アマゾンは消費税分を払っていない?

スペイン・グラナダ

昨晩は、東京・南麻布の日本料理店「有栖川清水」に行きたいと思いつつ、先立つものがないため、日暮里の安居酒屋「やじろう」で我慢して、久しぶりに増本君と懇談しました。

増本君は出版社の経営者ですが、実態は、社員一人の零細出版社のたこ社長です(笑)。それでも、トーハン、日販という大手取次ぎ店と契約できている数少ない出版社の経営者です。それは、全国で1000社ほどしかないそうです。

誰でも簡単に出版社をつくることができますが、大手取次ぎと契約するには、それなりの準備金とか支度金のほか、厳しい出版計画や口座管理などが必要とされ、なかなか許可が下りないそうです。大手取次ぎと契約できれば、出版した本は全国の書店に梱包して流通してもらえるのです。(昨晩は「口座貸し」という業界用語を初めて知りました)

でも、1000社のうちの大半は、社員数人から十人程度の零細企業が多いということでした。

その増本君が怒りをぶちまけていたのが、世界一の通販アマゾンです。「あいつら消費税払わないんだからなあ…」というわけです。

「えっ!?」。私は耳を疑いました。

スペイン・アルハンブラ宮殿

増本君によると、日本の出版社がアマゾンと電子書籍で契約すると、アマゾンの日本法人ではなく、米国かどこかタックスヘイブン国の本社と契約させられるため、日本の消費税は曖昧になるというか、結局払わず仕舞いだというのです。

しかも、無謀にも、アマゾンは出版社からの卸値を定価の60%にまでダンピングを要求するというのです。

ここで、本の価格の仕組みを簡単に説明しますと、定価1000円の本があったとしますと、そのうちの20%が小売店、つまり本屋さんに入るようになっています。本屋さんはこの20%で従業員に給料を払ったり、光熱費、家賃を払ったりするわけです。

流通卸のトーハンや日販には定価の67%で引き取ってもらいます。しかし、新刊は、5%の歩戻しが取られ、実質62%でしか引き取ってもらえないこともあるようです。

そこに割り込んできたのが通販最大手のアマゾンです。通常60%のところ、2年前に期間限定で66%にするキャンペーンを張り、KADOKAWAなどの大手出版社が契約を結びました。

が、内部機密契約ですから、正確な実態は分かりません。

出版不況と言われて久しく、街の本屋さんが次々と閉店に追い込まれる中、通販だけは元気です。小売りの書店はいらないので、ネット環境と倉庫と物流さえ抑えておけば、1冊に付き、執筆も製本もしないのに、定価のまるまる40%もの売上高を確保することができるからでしょう。

しかし、アマゾンは、電子書籍とはいえ、日本語の本を扱っておきながら、そして、購買者から消費税を取っておきながら、消費税分を申告しないというのは、もし、それが事実なら如何なものか、ですよね?

国税庁の佐川長官、あ、お辞めになりましたか、今は藤井長官ですか、いずれにせよ、長官直々に陣頭指揮を執って調べてもらいたいものです。来年は消費税10%に増税されますからね。

今日、東銀座で500円ランチ!20分は並びましたが、並び甲斐ありました

【追記】

タイムリーにも、2018年10月12日(金)付読売新聞朝刊は、公正取引委員会が「プラットフォーマー」と呼ばれるGAFA(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン)など巨大IT企業を、独占禁止法40条に基づく強制調査を検討している、と報じておりました。

アプリを販売する条件として、売り上げの30%という高い手数料を取るケースもあるらしいのです。

吉報ではないでしょうか。

山田耕筰、豊富な人脈を持つ巨人

一昨日10月8日に「山田耕筰 歌曲集」を取り上げたところ、不思議なことに、ブログに書けるほど(笑)の情報が集まってきました。

まずは、山田耕筰の人となりはー。

山田耕筰(1886〜1965年・明治19年〜昭和40年)

【作曲家・指揮者】日本西洋音楽史上の巨人。「赤とんぼ」など美しい童謡は、今も愛唱される。大正・昭和期の作曲家・指揮者。東京都出身。1908年(明治41)東京音楽学校卒。1910年ベルリンに留学。1914年(大正3)帰国して、精力的にオペラやオーケストラ作品を創作する一方、東京フィルハーモニー会に管弦楽部を創設、日本楽劇協会・日本交響楽協会を設立。日本の洋楽普及に多大な貢献をした。北原白秋と出会い、今も親しまれる童謡の名作を多く残した。作品は、交響曲「かちどきと平和」、歌劇「夜明け」、歌曲「赤とんぼ」「からたちの花」「この道」など。

 この出典は、(財)まちみらい千代田「江戸・東京人物辞典」からなのですが、この辞典の執筆者によると、何しろ、山田耕筰は「巨人」ですからね。今では少し忘れられてしまいましたが、とてつもない人です。

