我がオーディオ遍歴記

 随分、大層なタイトルを付けてしまいましたが、私の世代ほど、オーディオ機器の変遷に翻弄された世代はないと思われます。

 まず、1960年代初頭、私が幼稚園の頃、家にあったレコードはSP盤でした。とても、堅いながら、落とすとパリンとすぐ割れてしまう代物でした。多分、父親のコレクションで、クラシックやジャズもあったかもしれませんが、私が覚えているのは何枚かの童謡でした。それほど聴いたわけではなく、何しろ、どんなSPプレーヤーだったか覚えていません。

 私が小学生の2年生ぐらいの頃になると、いわゆるLP、EP、シングル盤が聴けるポータブルのプレーヤーが家に入って来ました。兄が中学生だったので、主に兄が使っていたのかもしれません。

 覚えているのは、この上の写真のEPです。シングル盤は45回転で、A面、B面の2曲しか入っていませんが、EP盤はLPと同じ33回転で4曲も入っています。上の写真のEP盤はビートルズのLP「ラバーソウル」から編集されたものであることは今ではすぐ分かるので、1965年に発売されたと思われます。となると、小学校3年生の時でした。このEPは中学生だった兄が友人から借りてきたものだったので、2週間ぐらいで家からなくなりましたが、ビートルズといえば、激しくてうるさいロックだと思っていたら、こんな優しいバラードもあるのか、と子どもながら驚いたことを覚えています。

 小学生ながら、すっかり洋楽づいてしまい、文化放送の確か、ひがさ缶詰提供の「ポップスベスト10」などを聴いて育ちましたので、新曲を出せば1位になっていたビートルズ(「イエローサブマリン」辺りから=1966年)やローリングストーンズ(「シーズ・ア・レインボウ」辺りから=66年)などを覚えました。初めてレコードを買ったのは小学校4年生の時で、ビージーズの「ジョーク」という曲のシングル盤400円でした。その頃、父親がオープンリールのテープレコーダーを買いましたが、特に音楽を録音したわけでもなく、伯父さんが遊びにきたとき、唄を歌ったり会話したりしたものを録音したものでした。そのテープもレコーダーも今はなくなりましたが。

 LP盤を初めて買ってもらったのが1969年のビートルズの「アビイロード」でした。その時に、父親が初めてソニーのインテグラというステレオを買ったからでした。

 とにかく、中学高校生になるとお小遣いでビートルズのLPを買い集めました。カセットテープレコーダーもその頃に初めて買ったのでしょうが、その後何度も買い換えたので、いつ頃初めて買ったのかも覚えていません。

 1970年代、大学生になると、アルバイトでステレオのコンポーネントを買い揃えました。アンプはヤマハが良いだの、オンキョーが良いだの、スピーカーはデンオンが良いだの、と友人と競って買い揃えました。まだ、LPとカセットの時代で、我々はウオークマンの第1世代でした。

 日本で初めてCDが発売されたのが1983年ということですから、既に社会人になっておりました。初めてCDを買ったのは何だったのか覚えていませんが、LPで持っていたレコードは全てCDに買い換え、持っていたLPは二束三文で中古屋さんに売ってしまいました。80枚ぐらいで9000円ぐらいでしたから惜しいことをしました。

 MDが初めて発売されたのが1992年ということですが、これまた初めて買ったのはいつだったのか覚えていません。ラジカセも何回か買い換えましたが、カセットテープは、しばらくするとテープが伸びて音が聴けなくなったりするので、これまた持っていたカセットは処分して、全てMDプレーヤーに録音し直したりしました。

 30代は主にモーツァルトなどのクラシック、40代はビル・エバンスなどのジャズにはまり、50代以降はボサノヴァなど千差万別聴くようになりましたが、60代になると、次第に音楽はあまり聴かなくなりました。20代は一日16時間ぐらい聴いてましたが、今では一日30分ぐらいでしょうか。

◇今でも誰よりもMDを愛す

 さて、ここからが本題です(笑)。実は今でも語学講座の録音などでMD使い続けているのです、現在は、ネット上での音楽鑑賞が中心になり、録音する際は、フラッシュメモリーとかUSBとかハードディスクとか色々あるようですが、私はMDで止まってしまい、新しいものにはあまり付いていけなくなってしまったからです。

