日仏友好160周年、パリで「ジャポニスム2018」開催へ

渓流斎がフランスに派遣しているクーリエ(農林水産通信員)「ブローニュの森の美女」さんから、最新ニュースが入ってきました。

今年は日仏友好160周年の記念の年です。(明治維新150年より10年も古いじゃんか!)

ということで、今年7月から来年2月まで、「ジャポニスム2018」と称して、パリを中心に大々的なイベントが開催されます。

まさに、今年のフランスは「日本一色」になります。

知らなかったでしょう?(笑)

主催者である外務省の天下り先、いや二次団体である国際交流基金のサイトには以下のようなことが書かれてます。

【展覧会は、日本文化の原点とも言うべき縄文、伊藤若冲、琳派から、最新のメディア・アートやアニメ・マンガ・ゲームまで、舞台公演は、歌舞伎、能・狂言、雅楽から、現代演劇、初音ミクまで、さらには食、祭り、禅、武道、茶道、華道ほか、日本人の日常生活に根ざしたいろいろな文化の側面に焦点を当てた交流事業も含め、幅広い範囲の事業を次々に行います。】

なるほど、縄文から急に江戸時代の伊藤若冲に飛んでしまうとは…上司の命令で嫌々書かされた匂いがしますね(笑)。

◇自転車レースの女王

さて、「ブローニュの森の美女」さんからのコレスポンダンス(通信)でした。

…ジャポニスム情報をありがとうございます。しかし、今、フランス国鉄(SNCF)の恐るべきストライキが始まっていて、気軽にパリに行けずに恐々としています。
毎週2日間ほどのストライキ。そんなに改革に反対するべきなのでしょうか。
日本文化会館のイベント、1月にL’aube du Japonismeという展覧会があって、小さいですがとってもよい展覧会だったんですよ。…

そう、「ブローニュの森の美女」さんは、ジャポニスムにとても関心がある方です。

…日曜日はとってもお天気で、自転車レースの女王と呼ばれる「パリ~ルべ」レースがありました。
「パリ」となっているのに、フランス北部のコンピエーニュが出発地点なんです(笑)。
 レースの名物となっている地獄の石畳満載のコースを257キロ、コンピエーニュからルベまで北上します。
朝11時頃、出発を見に行って、その後はずっとテレビで追いながらちょっとした高揚感を味わいました。
 今年の優勝者はスロベニアのピーター・サガンという人でした。
よし、自分もゴールに向かって頑張るぞ!とまた新しい一週間に気合を入れているところです。…
「ブローニュの森の美女」さん、どうも有難う御座いました。
( なお、写真の著作権は彼女に帰属しますので、無断転載はお断りします。)

久しぶりの満洲懇話会

Copyright par Duc de Matsouoqua

先日十数年ぶりに再会した畏友隈元さんが、学生時代の卒論が満洲問題で、ライフワークもそうだというので、それなら、「松岡二十世とその時代」(日本経済評論社)などの著作がある満洲育ちの松岡氏をご紹介したら、面白いんじゃないかと思って、面談する機会を作ったのですが、この人、学生講義指導でハワイに行ったり、韓国に行ったり、「金持ち暇なし」生活でなかなか捕まらない。メールしてもなかなか返事もくれない(苦笑)。

昨日はやっと実現して、都内にある松岡氏の邸宅にお邪魔して、有意義な時を過ごすことができました。

私も2年ほど前に一度拝見したことがある「満洲の昔と今 四都物語」を写真と地図等で辿ったスライドショー大会がメーンイベントでした。(2年前と比べ数段進歩してました)

 

この会にはもう一人、私は初対面でしたが、隈元さんは以前、取材でお世話になったことがあるという古海氏も参加されました。古海氏は、「満洲国の副総理」と称された古海忠之総務庁次長の御子息で、敗戦時12歳。学年は松岡氏の1級上の満洲育ちでした。エリート一家というか一族で、米寿を近くしても頭脳明晰で、記憶力も抜群で、驚くほど全く気力が衰えておられませんでした。