 まず、個人的なことながら、静岡県の義母(故人)が、山田耕筰の似顔絵入りのサインを持っていたのです。義母は若い頃、浜松市にある河合楽器の社長秘書を務めていたことがありました。その関係で、河合楽器に所用で訪れた山田本人から直接頂いたようですが、当時私は山田耕筰に熱烈な関心があったわけではなかったので、詳細について聞き忘れてしまいました。

とにかく、似顔絵はご自分で書かれたのかどうか分かりませんが、大僧正のような堂々とした禿頭(とくとう)で風格がありました。

はい、このような感じです。若い頃とは全然違いますね。

写真はいずれも、山田耕筰 十七回忌記念出版「この道 山田耕筰伝記」(恵雅堂出版)の編集を担当されたM氏からお借りしたものです。(従って、写真等の著作権は恵雅堂出版社に帰属します

M氏は「この本は、入社当初の私が編集を担当しました。実際に執筆したのは、社団法人 日本楽劇協会の皆さんですが、その中には山田耕筰の秘書をしていた方もいらっしゃいました。編集作業で1年間程、皆さんと接することができ、耕筰をめぐる大きな人脈の渦を感じたりして貴重な体験でした」と振り返っておりました。
同書は昭和57年発行で、 A4判カラー42ページ、本文中にモノクロ写真を多数掲載した総 305ページの豪華本ながら、残念ながら、現在は絶版だとか。

それでも、M氏は、この「この道 山田耕筰伝記」の一部コピーしたものをメールに添付して送ってくださいました。

この中で、先日、大阪音大の井口教授が講演された「原善一郎」の名前も出てきました。原が大正11年頃、突然、山田を訪ねてきて「ハルビン交響楽団の指揮をしてもらいたい」と要請した話などが出てきます。

また、大正15年夏、日本交響楽協会の分裂騒動が起き、30余人が脱退。山田側の残留者はわずか5人だったといいます。脱退組は近衛秀麿(指揮者で、近衛文麿の実弟)を中心に「新交響楽団」を結成、これが今日のNHK交響楽団の前身となった、と書かれています。私は不勉強で知りませんでしたが、あんなに仲の良かった山田と近衛は仲違いしたということなのでしょうか。

エピソードも満載です。占い好きの山田は昭和14年、実業之日本社から「生れ月の神秘」という占い本を出版して20版以上版を重ねるベストセラーになりました。山田は自分の名前を「耕作」から「耕筰」に改名し、戸籍まで変えてしまったというのです。

もう一つは、下の朝日新聞の記事(1981年11月25日付)にあるように、山田耕筰の未完の遺作オペラ「香妃」を山田の高弟である団伊玖磨によって完成され、東京と大阪で公演されるという内容です。

このオペラ「香妃」について、M氏は「私は幸運にもリハーサルから見ることができました。團伊玖磨先生が女性の声楽家に声を荒げて指示していた場面も見ています。いやはや、オペラひとつ公演するのには大変な財源と人材、エネルギーがいるもののだと若かった私はビックリしました」との感想を漏らされておりました。

オペラ「香妃」説明

オペラ「香妃」の一場面

繰り返しになりますが、これら貴重な写真は、いずれも山田耕筰 十七回忌記念出版「この道 山田耕筰伝記」(恵雅堂出版)の中で掲載されたものをお借りしたものです。ついでながら、昭和17年、山田耕筰に、満洲の皇帝愛新覚羅溥儀から贈られた「乾隆の壷」までありました。

山田耕筰は明治、大正、昭和という時代を代表する文化人であり、その時代の証言者でもあったことが、これでよく分かります。

特別展「京都 大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ」で心が洗われました

「体育の日」のある三連休のほとんどがブログの取材と執筆と校正と、講演者様とのメールのやり取りと、訂正と更新とさらに更新に追われてしまいました(笑)が、寸暇を惜しんで、東京・上野の国立博物館で開催中の特別展「京都 大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ」に足を運んできました。

普段の私は、やましい心の狭いことばかり考えておりますから、せめて仏像様のお力と御慈悲によって、心を洗おうという罰当たりな魂胆を敢行したわけです。

京都にお住まいの京洛先生のお導きで、有難いことに、京都奈良の寺社仏閣はかなり巡っているのですが、大報恩寺は聞いたことがありませんでした。

非常に楽しみに出掛けたところ、大報恩寺とは、北野天満宮近くの千本釈迦堂のことではありませんか!

