京都行脚最終回 信行寺〜桃庭〜建仁寺〜きんなべ

京都・建仁寺

京都建仁寺 豪州ブリスベーン出身の修行僧が運んでくれました。何と東京銀座の空也最中。

今日は、京都の旅最終回です。

昨日の記事は、あれでも書くのに3時間以上かかりました。そのせいか「長過ぎる!」「もっと短くしろ!」「プライバシーを守れ!」と非難轟々でした。

まあ、めげずに、緩く、温く行きますかぁ〜(笑)。

建仁寺僧堂の門

10月8日(日)のことでございます。今回の京都行脚のハイライト、京洛先生の奥方様ゆりさんの13回忌法要が執り行われました。京洛先生の御親戚、友人知人ら21人が参列しました。中には、遠く大分県や栃木県、埼玉県、東京から参加されておりました。

京洛先生は、京都の由緒ある家系に御生まれになってますので、菩提寺が京都だけで二カ所もあります。

最近、伊藤若冲のほんまもんの天井画で有名になった信行寺と、京都五山の名刹建仁寺です。こういう歴史的建造物の中で法要ができる御身分は限られております。まず、観光客や一般人が入れない所まで、ズズズイと入れます。

道源山信行寺は、創建不詳ながら、浄土宗知恩院末寺に当たります。若冲最晩年の83歳の時に描いたとされる天井画「花卉図」のある寺として有名になりましたが、普段は一般公開されていないようです。

ということで、撮影も禁止されているようで、一枚も写真ありましぇん。

お昼は、祇園甲部歌舞練場の近くにある高級広東料理「桃庭」です。

いやあ、高級料理とあって、美味旨し。普通はとても入れませんが、特別な日として、京洛先生が御招待してくれました。

建仁寺を創建した栄西入定跡。遺骨も納められているそうで…

午後の建仁寺での法要では、僧の皆さん(という表現も変ですが)が7〜8人も合同で声明を唱えてくださりました。

以前、法然上人の伝記を読んだ時、平安時代末期、このお経を複数の若い僧が合唱する声明を聞いた若い女性たちが恍惚となって、阿弥陀如来の救済に縋っていた場面が出てきましたが、その威力(?)は現代でも衰えていないような感銘を受けました。

無事、全ての法要が終わり、一行は、建仁寺の隣りにある祇園「きんなべ」(大和大路四条下る)に入りました。

夜は、高級鍋料理を出す老舗ですが、昼過ぎは喫茶店として、こうして抹茶なども振る舞ってくれます。

京都の店舗は間口が狭いので、そんなもんかと思ったら大間違い。どんどん奥行きが深く、何処までも、何処までも続く感じ。最後はお庭があり、小さな稲荷神社まであるのですから驚きです。

ここなら、密談、密会、隠れ家…何でもオッケーです(笑)。

池波正太郎がこよなく愛したおでんの「蛸長」。やはり、それなり、なので御覚悟を。

この後、夕御飯を兼ねて、新京極通り四条上るの居酒屋「静」に入店。初めて中に入るのには相当勇気がいる店構えでしたが、中に入ると単なる居酒屋さん。値段も安いせいか、京大や同志社、立命館などの学生さんが多く出入りするらしい。壁は、彼らの落書きだらけでした。

この店では、ゆりさんの御学友を始め友人の女性陣が多く参加しました。この席で、「暴言議員」として有名になった豊田真由子さんの先輩筋に当たる御学友さんも注目の的になりました。

えっ?プライバシー侵害?ま、これくらい大目に見てくださいな(笑)。

聚楽第跡~首途八幡宮~武信稲荷神社~「いづ源」

高倉通綾小路下ルの「いづ源」京都寿司の老舗 お醤油は付けはりしまへんで お食べどす

ー京洛先生!また、あの渓流斎の野郎が京都見物の話を書こうとしてまっせ。あんの野郎、許せませんね!