1945年8月9日、ソ連軍が当時の日ソ中立条約を、ヤルタ会談密約により一方的に破棄して、満洲に進軍して占領し、60万人とも70万人ともいわれる日本人をシベリアに抑留し、鉄道敷設など重労働を科しました。その1割の6~7万人が異国の凍土で死亡しました。残留孤児という悲劇も産み、今でも詳細については歴史的に解明されておりません。

ソ連侵攻の噂を知っていち早く逃げ帰ったのが、関東軍幹部や満鉄など幹部家族ら情報が入りやすい特権階級でした。

古海「副総理」も、事前に日本敗戦濃厚の情報はキャッチしていたことでしょうが、国都新京(現長春)に居残り、当然、シベリアに抑留され、長くてもあの有名な大本営作戦参謀の瀬島龍三らほとんどが昭和31年に帰国することができましたが、古海「副総理」ら40人ほどは、ソ連から解放された後から、今度は中国共産党から拘束され、結局、懲役18年の満期を終えて日本に帰国できたのは昭和38年、1963年だったというのです。既に63歳になっていました。

古海は、軍人ではなく文官です。大蔵省出身で、後の東京裁判でA級戦犯となる「ニキサンスケ」の一人、大蔵官僚の先輩星野直樹の引きがあって、満洲に渡りました。恐らく、満洲国官僚のトップだった彼は、「見せしめ」として軍人より重い罪を与えられたのでしょう。

Copyright par Duc de Matsouoqua

子息の古海さんは、元銀行マンで、経営者の顔を持ちますが、全く偉ぶらない人格者でした。そして、「あの(満映理事長だった)甘粕さんは、歴史上では大杉栄らを惨殺した悪者になってますが、直接、甘粕さんを知っている人で、悪く言う人は一人もいなかったそうですよ。本人は『自分はやってない』と、ごく親しい人だけに極秘に打ち明けていたそうです」と自信を持って話してました。

私も一時期、甘粕正彦と大杉栄については、異様なほど熱中して、かなり関連書籍を読み漁り、この《渓流斎日乗》でも数回に分けて書いたことがありましたが、それらのWeb記事は残念ながら消滅してしまいました。

そのせいか、甘粕が服毒自殺した現場に居合わせた人物として、映画監督の内田吐夢まではかろうじて思い出せましたが、あとはすっかり記憶喪失(苦笑)。後で、調べたら、長谷川4兄弟(長兄海太郎は、林不忘の筆名で「丹下左膳」を発表し、流行作家に)の一人で、作家、翻訳家、ロシア文学者、戦後、ボリショイサーカスのプロモーターになった長谷川濬、作家赤川次郎の実父赤川孝一らがおりました。

もう一人、昨日はどうしても思い出すことができなかった、甘粕と親しかった重要人物に和田日出吉がおりました。昭和11年、中外商業新報(現日経)記者時代に「2.26事件」をスクープしたジャーナリストで、満洲に渡って、満洲新京日報社の社長を務めたりします。

この方、往年の大女優木暮実千代の旦那さんでした。この話は、黒川鐘信著「木暮実千代 知られざるその素顔」(日本放送出版協会、2007年5月初版、もう11年も昔か!)に詳細に描かれ、この本もブログに取り上げましたが、記事は、やはり消滅しています。また、残念ながら、個人的な入退院のどさくさの中で、この本を含め数百冊の個人蔵書は売ってしまったか、紛失したかで、今は手元にありません。

あ、忘れるところでしたが、昨晩は、松岡氏には大人気の銘酒で、今ではとても手に入らない「獺祭(だっさい)」などを遠慮も気兼ねもなく、バカスカとご馳走になってしまいました。さぞかしご迷惑だったことでしょう。お詫びするとともに、御礼申し上げます。

華族の家族の物語

恐らく、現在、華族の研究家としては第一人者の浅見雅男氏が、軽いエッセイ風の読み物「歴史の余白」(文春新書2018年3月20日初版)を出版し、今、私も面白く拝読しております。