ここなら、京洛先生お気に入りの寺で、小生も何度かお参りしておりました。

千本釈迦堂大報恩寺は、鎌倉初期の安貞元年(1227年)に義空上人(奥州藤原秀衡の孫に当たる)によって開創された寺です。洛中で「火災に遭うことなく現存する」最も古い寺だといいます。本堂は、創建時そのままのもので「国宝」に指定されております。柱には応仁の乱の刀や槍の傷跡が残っていました。

◇京洛先生と倶梨伽羅紋々

京都の人が言う「この前の戦災」とは、鳥羽伏見の戦いではなく、応仁の乱を指すことがこれで分かりました。

境内では毎年12月に「大根焚き」が行われ、もう5、6年前のことですが、たまたま京洛先生と一緒にベンチに座って、熱々の大根を食べていたら、テレビがこちらに取材に来ました。

そしたら、京洛先生はその筋の人ですから、背中の倶利伽羅紋々を見せながら、何か一言言った途端、テレビ・クルーの人たちは真っ青な顔をして慌てて逃げ去ってしまったのです。

何事が起きたのか、京洛先生に尋ねたところ、彼は、ちょうど取材に来たテレビ局のライバル・テレビ局のロゴが背中に入ったジャンパーを着ていたのです。

「『ここの者だけど、いいの?』と言っただけですよ」と京洛先生は平然としたものでした。もちろん、彼はライバル・テレビ局の人間ではありません(笑)。

特別展「京都 大報恩寺 快慶・定慶のみほとけ」のパンフレットより

さて、大報恩寺展のことでした。

四年に一度のご開帳でしか拝めない「釈迦如来坐像」(快慶の一番弟子・行快作)や「釈迦十大弟子立像」(快慶最晩年作)、「六観音菩薩像」(運慶の晩年の弟子・肥後定慶作)は、前から後ろから360度の角度から見ることができて、見応え十分でした。なんて、言ってはいけませんね。荘厳な気持ちになりました。

合掌

お蔭さまで、心が少し軽くなりました。

【六観音菩薩】とは

六道それぞれの衆生を救う6体の観音密教では、地獄道聖(しょう)観音餓鬼道千手観音畜生道馬頭観音修羅道十一面観音人間道准胝(じゅんでい)または不空羂索(ふくうけんじゃく)観音天道如意輪観音を配する。(大辞泉より)

【釈迦十大弟子】とは

釈迦(しゃか)の10人の高弟。「智慧第一」の舎利弗(しゃりほつ)、「神通(じんつう)第一」の目犍連(もくけんれん)、「頭陀(ずだ)第一」の摩訶迦葉(まかかしょう)、「天眼第一」の阿那律(あなりつ)、「解空(げくう)第一」の須菩提(しゅぼだい)、「説法第一」の富楼那(ふるな)、「論義第一」の迦旃延(かせんねん)、「持律第一」の優婆離(うばり)、「密行第一」の羅睺羅(らごら)、「多聞(たもん)第一」の阿難陀(あなんだ)。(大辞泉より)
地獄道から衆生を救済する聖観音菩薩像(もちろん、この菩薩像だけがフラッシュなしの撮影を許可されていました。「地獄にいる人が多いせいなのかなあ」と邪推してしまいました)

ニキータ山下のディナー・コンサートと「山田耕筰歌曲集 傑作選100曲」

先程、哈爾浜学院にまつわる話題を《渓流斎日乗》に取り上げさせて頂きましたが、その「関係者」(笑)の方から、是非とも取り上げてほしいというコンサート等がありましたので、乗り掛かった舟ですから、茲でもお報せすることに致しました。

ご興味のある方は、是非、ご参加ください。

ポスターにある通り、ニキータ山下によるロシア民謡などのディナー・コンサートです。アコーディオンは、後藤ミホコ。

2018年11月1日(木)と6日(火)開場18時15分。場所は、東京・高田馬場駅前にあるロシア・レストラン「チャイカ」(電話03-3208-9551)です。

ニキータ山下は、ハルビンで日本人の父親と白系ロシア人の母親との間で生まれ、東京芸大声楽科を卒業。男性ボーカルグループ「ロイヤルナイツ」にリードボーカルとして参加して、旧ソ連で一躍人気グループとなり、その後ソロでも活躍している歌手です。

もう一つは、大阪音楽大学の井口淳子教授の講演会の「原善一郎」関係で、何度も山田耕筰が出てきましたが、その関連として、「山田耕筰歌曲集 傑作選100曲」(恵雅堂出版CD)をご紹介します。関定子ソプラノ、塚田佳男ピアノで「この道」「からたちの花」「赤とんぼ」などが収録されています。

1994年度レコード・アカデミー賞を受賞しております。不朽の名盤ですね。

えっ?何か、宣伝臭いですって?