ーまあまあ、お手柔らかに頼みますよ。

10月7日(土)のことでした。京都駅近くあるヨドバシカメラ一階のエビスバーで、京洛先生と全国に情報網を巡らす広域一次団体幹部の吉田氏と赤坂方面にある大手マスコミの元幹部で今は悠々自適の田岡氏と小生と初めて顔を合わせ、ハンバーグランチを食べながら、これから先、何が起こるか分からない弥次喜多道中について、思いを馳せておりました。

結局、これから2泊する大宮中立売にある「ワサビそば」とかいうゲストハウスに荷物を預けに行こうということになり、このゲストハウス近くにあった「聚楽第」跡に立ち寄りました。

聚楽第は「じゅらくだい」ではなく、「じゅらくてい」と読むのが本当らしいですが、「かましまへん」と立看板に書かれていました。

この看板がなければ、あの太閤秀吉が築いた城跡(建物群、庭園、茶屋なども)だったことなど、全く想像もつかなかったことでしょう。

当時の面影なんぞ、全くありゃしまへんでした。

もっとも、この聚楽第跡の歴史を辿れば、ここは、もともと平安宮の大蔵省跡だったらしく、これもやはり、看板がなければさっぱり分かりませんでした。

栄枯盛衰ですね。

この後、所用で立ち寄ったお店近くの首途(かどで)八幡宮に立ち寄りました。

ここは、京都市内で、奥州で産出される金の商いをしていた金売吉次(かねうり・きちじ)の屋敷跡だったらしく、鞍馬山で修行した牛若丸こと源義経が東北平泉に赴く際に、吉次に世話になって旅立ったそうです。

私の話より、この看板の方が来歴は確かです(笑)。

でも、奥州と繋がりがあった吉次という商人は、当然、情報網も持っていたことでしょう。義経が、奥州への首途(かどで)にここに訪れたのも何か理由があったのでしょう。御縁だけでは説明がつかない気がします。

続いて訪れたのは、堀川三条商店街にある武信稲荷神社です。

昨日書きましたが、この商店街にある京洛先生行きつけのレストラン「力」の女将さんの謦咳に接しようとお尋ね申し上げたのですが、不在でしたので、この近く名所旧跡を訪れたわけです。

この武信稲荷神社の近くに、幕末には六角獄舎というものがあり、龍馬の妻になるおりょうさんの父親が、勤王志士の医師だったため、捕えられていたそうです。

龍馬は見回り組などから命を狙われていたので、若い二人は、この神社で密会していたそうです。詳しくは上部にアップした写真の看板をお読みください(笑)。

この神社は、伝説の一寸法師と関係があります。彼が住み込みで奉公していた「三条の大臣殿」というのが、藤原良相公のことで、この良相公は屋敷内にこの武信神社は創祀したというのです。

そこで、この神社にお参りすると、龍馬さんの関係で縁結びの神様に恵まれ、一寸法師の関係で、出世すると言われております。

うーん、私は「終わった人」(内舘牧子)ではありますが、これ以上、出世してどうするの?

いづ源の鯖寿司 このまま食べてくれやす

夜は、高倉通綾小路下ルにある京寿司の老舗「いづ源」に連れて行ってもらいました。食事も美味しいし、女将さんのワンマンショーも素晴らしかった。女将さんの京言葉は、まるで、映画を見ているような感じでした。

京都に寿司の老舗として、祇園新地に天明元年(1781年)の創業の「いづう」があります。味も値段も天下御免。ほんの少しだけ座敷が高い感じのお店です。

そのいづうの別家に「いづ源」「いづ重」「いづ松」があるそうです。別家というのは、弟子筋の人が暖簾分けしてもらって店を開くことだそうで、子どもや親戚が継ぐ分家とは違うといいます。

いづ源は、大正年間創業ということで比較的新しい別家ですが、「安くて旨い」と三三七拍子が揃っています(ナンデ…)

いづ源の女将さんのお名前は伺いませんでしたが、御年はご自分で申告されておりました(笑)。もう、オペラのコロラトゥーラかカンツォーネのような京言葉を唄うように話します。

小生が、「『渓流斎日乗』という世界最小メディアをやっております」という話を伝えたところ、「京都の老舗創業番付」のコピーを私だけにくださいました。勧進元は「時代マップ編集部」になっており、そのキャッチコピーは「100年、200年は当たり前。京には創業1000年以上の老舗がある」というもので、西の横綱は、仏具の「田中伊雅仏具店」で創業は仁和年間(885~889年)。何と創業1132年!東の横綱は、あぶり餅の「一和」で長保2年(1000年)、創業1017年ですか。