例によって、この本は、博多にお住いの吉田先生からのお勧めですが、浅見氏とは、一度だけ渋谷のおつな寿司でお会いしたことがあります。もう20年ぐらい昔でしょうけど、当時、浅見氏はまだ、文藝春秋の編集者をされておりました。

著者は、学者以上にあらゆる文献に目を通しておられますので、説得力があります。例えば、天皇の生前退位についても「神話時代や古代はともかく、中世以降は天皇が生前に皇位を退くことは珍しくなかった。江戸時代に限っても。107代の後陽成から121代の孝明まで15人の天皇のうち9人が生前に譲位している。その理由はさまざまだが、天皇は即位した以上、終身、皇位にとどまるという定めや慣行はなかったのだ」とはっきり書いております。

つまり、生前退位を否定する考え方は、明治薩長政権が皇室典範で決めた比較的新しいものに過ぎないと歴史的に証明しているのです。

この本を読んで、初めて教えられたことは多くありますが、明治維新をやり遂げた公家代表の一人で、御札の肖像画にもなった岩倉具視がおります。彼は公家の中でも低い身分で碌高も少なかっただけに、維新後の出世には周囲からの妬みややっかみが多かったそうです。それはともかく、その曽孫に当たる靖子が日本女子大附属高校時代に共産党のシンパとなり、あの有名な昭和8年の一斉検挙で逮捕され、市ヶ谷刑務所に収監。治安維持法違反の裁判が始まる前に保釈された渋谷の自宅で自裁してしまうんですね。

実に波乱万丈なのは、靖子だけではなく、その父親の具張(ともはる)です。岩倉具視の直系の孫に当たり公爵岩倉家を継ぎますが、新橋の芸者に大金を注ぎ込んで破産してしまうのです。具張の父具定(ともさだ=岩倉具視の子息で岩倉家を継ぎ、宮内大臣などを歴任)、明治34年8月22日付「時事新報」で、全国で50万円以上資産を持つ411人の一人として掲載されるほどの大富豪でしたが、具張はこれらを全て散財しただけでなく、100万円以上の借財を抱えてしまったといいます。

同じ元公家として、東坊城家があります。江戸時代の禄高は、岩倉家の倍の301石もあり、明治になって子爵となりますが、家督を継いだ徳長(よしなが)が、赤坂あたりの芸者に大枚を注ぎ込んで没落し、大正時代は「貧乏公家」との定評が立ってしまいます。この徳長の三女英子が、後の大女優入江たか子だと知り、吃驚してしまいました。

英子は、 最近、閉校するということで話題になった文化学院(与謝野晶子らも教壇に立った)を卒業して、新劇の舞台に代役で出演したのがきっかけで、スターの切符を手にし、家族の生活を支えたという話です。

入江たか子については、2016年12月27日付の《渓流斎日乗》で、成瀬巳喜男の「まごころ」の中でも取り上げましたが、驚くほど美しい戦前の無声映画の大スターだったとはいえ、本物の華族の娘だったとは。。。

最後におまけ。

「平民宰相」と呼ばれた原敬首相。歴代首相を務める人は、これまで全員、公侯伯子男の爵位を受けるのに、この人は断り続けて、爵位なしで宰相になったからなんだそうですね。