 レコードはSPから始まり、LPとなりCDを経験し、録音は、オープンリールからカセットテープになり、MDへと激動の時代を潜り抜け、もう疲れました(笑)。

ケンウッドのMDパーソナル・ステレオシステムMDXーL1

 実は、長年、語学録音などに使っていたMDプレーヤー(CDプレーヤーとラジオ付き)の調子が最近悪くなってしまい、何か、新しいものにしようかと思ったのですが、私が昔買ったものと全く同じものが通販で売っていたので、今回買うことにしたのです。ケンウッドのMDパーソナル・ステレオシステムMDXーL1という代物です。中古ながら2万5980円もしました。よく見たら「2009年製」とありました。ネット上で説明済でしたが、AMのアンテナが付いてなく、保証書も説明書もなく何か危ない(笑)。それに、楽天で買ったのに、何と古いアマゾンの段ボールに入れて送って来ましたよ(笑)。

 私が同機種を買ったのは「2006年製」で、領収書が出てきたので見たら、2万4800円でした。何だ! 中古品なのに、買った時のモノよりも高くなっているとは! まあ、経済は、需要と供給の世界ですから、高くても買う馬鹿がいるわけですねえ(笑)。この機種は、2006年に買ってから3年後の2009年に2回、CDの再生不可とMD録音の不調で修理に出して、合計9222円の修理代を取られていますが、それ以降1回も壊れていませんでした。まあ、15年間も長い間、よく頑張ってくれました!

 となると、新しく買ったこの中古品も2009年製ですから、あと3年ぐらい持ってくれればいいという感じかもしれません。修理に出しても、生産はとっくに終わって、部品もないことでしょうから。

 でも、3年後にこの中古品が壊れたら、今度はどうしましょうか。

 語学学習なんてもうやめてしまうか、専用のラジオ録音機器を買うか…。そして、CDを聴く専用のプレーヤーを買うしかないかもしれませんね。

 何しろ、今の人は、音楽なんて、ダウンロードして自分のスマホで聴くのが主流で、何そのCDって? LPって何ですか? SPって化石かアンモナイトみたいなもんでしょう?と言われることでしょう。

ヒスパニックか?エイジアンか?=それが問題だ

銀座・ひょうたん屋 Copyright par Keiryusai

  この話は、都内で語学学校を経営されていると思われる中村治氏にとってご参考になる話かもしれません。いきなり、御指名されて、さぞかし驚かれていることでしょうが(笑)。

 英語の話です。

  先月4日に、「杉田敏先生のラジオ講座『実践ビジネス英語』が今月で終わってしまうとは!=33年で幕」という記事を書きましたが、この中で書いた通り、「杉田ロス」にはなりたくないので、商魂たくましいNHK出版が発行する季刊ムック「杉田敏の現代ビジネス英語」を聴き始めました。ラジオ放送はなく、スマホにアプリをダウンロードして聴く方式です。 

 今のところ、公私ともに多忙で、なかなか聴く時間が取れないのですが、レッスン1の「The Power of Diversity 多様性の力」は、なかなか考えさせられる濃い内容でした。

 移民の国アメリカですから、米国には多様な人種の人が住んでいます。現在は、白人系が大半を占めていますが、2045年には、ヒスパニックや黒人(アフリカン・アメリカン)、アジア系などのマイノリティ(少数派)が人口比で白人を上回り(もしくは白人が50%を切り)、minority majority(マイノリティ多数派)の時代になるというのです。

 テキストの物語は、ニューヨークに本社を置く世界的な消費財メーカーを舞台に、日本人の主人公・井出恭平が米国に渡り、Diversity Marketingチームに配属されるところから始まります。チームのトップは、ユダヤ系のジェーン・ローゼンバーグ、同僚に、ヒスパニックやネイティブ・アメリカンのチェロキー系やレバノン系らがいてダイバーシティに富みます。