このほか、私が知っているのは、和菓子の「とらや一条店」が東の前頭で創業が大永年間(1521~27年)、坂本龍馬も関係のある旅籠屋「寺田屋」が西の十両で慶長2年(1597年)創業。仏教書の「法蔵館」が東の三段目で慶長16年(1611年)、お酒の「月桂冠」が西の序二段で慶長14年(1637年)創業となっておりました。

いづ源の女将さんのお話で面白かったのは、京寿司は、箱寿司といって箱に詰めた押し寿司なので、関東などのように寿司屋の板前さんのカウンターがない。外の「寿司」の看板を見て、店に入ってきた人がカウンターがないので、「あ、間違いました」と言って帰ってしまう御客さんも多いらしいですね。

でも、この店は、大徳寺などほとんど仕出しが専門で、店内の御客さんは収益の1割ほどだというので驚きました。とはいえ、我々4人が食事している間、他に御客さんが入って来ないので少し心配してしまいましたが。

女将さんは、京都という土地柄の有職故実と言いますか、祥月命日など毎日毎日、年中行事でいっぱいだという話をされておりました。どういう漢字が分かりませんが、お祝い事をする時、「ひろぶだ」に入れて、簡単な手紙も添える話をしておりましたが、とても関東人では面倒臭くてできませんね。

あと、京都では和尚さんのことを「おっさん」と言うのが普通らしく、これにも吃驚しましたね。発音記号が書けませんが、「おっさん」ではありません。男体山みたいな発音ではありません。どっちかと言うと、月山みたいな発音の「おっさん」です。こんな説明で分かるかなあ…。

京博120周年記念展「国宝」、養源院、堀川三条「力」の女将さん、

京都タワー

二泊三日の駆け足で、非常に充実、満喫した京都の旅を終えて、今、帰宅の新幹線の中です。(10月9日午後5時40分記)

驚いたことに、京都駅は大変な大混雑で、東京までの新幹線は2時間先までの予約席は、全て満員完売。せっかく、事前に指定席券を買いましたが、自由席に飛び込み、ギリギリ座ることができました。

今回の京都旅行の目的は、49歳の若さで亡くなった京洛先生の奥方様ゆりさんの13回忌の法要に列席するためでした。

そのことは、また明日以降に記録させて頂くとして、忘れないうちに本日あったことを書いてみます。

本来なら3日前の方が忘れてしまうので最初に書くべきですが、順序があべこべですねえ。何だかよく分かりません(笑)。

まずは、9日午前中は、念願の国宝展(1500円)に行ってきました。京都国立博物館開館120周年を記念した大博覧会で、本当は、国宝展ではないのです。展は付きません!たった二言「国宝」だけなのです。「頭が高い。分かったかあー⁉︎ 」というスタンスです。威張ってますねえ(笑)

開館時間の午前9時半。市バスで、京博前で降りたところ、びっつらこきましたよ。人、人、人。京博の周りをとぐろを巻いたようにグルグル列が並び、最後尾を辿ったら、東山七条の妙法院辺りまで列が連なってました。

結局、1時間並びましたが、その甲斐はありました。まさに眼福。目に青葉 山ほととぎすでした(意味不明)。

感動の嵐でした。何しろ、じぇーんぶ、ほんまもんの国宝なのですから。

私が実物を見て特に感服したのは、「法然上人絵伝」「信貴山縁起」などの絵巻でした。800年ぐらい経っているのに未だに鮮やかな色彩には驚かされました。

あと、パンフレットに載っていた志賀島の金印や伝源頼朝像(神護寺)も見たかったのですが、この後に公開されるようでした。展覧会は四期に分かれて展示されるので、「こりゃあ最低4回は来ないとダメだなあ」と思った次第。

京博の近くの寺社仏閣として、長谷川等伯の絵画がある智積院と、俵屋宗達の象の絵画などがある養源院を京洛先生から紹介してもらいましたが、時間の関係で養源院だけしか行かれませんでした。

でも、こちらは大正解。ドンピシャリでした。ちょうど、最近、関ケ原の戦い前後の歴史を勉強していたので、まさに登場人物がドンピシャリ合ったわけです。

養源院とは、織田信長に滅ぼされた北近江城主浅井長政の戒名だということを不勉強にも知りませんでした。長政の正室お市の方は信長の妹。2人の間の長女茶々は、豊臣秀吉の側室淀君。三女お江は、徳川二代将軍秀忠の正室という華麗なる一族でした。