原敬の家系は、南部藩の重臣で、明治薩長からみると逆賊です。原敬には「薩長の田舎侍から爵位をもらってたまるか」という反骨精神があったんでしょうね。

京都・仁和寺では「御室桜」が今、満開です。

皆様ご存知の京洛先生です。いつもお世話になります。
今日は天気予報では、関東は気温が20度という事ですが、大気が不安定で、午後から寒冷前線が進み、冷えこむようですね。
風邪にご用心、ご自愛ください。
 恐らく、そちら帝都でも、満開の桜も散っているでしょうが、先月上旬まで、上野の東京国立博物館で開催され、貴人もご覧になってきた「仁和寺展」の、京都・仁和寺では「御室桜」が今、満開です。
 昨日、ぶらっと様子を見に写真を撮ってきました。
 「御室桜」は、2、3メートルの低木の遅咲きの桜です。仁和寺の境内でしか見られません。樹高が低いのは、同寺の土が粘土層で養分が少なく、根が広く張れないのが理由、原因だという事です。
 気温の関係で、桜の満開が全国的に早まっていますが、「御室桜」も、いつもは、4月15日前後が満開時季ですが、今年は既に、お寺の御門には「満開」の看板表示が立っていました。
 平日に関わらず、やはり、境内は、外国人を中心に観光客が大勢来ていました。拝観料500円を払って、本堂に向かう、中門の左手に「桜苑」がありますが、ここには、200本以上の「御室桜」が咲いています。
「桜苑」のトンネルをくぐって歩くのは気持ちの良いものですが、昨日は、桜苑に入るのに長蛇の列、100メートルくらい並ぶので驚きました。
それとともに、この時季、やはり、「中門」傍に、紫色の「ミツバツツジ」が咲きます。
迂生は、「御室桜」より、色鮮やかなミツバツツジにいつも目が行きます。
綺麗でしょう。
 また、此処から、右手(東側)に高さ約30メートルの五重塔が見えます。
  江戸・寛永年間に建てられましたが、この五重塔を背景に、「御室桜」を写すのが、カメラアングルとして最適のようです。
如何でしょうか?
Toutes phtotos Copyright par Kyoraque-Sensei

「ペンタゴン・ペーパーズ」は★★★★★

実は、あまり触手が動かなかったのですが、統合幕僚参謀本部からの指令で、映画「ペンタゴン・ペーパーズ」を先ほど観てきました。

だって、監督がスピルバーグ、主演はメリル・ストリープとトム・ハンクス。あまりにも役者が揃いすぎて、手垢がつき過ぎている。そりゃ、ハリウッド映画ファンなら大喜びでしょうけど、極東の映画巧者にとってはむしろマイナス要因ですからね(笑)。

それに、私の世代にとっては、この事件は、教科書に載るような歴史物語ではなく、生々しい過去の出来事。「感動してたまるか」と上から目線で見始めたら、いきなり、ベトナム戦争の前線の場面から始まり、多くの若い米国人兵士が次々と生命を奪われていく。。。「あれ、もしかしたら凄い映画なのかもしれない」と思ったら、気が付いたら、すっかり映画の中の住人になっていました。最後まで観客を飽きさせなかったリズ・ハンナの脚本の力が大きかったのかもしれませんが。

くどいようですが、私の世代まで、ギリギリ、ワシントン・ポストの女性社主キャサリン・グラハムの名前や、最高機密文書を暴露したエルズバーグという名前、それに、メディアとニクソン政権との確執などを同時進行で見てきた世代でしたので、「ストーリー」は分かってました。

個人的ながら、「ペンタゴン・ペーパーズ」を大スクープしたニューヨーク・タイムズのニール・シーハン記者とは、後年、彼が「輝ける嘘」(集英社)上下2巻を1992年9月に日本で翻訳出版した時、その発売前の8月に来日した際、インタビューしたことがありました。この映画の中で、何度も何度もニール・シーハンの名前が出る度に(意図したことなのか、名前だけで本人役は登場しませんでしたが)あの時の感動を思い出したほどです。

映画では、時の政府権力者と新聞社の社主との癒着に近い親密な関係を事細かく描いてます。ワシントン・ポストのグラハム女史と国防長官のマクナマラが、ホームパーティーに呼び合うなどあそこまで親密な仲だったとは知りませんでしたね。

デイビッド・ハルバースタムの名著「ベスト・アンド・ブライテスト」の中では、当時、フォードの社長だったマクナマラが、ケネディ大統領によって「最も優秀で賢い人間」の1人として国防長官に抜擢された有様が描かれていました。

それが、先日読んだ宇沢弘文氏の著作で、マクナマラは、太平洋戦争で日本空襲爆撃の際、どうやったら最も効率良く死者を産み出すことができるかという「キル・レシオ(殺戮比率)」を考案した人間で、ベトナム戦争でも応用した人物だったと知って、彼に対する見方も大分変わりました。

