近代三茶人、松永耳庵、慶応志木高、竹田黙雷

竹林之賢人

 西武線界隈の住人様

 わざわざコメント有り難う御座います。何方様か存じ奉りませんが、たまたま、このブログを発見(?)されたのでしょうか?見出しは、映画の話になっていますから、清瀬、久留米、ひばりが丘、新座のことは検索してもかろうじて引っかかる程度。偶然とはいえ、どうも有り難う御座いました。
 
 平林寺の側にある「近代三大茶人」の一人、松永耳庵こと「電力の鬼」松永安左エ門(1875~1971)の茶室「睡足軒」については、今では電脳空間から消滅してしまった「渓流斎日乗」に以前書いたことがあります。もちろん、「睡足軒」には足を運んだことがありますが、そういえば、平林寺境内にある肝心の松永安左エ門のお墓にはお参りしたことがありませんでした!

 近代三茶人の残り二人は、横浜で絹貿易で巨万の富を得た原三渓こと原富太郎(1868~1939年。「三渓園」で有名です)と、三井物産をつくり、今の日本経済新聞の「源流」となる物産の社内報(「中外物価新報」)を創刊した益田鈍翁こと益田孝(1848~1938)ですね。

 松永耳庵は、遺言で葬儀も行わず、戒名もないことで有名ですが、自分が設立した埼玉県志木市の東邦産業研究所の敷地と建物を戦後、慶応志木高校に寄付したことは、今ではほとんど知られていませんね。耳庵さんは、福沢諭吉の薫陶を直接に受けた人ですから、恩義を感じていたのかもしれません。

 松永耳庵は、長崎県壱岐の出身で、同じ壱岐出身の大先輩に京都建仁寺の管長も務めた竹田黙雷(1854~1930)がおります。黙雷を知らなくても、弟子には伊藤博文、鈴木大拙、清沢満之ら錚々たる著名人がおります。
 皆さんご存じの京洛先生は、この黙雷師と耳庵に「没後師事」をされて、この春には念願の壱岐詣でに行かれたそうです。
 ついでながら、京洛先生は、升添県主(あがたぬし)のようにネットオークションに嵌まって、黙雷師の掛け軸を高額な金子(きんす)で競り落とされたことは記憶に新しいです。

嗚呼、このことも、消滅した以前の渓流斎ブログに書いたことでした(笑)。