この養源院は当初、淀君が秀吉の了解を得て父長政の二十一回忌の供養のために創建したものでした。程なくして焼失してしまいますが、今度は妹のお江が秀忠の許しを得て、表向きは徳川家臣の菩提寺として復興します。

その際、消失した伏見城から広間や襖絵なども移築します。特に、関ケ原の戦いの前哨戦とも言われた伏見城の戦いで、石田三成勢に囲まれて籠城した徳川家臣鳥居元忠ら将士が切腹して血染めになった廊下を、この養源院では血天井として使われていました。

養源院

このほか、何と言っても、画壇に出てきたばかりの若き俵屋宗達(生没年不詳、「風神雷神図」で有名)による象や麒麟、松の襖絵が、手で触れるぐらいの身近で見られることです。

ここはお薦めです(拝観料500円)

けつねうろんをご馳走になってしまいました。

旅先を急いでいたのは、堀川三条商店街「力」の女将さんと午後1時にお会いする約束をしていたからでした。京博に入るのに随分時間を取られてしまいましたからね。

堀川三条通りは、坂本龍馬がおりょうさんと逢引を重ねた所でした。このことは、またいつか書きます。そして、物識りの京洛先生によると、六車線ある京都市内でも指折りの広い大通りである堀川通りは、米軍占領時代、米軍機の滑走路として使われていたそうです。

最近、占領時代の京都を舞台にした本が出版され、そこには烏丸通りで、米軍が示威行動のために軍事パレードしていたという話が載っているらしいですが、堀川通りのことも書いてあるのかしら。

「カフェKEIZO」は、いつもいつも行列

堀川三条商店街のレストラン「力」は、残念ながら、諸般の事情があって店仕舞いしてしまい、次に入るテナントさんが、この商店街の近くでやっている「カフェKEIZO」がチョコレート専門店として、出店するという極秘情報を掴んできました(笑)。

この「カフェKEIZO」は、雑誌に載ったのか、ネットに載ったのか、超人気有名店として浮上し、東京から日帰りで訪れるお客さんもいるとか。コーヒーのほか、軽食とスイーツを売り物にしているようです。

で、「力」の美人の女将さんは、前回ここで食事した時は、キリッとしてましたが、お店をやめてしまったので、すっかり穏やかな表情の一般の市民になっておりました(笑)。京洛先生のお導きで、お頼みしたわけでもないのに、何が悲しいのか、この「渓流斎日乗」の熱心な愛読者になってしまい、今では12年前のアーカイブ記事まで読んでくださっているというお話でしたから、有難い限りでした。

この懇話会で面白かったのは、京洛先生が清水寺近くにある松寿軒の饅頭は、建仁寺や高台寺にもおさめていてとても美味いといった話でした。

私は全く知らなかったのですが、薯蕷饅頭(じょうよまんじゅう=最近は、簡略して上用饅頭と記されているようです)と言われる饅頭にはアンコの中に隠し味として、自然薯が入っているそうですね。

そしたら、頓知の効いた女将さんが「お芋の入って無いのは蒸しパンや」と仰るので皆んなで大笑いしてしまいました。

大政奉還150年の二条城

二条城

今、京都にいます。

京洛先生の北政所の十三回忌の御法要のために、久しぶりに京都に来てます。

空いた時間を利用して、二条城に足を運びました。

二の丸御殿

今年は大政奉還150年ということで、歴史好きの諸兄姉の皆様方でお城に入る切符売場の前は大行列でした。

よく見聞したら、殆どが外国人観光客でした(笑)。大政奉還のことを知ってるのかなあ…。

8時45分開場の朝一番で行ったのですが、二の丸御殿は込み込みでした。でも、二条城庭園や本丸跡に初めて行きましたが、こちらは空いてました。かなり広い敷地でした。徳川家康の威光が偲ばれます。

 

本丸庭園

二条城の二の丸御殿は、中学校の修学旅行以来、およそ半世紀ぶりでしたので、感慨深いものがありました。

徳川慶喜をはじめ、あの「大政奉還」の有名な絵画を大広間で人形を使って3D再現しておりました。

【追記】2017年10月13日

13日付東京新聞夕刊、「大政奉還 克明に『実況』」によると、新発田藩京都留守居役の寺田喜三郎が残した記録文書によると、二条城大広間に集められたのは、約40藩の重臣約50人で、出座したのは老中板倉勝静(かつきよ)。つまり、将軍徳川慶喜はこの時いなかった!後で、居残った薩摩藩の小松帯刀、土佐藩の後藤象二郎ら6人だけが慶喜と直接面会した。ということは、有名な大広間で絵で、諸藩の重臣に大政奉還を宣言する慶喜が描かれているのは間違いだった!?