あ、映画の話でした。とにかく、1970年代の米国の新聞社の内部が非常によく描かれていました。当時は鉛活字ですから、今はなき植字工さんも健在です。原稿を包の中に入れて、ダストシュートのように社内を飛ばすやり方も、見ていて懐かしかったですね。私が勤めていた会社にも昔、ありましたからね(笑)。

1971年、つまり今から47年前の出来事ですから、脚本執筆に当たり、当時を知っている存命中の関係者に可能な限り取材して反映させた、といった趣旨の話がプロダクションノートに書かれていました。

映画に出てくる車やファッションは、70年代を再現していて、それらしく見せておりますが、当時を知っている私から言わせれば、外見は70年代でも、中身はやはり21世紀の若者、もしくは俳優にしか見えない。こういうのが作りもの映画の限界なんだろうなあと、理屈っぽく考えてしまいましたよ(笑)。

新たなヒーロー勝田さん

スキャンダル続きの霞ケ関で、またまた新たなアイドルヒーローが誕生したようです。

厚生労働省東京労働局の勝田智明局長です。

記者会見で、「何なら皆さんの会社に行って、是正勧告してもいいんだけど」と、査察もできる厚労省の持つ監督指導権という国家権力をチラつかせてマスコミを恫喝して、有名になった人らしいですね。

「恫喝」というのは、本来、裏社会の方々がしのぎを削る時に最後の手段として使うもの、とばかり思っていました。勝田局長は、東大亜法出のキャリア官僚なのかどうか知りませんけど、大変優秀なエリートの中でも、こういう手口を使う人がいるものなんですね。

この方、ほかに、昨年12月末、過労自殺した野村不動産社員に関する同社への特別指導について公表する記者会見の席上、「プレゼントもう行く?じゃ、やろっか」なぞと死者を冒涜しかねない発言をしたとか、しないとか。

本人は、国会の参考証人で、あらゆる疑惑を否定されておりましたが、余計に疑惑は深まるばかり。

トルファン©️Matouoqua-Sausai

残念なことに、この人、今ではすっかり忘れられたトッポジージョみたいな佐川元国税庁長官のようなキャラが立っていないんですよね。

野心と権力欲の塊みたいな面構えだけが特徴的で、こんな人間、何処の世界にもゴロゴロしてますからね。

1958年生まれだとかというので、今年還暦。本来なら次の天下り先も決定して、これから「生涯保障8億円」の優雅な生活が待ち受けていたはずですが、もし、これが汚点か、失点になれば、先行きの雲もあやしくなります。

我らがヒーロー勝田局長、頑張れ!

【追記】

勝田局長は、2018年4月11日、「不適切な発言で労働行政に対し、国民の信頼を著しく損ねた」として、同日付で「減給3カ月、大臣官房付への降格」処分されました。

文民統制は本当に大丈夫なのだろうか?

駿府城

ここ最近、霞ヶ関官庁街で不行き届き、いや不祥事が相次いでいます。

文科省、財務省に続き、今度は防衛省です。例の陸上自衛隊イラク派遣の日報隠し問題。

昨年3月に発見していたにも関わらず、陸自研究本部(現教育研究本部)が、当時の稲田防衛相や統合幕僚監部などに報告していなかったというのです。

1年近くも何やっていたんでしょうか?

あの安倍政権護持派の「体制派」と言われている産経新聞までもが、5日付同紙一面トップで「陸自が防衛相の指示に結果的に従わなかったことは、文民統制(シビリアンコントロール)の実効性を疑わせることになりかねない」と、声を大にして批判しております。

当時の防衛相の稲田氏は、産経だけには積極的に取材に応じ、「驚きとともに、怒りを禁じ得ない。報告を信じて国会で答弁した。こんなでたらめなことがあってよいものか」と語気を強めたらしいですね。

シビリアンコントロールが取れていない、ということは、もし、遠く離れたイラクではなく、日本国内で有事があったとしたら、ゾッとしませんか?

