなければならなかった、高度経済成長を知らない世代でした。著者は、日本の最高学府である東京大学大学院医学系研究科脳神経医学専攻博士課程修了という立派な肩書がありながら、(本人は決してそう書いてはいませんが)、碌な就職口がなく、その前後には、彼女が美人だったせいか、数々のセクハラやパワハラやアカハラ(アカデミーハラスメント)などに見舞われたことが書かれています。

 あまりにも、暗い話が続くので途中でもう読むのはやめようと思ったぐらいでした。

 著者は、子どもの時から、自分は他人とはうまくコミュニケーションが取れない変わった人間だと思い詰めたり、自分で見抜いたりして、結局は脳科学研究という天職を見つけていきます。テレビに出始めたりすると、「学者がそんな軽薄なものに出るものじゃない」と陰口を叩かれたり、足を引っ張られたり、妬まれたり、まあ、人間の業ですから、そこまで書かれなくても最初から想像はできましたが…。

 でも、我慢して読み続け、真ん中を過ぎた辺りにこんな文章に出くわします(142ページ)。

 ウイスキーを一人で飲みに行くようになったのがこの頃のことだ。

 これを読んで、「今度ご一緒しましょう」などとお声を掛けてくださる方がいるかもしれないが、絶対にやめていただきたい。私は、酒は静かなオーセンティックバーで、一人で飲みたいのだ。どうか誘わないでほしい。断る心の負担もタダではない。

 はい、ウブな私は思わず赤面してしまいました。最高学府で博士号を取得された優秀な方でもこういう文章を(本という有料メディアで)世間にさらすんだ…。この本では、両親とも短大出で、それほど豊かではない家庭で、「毒親」に育てられたことを赤裸々に告白し、今の御主人とのなれそめも、「人からよく聞かれるから」ということで、あっけらかんと書かれています。

 あ、やっぱり、自叙伝だ!と思った瞬間、著者は最後に「 これは私の物語のようであって、そうではない。 」と書いて消え去ってしまうのです。

 まさに、恐るべし、というほかありません。

関ケ原の合戦で何故、西軍は負けたのか?

 本来ですと、今頃は夏休みで、温泉宿でゆっくりしていたことでしょうが、コロナ感染拡大のため、宿泊旅行はキャンセルしたことは、以前、このブログで書いた通りです。

 となると、やることは、他になし。書斎に積読状態になっている本を手当たり次第に読むしかありません。てな調子で、「歴史道」(朝日新聞出版)16号「関ケ原合戦 東西70将の決断!」を読了しました。

 関ケ原関連書の「決定版」とまで言えないかもしれませんが、少なくとも、最新歴史研究の成果がこの1冊に網羅されています。関ケ原の戦いとは、言うまでもなく、慶長5年(1600年)9月15日午前8時(もしくは10時の説も)に開戦し、わずか半日で東軍の徳川家康が勝利を収めた天下分け目の戦いのことです。通説では東軍7万4000兵に対して、西軍は8万4000兵。それなのに、何故、石田三成の西軍が敗退したのか?ー小早川秀秋の裏切り、吉川広家・毛利秀元や島津義弘の日和見のような不戦が帰趨を決める決定打になったと言われ、私も色んな本を読んでそう納得してきました。

 でも、この本を読んで感じた「決定打」は、五大老の一人で西軍の総大将になった毛利輝元のせいだったことが分かりました。毛利輝元は、総大将という最高司令官なのに、合戦が始まっても、大坂城から一歩も出ることがなく、まるで安全地帯で様子見している感じで、「変な総大将だなあ」と以前から思っていましたが、合戦の前日に徳川方(本多忠勝と井伊直政の連署)から起請文が吉川広家(毛利輝元の従兄弟)らに送られ、輝元もこれを受け入れて、家康と和睦し、東軍に寝返っていたんですね。これでは、毛利方が動かないはずでした。

 いくら、「幻の城」玉城を築城し、西軍が豊臣秀頼を迎える画策があったとしても、総大将が寝返ってしまえば、負けるに決まってます。西軍で頑張ったのは、石田三成と島左近、大谷吉継、小西行長、そして、毛利方の和睦を知らされていなかった安国寺恵瓊ぐらいでした。残りの有力大名は、日和見か、黒田長政を始めとした徳川方から調略されて寝返ったわけですから、結果は火を見るよりも明らかでした。

 本当に「なあんだ」という感じでした。

 でも、図解、写真付きのこの本は、本当に分かりやすい。合戦当日の東西70武将の参戦の顛末が表になっていますが、徳川家康は251万石の武蔵江戸城主で58歳。一方の石田三成は21万石の近江佐和山城主で40歳。最初から格が違っていたことが一目瞭然です。それに老獪な家康は、早くから豊臣家恩顧の大名と自分の娘や養女を政略結婚させて、自分の味方に付ける策略を着実に進めていました。福島正則、加藤清正、前田利長、黒田長政、山内一豊といった秀吉子飼いの諸大名が、何故、西軍ではなく、徳川方の東軍に付いたのか、よく分かりました。

 北政所や淀君が、はっきりと西軍に肩入れせず、旗幟鮮明にしなかったことも西軍の敗因でした。関ケ原の合戦から15年後の大坂の陣で、豊臣家は滅びるわけですから、慶長4年での判断の間違いが元で、豊臣家は滅びるべきして滅びたと言えるでしょう。

 いずれにせよ、この本には、誤植もありますが、日本史上最大の合戦の経緯が学べる必読書でしょう。