いや、広告じゃありませんよ。あくまでも、ご紹介です。

東方社と原善一郎について御教授賜りました

一昨日6日に開催されたインテリジェンス研究所(山本武利理事長)主催の午後の講演会では、新たにお二人の研究者の発表がありました。

◇東方社研究のこれまでとこれから

お一人は、京都外国語大学非常勤講師・政治経済研究所主任研究員の井上祐子氏による「東方社研究のこれまでとこれから―井上編著『秘蔵写真200枚でたどるアジア・太平洋戦争―東方社が写した日本と大東亜共栄圏―』の紹介を兼ねて―」というお話でした。

タイトルが異様に長いのですが(笑)、井上氏が今年7月にみずき書林から出版された同名書の紹介を兼ねた東方社研究発表でした。同書の内容紹介として「戦時下の日本とはどういう場だったのか。そして大東亜共栄圏のもとで各国の人びとはどのように暮らしていたのか―。陽の目を見ることなく眠っていた写真2万点のなかから200点を精選し、詳細な解説とともに紹介」とあります。

私は不勉強で東方社を知りませんでしたが、かろうじて、戦時中に戦意高揚のプロパガンダのために発行された写真雑誌「FRONT」は知っておりました。東方社は、この「FRONT」などを発行していた陸軍参謀本部傘下の写真工房だったのです。

東方社で活躍し、戦後、特に有名になったカメラマンとして、木村伊兵衛、濱谷浩、菊池俊吉らがいますが、理事として、ヴァレリー研究家でフランス文学者の中島健蔵がかかわっていたとは知りませんでしたね。(彼の経歴ではあまり触れられていません)もちろん、評論家の林達夫が第3代理事長で、岩波書店社主の岩波茂雄に資金面で援助してほしい旨の書簡まで送っていたことも知りませんでした。

井上氏の編著書は労作です。2万点のネガから200点を精選したということですが、キャプションがないので、本当に大変だったと苦労話を披歴しておりました。写真に写っている背景の看板や標識などから、場所や時代を特定したり、写っている人物が分からないので、戦時中の新聞を何時間もかけて照合してやっと特定するという作業をやってきたそうです。

講演会後の懇親会で、井上氏本人に伺ったところ、膨大なネガは、旧所蔵者の遺族の皆さんだけでは、維持・管理が難しいため、政経研で受け入れることになったそうです。

歴史的に貴重な遺産がこうして陽の目をみたのは、井上氏らの功績でしょう。

◇原善一郎とは何者か?

もう一人は、大阪音楽大学音楽学部教授の井口淳子氏で、講演タイトルは「戦時上海の文化工作―上海音楽協会と原善一郎(オーケストラ・マネージャー)」でした。

井口氏によると、上海音楽協会とは、 1942年6月、外務省、興亜院、陸海軍の監督の下、上海在住の民間人によって設立された文化工作を目的とした財団法人で、その中核は、上海交響楽団による公演活動でした。戦時中、日本国内では、「敵性音楽」演奏は禁止されていたと思いますが、外地ではかなり頻繁に公演会が催されていたようです。

私は全く存じ上げませんでしたが、原善一郎(1900〜51)という人は、同年10月頃からこの上海音楽協会の主事(オーケストラ・マネジャー)になった人で、戦後は音楽プロモーターとしても活躍します。

原は、経歴が大変変わった人で、長野県の貧しい農家に生まれ、旧制中学校を中退せざるを得なくなり、横浜の貿易会社松浦商会に入社します。同商会の哈爾浜(ハルビン)支店に派遣されたことが、彼のその後の人生を大きく変えます。哈爾浜学院でロシア語を習得したお蔭で、その語学力が認められて、1925年、山田耕筰と近衛文麿による「日露交歓交響管弦楽演奏会」のマネジャーに抜擢されます。翌26年から35年にかけて、新交響楽団のマネジャーを務める一方、上海在住のユダヤ系ラトヴィア人音楽プロモーター、ストロークの片腕となり、海外演奏家のマネジメントやラジオ放送出演などを協力したりします。

42年から上述通り、上海音楽協会の主事を務め、上海交響楽団プロデュース。その後、ハルビン交響楽団(朝比奈隆指揮)にも関わります。戦後は、その朝比奈に請われて、関西交響楽団の専務理事を務めることになります。

1951年、世界的なバイオリニスト、メニューヒンの日本公演を興行主ストロークとともに、東奔西走しているうちに過労のため朝日新聞社内で心臓発作を起こし、そのまま帰らぬ人となりました。享年50。以上、これらは井口教授の調査によるものです。

敗戦後の哈爾浜学院

皆様御案内の通り、私は個人的に、哈爾浜学院には思い入れがありますので、関係者にこの「原善一郎」について、学院の卒業者名簿に当たってもらったところ、本科の正規生として「該当者なし」ということでした。ただ、哈爾浜学院には、本科以外に、軍部や外務省、満鉄などから派遣された特修科(専攻科)生がおり、こちらは故意なのか、名簿を残さなかったか、散逸したか、なので、原善一郎はそちらに所属していた可能性があるようです。

なぜなら、原善一郎は「参謀本部の嘱託として宣伝の仕事をしていた」という土居明夫(元陸軍中将)の証言があるからです。

最後に、井口教授は「戦争がなかったら、原善一郎は山田耕筰や近衛秀麿らと知り合っていなかったことでしょう。音楽マネジメントには『記録は残さない』という不文律があるため、詳細について残っていない。まだまだ原善一郎に関しては謎が多い」と結んでおりました。