銀座・ひょうたん屋 鰻丼(昼のみ)1850円 Copyright par Keiryusai

 さて、このレッスン1の中で、ヒスパニックの話が出てきました。文字通りスペイン語を話す人という意味で、中南米系の人たちを指します。他にLatino(ラテンアメリカ人=男性)とかLatina(女性)という場合もありますが、男性女性関係なくジェンダーフリーでLatinx(ラティネックス)という言い方があることをこのテキストで初めて知りました。

銀座・みゆき館 Copyright par Keiryusai

 また、さて、なのですが、このことについて語学学校の講師を務めるウンベルト君に聞いてみました。彼はロサンゼルス生まれ、育ちの米国人ですが、メキシコ系です。両親が20代の時に、メキシコからロサンゼルスに移住して来ました。ちなみに、この両親の出身地は、ロックバンド「サンタナ」のカルロス・サンタナと同じメキシコ・ハリスコ州アウトラン・デ・ナヴァロです。今でも彼の祖母ら親戚がそこに住んでいるそうです。となると、彼は「ヒスパニック」の典型ですね。家庭内ではスペイン語が使われていたといいますから。

 そこで彼に聞いてみました。「あなたはヒスパニックで、ラティーノですか?それとも、ラティネックスと言われた方がいいですか?」

 彼は、浮かない顔で、しばし考えた後、「うーん、ラティネックスって聞いたことないですねえ。日本に来てもう5年になるから…。今向こうで使われているかもしれないけど…」と正直に答えました。そして、またしばらく間を置いて、

「うーん、ヒスパニックもラティーノもねえ…間違いじゃないし、問題ないんですけど…。そうだ、やはり、メキシカン・アメリカンが一番だ」と言うではありませんか。

 今度は、こちらが考える番です。「それが一番良いの?」

 すると、彼は「もし、エイジアンと言われてどう思いますか?インド系も中国系も韓国系も皆、エイジアンです。やはり、自分はジャパニーズ(日系)・アメリカンと言われた方がすっきりしませんか?」

 なあるほど、凄い明解ですっきりしました。つまり、エイジアンやヒスパニックではあまりにも範囲が広すぎるのです。

銀座・みゆき館 モンブランとコーヒー 1265円 ランチとデザートで3000円超えてしまった!

 テキストでは、黒人のことを、Black Americanまたは African American という他に、BIPOC(blackIndigenous and people of color)と呼ぶようになったというので、このことも彼に聞いたら、「BIPOC? うーん、知らない。聞いたことないですねえ」とまた正直に答えました。このテキストを創作した杉田敏先生は、毎日欠かさず、ウォールストリート・ジャーナルとニューヨーク・タイムズとザ・ガーディアンの3紙には目を通しているといいますから、ジャーナリズムの最先端に出てくるフレーズや言葉には精通しています。まあ、ネイティブ以上と言えます。逆に新聞を読まない世代は、米国人でも異国に住めば最新用語を知らないのかもしれません。

 この後、私も色々と考えて、「黒人の人も、ヒスパニックの例と同じように、アフリカン・アメリカンと言われるよりも、ケニアン・アメリカンとか、タンザニアン・アメリカンとか言われる方が嬉しいかもしれないね」と言うと、彼も「そうですね。その通りかもしれませんね」と相槌を打つのでした。

 テキストだけでは絶対に分からない微妙なこと(ニュアンス)まで学べた、というお話でした。

 

追悼 富沢勝氏を偲んで

ハナミズキ Copyright par Keiryusai

  今は昔、30年ほど昔、東京・渋谷の狭い路地の一角に「おつな寿司」という鮨屋さんがありました。残念ながら15年ほど前に閉店してしまいましたが、その鮨屋の2階で毎月1回、よく分からない烏合の衆が集まる会合が開催されました。八畳あるかないかの広さでしたので、30人も入れば超満杯。今で言う三密状態でした。

 何しろ、皆、勝手に、何の断りもなく冷蔵庫からビールを取り出して来て飲み始め、議論風発すると、口角泡を飛ばして、取っ組み合いの喧嘩が始まりかねない場面もしょっちゅうありました。

