マースィーの法則 歩きスマホはなくならない 第6刷

紫陽花
・この世とは、老若男女が棲む魑魅魍魎の世界。

・「歩きスマホ」は、なくならない、この世がある限りは。

・「オレオレ詐欺」は、なくならない、この世がある限りは。

・我々が、この世に両親から生まれてくる確率は、700兆分の一。つまり、奇蹟です。

・奇蹟ということは、この世に生まれただけでも幸せです。

・ですから、私も生きているだけで幸せで、悩み事はありません。

・嘘でも強がりでもなく、本心です。

・他人様(ひとさま)とは比較せず、他人様の顔色は伺わず、足るを知り、全ての責任を自分で背負い、世のため、人のための事を考えていれば、悩みは消えます。

・いつもいつも、お天道様は見ています。

・中国人の観光客は、なぜ例外なく誰も彼も騒がしいのか?ーそれは、日本人だけがうるさく感じているだけで、本人たちはあれが普通。中国語は、抑揚で意味が全く変わり、大声を出さないと通じない言語だからである。

・日本人はなぜ例外なく、付和雷同で、自分の意見を持たず、お上の言うことは、唯々諾々と従うのか?ーそれは、日本語は抑揚で意味が変わるわけではなく、小さな声でも通じる言語だからである。

WAR IS OVER!國體とは? 第5刷

色々な曲芸が次々と Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 5月29日の日曜日の朝日新聞に、偉い政治部次長様が、ご自分の写真入りで、「こすれ合って成り立っている」というタイトルで政治コラムを書いておられました。

 中身は、東条内閣の農林相で戦後、A級戦犯になりましたが、第2次岸信介内閣で法相に就いた井野碩哉(ひろや)。その孫に当たる井野朋哉さん(55)が経営する東京・新宿駅ビルの喫茶店に「War is Over」(戦争は終わった)のポスターを店の看板の脇に貼ったところ、「政治的過ぎる」というクレームがきた、という話から始まります。

 この井野さんが、2014年末に安倍首相宛てにツイッターで、祖父碩哉の臨終の際に、安倍首相の祖父に当たる岸さんがわざわざ、祖父の手を握り締めてくれたことを感謝しつつ、「総理、明日、私は官邸前での集団的自衛権行使可能の閣議決定への抗議活動に参加します」などと表明していたことも、このコラムには書かれています。

 私が問題にしたいのは、政治的なことでも、井野さんの祖父のことでも、まさか安部さんのことでもありません。単なるビートルズ・フリークとして、この「War is over」のキャッチフレーズを考えたのは、ジョン・レノンとヨーコであるのに、このコラムには最後まで、ジョン・レノンのジの字も出てこなかったことです。

 顔写真から拝見しますと、この政治部次長さんは、40歳代に見えます。となると、この「War is Over」の「語源」を知らない。無理もないのかなあ、と思いました。しかし、知らないなら、書くな、書くならよく調べろ、とも思いましたけど(笑)

 1969年のクリスマスを間近に控えたニューヨークのタイムズ・スクウエアに巨大な広告が掲示されました。そこには、「WAR IS OVER! IF YOU WANT IT Happy Christmas from John&Yoko」と書かれていました。ジョンとヨーコがこのプラカードを二人で持って掲げた写真も有名です。(この3年後の1971年に二人は「ハッピー・クリスマス」をリリースして世界中で大ヒットします)

 1969年といえば、ベトナム戦争がまだ苛烈を極めた頃です。勿論、ジョンとヨーコは反戦運動の先頭に立って活動していました。私も、当時発売された「ミュージック・ライフ」でこの写真を同時代人として見たので忘れません。

 喫茶店主の井野さんも55歳ですから、ジョンとヨーコのその看板から「借用」したことは十分承知の上だったことでしょう。

 しかし、若い世代には、まるで遠い過去の歴史的出来事だったんでしょうね。この政治コラムの筆者も、最後に「War is over(戦争は終わった)の下に小さくこう添えられている。 If you want it(きみがそう望むなら)」などと、まるで大発見でもしたかのような書きぶりです。

 恥ずかしくなってしまいましたよ。年長のデスクや校閲や整理部の人もこの原稿に目を通したはずです。その間に、この原稿の「不備」を誰一人も指摘しなかったのでしょうか?それとも、大筋には関係ないので、ジョン・レノンなどどうでもいいと確信したのでしょうか?

しかしですね。ビートルズ・フリークから見ると、怒りたいというより、みっともないと思いますよ。顔まで出して恥ずかしい。

 最近の、いや、ここ4~5年の「天声人語」もちっとも面白くないし、天下の朝日も劣化しているなあ、と思ってしまいましたよ。

色んな曲芸がまたも Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 いつも、この拙ブログに写真を提供してくださる松岡総裁こと松岡將氏がついに最新刊の「王道楽土・満洲国の『罪と罰』 帝国の凋落と崩壊のさなかに」(同時代社)を5月30日付で上梓されました。

 まずはおめでとうございます。

 つい2日前。どういうわけか、何の前触れも予告通知もなく、いきなり拙宅に小包が送られてきて、いつも不埒なことを書いている渓流斎ブログ殲滅作戦で、時限爆弾でも送られてきたのではないか、と内心ヒヤヒヤしながら包を開けたところ、この「金の卵」が入っていたわけです。

 実は、目下、何冊か並行して本を読んでいるため、まだ、この本は読んでおりません。「序章」と「あとがき」を読んだだけで、中抜き状態ですので、読了しましたら、小学生のような感想文をまたこのブログに書きたいと思います。