戦前は、軍部が暴走したおかげで、歯止めが効かず、その反省から戦後は文民統制の重大さを再認識したはずです。しかし、実態は、戦前とほとんど変わっていないということではありませんか?

名古屋城

作家司馬遼太郎が、敗戦間近に駐屯していた栃木県佐野市の戦車部隊で、「事態が混乱して住民が逃げ回ったりして、戦車が動けなくなったらどうしますか?」と部隊長に尋ねると、その部隊長は「かまわん。ひき殺してしまえ」と言ったことを晩年のエッセイの中に書いておりました。

戦争は人間を狂気にします。今回の「日報隠匿事件」のニュースを聞いて、「憲法や文民統制なんてかまわん。突っ走ってしまえ」と、軍人が独断で戦争を始めてしまうんじゃないかという危惧を抱いてしまいました。

シンクレアって何?アメリカ人が知っていて日本人が知らないこと

名古屋城にて

昨日は、 全米で、地方テレビ局を運営する保守系の放送大手シンクレアが、時と文言を一致させて、一斉に「フェイクニュース批判」のキャンペーンを繰り広げて、日本のメディアでも大々的に取り上げられました。この件については、トランプ大統領もツイッターで加勢したので、同大統領の差し金ではないかという疑惑も浮上してます。

このシンクレアって何なんでしょう? これは、どうやら米国で最も多くの地方局を傘下に持つ業界最大手の放送局らしいですね。昨年は、規制撤廃のおかげで、トリビューン・メディアを39億ドルで買収したとか。

私自身は、米国のテレビ事情はそう詳しくないのですが、以前は、1980年代頃は、ABC、NBC、CBSが「三大ネットワーク」と言って揺るぎない感じだったのですが、90年代辺りから24時間テレビのCNNが隆盛になり、最近では、保守系のFOXが四大ネットワークのトップを走っているんだとか。

FOXは、言わずと知れたあのメディア王ルパート・マードックが社主で、保守・共和党寄りです。

いずれにせよ、彼の国では、保守系メディア花盛りです。(日本も同じかも)テレビの影響力はとてもなく膨大でありますから、これで米国の気の良い大衆は「アメリカ・ファースト」と「保護主義」と「偉大なアメリカ」思想に染まるわけです。

名古屋城

シンクレアについては、まだ日本語では詳しい情報がないようですが、英語で書かれたネット情報がありました。創業者は、電気技師のジュリアン・シンクレア・スミス(1921~93)という人で、現在その息子のデビッド・デニストン・スミス氏(1950~)が会長(社主)を務めています。(1990~2017年は社長)この方、1970年代に米メリーランド州ボルティモアでポルノビデオ販売から仕事のキャリアを開始したようです。

1996年には、売春のおとり捜査で倒錯変態性行為のカドで逮捕され、当時は放送局の社長さんでしたから、シンクレア・ネットワークで薬物カウンセリングを扱ったドキュメンタリーを放送するという「社会奉仕活動」をせよとの有罪判決を受けたそうです。

英語版ウイイペディアには、シンクレアは、社主の政治思想に沿った番組を放送しなければならないとも書かれていますね。最近では放送業界の規制撤廃を求めてトランプ政権に擦り寄っていたと批判されているようです。

なるほどね。そういうことでしたか。

名古屋城

要するに、メディアと社主との関係は切っても切れない関係なんでしょうね。

だからでしょうか、トランプ大統領は先週、ダウ平均株価が一時750ドルも急落するほど、アマゾンに対して課税強化すると脅し、批判しました。

アマゾンの創業者ジェフ・ベゾス氏が、トランプ政権に批判的なワシントン・ポストの社主であることから、(ただし、買収は2013年)、米国では、その意趣返しではないかと巷間言われているそうです。

メディアとは所詮、善悪ではなくて、宣撫活動媒体ってことなんでしょうね。どっちが、錦の御旗を奪って、官軍になるか、反乱軍になるかの違いということなのでしょう。

民主主義社会の場合、「民意」が大いに反映されますから、政治家は、どうしもメディアを制そうとするのでしょうね。

経済学は人々を幸せにできるのか?