 主宰者は、当時「調布先生」と呼ばれた奇才なる才人で、人たらしというか、稀代のコーディネーター、もしくはプロデューサーでした。彼の知人友人を核に色んな人が集まりましたが、主に新聞・通信社、出版社、テレビ局等に勤務するマスコミ関係の人が多かったのでした。そういった烏合の衆の参加者が、色んな職種の友人知人をゲストとして呼んで質疑応答する会が毎月1回、土曜日の夕方に開催されたのでした。

躑躅 Copyright par Keiryusai

 ゲストは、刺青彫師、パチンコ釘師、学者、大学の学長さん、美術評論家、政治家秘書…と多士済々。表向きは「オフレコ発言」で、会計はその場で清算(余ったお金は二次会で使い果たす)。会則も名簿もなし。「来る者は拒まず、去る者は追わず」という主宰者の方針でしたから、累計500人以上は関わったのではないでしょうか。参加者の中には、「信長の棺」等で有名作家になった加藤廣氏(故人)や大手電鉄会社の社長さんになった方もおります。

 参加者はマスコミ関係が多かったのですが、気象予報士という異色の存在の方が毎回のように参加していました。富沢勝氏です。彼は目立っていたのですぐ分かりました。何故かというと声がでかい(笑)。そのうち、彼は「割れ鐘」(釣鐘が割れてしまうほど声がバカでかいという意味)三羽烏の筆頭格となりました。三羽烏の残りの二人はテレビ局に勤めるS氏(今では釈正道老師として有名)とY氏でした。

 富沢氏が得意とするところは、親父ギャグというか、ひどい駄洒落でした。あまりにもひどいので、周囲の顰蹙を買っておりましたが(笑)…。と、ここまで書いて、彼の放った駄洒落は今では、ほとんど覚えていないんですよね。印象的に覚えているのは、「今の若い奴らはモノを知らない。幕末上野戦争の彰義隊のことを将棋隊だと思っている」とか、「早見優(かつての女性アイドル)のこと、男だと思っていた」とか、その程度。駄目ですねえ。メモ書きでもして残しておかないと、人間、どんどん忘れてしまいます。彼のギャグがあまりにも下らなかったせいかもしれませんが(笑)。

 その富沢氏が一昨日、急逝されたという話を聞いて吃驚仰天してしまいました。まだ72歳。心臓に痛みを訴え、入院して1週間ほどで旅立ったと聞きました。人一倍、声がでかい割れ鐘で、人一倍、元気が有り余ったように見えたので信じられません。何しろ、気象予報士の後、70歳までJRの「押し屋」をやったり、弁当屋さんで働いたりしていたといいます。晩年まで社会参加と社会貢献に熱心な方でした。それに、大変な勉強家で加藤廣氏の著作の中から、彼の専門の天候の描写を抜き書きして、「この描写は凄い。史実とピッタリ符合しますから」などと発言していました。富沢氏の「割れ鐘」がもう聞けないと思うと、大変悲しくなります。

菖蒲 Copyright par Keiryusai

 富沢氏のご冥福をお祈り申し上げます。

 回覧メールに、富沢氏のお通夜と葬儀は本日と明日に東京・町屋斎場で行われるとありましたので、これまた吃驚です。昨日、このブログで書いた会社の同僚のO君の義兄の葬儀も本日、この町屋斎場で行われるからです。あまりにもの偶然の一致に、目に見えない何かを感じました。

山形は堅かった=銀座食べ歩き「山形田」の肉蕎麦

  いつの間にか、「銀座食べ歩き」ブログの様相を呈してきましたが、恥じ入ることなく、正々堂々と真っ向勝負していきましょう(笑)。

 職場の同僚O君は、席が隣り同士なので、プライベートなことまでよく話をします。今日は、彼の義兄さんの話でしたが、その方が亡くなられたという話を聞いて吃驚してしまいました。一昨日、その方の話を初めて聞いたばかりだったからです。

 義兄さんは、普段は健康そのもので、病気一つしたことがなかったのですが、半年前に急に胆石が見つかり、手術をしなければならなくなり、入院したら、他にも悪い箇所が見つかり、結構長い間入院されていたようです。そして、医者が宣告した通り、半年後の昨日、急死されたというのです。行年67歳だと聞いています。