 松岡氏は昨年傘寿を迎えられておりますから、戦争体験者です。当時の満洲(現中国東北部)の新京(現長春)で、国民党軍と八路軍の市街戦を体験し、ソ連軍による略奪、暴行どころか虐殺も見聞されておられます。何と言っても、ご尊父の松岡二十世は、ゾルゲ事件の首謀者の一人尾崎秀実と帝大法学部の同級生で、満洲に渡って、あの甘粕元大尉の満洲映画でも働いたことがあり、最期はシベリアに抑留されて亡くなられた方です。(詳細については、「松岡二十世とその時代」=日本経済評論社=をお読みくだされ)

 松岡氏は、この本の「あとがき」の中でも、盛んに「國體」について触れております。父二十世(歴史的人物のため敬称略)が治安維持法違反で検挙されて刑務所に収容されたため、家族ともども悲惨な極貧にあえぐ体験をされたせいなのかもしれません。

 「国体」と書くと、若い世代は「国民体育大会」の略称だと思う人が多いので、松岡氏もわざわざ「國體」と旧字を使っております。

 松岡氏は、あとがきで、「わが国の昭和史にあって、いかにも日本的な、そもそもその定義すら曖昧な『國體」なる概念を国家権力が恣意的に援用することによって、自分の父親を含めてどれだけの社会的被害がもたらせてきたかを、実証的に明らかにしたい意図」があったと宣言されております。

水は貴重品です Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 さて、この國體のことで大いに関連しますが、「週刊金曜日」5月27日号に愛知県清州山王宮日枝神社の三輪隆裕宮司がインタビューに応え、見出しにもなっていますが、「明治時代の天皇崇拝は神道の長い歴史では特殊」と断言されております。

 今話題騒然となっている「日本会議」に宗教法人の神社本庁も密接な関係があり、神社関係者のほとんどすべてが改憲論者かと思っておりましたが、三輪宮司は「信念で改憲運動をやっている神道人は一握り」とこれまた意外な答えをされているのです。

 語弊があったら困る(炎上)ので、詳しくは「週刊金曜日」の同号を読んで頂きたいのですが、三輪宮司ははっきりと、明治の薩長政府によって創作された国家神道は、本当の神道の伝統ではない、と断言されております。明治政府によって、神社は国営化され、建物も敷地も国家のものになり、神道は宗教色を排除され、儀式だけやらされるようになる。宗教ではなく国家の儀礼だから国民に強制でき、同時にキリスト教に対抗できる西欧の「市民宗教」的な機能を神道に持たせようと考えたといいます。そこで、神社を管理するのは内務省、宗教を管理するのは文部省と区分されたといいます。

内務省には、ご案内の通り、治安維持を取り締まる特高がありました。

 私も「古事記」「日本書紀」と素直な清らかな心で読んでいきますと、この「国家神道は伝統ではなく、明治時代の天皇崇拝は神道の長い歴史では特殊だ」という三輪宮司の考え方が、たとえ異端だと言われようが、私の腑にはスッと入ってきてしまうのです。

もう一度書きますが、「天皇制」という言葉そのものが初めて登場したのは、昭和6年(1931年)、コミンテルン(世界各国の共産党の国際組織)の「三一年テーゼ」草案でした。

明治から大正、昭和に入り、権力を握った為政者や軍部や内務官僚が、天皇制を利用したとしか思えません。

嗚呼、こんなことを書くと炎上するかもしれませんが、あくまでも個人の感想です。

胡散臭さについて 第7刷

これから観劇へ Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

「古事記」を読み終わって、今は「日本書紀」に取り掛かっています。

ここ10年間ほどは、現代史研究ばかり取り組んで参りましたが、やはり、古代を知らなければ、日本人の本当の心因性は分かりません。ということで、自らの学なきこと省みず無謀な取り組みを敢行しているわけです。

これと並行して、永栄潔著「ブンヤ暮らし36年」も読み始めています。扉書きに、あの勝海舟の「行蔵は我に存す」があり、びっつらこいてしまいました。この言葉を座右の銘にしてらっしゃる栗林提督の先見性に驚いたわけです。元朝日新聞経済部記者の回想録ですので、栗林提督は読むことはないと思いますが、私なんか、ジャーナリズムの内幕が手に取るように分かってワクワクしながら読んでます。

そして、「朝日」というだけで、その社会的影響力と看板の大きさと世間の破格な扱いには感服してしまいました。「俺が日本の社会を動かしているんだ」と勘違いしている記者さんたちの微笑ましい気概が感じられます。

まあ、そういう気概がなければ、「盗人と犬殺し」と同列扱いされたブンヤの仕事はやってられないのでしょうね、恐らく。
これが川劇の舞台 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

ソフトバンクの外国人の副社長さんが、昨年度の最終収支決算報告書の中で、80億円という日本企業では過去最大の報酬を受け取っていたということが明るみに出ました。

他人様の懐勘定のことなど関知することはハシタないことは確かですが、見逃せないのは、ソフトバンクが其処まで儲かっていたのかという驚きです!

あれだけ、宣伝とテレビコマーシャルに莫大な資金を投資して、それでも有り余る純利益を恣にしていたとは、孫氏の「肉を切らせて骨を切る」マジック商法には感心してしまいます。

彼の手口(失礼!)は単純です。最初は、タダとか半額とか称して、モデムやルーターを買わせておいて、高価な利用料を搾取するやり方です。そして、ヤクザの世界と同じで一旦、足を踏み入れたらなかなか脱け出せないように、「解約金」だの「違約金」だのという名目で庶民の金を踏んだくるのです。私もこの手口にやられました。

有名タレントを使ったコマーシャル代は、見ようが見まいが、結局は庶民が払っているのに、そうではないと錯覚させるところがミソです。庶民は、「有名=安心安全」と確信しきっていますからね。そこにつけ込むのです。

何しろ、庶民の子供は、親の言う事は一切聞かなくても、タレントの言う事はよく聞いて、高価な公演チケット代も喜んで払いますからね。

孫商法は、庶民感覚を利用して暴利を貪っているのです。そうでなければ、次期社長とか目されている外国人に80億円も払えますか?