古武術の極意は力を抜くこと

東銀座「ねのひ」鮪付定食 750円

先日、NHKのラジオ深夜便を聴いていたら、ゲストの俳優榎木孝明さんが、最近、古武術に凝っていることを話してました。

寝ながらメモも取らず聴いていたので、記憶は曖昧ですが(笑)、古武術の極意とは、力むのとは真逆に「力を抜く」ことなんだそうです。

私のような未熟もんは、いくら歳を取っても、何をしてもすぐ緊張して力(りき)が入ってしまい、挙句の果てには本来の自分の力を充分に発揮できないまま壊れてしまったりしました。

ですから、「力を抜く」という古武術に少し興味を持ちました。合気道なんかもそれに通じるものがあるのかもしれませんね。

あと、面白かったのは、歩き方です。我々は普段、まあ右脚を前に出したら、左手を後ろに、左脚を前に出したら、右手を後ろにと左右交互にしますね。それは、明治になって、フランスかドイツかの軍隊の行進に倣ったもので、実は、昔の日本人は左右交互にしないで、右脚が出たら右手、左脚が出たら左手と、いわば間が抜けたような歩き方をしていたそうですね。

本当かな?とは思いましたが、能役者や歌舞伎俳優の摺り足なんかに残っているそうです。

だから、「左右交互にしないで歩いてしまう人は、昔の日本人のDNAが残っているのでは」などと榎木さんは話してましたが、「なるほどねえ」と思ってしまいました。

ミラノ・スカラ座

ということで、昨日から「世界最小メディア」と称して「渓流斎日乗」を再開致しました。

何の衒いも気負いもありません。古武術のように力を抜いた精神で、亀の歩みで日々を過ごしていきたいと思っております(笑)。

皆様も「昼の憩い」のように、「農林水産通信員」として珍しい情報があればお知らせくださいね。

カズオ・イシグロさんノーベル文学賞受賞おめでとう御座います!

Milano

村上秋樹です。

何でやねん。今年こそ、ワシが獲るちゅう話だったはずやねん。どないなっとるんねん?

石黒一雄?おお、よお、知ってるわい。じゃが、ワシより五つも年下やんけ。ノーベル文学賞なんて、5年早い。

第一、世界的にワシの方が顔売れとるでえ。知名度もワシの方が上や。

じゃが、向こうはブッカー賞だもんな。「日の名残り」、本は読んどらんけど、映画は見たで。いがったなあ。内容忘れたけんど。アンソニー・パーキンス。ヒッチコックの「サイコ」にも出とったなあ…えっ?ちゃうの?アンソニー・ホプキンス?早く言ってよ。危うく恥かくところやった。

しかし、彼のプライバシーは謎に包まれとるでえ。長崎に生まれて、5歳でエゲレスに渡って、エゲレスで教育を受けて、エゲレス語でモノを考えてたから、日本語忘れてしもうた。で、エゲレス人になったわけや。

ワシの親父は、高校教師やったけど、向こうの親父はんの鎮雄はんは海洋学者らしいな。英国政府から招聘されたらしい。お爺さんの昌明はんも凄い。上海の東亜同文書院を出て、伊藤忠商事天津支店に勤務したことがあるらしい。ワシは、昌明はんの方に興味あるなあ。尾崎秀実や里見甫や川島芳子なんかと接点ないかなあ。

石黒はんのノーベル文学賞授賞理由は「偉大な感情の力を持つ小説で、我々の世界とのつながりの感覚が不確かなものでしかないという、底知れない淵を明らかにした」というわけの分からない説明やったけど、やはり、近代稀に見る作家や。

代表作「充たされざる者」「わたしたちが孤児だったころ」「わたしを離さないで」は名作やで。読む価値ありや。

※※※※※

この人誰なんでしょうかね?