 60代だと病気の進行は早いし、「あっけなかった」とO君も言っていました。

 まだ、元気だった半年前。O君は偶然、その義兄さんと銀座でバッタリ会ったというのです。どうやら、胆石の手術をしなければならないことをその時初めて聞いて、吃驚したといいます。義兄さんは、御徒町で長年続く宝石店の二代目だったらしいので、銀座に出てくることは滅多にないのですが、何かの用事があったらしいのです。

 その時に教えてもらったのが、この「山形田」というお蕎麦屋さんです。「美味いから一度行ってみたら」と言われて、その日は別れたそうです。後日、出かけたそうですが、彼も美味かったというので、本日、私も行くことにしたのでした。

 場所は松屋デパートの裏手、王子製紙本社ビルの近くにありました。何しろ、とても古いビルの地下にあり、表の看板も目立たないので、「口コミ」がなければ、通り過ぎて、絶対に行かないような店でした。

 それでも、狭い店内の壁には有名人らしきサイン色紙がいっぱい飾られていたので、知る人ぞ知る、通が集まる有名店なのでしょう。

 私は、この店で人気一番で、地元では「肉そば」と呼んでいる「蔵王冷やし地鶏そば」960円を迷わず注文しました。

 最近、戦国武将に凝ってしまったせいか、山形といえば、すぐに、初代山形藩主も務めた最上義光を思い浮かべます。この蕎麦は、最上義光も食べたのかなあ、と想像しながら食してみました。

 そしたら、吃驚(いつもビックリしていますねえ)、お蕎麦が太くてゴムのように堅い!―なんて書いてはいけませんね。実にコシがあって、噛み応え十分だった、と正確に書かなければいけません。そうでなければ、また、あの釈正道老師から「大間違い。他人のミスに気が付くのは超キモチイイー」などという投書が来るかもしれませんからね。

 出汁に何を使っているのか分かりませんが、スープがまろやかでとても美味しかったでした。リピーターが多いはずです。

 再び、「最上義光もこういうお蕎麦を食べていたのかなあ」と感嘆、感服することしきりでした。

 

世界三大料理に挑戦=トルコ料理もそうなんですか?

 やられたあーーー

 釈正道老師が、自ら「釈悪道」と名乗って、ケチを付けてきました。

  渓流斎ともあろうお人が、「遅かりし、蔵之助」とは! 「仮名手本忠臣蔵」では「遅かりし、(大星)由良助」です。蔵之助も大間違い。本物は大石「内蔵助」ですからねえ。他人のミスに気が付くのは超キモチイイー。          匿名マスク希望の釈悪道より。

 ググググ…、昨日書いた記事の間違いの御指摘ですが、まさに正論、合っていますからグーの音も出ません。恐らく、蛇のように執念深い釈正道老師は、この間の借りを返そうと、何か機会がないかと目を皿のようにして私のブログを毎日、細かく点検していたに違いありません。悔しいですが、私の負けです。やられたあーーー

 さ、気分を換えて、困った時の「銀座ランチ」です。

 その前に、「世界の三大料理」とは何か、釈正道老師は御存知でしょうかねえ?(笑)。フランス料理、中華料理はすぐ出てくるでしょうが、三番目はすぐには出て来ないはず。あれ?イタリア料理かなあ?ドイツ、イギリス、アメリカ料理は論外だし、まさか、和食かなあ…?