私も文化記者時代の25年ほど前に、東京のホテルオークラで朝比奈隆にインタビューしたことがありましたが、上海やハルビンの話も原善一郎の話も全く耳にしませんでした。

いずれにせよ、お二人の意欲的な研究には頭が下がる思いで拝聴しました。

?中島健蔵「昭和時代」(岩波新書、1957年)

?多川精一「戦争のグラフィズムー回想の『FRONT』-」(平凡社、1988年)

?岩野裕一「王道楽土の交響楽ー満洲知られざる音楽史」(音楽之友社、1999年)

「文化学院」は参謀本部の謀略放送拠点として接収されていた

10月なのに、秋の気配がなく、30度を超える真夏日が続いてます。

 昨日は、インテリジェンス研究所(山本武利理事長)と早大20世紀メディア研究所共催によるインテリジェンス見学ツアーに公認記者(笑)として潜入し、その後のセミナーと懇親会にも参加してきました。

どなたでも参加できるのに、参加者は25人ほどで年配者が多かったです。

見学場所は、東京・御茶ノ水にあった「駿河台技術研究所」(偽装用の表看板)です。陸軍参謀本部が昭和18年から敗戦まで、連合国の捕虜や日系人から抜擢した人を使って、米兵らに厭戦、反戦運動を盛り上げる謀略工作として、英語のラジオ放送番組(ニュースやドラマなど)を制作した拠点(駿河台分室)でした。

「東京ローズ」が活動した場所と言えば分かりやすいかもしれません。(インテリジェンス研究所の則松久夫理事の論考によると、東京ローズは日系二世のアイバ・戸栗・ダキノ(1916〜2006)が最も有名ですが、東京ローズは、他にも複数いたようです)

駿河台分室は、もともと、文化学院の校舎を、陸軍が接収したのでした。駿河台の明治大学本校舎の閑静な裏手にありますが、こんな所にあるとは思いませんでした。文化学院は、和歌山県新宮市出身の教育者で、建築家、画家、詩人でもある西村伊作らが、大正10年(1921年)に創立したもので、与謝野鉄幹・晶子夫妻や芥川龍之介、佐藤春夫、山田耕筰、有島生馬ら当時の一流の文化人を講師に招聘し、1923年の関東大震災で校舎は焼失しましたが、昭和12年に西村伊作設計の独特のアーチを持った新校舎が再建されました。(個人的ながら、切羽詰まって2000年に熊野古道を巡礼し、熊野本宮大社などをお参りして、新宮に出て、市内にあった「西村伊作記念館」に入り、初めて彼の業績を知りました)

昭和18年に、自由主義者の西村伊作は不敬罪で逮捕され、文化学院は閉校となり、校舎を陸軍が接収したわけです。

戦後、復興した文化学院は、杉本苑子、山東昭子、十朱幸代、前田美波里、寺尾聡といった作家や俳優らを卒業生として輩出してます。(戦前、あの入江たか子も入学してました)

米軍の爆撃の難を逃れた文化学院の駿河台校舎では、昭和30年代は、同じ駿河台で戦災に遭った仏語学学校「アテネ・フランセ」(1913年創立)が仮校舎として同居していたそうです。

今現在は、面白いことに、衛星放送のBS11(ビックカメラの出資会社)の本社として使われておりました。参謀本部のような謀略放送はしてませんが(笑)、放送局として再利用しているとは、奇遇というか、何かの因縁を感じでしまいました。

惜しむらくは、ニュースにもなりましたが、2014年に両国にキャンパスを移転した文化学院は、今年18年3月で、本当に閉校してしまいました。ネット上では「駿河台の土地が乗っ取られた」などと色々と書かれておりますが、今回は、趣旨が違うので、これ以上は追及しません。

所長室などがあった2階

見学ツアーの案内人で、午後の講演会「参謀本部の謀略放送」の講師も務めた名倉有一氏によると、この駿河台技術研究所の所長は、藤村信雄・外務省アメリカ局1課長でしたが、駿河台分室そのものをつくったキーパーソンは、参謀本部第2部第8課(参八)の恒石重嗣(つねいし・しげつぐ)少佐(1909〜96、享年86)で、当時32歳。高知県出身で、陸士44期生。あの瀬島龍三と同期でした。

市井の現代史研究家である名倉氏は、30年前の1988年と恒石氏が亡くなる直前の96年に本人にインタビューしており、その一部をセミナーで公開しておりました。名倉氏の努力には頭が下がります。

名倉氏は、駿河台分室で勤務していた元外務省嘱託の池田徳眞(いけだ・のりざね)著「日の丸アワー」(中公新書)を読んで感動して、謀略放送の研究に没頭し、関連書「駿河台分室物語」まで出版されております。詳細は、同書に譲りますが、恒石少佐らが工作した女性アナウンサー「東京ローズ」は、かなり効果があったようで、戦後、GHQに付随して来日した記者らは血眼で東京ローズを探したそうです。