始まり始まり Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

この際、楽天も槍玉にあげますが、三木谷商法も孫商法と全く変わりません。莫大な広告費を掛けて、「肉を切らせて、骨を切る」商法です。まるで、「有名=安心安全」という神話を信じさせる催眠商法です(大変失礼ながら、これはあくまでも「個人の印象」です)。

そうやって、庶民からカスリを巻き上げていきます。そうでなかったら、暴利は得られず、プロ野球やプロサッカーのチームのオーナーなんかにはなれませんよ。

私は、以前、「週刊新潮」に載っていたペルー国製のアルパカのセーターがいたく気に入って、オンラインで買ったことがあります。値段にしては、今流行り言葉で言えば、コスパがいいのです(笑)。

一回利用したせいで、先日、また「新潮オンライン」のカタログが送られて来ました。その中で、米国製のフロントリバー社のデイパックがいたく気に入って買おうか、買うまいか迷ってしまいました。

そこで、念のため、2021年までポイント会員になっている楽天で、この同じデイパックを検索してみました。そしたら、驚き桃の木、山椒の木です!楽天市場の最安値でも、新潮オンラインの方が、な、な、何と1万円も安いのです!楽天は決して安くない!!

しかも、新潮オンラインは、送料が500円なのに、楽天は送料を取る場合、900円もするのです!何という…

当然、あたしゃ、新潮オンラインで購入しましたよ(笑)。

以上、私は、ソフトバンクと楽天の実名を挙げながらも、誹謗中傷する意図は全くありません。両社とも、グローバル企業と自称しても、殆どのカスリ、いや失礼、利益は、日本国民の消費者から得たものであり、その日本国民の一人であり、両社との商取引きにほんの少しだけ関わった個人の一人として、事実と印象的発言を開陳しても差し支えないのではないか、と判断したからです。

そう言えば、独裁者の鶴の一声で、社内での日本語を禁止した楽天は、タイ、インドネシア、マレーシア、シンガポール、ベトナムといった東南アジア諸国連合(ASEAN)で、ドイツのネット企業との熾烈な抗争に敗れ、ついに撤退しました。今期は大幅な減益が見込まれているのも事実です。

もし、ご存知ではなかった方がいらっしゃれば、阿漕な企業ほど、「不都合な真実」は隠したがることを肝に銘じて下さい。

楽天は、必ずしも安くはない、ということも不都合な真実です!せめて、道楽と見栄でオーナーになっているプロ球団を手放せば、収益悪化は防ぐことができるでしょう。が、独裁者という噂が本当なら、彼は、聞く耳を持たないことでしょう。

合掌

神道とは 第3版(加筆訂正あり)

さらば陽朔 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

国学を大成した本居宣長(1730~1801は、有名な「古事記伝」の中で、

「すぐれたるとは尊きこと善きこと、功(いさお)しきことなどの優れたるのみを云うに非ず、悪(あし)きもの奇しきものなども、よにすぐれて可畏(かしこ)きをば、神と云なり」と述べています。(三之巻)

これは、古代から日本人は、鳥獣や樹木、植物、河原の石、山や海などの大自然、尋常ではなく特に徳のある畏れ多いものや傑出した人間、御霊(みたま)などを神としてみなして、お祀りしただけでなく、災いをもたらした禍津日神らも同様に、神として崇めたというのです。すなわち、日本人は善い神だけでなく、悪い奇しき神さえも仰いだということになります。

これには、魂消ましたね。

まるで、法然上人の悪人正機説みたいです。

日本人は、異国の仏教でさえも、「外来の賓客」として受け入れて、神仏習合が行われました。明治維新政府が「廃仏毀釈」するまで、日本人は非常に寛大だったのです。

陽朔のまち Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

どういうわけか、「神道」という言葉は、日本最古の文学でもある「古事記」には記述がありません。しかし、「日本書紀」には、用明天皇の即位前紀など3カ所に現れます。

この神道には、開祖や教祖もなく、経典や教団施設などもありません。自然を畏敬して、人間と自然が共生する神そのものと神の権威と力、その働きなどを「神道」と呼びました。

ただ、「神道」という言葉の由来は、後漢末にできたと言われる宗教「道教」にあります。

「後漢書」には、方術や仙術などを「神道」と表現しており、梁の陶弘景によって確立した茅山道教の修行の聖地(華陽洞天)にある立石には「神道在今」(神道?今でしょ!)と刻まれています。私は実物を見たわけではありませんけどね(笑)。この場合は、「神道」とは道教の「神仙の道」ということです。

この言葉を拝借したという説が有力です。

ちなみに、日本の国王の称号である「天皇」は、四書五経の一つ「春秋」を神秘主義的に解釈した緯書である「合誠図」に書かれた「天皇大帝北辰星(北極星)なり」から由来します。道教では扶桑大帝東王公を天皇と仰いでおります。

陽朔のまち Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

最後に、「古代学」を日本で最初に提起した折口信夫博士は、最晩年の論文「民族史観における他界観念」(昭和28年)の中で、「完全に他界にいることのできない未完成の霊魂」のありようを研究し、「神道以前の神道」を探索しています。