ま、い、か。

昨日、gooブログ、楽天ブログ、FC2ブログと、これまで渡り歩いた全てのブログを閉鎖しまして、このオフィシャルサイト「渓流斎日乗」を《世界最小メディア》と自称して始めました。

今後とも皆様の御支援、御鞭撻を賜わります。宜しくお願い申し上げる次第で御座います。

渓流斎 独白

京都国立博物館の開館120周年記念「国宝展」は見逃せないなあ

京博 Copyright par Kyoraque sensei

この日乗は、小池さんの顰みに倣って、二都物語、三都物語で展開しております。

今日は、京都にお住まいの京洛先生からのお便りを御紹介致します。

…3日から京都国立博物館では開館120周年記念の特別展覧会「国宝」(NHK、毎日新聞などが主催)がスタートしました。
来月26日まで開かれますが、縄文時代から近世まで、全国の「国宝」210件が、同博物館に集結、会期中。展示替えが、4回(10月3日~15日、10月17日~29日、10月31日~11月12日、11月14日~26日)もあります。

初日の3日、恐らく、混雑しているのではないかとビクビクして覗きましたが、意外に空いていました。初日から15日までの一期目の展示は、「雪舟の国宝(6点)が一堂に並ぶ」でしたが、迂生が感嘆したのは紀元前2000~3000年の「考古」時代の展示室の土偶「縄文のビーナス」(長野県茅野市尖石縄文考古館保管)、同じく土偶「縄文の女神」(山形県立博物館保管)でした。土偶の見事なフォルムに魅入りました。

また、仏画では「赤釈迦(釈迦如来像)」(12世紀、平安期、神護寺所蔵)、「早来迎(阿弥陀二十五菩薩来迎図)」(14世紀、鎌倉期 知恩院所蔵)や「山越阿弥陀図」(13世紀、鎌倉期、京都国立博物館所蔵)、「吉祥天像」(8世紀、奈良期、薬師寺所蔵)など、どれも見ごたえがありました。釈迦や阿弥陀が別世界からやって来る、有難い姿が目に焼き付きつきました。

この後、「国宝展」では、あの有名な志賀島で出土した「金印」(福岡市立博物館所蔵、10月31日~11月12日展示)や空海直筆の国宝「聾瞽指帰(ろうこしいき)」(部分)、(8~9世紀、平安期、金剛峯寺所蔵、10月17日~29日展示)などが、続々展示、公開されます。

「絶対秘仏」と比べると、「国宝」は目にする機会は多少多いですが、これだけ一堂に展観される機会は、希少だと思います。もし、上洛されたら覗かれてはどうでしょうか。…

なるほど、京都へは近いうちにお邪魔して、国宝さまの御尊顔も拝したいと存じます。

何か、聞くところによりますと、京博開館120周年記念展なので、東京など全国巡回しないようですね。それなら尚更ですね。…

銃規制と刀狩り

ミラノ

昨日書いた政治評論家の篠田氏の解説面白かったですね。あれから、篠田氏から電話がかかってきまして、「言い忘れたことがある。小池の希望の党は、上納金まで取っとるらしいやんけ。供託金を含めて400万やと。これじゃ、どこかの広域団体と変わらんじゃろ。そのうち、分裂して、出て行った方は『任侠 希望の党』と名乗るちゃうか。ワハハハ」とまくし立てておりました。

※※※※※

さて、1日に米ラスベガスで銃乱射事件がまたまた起きました。今のところ、59人が亡くなり、500人以上が重軽傷を負ったということですが、死者はもっと増えるのかもしれません。

米史上最悪の事件のようです。

まだ、犯人の動機が分からず、不可解なことが多過ぎますが、たった一人の64歳の初老(という言い方でいいと思いますが)の男が、ホテルの32階から銃を乱射して、320メートルも離れた所の野外広場で、カントリーミュージックの公演を楽しんでいた一般の市民を無差別に虐殺するとは常軌を逸してます。

犯人は、不動産投資でかなりの資産があり、自家用飛行機まで持っていて、カジノでは一日に1万ドルも賭けていたという報道もありました。政治的、民族的、宗教的動機どころか、貧困差別に喘いでいたわけでもなく、軍隊歴もないので、何が彼をそうさせたのか不可解極まりない。銃マニアだったらしいですが、普段は普通の市民として暮らしていたと思われ、何か、米国社会の底深い闇を見せつけられた感じです。

カントリーミュージック公演ですから、被害者の殆どが白人で、恐らく裕福な人たちだったと思われます。そして、何よりも、米国社会を分断する銃規制に関しては、規制反対派に属する人たちだったようです。