秘密組織ですから、駿河台分室に精密な放送設備があったかどうかは不明で、謀略放送は主に、スタッフが内幸町の放送会館(現在のNHK)(場所は、今の日比谷シティ辺り)に移動して、そこから太平洋諸島から米西海岸辺りにまで届く電波で放送したようです。

つまり、NHKは、戦前のラジオ放送から国家機関の一翼として、時の政府や政権の宣撫活動に協力的だったことが分かります。今でも変わらないのは、歴史が証明しています。

ちなみに、恒石少佐は昭和20年に中佐に昇格し、同年6月に四国の第55兵站参謀に赴任、後任の実質的責任者は、スパイを養成する陸軍中野学校出身の一二三(ひふみ)九兵衛少佐でした。

「駿河台分室」見学の後、我々は、近くの「山の上ホテル」にまで移動しました。(途中に外務省の官舎がありました。勿論、標識も何もありませんが、事情通の人が教えてくれました)

山の上ホテルは戦前は、帝国海軍が接収した官舎だったそうです。戦後は、GHQが、Hill Top Hotelと名称を変えて(翻訳して?)そのまま接収して、女性将校用に使われたそうです。

知りませんでしたね。

ただ、戦後は、売れっ子作家が締め切りに追われて使う「カンヅメ・ホテル」ということは知ってました(出版社も近いので)。もう随分昔ですが、ここで学生時代の友人が結婚式を挙げたので、参列したことがあります。その後、宿泊ではなくて、ホテル内のバーには結構足を運びましたが(笑)。

GHQの女性将校の宿舎は、この山の上ホテルから、神保町の駿河台下に行く道路を挟んだ所にある旧主婦の友社本社ビル(現日大カザルスホールなどのお茶の水スクエア)もそうだったようです。主婦の友社ビルは大正14年(1925年)、あの著名なヴォリーズ建築事務所が建設した名建築です。

このように、米軍は、戦後の占領計画を練った上で、病院やホテルを残すなどして空爆を行っていたことが分かります。つまり、東京に残っている戦前の建物は、何らかの形で米軍が占領期に再利用する計画だったというわけです。

近現代史を知り、知識が増えると、見慣れた同じ景色が一変するから不思議でした。

沿道広告禁止のスペインとスタンプなしの帰国審査

アルハンブラ宮殿

日本で報道されている最近のニュースや話題が、どうもつまらないので、また、先月のスペイン旅行の話を取り上げます。毎日書かなければならないので、話題を見つけるのが大変です(笑)。

スペイン国内の移動は大型バスで、高速道路を利用しましたが、沿道はほとんど全く広告看板がありませんでした。

確かに、人家も見当たらない荒野を駆け抜けることが多かったのですが、それにしても、見当たらない。ケバケバしい広告だらけの日本とは大違いです。スペインはよほどの不景気なのか? 理由を添乗員さんに聞いたところ、「法律で禁止されているんですよ」という答えが返ってきました。

そうなのか。さすが、年間7000万人も観光客が訪れる世界第2位の観光国。美観を大切にするんだろうなあ、と納得しました。

ただし、例外がありました。巨大な牡牛の看板です。目鼻口は描かれず、シルクスクリーンのような真っ黒な看板です。どこかの牧場の印なのか、闘牛場のコマーシャルなのか、と思ったら、オズボーンというスペイン人なら知らない人がいないウイスキー会社の広告看板だというのです。極甘口のシェリー酒「オズボーン・ペドロヒメネス・1827」が有名なんだそうです。

ボトルラベルには、その真っ黒い牡牛がブランドマークとして載っています。

添乗員さんの話では、このウイスキー会社は目下、広告看板設置をめぐって、政府と裁判闘争中なんだそうです。まだ、判決が出ていないようなので、看板は撤去されていないといいいます。

◇◇

もう一つ。スペインの話ではないのですが、2年ぶりに海外旅行して出入国審査が変わっていたことには驚きました。随分簡素化されていたのです。

出入国の際、自分でパスポートをスキャンして、自分でカメラの前に立って、「人相認証」をやってもらうのです。そして、帰国した際に、以前パスポートに押してもらっていた入国スタンプが省略されてしまったのです。

スタンプなし!「バン」と係員にスタンプを押してもらった時、「あ、日本に帰ってきた」と安堵感が広がったものですが、何か拍子抜けしてしまいました。

【追記】

今日はあっさりしているので、少し追加します(笑)。

●昨年買った高級腕時計が、もう電池切れで今朝止まってしまいました。そこで、銀座の和光に行って電池交換してもらったら、何と3240円も取られてしまいました。以前の安い時計は、1000円ぐらいで済んだんですけどね(笑)。

で、思ったことは、時計屋さんにとって、電池交換がビジネスモデルになっているんじゃないかということです。先日、10年近く使っていたドイツ製電気シェーバーの切れ味が悪くなったので、最高機種9シリーズに買い換えたところ、何と18カ月で「替え刃」を交換するようにとのメッセージが入っておりました。