折口博士は、戦時中、国家神道と無縁ではありませんでしたが、民族神道を重んじた折口博士は、国家や宮廷と結びついた神道には批判的だったと言われます。「宮廷神道」から解放された「原神道」を重視して、「霊魂と霊魂の姿」を追及したのです。

戦後70年を過ぎ、今後は、国家神道から解放された原神道の研究が進めばいいと私も考えています。長年タブーだった神道は、明治の薩長藩閥政治家によって利用されただけで、悪者でもなく、怖いものでもありません。日本人の心因性に最も影響を与えたものの一つだと、私は考えています。

以上、出典は、上田正昭博士の最晩年の論文「神道の原像」でした。有難う御座いました。

沖縄、おきなわ、オキナワ

マレーシアの炒飯ナシゴレン

 沖縄のUさんから、メールがありまして、パソコンに「ウインドウズ10」をインストールしたところ、調子が悪くなってしまいました、と憤慨されております。Uさんの御主人の職場でも「ウインドウズ10」を入れたところ、動かなくなった機種もあったとか。

 私も迷いました。「今なら無料」「○月○日以降は有料」「お早めに」といったマイクロソフト・ジャパンからの案内が五月蠅いほどつきまとってくるので、タダなら、いいかなあ、と思っていました。

 しかし、念のため、と思い、パソコンとITに詳しい友人の石田君に問い合わせてみたら、「やめた方がいいよ。フリーズするかもしれないから。どうしてもW10が欲しいなら、今のパソコンが壊れて、新しく買い換えた時にすればいい。それまで、またバージョンアップしているかもしれないから、遅くはないよ」と忠告してくれました。

 そうです、英米の諺で、「タダのランチほど怖いものはない」というものがあります。私は「もらう」「いただく」「ただ」が綾小路公麻呂さんみたいに大好きなんですが、やはり、タダには気をつけなければいけませんね(笑)。

 せっかく、沖縄のUさんからメールを頂いたので、沖縄問題について考えてみます。

 先日、米軍属の米国人が、日本の女性を暴行殺害して逮捕され、外交問題にも発展しました。犯人は、当日は仕事のない「オフ」で、先に沖縄県警によって逮捕されたから、取り調べもできましたが、もし、「オン」と称して、治外法権の基地内に逃げ込めば、日米地位協定をタテに、日本の裁判は受けることはなく、放免されて帰国していたかもしれません。

 で、私はコメンテーターではないので、あえてコメントは書きません。日米地位協定をこのままにしていいのか、皆さん方も考える機会だと思っています。
 
 さて、米大統領選の有力候補者ドナルド・トランプ氏が、盛んに民衆を煽動して、日本やメキシコや中国などの悪口をまくしたてています。

 特に、日本に対しては、日米安保条約で一方的に日本だけが恩恵を受けて、「ただ乗り」していると言わんばかりです。彼は、日本の「思いやり予算」さえ知らないようです。はっきり言って、大変失礼ながら、トランプ氏は、日米貿易摩擦の激しかった1980年代で思考が停止しているんじゃないか、と思われる発言を羅列しています。

 例えば、駐留米軍の負担費ですが、天下の産経新聞が、ペンタゴンなどの資料を基に各国を比較して数字を詳らかにしてくれました。(5月25日付朝刊)

 それによりますと、2002年の数字ですが、日本は44億1134万ドルを負担して、その負担率は74.5%。ダントツの1位です。同じ枢軸国同士で、敗戦国のイタリアは3億6655万ドルで、41.0%。そして、何とドイツは、15億6393万ドルとはいえ、負担率はわずか半分以下の32.6%なのです!(ちなみに、トランプ氏からやり玉にあがった韓国は、8億4281万ドルで、40.0%

 トランプ氏は「何で100%負担しないんだ!」と文句を言ったそうですが、もし、仮に、日本が100%負担したとしたら、残りは将兵の人件費分ぐらいで、そうなると、米軍は日本の単なる「傭兵」になってしまう、という矛盾を抱えてしまうそうなのです。

 まあ、日本はそれだけ、つまり、半分どころか全額に近い74.5%も駐留米軍の経費を負担しているわけです。

 また、26日付の毎日新聞の記事で、米シンクタンクの数字を取り上げていました。米軍は2015年現在、世界150以上の国・地域に約15万人が駐留していますが、最多は日本で約5万2000人。実に全体の3分の1を占めます。このほかは、ドイツ約3万7000人、韓国約2万5000人、イタリア約1万2000人です。

 そして、肝心の沖縄です。

 日本の国土面積のわずか0.6%の沖縄県に在日米軍専用施設の74%が置かれています。
 沖縄県の負担割合は、本土の約500倍。県民約140万人約9割が住む沖縄本島の2割近くの面積を米軍施設が占めています。その米軍基地のうち、海兵隊基地が占める割合は、75%もあります。つまり、沖縄基地のほとんどが海兵隊と言っても過言ではありません。
 沖縄県民総所得に占める基地関係収入の割合は、最近はわずか5%程度なんだそうです。

 これは、沖縄在住の大学教授の論文の引用し、少し私が改変したものです。

 以上、私のつまらないコメントはしません。再読して頂ければ幸甚です。

 
 

通訳資格の無用化は国家戦略なのか? 第5刷

確かに、あるサイバー評論家も宣っておられましたが、ネット上に投稿することは、たとえ匿名であっても、すぐに年齢職業住所家族郎党まで正体が分かり、東京・渋谷のスクランブル交差点で看板を掲げて歩いているようなものだ、と断定しておられました。

まあ、世の中、ハッカーとか色んな人がいますからね。

私は昨年、個人的に筆舌に尽くし難い体験をしたものですから、生きているだけでも幸福を感じ、「人間的なあまりにも人間的な」行為については、微笑ましくすら感じる時があります。

しかし、さりながら、それでも、泰然自若と大らかに構えることができない事案に襲撃されることもあります。

トイレットペーパーや子供の下着代まで、政治資金として懐ろに入れた舛添某には、誰でも腹が立ちますよね?