浜松城

学生時代は、夏目漱石や古典文学、サルトルやカミュなどの哲学など専ら人文科学に熱中していたため、社会科学、特に経済学の勉強は疎かにしておりました。

まあ、経済学については斜に構えていたところがあり、敬遠していたわけです。それでも、森嶋通夫氏や宇沢弘文といった世界的な経済学者の名前だけは知っており、老境に入り、少しずつ彼らの著作を読み始めております。

でも、門外漢なので、専門書は歯が立ちません。手始めに、宇沢弘文著「経済学は人びとを幸福にできるか」(東洋経済新報社、2013年11月7日初版)を読んでみました。これは、講演会の速記録やエッセイ風の読み物でしたので、読みやすかった。結構知らなかった、蒙を啓いてくれる箇所が多かったので、また、備忘録のため、換骨奪胎で列挙したいと思います。

浜松城

・1929年の大恐慌の時、高名な経済学者サミュエルソンの父親は、インディアナ州ゲーリー(日本の八幡のような鉄鋼の街)のUSスチール社の職工だったが、1920年代初頭はかなり景気が良く、全てのお金をはたいて、フロリダの別荘用地を買ったが、それが詐欺で一晩でゼロになった。これが、サミュエルソンの子どもの頃の大恐慌の思い出。

・第二次大戦の終わった1945年の夏にフリードリヒ・ハイエクとフランク・ナイトがスイスの避暑地モンペルランで一緒になり、戦後の荒廃から回復する経済的基盤を考えるモンペルラン・ソサイエティの原型みたいなものを作る。2人は、シカゴ学派の中心的人物だったが、それが後に、弟子である金儲け主義で新自由主義のミルトン・フリードマンとジョージ・スティグラーに取って変わってしまう。ナイトは80歳過ぎた晩年になって、フリードマンとスティグラーの最近の言動は目に余るものがあるとして、この2人の破門宣言をした。

・英国のシドニー&ビアトリス・ウェブ夫妻は、フェビアン協会を作った新しいタイプの労働運動の指導者だった。この夫妻が英国で初めて作った労働者階級のための大学がロンドン・スクール・オブ・エコノミクスだった。(今やあのトマ・ピケティも学んだ世界一流の大学として有名です。インテリ・ロックンローラー、ミック・ジャガーも通ったとか)

・ケネディ政権などの国防長官を務めたマクナマラは、ベトナム戦争でキル・レシオ(殺戮比率)を使って、ベトコン1人殺すのに何万ドルかかるか戦略・戦術を考えた。このキル・レシオはマクナマラ自身が考えた概念で、太平洋戦争中、日本爆撃の全責任を負っていた司令官カーティス・ルメイ少将の目に止まり、マクナマラはグアム島に呼ばれ、そこで日本攻略の作戦を練った。(如何に安上がりで日本人庶民を殺戮できるかを考えたってことでせう)

・第一次大戦に従軍した米帰還兵にフーバー大統領がボーナスを約束したのに、なかなかそれを履行しないので、数万の帰還兵が1932年5月にワシントンでデモを行った。このデモを共産主義者が煽動しているという根拠がない理由で鎮圧した司令官がマッカーサーだった。フーバー大統領が中止命令しても聞かなかた。徹底的に弾圧し、幼児まで殺されたという記録が残っている。米国人のマッカーサーに関するイメージは、このボーナス・アーミー事件の影響力が大きい。(日本人は誰も知らない)

浜松城

・ケインズは、第二次大戦中も、政府代表というポストを利用して結構酷いことをやっている。その代表が、印象派絵画の買い占めだった。ドイツ軍がパリ侵攻前にフランス政府から名画の疎開を要請された際、個人的に安く買い占めたという。この事実は、ブルームズベリーの一員だった女流作家ヴァージニア・ウルフの日記に残されている。