日本だったら、これだけ被害が甚大だったら、銃規制に対する強化が叫ばれると思いますが、そうならないのは米国の歴史のせいでしょうね。

これは私が言い出したわけではありませんが、竹林の賢人によれば、アメリカはまだ刀狩り以前の国だということなのです。

これは、歴史の進歩のみに着目する歴史観とは真逆なので、言い得て妙です(笑)。21世紀になっても、ニューギニアやアマゾンの奥地では、未だに裸で縄文時代とあまり変わらない生活を営んでいる民族がいると聞いてます。進歩=正義という思想には相反してますが、淘汰されず生き残っているということは、近代的ビルを建てて資本主義の権化に染まり、齷齪働くよりましだから、そう選んだに過ぎないのでしょう。

米国が刀狩り以前の国だというのは、インディアン(ネイティヴアメリカン)を銃で虐殺してフロンティアを開拓してきた歴史的背景があるからでしょう。

私は、刀狩りを断行した秀吉は偉かったと思います。結果的に、米国より安心して好きな音楽が聴ける環境をつくってくれたことは感謝すべきだと思ってます。

犠牲になった皆様の御冥福を御祈り致します。

22日の総選挙に札束が飛ぶのか?

ミラノ

22日の総選挙に向けて、野党も与党も右往左往です。こういう時こそ、政治家の本性が現れます。

長年、新聞社で政治部記者を務め、政界の裏表に精通している名古屋にお住まいの篠田さんに解説してもらいました。

…要するに、金の話だぎゃな。(お、いきなりですか)

新党「希望の党」の小池なんて、カイロの日本料理店の娘だぎゃな。金などあらへん。

そこに渡りに舟や。民進党代表の前原が、ネギ鴨背負って、じぇんぶ、貢いでくれたわけや。いわゆる政党助成金ちゅうやっちゃ。前の代表の岡田が吝嗇やから、殆ど使わなかったと言われてるから、ワシの情報だと130億だったんだぎゃ、150億だとゆっちょる奴もおる。

まあ、会社でいやあ、前原は背信行為じゃな。希望の党は、金もなければ組織もないわけだから、それを全国の地方組織まで前原がごそっと持ってきてくれるわけじゃから、こんな濡れ手に粟の話はないわな。

あの厚化粧のおばはん。金がない証拠に、自分とのツーショットを撮りたい候補者には3万も取るらしいやないけ。チンケな話や。これまで聞いたことないで。ま、候補者も、小池人気にあやかろうとしちょるわけやから、どっちもどっちだぎゃな。

しかし、政治家ちゅうもんは、節操ないの。あんだけ、安保法制に反対した民進党の一部の連中が、踏み絵を敷かれ、簡単に転んでしまうんやからな。その点、立憲民主党を立ち上げた枝野は筋を通した。だぎゃ、金はどこまで引っ張ってこられるか。民主党はもともと、鳩山の金でつくったことは有名やしな。

まあ、小池のおばはんのやっちょることは、レッドパージや。今、マッカーシズム旋風が吹き荒れてるのに、どこのマスコミも書かんな。

マッカーサーじゃないで。共和党のマッカーシー上院議員や。1950年代、いわゆる進歩的文化人にアカのレッテルを貼って追放したんや。特に、ハリウッドの映画界が凄かった。お陰で、チャップリンは亡命するし、「ローマの休日」の脚本を書いたトランボも干されたことは有名じゃけど、若いもんは知らんだろうな。

希望の党のスポークスマンになっちょる若狭とかいう検事上がりの議員は、漫才師のオール巨人に似とるな。おばはんの操り人形みたいで見ておられんわ。

おっと、あんまし、新党の悪口ゆうたら、自民党に有利に働くだけやから、この辺でやめちょくか。付け加えるとしたら、民進党のバックにいる連合とかいう労働団体も曲者じゃよ。神津の顔見りゃ分かるやろ。労働貴族の顔や。特権階級や。連合は原発反対じゃないし、労働貴族の集まりやで。

要するに、政治家に政策も信条もあらへん。政権与党になって権力を握りたいだけや。政治なんて、金がある奴が余興でやってるだけや。だから、元文科相事務次官の前川にしろ、ナチスをよく引用する麻生はんにしろ、問題発言の多い鴻池はんにせよ、みーんな、金があるから喋っとるんや。