私の場合は、以下の通りです。

過日、保育園の入園に落選した母親が「◯◯死ね」とブログに書き、国会でも取り上げられて大騒ぎになりました。

流石に、私は、そういう風に国家から虐げられても、「◯◯死ね」とまでは書けないのは、渋谷のスクランブル交差点でこの看板を掲げて歩けないからです。

まず、誰も言いませんが、失礼ながら、品性がないですね、この方は。まるで下臈の言葉遣いのようです。
まあ、そういう私も会社法の規定では、単なる「使用人」に過ぎませんが。(笑)

私も言葉遣いには、気を付けますが、最近の国家のやり方には、実に閉口しております。

今の安部内閣が、「規制緩和」の名目で、国家が発行した「通訳案内士」という資格ライセンスを紙切れにしようと企んでいることです。

以前から「潜り」のガイドはおりましたが、白昼堂々と、免許なしで商行為をしても、見逃すというのです。流石に運転免許なしで運転すれば逮捕されますが、通訳免許なしでも逮捕されないというのです。

何じゃこりゃ、ですよ。例えが悪いですが、胴元がテラ銭を巻き上げておきながら、持ち逃げしたようなもんです。

これは、免許発行主管である国土交通省観光庁の役人がJTBグループと結託して、2020年の東京五輪を控えて、年々激増する日本への外国人観光旅行客に対処するために、「苦肉の策」として、通訳免許なしの商行為を黙認するという噂らしいのです。

昔の話ですが、国家資格の通訳案内士の合格率は、10%以下と言われてました。一時は、司法試験、公認会計士試験と並ぶ三大難関試験と称されましたが、今は昔の話。合格率も25%に上がり、稀少価値もなくなりました。

まして、免許なしでもオッケーなら、誰もこんな資格を取ろうなんて思いません。

そういう私も、もう10年ほど昔にこの国家資格を取得しましたが、予備校の通信講座を受講し、毎月のように模擬試験を受けましたから、少なくとも税引前総額100万円近くは浪費したと思います。舛添某なら、領収書を貰って、政治資金にしていたでしょうがね(笑)。

「◯◯死ね」とまでは言いませんが、「金返せ!」と言いたくなりますよ(笑)。

嗚呼、今日も人身事故で、電車の中でこれを書いています。

銀座は、外国人観光客で大賑わいです。G7サミットのおかげで、200メートルおきに二人組のお巡りさんがいます。「警視庁」のチョッキ(?)を羽織ってますが、恐らく、地方の県警から応援に駆けつけているんでしょう。こんなに普段は、多くいませんから。

今来の才伎 第19刷

山紫水明 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 皆様ご存知のように、「今来の才伎」と書いて、「いまきのてひと」と読みます。渡来人のことです。かつては帰化人とも呼ばれていました。今でもそう呼ぶ人もおります。

 五世紀の頃から、大陸の唐、渤海、そして朝鮮半島の伽耶、百済、新羅、高句麗から渡来し、文字や五経や仏教、土木工学、建築、画、仏像、織物、手工芸、馬と馬具、須恵器など思想や文化、技術を伝えた人たちです。

 そのため、彼らは厚遇されます。天皇の側近として仕える者も数多おりました。

 特に有名な渡来人は、高句麗(こうくり)系(今の北朝鮮)の高麗(狛=こま)氏。新羅(しらぎ)系(今の韓国)の(はた)氏。百済(くだら)・伽耶(かや)系(韓国)の(あや)氏です。

新羅の秦氏は、中国古代の秦の始皇帝とは無関係です。ネット上では、堂々と、秦氏は、秦の始皇帝の末裔だと書いている人がいますが、それは間違いです。坂上田村麻呂らが後世になって自称したに過ぎません。

秦氏の秦は、(1)機織のハタ説(2)朝鮮語のパタ(海)説(3)梵語の綿布説などがあります。「古事記」では、「波陀」と書くので、本来は、ハダ(肌)と呼んでいたのではないかと言われています。

秦氏の名前の由来は、慶尚北道の新羅古碑によって、古地名「波旦」ではないかという説が最新の学説で有力になっています。

漢(あや)氏は、生駒・金剛山脈の東側、奈良県明日香村の檜前(ひのくま)を中心とする東漢(やまとのあや)氏と、その反対の西側の河内に分布する西漢(かわちのあや)氏が有名ですが、中国の漢(かん)とは無関係です。これまた、後世の漢氏が、後漢の帝王の末裔を自称したに過ぎません。

漢(あや)の由来は、今の韓国慶尚南道咸安の地域にあった伽耶の有力な国だった安羅という説が妥当だと言われてます。

漢氏は、百済から渡来した阿知史(あちのふひと)、阿知使主(あちのおみ)、そしてその子孫の坂上苅(かり)田村麻呂らも有名です。

 厩戸皇子(うまやどのみこ=後の聖徳太子)の仏教の師は、595年(推古天皇3年)に高句麗から渡来した僧慧慈(えじ)でした。(他に、百済から渡来した高僧慧聡と儒教博士の覚◆上に加、その下に可=かくか=らも)

