「日本書紀」を読む 第5刷

調神社

古代史研究は、日々着実に進んでおりまする(笑)。

「古事記」の後、もう「日本書紀」上巻を読んでしまいました。

ん? 上巻とはな? 確か、「日本書紀」は、30巻のはずだが…。

ハハハハ、早速バレましたかな。こんなに早く読めるのは、小学館版の小島憲之、直木孝次郎両先生ら京都学派重鎮による現代語訳でしたから。

読者諸兄姉の皆々様方御案内の通り、「古事記」は、和言葉を漢字に当て嵌めて書かれた造語で3巻です。和銅5年(712年)に成立しました。一方の「日本書紀」は、正式の外交文書のように、唐の帝王の官僚が読んでも分かるような漢語で書かれています。全30巻で、養老4年(720年)成立。

ですから、「古事記」ができて、倭の天皇政権も安定し、今度は国内から国外に政権の正当性を示す必要性に迫られて、8年かけて完成させたのが「日本書紀」と言えましょう。

 かつて、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の新訳がベストセラーになったロシア文学者の亀山先生にお話を聞いたことがあるのですが、19世紀のドストエフスキーの書くロシア語は、現代ロシア語とほとんど変わらないそうですね。これには、驚くというより新鮮な気持ちになりました。そこで、現代中国語の大家の三木先生に、日本書紀の漢語を、当時の科挙試験を突破した優秀な唐の官人がどれくらい理解できたのか、ご教授願ったところ、「分かりまへんなあ」とつれない返事。「小生の専門は現代中国語ですから、古代中国語になると専門外です。恐らく、現代の若い中国人も古代漢語は理解できないんじゃないでしょうか」

 ということは、古代と現代の漢語はほとんどか、全く違うということなんでしょうかね。(現代北京語と広東語がフランス語とドイツ語ほど全く違うという話を中国の人から聞いたことがあります)。今の中国の若い受験生でも、「四書五経」をスラスラ読めて理解できる人はそう多くはないということなのでしょう。

 そこで、私も漢語が読めないので、恥も外聞もなく現代語訳の「日本書紀」上巻を読了しました。上巻は、神代から推古天皇紀までです。古事記と違う記述がかなりみられますが、これは専門家にお任せしませう(笑)。それでも、少し、触れますと、日本書紀には、古事記に採用された「出雲風土記」の記述が削除されています。現代では、実在性に疑問が呈されている第14代仲哀天皇の神功皇后(第15代応神天皇の母)のことが多く触れられ、「三韓(高句麗、百済、新羅)平定」など、戦前、「歴史」として教えられたことも登場します。

 神功皇后は3世紀の人なので、「神功皇后=卑弥呼」説もあったそうですね。

 仏教伝来は、「日本書紀」には欽明13年(552年)と、はっきり書かれているのに、聖徳太子の伝記である「上宮聖徳法帝説」に書かれた宣化3年(538年)説が今では「定説」として多く採用されています。???

 先の大戦中、標語として「撃ちてし止まむ」という言葉が盛んに喧伝されました。これは、日本書紀の神武天皇紀に出てくる言葉で、神武天皇が八十梟師(やそたける)を成敗し、その残党を、道臣命(みちのおみのみこと)に対して処分を命じた際、道臣命がそれに応えて謳った歌詞の中に登場します。「敵を撃ちのめしてしまおうぞ」という意味です。

 日本書紀の応神天皇紀には、「弓月君(ゆづきのきみ=渡来系豪族秦氏の祖)が百済からやってきた。」という記述がありますが、古代史の権威上田正昭泰斗の説では、秦氏は新羅系だったはず…。???ちなみに、百済系は漢氏(あやのうじ)、高句麗系は高麗、狛氏でしたね。

 今の埼玉県行田市にある「さきたま古墳群」は、5世紀末から7世紀初頭にかけて築造されたと言われます。昭和53年(1978年)、その中の稲荷山古墳から発掘された鉄剣に「護加多支歯大王(わかたけるのおおきみ)」との銘がありました。護加多支歯大王とは、第21代雄略天皇(大泊瀬幼武天皇=おおはつせ わかたける の すめらみこと)のことで、この時代に既に、大和王朝の勢力が関東にまで及んでいたことが分かる大発見でした。

 私は坂東に住んでいますので、いつか、その稲荷山古墳をこの目で見てみたいと思っています。

 以上、解説本として、大変読みやすくて分かりやすい多田元監修「オールカラーでわかりやすい! 古事記・日本書紀」(2014年1月10日初版=西東社)も参考にしました。