金がない奴は、黙って目立たぬようついていってるだけや。22日が楽しみやで。諜報部隊が暗躍してマスコミへのリーク合戦が始まり、宝の蜜に群がる山賊どもが分け前を求めて、離合集散、贈収賄、何でもありや。見えないように札束の実弾戦が始まるでえ。…

(一部敬称略)

これは、あくまでも、あくまでも篠田氏個人の感想です。

渓流斎 敬白

哈爾濱学院 余話

哈爾濱学院の跡(1991年8月) Copyright par Heizo Asada, président de Keigadô publication

昨日、「関東軍情報本部ハルビン陸軍特務機関」のタイトルで駄文を書きましたが、日曜日だというのに実に3時間も掛かり、「あにやってんだか」と貴重な時間を無駄にしたような気分になりました。

ところが、嬉しいことにこの記事を読んでくださった皆様からしっかり反響があり、私もすっかり上機嫌になってしまいました(笑)。

お一人は、哈爾濱学院同窓会の事務局長の宮さんからです。哈爾濱学院卒業生で恵雅堂出版会長の麻田平蔵氏が撮影した写真まで添付してくださいました。

この写真は、1991年8月撮影となっておりますから、まだ藍天幼稚園になる前の当時の面影を辛うじて残していた最後の頃でしょう。

日本の国家がロシア語の精鋭を養成するために建てた学院だけあって、建物も威風堂々として立派ですね。

私は、4年前ほどに一度、旧満洲旅行した際にこの哈爾濱学院跡を訪れております。鬼才栗原先生、たまたま偶然お会いした日経編集委員の内田氏も一緒でした。

昨日の記事で、松岡氏からお借りした写真を掲載しましたように、学院の跡は藍天幼稚園になっていて、ディズニーランドのような校門で締め切りになって中に入れず、写真を撮るのに大変苦労したことを覚えております。

哈爾濱学院の跡(1991年8月) Copyright par Heizo Asada, président de Keigadô publication

で、最新情報なのですが、この藍天幼稚園は今はもうないそうですね。昨日の宮さんからのメールで初めて知りました。以下は宮さんからのメールの引用です。

…学院のピンクの校舎は本当に残念ですが、藍天幼稚園は2年くらい前に火災が有り、今は使われていないようです。幼稚園は他の場所に移動したそうです。建物は空軍の管理下に有るはずです。…

へー!そうだったのですか!

昨日は哈爾濱学院卒業生の竹中重寿(故人)が、ハルビン特務機関員として李香蘭を尾行していたことを書きましたが、彼にまつわる情報も宮さんは添えてくれました。

…哈爾濱学院20期 卒業生98名のうち、特務機関に関係したのが23名(ハイラル、大連、奉天、東安、三河、哈爾濱)。そのうち、竹中重寿と同じ哈爾濱特務機関だけで12名が関係しています。
特務機関に関係した人たちの中には、詳しいことを家族にも話さず亡くなった方が多いです。特に特修科、専攻科の人たちについては謎ばかりです。…

そりゃそうでしょう。諜報機関の人間が、名前を知られただけでも大問題どころか、失格ですからね。名簿があること自体、奇跡でしょう。

さて、もう一人。皆様ご存知のガルーダ博士こと山本悦夫氏からも今朝、メールがありました。

何と!李香蘭こと山口淑子は山本氏の親戚筋(母親の又従姉妹)に当たり、福岡県大川市の出身のようだというのです。手書きの家系図もスキャンして送って頂きました。

これにも驚きましたね。でも、山本さんの二人のお嬢様は、李香蘭に似て美人だった理由がこれで分かりましたよ。

【追記】

哈爾濱学院が何故、藍天幼稚園になり、その幼稚園が火災のため移転して、現在、空軍の管理下に置かれているのかさっぱり分からなかったのですが、先ほど、松岡氏からメールを頂き、その理由が分かりました。「藍天幼稚園は、確か空軍将校の子女が通う幼稚園だったと聞いてます」と仰るのです。これで平仄が合いますね。やっと謎が解けました。

中国共産党もエリート養成校(しかも早熟幼児教育)として使用していたことになります。恐らく特別教育が施されていたことでしょう。哈爾濱学院の関係者の方々も、建物をピンク色に塗り替えた中国当局の神経は理解できなくても、一応過去の伝統を踏襲してくれていたことは理解できるかもしれませんね。