 聖徳太子が49歳で亡くなったのを悲しみ、橘郎女(たちばなのいらつめ)が天寿国への往生を念じて作らしめた「天寿国刺繍」の「令者」は秦久麻(くま)で、「画者」は東漢末賢(やまとのあやのまけん)と高麗加西溢(こまのかせい)と漢奴加己利(あやのぬかこり)といった渡来人でした。

 610年(推古天皇18年)3月、高句麗から渡来した曇徴(どんちょう)は、「易経」「詩経」「書経」「春秋」「礼記」の五経を持ちより、絵の具や紙や墨も倭に伝えます。

陽朔のまち Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 新羅系の秦氏は、漢氏や高麗氏と違い、北九州から秋田まで広い範囲で活動しました。

 秦氏は五世紀の頃に、灌漑治水や馬の文化を半島から伝えて京都伏見に移住し、その後、嵯峨あたりに居住します。701年(大宝元年)に秦都理(とり)が松尾大社を創建し、711年(和銅4年)には秦伊侶巨(いろこ)が、稲荷社の総本社となる伏見稲荷大社を造営します。話は前後しますが、聖徳太子の臣下で、秦氏の中で最も有名な秦河勝(かわかつ)が603年(推古11年)、蜂岡寺、後に葛野(かどの)の太秦(うずまさ)寺(今の広隆寺)を建立します。ここでは、現在、国宝となっている弥勒菩薩をまつっていますが、やはり、新羅の仏像の影響が見られます。

仏像といえは、日本史で最も有名な仏師は、法隆寺の釈迦三尊像(国宝)をつくった鞍作首止利(くらつくりのおびととり=通称鳥仏師)ですが、彼は、敏達朝に百済から渡来して仏教を伝えた司馬達等の孫と言われています。鞍作とは、馬具をつくる技術者に付けられました。

その一方で、京都の有名な祇園祭は、八坂神社(祗園社)の祭神をまつったものですが、この八坂神社は、山城国愛宕郡の八坂郷のゆかりの神社です。この地域に本拠を置いた八坂造は、「狛国人より出づ」(「新撰姓氏録」)ということで、高句麗系の氏族だったのです!

またまた、話は前後しますが、666年(天智天皇5年)5月に、玄武若光(げんむじゃっこう)らが渡来し、若光は武蔵国(埼玉県)に住んで、従五位下となって王姓を与えられます。玄武は亡くなった後、埼玉県日高市の高麗神社の主神として祀られます。
 716年(霊亀2年)5月16日には、倭朝廷より、高麗人1799人が武蔵国に移され高麗郡が設けられます(「続日本紀」)。ということで、つい先日の5月16日は、ちょうど高句麗人移住1300周年に当たり、22日(日)には日高市主催で盛大なパレードが行われました。

 大阪府八尾市の許麻神社は、元高麗王の霊神を祀り、この辺りも高麗人が多く住んでいたと言われます。

 現代人が想像する以上に古代の東アジアでの交流は遥かに盛んでした。遣隋使、遣唐使の例を出すまでもなく、高句麗、百済、新羅との交流が深く、渤海(今の北朝鮮北部から中国東北部辺り)からの使者も度々、倭を訪れたらしいのです。

 明治時代に切手や壱円札紙幣の肖像画にもなった第十四代仲哀天皇の神功皇后(第十五代応神天皇の母)は、「三韓(新羅、高句麗、百済)征伐」をしたヒロインとして、日本書紀に登場し、戦前の教科書にも掲載されていましたが、戦後はその実在性と史実性は疑問視されています。しかし、口承伝説として残っていたのは確かなので、何らかの形で倭と三韓との間で争いがあったことは間違いない、と私なんか考えています。また、神功皇后=卑弥呼説もありましたが、三世紀初頭の卑弥呼と四世紀半ばの神功皇后ではあまりにも時代が違い過ぎるし、卑弥呼の跡を継いだ宗女台与としても、まだおかしいです。タイムマシンに乗って古代を覗いて確かめてみたいです。

 何と言っても、史実として特筆すべきは、663年8月の白村江の戦いでしょう。百済救済を名目にした天智朝の倭軍は新羅を攻撃しますが、唐の水軍の挟み撃ちにあって大敗北を喫します。日本は、この時代に、早くも対外戦争をしていたとは、凄すぎます。

 以上、忘れないように記憶に留めるために、多くは、古代史の泰斗上田正昭京大名誉教授の最後の著書「古代の日本と東アジアの新研究」(藤原書店)からの抜粋でした。

大切なものは目に見えない 第3刷

干支申年

星の王子さまが言った「大切なものは目に見えない」は、正しい。

しかし、多くの人は、分かっていない。

まず、大切なこと、重要なこと、巧い投資話、モデルのような美人や青年実業家ら金蔓になるような異性情報は、ネットに乗りません。

日本伝来の忍術も、茶道も華道も画塾も雅楽も本来は、文字に書かれることはありません。精髄は、全て師から弟子に密かに伝える口伝なのです。

本当に旨味のある情報は、メイサか、秘密結社のようなインナーサークルだけが知り得る内部情報なのです。

これも、多くの人は分かっていない。本当に途轍もなく凄い取引とは、契約書なんかない。「口約束」なのです。

本当に反知性主義者は、何も分かっていない。ネットやメディアに初めて登場する情報は、既に、インナーサークルによって旨味を食い尽くされたカスの情報なのですよ。

ベトナム戦争はなやかりし頃、誠しやかな噂が流れたことがあります。「戦死した米兵の遺体洗浄のアルバイトが1万円」。1万円と言えば、今の10万、いや50万円ぐらいの価値がありました。そんな情報は、新聞やテレビなどのマスコミにのるわけありません。