前の機種5シリーズは10年ぐらい使いましたが、替え刃を交換したのは1回だけ。つまり5年間ぐらい持たせていましたからね。何か、プリンタのインクリボン交換のような気がしました。電気シェーバーなんかなかなか壊れませんから、替え刃で儲けるシステムになっているんでしょう。

●安部第4次政権は、「全員野球内閣」なんだそうです。

早速、「政治をスポーツに例えるな!」と非難轟々です。

「全員野球じゃなくて、ライト(右翼)とキャッチャー(捕手⇒保守)しかいない」という人もいます。

「まだ3年か。とはいえ、終わりの始まり。ショート内閣になるかも」という人もいます。

 10月3日付日経の緊急世論調査によりますと、内閣支持率は、9月の調査から5ポイント減の50%、内閣改造を「評価しない」が44% に上りました。

 

クールベ「世界の起源」のモデルをついに発見!

アルハンブラ宮殿

ギュスターヴ・クールベ(1819〜77)は、19世紀フランスを代表する写実主義の画家です。代表作「オルナンの埋葬」「画家のアトリエ」などはよく知られています。詩人ボードレールの肖像画も残しています。

私自身は、大学の卒論に「印象派」(モネとドビュッシー)を選んだくらいですから、フランス史の中では、19世紀の文化や、革命を挟んだ帝政、王政復古、共和制、帝政、共和制とコロコロ変わる政治体制などにも関心があり、今でも興味を持ち続けております。

さて、クールベですが、パリのオルセー美術館に行かれると、クールベ・コーナーがありますが、そこに、ほぼ等身大の女性のgenitalsのクローズアップが展示されていて、まず大抵の人は度肝を抜かされます。タイトルの「世界の起源」(46×55センチ)とは言い得て妙で、よく名付けたものです(笑)。顔は描かれていません。局部だけです。

あまりにもリアル過ぎて「これ、ゲージュツなの?」と東洋から来たおじさんは圧倒されますが、これを見る前に、2人の若い裸婦がベッドで絡むようにまどろんでいる姿を描いた有名な、あの官能的な、想像以上に巨大な「眠り」(135×200センチ、プティ・パレ美術館)を事前に見ていれば、そのドギマギ感は少し薄れるかもしれませんが(笑)。

勿論、19世紀のサロンでは、このgenitals作品は大スキャンダルとなり、すぐさま隠匿され、オルセー美術館で一般公開されるようになったのは、つい最近の1995年からでした。その前は、著名な精神科医のジャック・ラカン(1901~81)がオークションで落札して何年間も、秘蔵していたようです。

「世界の起源」は検索すればその画像が出てきますが(18歳未満お断り。ここでは載せられません!)、そのモデルは誰なのか150年以上も不明で、一時はクールベお気に入りのモデル、ジョアンナ・ヒファーナン説もありましたが、謎に包まれていました。

それが、このほど、ついにその「正体」が分かったというのです。歴史家のクロード・ショップ氏が、仏国立図書館の司書部長で美術史家のシルビー・オーブナ氏の手を借りて、小説家のアレクサンドル・デュマと閨秀作家ジョルジュ・サンド(ショパンとの関係は有名)との往復書簡に注釈を付ける作業をしているうちに、そのモデルの名前が出てきて、偶然にも発見したというのです。

写真左がモデルのコンスタンス・ケニオー、右が画家クールベ

10月2日付のニューヨーク・タイムズ紙によると、そのモデルは、コンスタンス・ケニオー(Constance Quéniaux 1832~1908)という人物でした。パリ郊外で私生児として生まれ、オペラ座バレー団の踊り子として活躍した後、膝の故障で引退し、その後、高級娼婦になります。今ではすっかり忘れ去られましたが、当時は、あの楽聖ワーグナーと並び称されたオペラ作曲家のダニエル・フランソワ・エスプリ・オーベール(1782~1871)(現在は、パリ高速地下鉄オーベール駅にその名を残しています)の愛人となり、晩年はロワイヤル通りの豪邸に住み、彼女の死後は、その財産目録がオークションにかけられるほど裕福な後半生を送った人でした。

彼女がモデルになったのは1866年で、34歳ごろだったことが分かります。クールベは47歳でした。(依頼主は、当時コンスタンスを愛人にしていた元オスマントルコの外交官で超お金持ちのハリル・ベイ)その後、クールベは1870年のパリ・コミューンに参加してスイスに亡命せざるを得なくなり、不遇のうちに亡命先で57歳で亡くなります。

コンスタンスは、オペラ座の踊り子としてはかなり才能があったらしく、1854年の新聞の批評欄でも「優美で気品がある」と褒められています。詩人で批評家のテオフィル・ゴーティエも注目したようでした。