・シカゴ大学哲学科のジョン・ドラン教授はベトナム反戦運動で逮捕され大学を追われた。「ノーム・チョムスキーはえらい。彼は反戦運動で54回も逮捕されている。それに比べると自分は1回しか逮捕されていない」とドランは話したが、彼の場合、みせしめのためか、懲役10年という重い刑だった。

・私がシカゴ大学にいた頃、ジョーセフ・スティグリッツという天才的な頭脳と魅力的な人柄を持った学生がいた。それから何年かして彼をスター・プロフェッサーとしてシカゴ大学に招いた。2001年、スティグリッツはノーベル経済学賞を受賞した。

・ケンブリッジ大学をトップで卒業する学生の大部分は、イートンやラグビーなど名門パブリック・スクールの教師になることだという。少し成績が落ちる学生は、研究者を志すか、公務員を志望する。一番成績の悪い学生は銀行に行くという。(あら、日本とじぇんじぇん違う=笑)

海城高校の同窓会を決行しました

浜松城

昨晩は、少年識別所時代の同窓会を、当時の担任看守長も交えて、江戸時代に仇討ちがあった高田馬場の居酒屋の二階を借り切って行いました。

都立や国立附属高に落ちて性格が捻くれた者や飲酒や喫煙が見つかって補導された悪童ら、当時同じクラスの少年収容者は50人ぐらいおりましたが、出席したのは15人。行方不明者は15人、住所だけが分かっていて、葉書で連絡しても返事がない不届者が15人といった感じです。

当時の目良看守長は、我々と13歳しか違わなくて、まだ帝大大学院を出て数年しか経っていない31歳だったとか。あれから40年以上も経つのにまだ若々しく、若い奥さんをもらったとかいう専らのフェイクニュースの噂で、すっかり逆転して、事情を知らない人からすれば、我々の方が年寄りに見えてしまいました。

昨年も同じような同窓会をやってるので、そんなに久し振りでもない輩が多かったのですが、土屋君と岸君と加藤名人は出所以来半世紀近い年月ぶりの再会でした。

加藤名人は、将棋が強くて、当時から老成していたので、そう呼ばれてました。

皆んな老境に入り、自分の病気や親御さんの介護など大変な思いをしている人もおりましたが、すっかり少年院時代に帰って、名前呼び捨ては当然のことながら、今にも枕投げでもしそうな勢いでした。

当時の渾名がタコだった小島君は、急に、何の脈絡もなく「大隈重信って知ってるか?」と真顔で皆んなに質問を投げ掛けてくるので、気が触れたのではないかと一堂心配しました。タコは弘前からの参加です。

大隈重信と聞いた学識者の目良先生が我々の出た海城高校との関係を淀みなく説明して下さいました。

海城は、明治24年に海軍予備校という名前で、海軍兵学校の受験校みたいな形で古賀喜三郎が創立しました。

古賀は大隈と同じ肥前佐賀出身。古賀が何故、海軍予備校を創立したかというと、「明治14年の政変」で大隈ら肥前や土佐の連中が政界から失脚し、当初の「薩長土肥」から土肥が脱落して、薩長二強の独占になったからでした。

これをきっかけに、海軍少佐だった肥前の古賀は、人材育成のため教育界に残りの半生を捧げる決心をしたわけです。

知らなかったですね。凄い話でした。

医療機関を経営し、高級外車を3台保有する林君は北海道の旭川からベントレーに乗って駆けつけました。あ、そういう噂だけでした。

老境とはいえ、まだ独身者が何人かおり、これから青春を楽しみたいという輩もおりました。

幹事長役の惣田君からは「おめえの挨拶は長いんだよ。誰も聞いてねえんだから早く終われ」と、叩かれだけでなく、「来年、お前が幹事長やれ」と指名されてしまいました。

何はともあれ、利害関係もなく、少年時代に2年間同じクラスだったというだけで、これだけ楽しめるのは、奇跡に近いという思いで、すっかりボトルを空けて、翌日は酷い二日酔いでした。