今は、「某駅で、満員電車の乗客の尻を押すアルバイト、5000円」という噂があります。これも、インナーサークル内での口伝です。

残念なことに、こうしてネットに書かれますと、「そんなバイトないよ」と一笑に付されることでせう。

私が高校生の頃、国鉄山手線池袋~新宿間という東京で一番、ということは日本で一番混む路線を使って通学していました。まだ、副都心線も埼京線も何もない「単線」時代ですから、その満員電車の混み様は、尋常ではなく、常軌を逸していました。

乗車率150~200%はあったでしょう。私も、足が宙に浮いていました。(笑)

今は、少子化で労働人口も激減し、満員電車とはいえ、そこまで混雑していないでしょう。

うーん、特定を相手にしたお尻押しのバイトがしたい。

座っただけで3万円の銀座・高級クラブの唄

腿、肘3年、尻8年

えっ?渓流斎さんよ、今日は、こんなくだらないこと書きたかったの?

悪徳商人三木谷屋を弾劾す 第5刷

うっかり八兵衛 てえへんだ、てえへんだ!

銭形親分 お、八兵衛じゃねえか。やぶからばうにどした?

八兵衛 いえ、旦那。やぶからも、ぶらからもあったもんじゃねえすよ。あの三木谷屋にまたやられたんすよ。

銭形 三木谷屋?三木谷屋って、あの電脳空間で、仮想現実の阿漕な商売やってる、あの野郎か?

八兵衛 へ、そうでがんす。あちきも、盛んに電気紙芝居で「苦楽講」に入れば、もれなく5000点貰える、つうから申し込んだ次第で。そしたら、 2000点しか貰えない。おっかしいなあ、と問い合わせたら、残りの3000点は、条件満たしたら、3カ月後の皐月にくれる、ちゅうで、あちきも、首を長くして待ってたんすよ。

銭形 へー、それで?条件て何だい?

八兵衛 あちきも、よく分かんなくてね。何しろ電脳空間の買物なんて初めてでしょ?兎に角、何か色々買えば、条件を満たすと思って、ない袖を振り絞って盛んに買ったわけですよ。

銭形 へー、八兵衛、おめえ、一体何買ったんだ?

八兵衛 へっ。まず、30両もする高級江戸産腕時計、5両の南蛮鍋、3両の伊藤若冲の画…

銭形 へー、八兵衛にしちゃあ、随分、景気がいい話じゃなえか。

八兵衛 ま、助平心でして。3000点貰えるなら、色々買ってもチャラになりますからね。思い切ったわけですよ。

銭形 で、もう皐月もおしめえだ。その3000点とやら、おめえの懐に入ったのか?

八兵衛 それが、旦那。さっきの条件つうのが、幾ら買物しても、講札(こうふだ)つうもんを睦月に電脳空間で使わなきゃならねえ、とか抜かすんでさ。あちきは、そんなこと知らねえから、そんな講札なんか知らねえから、無理して買物しても、結局、三木谷屋の野郎は、点数はやらねえよ、と抜かすんでさ。条件をしかと見ねえおめえが悪い、と。

銭形 うーん、確かに、三木谷屋は普段から、近江商人や伊勢商人から安くぼったくって仕入れて、餓鬼畜生にも劣る阿漕な商売をやってるが、お上の法に触れるかどうかは、ギリギリだな。

八兵衛 えっ?そうでがんすか?…。

銭形 ま、三木谷屋と言えば、伊達藩に職業野球軍団、神戸に職業蹴球軍団を持って、新経済連盟とやらの代表理事もやって、今や飛ぶ鳥を落とす勢いで、ぶいぶい言わせて、江戸市中で知らねえもんはいねえ、つうじゃねえか。

八兵衛 その通りでがんす。検非違使までに賄賂(まいない)を献上して、毎晩、吉原通い。週末は、帆船で焼津まで、幕僚とくるーじいんぐとやらをしてるとか。「三木谷屋、お前も悪やのう~」て、電気紙芝居みてえなことをやってるらしいでっせ。

銭形 そう言えば、八兵衛。おめえは、去年、曽孫とかいうやはり電脳空間で阿漕な商売をやってる渡来人に騙された、と騒いでいたな。

八兵衛 旦那、よくぞ言ってくれやんした。あちきは、去年は、黄泉国に行っていて、江戸市中にゃいなかったんですよ。それで、無線広域帯とやらを解約したら、違約金100両も取られて散々でしたよ。だから、柔銀行て、名前(なめえ)聞いただけで、虫酸が走りまっせ。

銭形 でも、その程度じゃ、大岡様の裁きでも、市中引き廻しどころか、鞭打ちの刑にもなるまい。泣き寝入りするしかねえなあ。

八兵衛 旦那、学のなかったあちきが悪かったてことすか?こうなりゃ、三木谷屋と曽孫の呪い人形でも作って釘でも打って、憂さ晴らししますさ。

銭形 おいおい、穏やかじゃねえな。

八兵衛 へっ、それじゃ、悪徳商人どもに天誅が下るよう、お百度詣りでもしますよ。少なくとも、十手を預かってる身が、悪に走るわけにはいきやせんからね。

銭形 ま、お天道様はいつも見てるからな。八兵衛の怒りも分かるが、その辺にしておけ。

「古事記」を読む(2) 第55刷

山紫水明 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur
 (つづき)

 池澤先生は、地名にも拘りを持ちます。

 「木」は今の「紀伊」であり、「科野」は「信濃」、「三野」は「美濃」、「針間」は「播磨」、「稲羽」は「因幡」、「多遅麻」は「但馬」「近淡海」は「近江」といった説明も細かいです。