時は、日本で言えば、幕末の話です。現代人の感覚では、娼婦から愛人という遍歴は、眉をひそめるかもしれませんが、150年前は、田舎出の、しかも、私生児として生まれた女の子が、社交界にデビューするなり、それなりの地位に昇る手段の一つだったのかもしれません。富裕層は、劇場などに出かけては踊り子や女優らを自分の愛人にする時代でした。

 クールベも依頼主のベイの2人とも不遇のうちに亡くなりました。でも、コンスタンスの場合は、美貌と才覚に恵まれたおかげか、「成功者」として穏やかな晩年を過ごしたようでした。享年75。

察するにあまり…

アルハンブラ宮殿

国民の皆様には声を大にして言いたい。

昨日は、若い記者から「みそぎは終わったのか」なぞとタワケた質問をされました。でもですね、2016年、あの憎き週刊文春がスクープした金銭授受問題とかゆうやつで、私も秘書も、あっせん利得処罰法違反容疑で告発はされましたが、天下の東京地検特捜部は嫌疑不十分として不起訴処分にしたんですよ。

一点の曇りもないシロだと確定したわけです。

だから、若い不勉強な新聞記者にも言ってやったんですよ。「私については何の刑事事案にもなっていない。検察の捜査がすべてだ。まず正確な記事を書いてほしい」とね。

 アルハンブラ宮殿

そもそも、私の派閥の親分でさえ、モリカケ問題、公文書改ざん問題があったにもかかわらず、財務相を辞任するどころか、あろうことか、いや、口が少し滑りました、当然のこととして、第4次改造内閣で留任されたんじゃあ、あーりませんか。

私もね、本来はですね、党の総務会長になるはずだったですよ。つい先日も、日本の最高権力者から「実績、手腕、調整能力は他に追随を許さない」と褒められたばかりなんですよ。それを、馬鹿な、いや、また口が滑りました、賢明なる国民の皆様の中の異質な方が、SNSとかで、「どうせ検察とグルだろ。いかがなものか」と批判したり、野党党首からは「睡眠障害がこんな都合よく治る人はあまり見たことがない」なぞと皮肉ったりするものだから、党三役になれず、ナンバー4の選対委員長に甘んじてしまったわけですよ。

ふざけた話ですよ。

「人の噂も七十五日」と言うじゃありませんか?2年も昔のこと、馬鹿な、いや賢明な国民はもうとっくに忘れてますよ。大臣室で業者からもらった100万円と秘書がもらった500万円は、支持者と一緒に呑めや歌えやと銀座のホステスのチップで、とーうの昔に使い果たしてしまいましたよ。悪銭身につかずってやつですかねえ。でも、我ながら、私腹を肥やしたわけじゃないから見上げたもんですよ。

えっ?わしが誰かって、それは、察してあまりあるでしょう。

軽減税率はかなり恣意的では?

アルハンブラ宮殿

星の王子さまは「大切なものは目に見えない」と喝破しました。

だから私も言いたい。

「大切なことは誰も教えてくれない」。

つまり、知識は自分で学ばなければならないのです。特に、「生きる術(すべ)」。「人間の業(ごう)」…。

それらを学んで来なかったから、分別のついた老境に入っても、チンピラに因縁をつけられたり、詐欺師に騙されたり、人に裏切られたりするのです。

あ、俺のことか?(笑)。知識を身に着けても駄目じゃん!

アルハンブラ宮殿

という救いようがないオチで始まりましたが、ちょうど1年後の来年10月から、消費税が10%に増税されることが、99.99%確実となりました。

ところが、ここに来て急に、特例と言いますか、「軽減税率」案が浮上してきました。

この件については、「御用新聞」と揶揄されている読売新聞が、他紙を圧倒して、抜きん出て報道してます。さすが、「政府系機関紙」です。政策に関する情報は、この新聞を読まなければ分かりません(笑)。天下の朝日新聞は後塵を拝しております。経済面は特につまらない…。

しかし、この軽減税率、よく理解できませんね。仕組みが複雑です。例を取ると「外食」です。店内で食事すると、10%の消費税が掛かりますが、「お待ち帰り」だと、食品などの軽減税率が適用されて、8%で済むというのです。

そんなら、私は滅多に行きませんけど、ファストフード店に行って、店内で食べずに、お持ち帰りのフリをして、外のテラスの席でこっそり食べたら安上がりで済むということなのでしょうか。セコイ話ですけどね(笑)。

アルハンブラ宮殿

「新聞は8%の据え置きにする」という話も解せないですね。私は、新聞業界で働いていながら、不公正を感じます。どうせ、新聞業界のドンが政府筋に圧力を掛けたのだろう、と推測してしまいます。

一番困ってるのはスーパー業界です。「生活必需品」は軽減税率が適用されますが、酒やタバコは駄目、その他諸々…となると、レジ作業というか、値札付けや会計処理が複雑になることでしょう。

財務省のお偉い役人さんは「軽減税率は、欧米の例に倣った」と弁明してますが、思わず「欧米か!」と何処かの漫才師のように突っ込みたくなりました。