 初代神武天皇の正室の名前は、富登多多良伊須須岐比売命(ホト・タタラ・イススキ・ヒメのミコト)で、「ホトに矢を立てられてあわてた女」という意味だそうです。ホトの意味は、ここでは書けないので、143ページの註をご参照下さい。池澤先生も「大らかなものだ」と注釈しておられます。

 それにしても、凄まじい王位を巡る権力闘争です。「壬申の乱」の例を出すまでもなく、親兄弟、叔父甥などの見境なく戦い、少しでも謀反の疑いがあると簡単に死刑か殺害してしまいます。殺し方も実に残酷だったりします。

 皇位継承のための後継者づくりも凄い、の一言です。現代人なら誰でも驚いてしまう、腹違いの兄と妹、叔父と姪、弟と嫂などの夫婦の契りが数多く見られます。

 あまり知らなかったことは、皇后も子供もいなかった天皇(第二十二代清寧天皇)や三十歳代(第二十三代顕宗天皇)や四十歳代で崩御した天皇(第二十六代継体天皇)もおられたことです。神からますます人間らしくなってきたということです。

山紫水明 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 もう一つ、多くの学者が提唱しているように、日本の神は、西洋のエホバのような全知全能ではなく、あまりにも人間的な面が多いことです。例えば、天皇家の始祖となる天照大御神の力は絶対ではなく、しばしば素戔嗚尊(スサノオノミコト)の横暴に悩まされたり、天の岩屋戸に隠れたりします。また、アマテラスは、孫の瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を使って、直接地上を治めればいいのに、わざわざ、出雲にいた大国主神(オオクニヌシのカミ)から国を譲らせて、やっと迂回して統治します。

 これらは、恐らく、地方の豪族が強すぎて、恐らく、当初は、出雲の豪族の方が、天皇家より強豪だったいう史実を反映しているのではないか、と推察ができます。

 神武天皇の東征から代々の天皇は、倭朝廷の統一を図りますが、その間に、大伴氏や物部氏や蘇我氏や中臣氏や忌部氏や多くの地方豪族を従わせることに成功していったということなのでしょう。そのためには、朝鮮半島から土木や工芸に秀でた秦(はた)氏や、文字や財政に明るかった漢の直(あやのあたえ)といった新技術を持った「今来の才伎」(いまきのてひと)と呼ばれる渡来人を積極的に朝廷中枢に活用して、他の豪族を抑えていったものと思われます。彼らの名前が「古事記」の中にもしばしば登場します。

 また、天皇は、頻繁に「豊楽の宴」(とよあかりのうたげ)を開きます。そこで、暗殺事件が起きたり、陰謀が諮られたりする場面が古事記の中で登場します。豊のトヨは美称で、楽のアカリは、酒を呑んで顔が赤くなる意味があります。極めて現代的ですね。

 戦前は、国家神道に基づいて、天皇家は「万世一系」と教育されましたが、実際は、多くの学者が指摘するように、親から子に万世一系に世襲されるのではなく、弟から兄に継承されたり、叔母や娘に継承される例もあります。

 また、ある学者の中には、紀元前660年頃の初代神武天皇から第九代の開化天皇までは「神話の世界」で実在したかどうか、立証できず、第十代の崇神天皇(紀元前九二年頃)が初代天皇ではないか、という説を唱える人もいます。さらに、第十六代仁徳天皇の流れを汲む第二十五代武烈天皇で、一旦、王家の血統は途絶え、越前の三国から迎えられた豪族が第二十六代継体天皇として、即位したと言われます。

 もっとも、継体天皇は四十三歳で崩御しますが、武烈天皇の姉と結婚したので、その皇子は、仁徳天皇の血をひく「万世一系」と言えなくもないことになりますが。

 第三十三代の推古天皇の父は、第二十九代欽明天皇で、母は蘇我稲目の娘堅塩媛だったため、弟の第三十二代崇峻天皇が蘇我稲目の息子馬子に暗殺されたことによって、日本で初の、東洋で初(という説も)の女帝として即位します。

 「古事記」は、この推古天皇のことまで書かれていますが、この女帝の記述があっけないほど短い。勿論、崇峻天皇が暗殺されたことも明記されていませんし、推古天皇の摂政となった聖徳太子も出てきません。

蘇我氏は、大化の改新で蘇我蝦夷,入鹿親子は倒されて本家は滅亡したものの、蘇我の分家は存続しており、分家に遠慮して、書かなかったのではないか、という説もあります。

いずれにせよ、天皇家は、古代にこれだけ権力闘争で身内で殺し合いをしたので、平安以降は藤原家などに政治を任せて、専ら、有職故実や芸能に入り込んでいってしまったのではないか、という説は、やはり説得力があります。

古代史学の泰斗、上田正昭京大名誉教授の最期の著作「古代の日本と東アジアの新研究」(藤原書店)によりますと、「天皇制」という用語が初めて登場したのは、昭和6年(1931年)、コミンテルン(世界各国の共産党の国際組織)の「三一年テーゼ」草案だったそうです。そして、これに絶対君主制という概念規定を充てたのが、昭和7年の「三二年テーゼ」だったそうです。

ということは、武家社会になって、天皇家は、ほとんど政(まつりごと)に関わらず(勿論、承久の変や南北朝の動乱など例外があります)、「天皇制」という言葉自体もなく、明治維新になって、天皇家は、時の薩長革命政権によって祭り上げられて、政治的に利用されたのではないかという学説には、私も特に注目しております。

パソコンが調子悪くて、前に書いた文字が消えたりして(ナンタルチヤ!)、何度も書き直したりして、これを書くのに16時間もかかりました。実に疲れた!

もう、嫌だ!