 ムフフフフ、残念、答えはトルコ料理でした。何でえ? はい、私も何でかなあ、と思います。一体誰がそう決めたんでしょうか? それすら分かりません。

 そもそも、三大料理と言ってもフランスに本格的料理を伝えたのは、1533年、仏王アンリ二世と結婚したイタリアのメディチ家のカトリーヌ の料理人と言われていますからね。となると、三大料理は、フランス料理ではなく、本家本元のイタリア料理のはずです。当時、ナイフとフォークもイタリアからフランスに持ち込まれたといいますから、何をか言わんやです。

 儘よ。本日はその世界三大料理の一つ、トルコ料理に挑戦してみました。

野菜スープ

 注文したのは、ミックスケバブ・ランチ 1100円です。

 最初に出てきたのが、野菜スープでした。初めて食したと思いますが、どうも、微妙な味でした。美味いのか、美味くないのかと言えば、滅法、美味いのです。トルコは地政学的にも、アジアとも、ヨーロッパとも言われていますが、その欧州とアジアの味が微妙にミックスされたような、何とも表現のしようがない味でした。クセになりそうでした。

 世界史に出てくるオスマントルコ帝国の最大勢力機の18世紀には、ハプスブルク帝国の首都ウイーンにまで迫まりました。モーツァルトの「トルコ行進曲」もその時に作曲されたと言われてます。が、これまた記憶で書いているので、またまた、釈悪道の野郎に間違いを指摘されそうです。くわばら、くわばら。

チキンとビーフのケバブ

 ケバブは、チキンとビーフがありましたが、両方味わいたかったので、ミックスにしました。んー、ごめんなさい。期待したほどじゃなかったかなあ。味付けもちょっと辛かった。

 むしろ、写真右のトルコ・パンが絶妙に美味かったでしたね。

トルコ・ティー

 東京都内では、12日(月)から新型コロナウイルスの緊急事態宣言に準じた措置が取れる「まん延防止等重点措置」が発令されたので、お客さんは疎らでした。

 そのせいなのか、注文していないのに、お店の人が「トルコ・ティー」をサービスしてくれました。メニューを見たら、250円もしました。うーむ、これも普通の紅茶と味は変わらず、トルコらしさは分かりませんでしたけど。

 勿論、会計の際、お店の人から「また次もお願いします」と、目を見つめながら念を押されてしまいました。

 嗚呼、また、行かないわけにはいかなくなってしまいましたねえ。

マスクが暴落=昨年の10分の1に

 またシャープさんから「マスク当選のお知らせ」がメールで届きました。これで何度目なのでしょうか? 余程、売れなくて余っているんでしょうか。

 マスクが品薄で、あれだけ欲しかった時に、シャープのマスク購入で応募したところ、残念ながら「落選」。すっかり諦めていたところ、厳選なる「再度の」抽選の結果、見事に当選したというのですが、「遅かりし、蔵之助」です。既に、通販で安いマスクを見つけて200枚ぐらい溜まっております。

 抽選倍率が100倍だった頃の昨年5月のシャープマスク50枚入りの価格は、送料込みで3938円でした。今でも3610円するようです。

 私が、マスク品薄のピークだった昨年5月にマッサージ店の店頭路上で買った時は、50枚入り3300円でした。

 その後、2000円、1000円と、どんどん価格が下がり、昨年末に通販で100枚入り900円(税、送料込み)を見つけた時は、思わず小躍りして買ったものでした。

 まさにシメシメでした。

 そしたら、がび〜んです。東京都内の某所で本日、マスク工業会認定マスクが7割引で売られていました。50枚入り800円が250円、900円が299円だというのです。

 それほど欲しくはなかったのですが、安さに負けて、またまた買ってしまいました。50枚入り299円のヤツにしましたが、表示価格は税抜だったので、結局329円でした。

 それでも、ちょうど一年ほど前は3300円でしたから、価格は10分の1です。こんなにも暴落するもんなんでしょうかねえ? 驚き以外何ものでもありません。

 驚きといえば、ついでながら、東海地方にお住まいの旧い友人T君が、心筋梗塞一歩手前の何とか狭心症で入院していたことが分かり、ビックリ。

 SNSに不可解な写真や抽象的な散文を投稿したりしていて、どうも斟酌や忖度がしにくかったのですが、彼には持病があったので、何やら定期検診でもしているのかなあ、と思ってました。

 でも、流石に病院食がアップされるようになって、あれっ?もしかして入院しているのではないかと思い、尋問したら、彼は救急車で搬送されたことをあっさり白状しました。

 今現在は、彼もやっと、どうやら安定したらしいので、私も少し安心しています。梨園の世界では、「五十、六十は鼻垂れ小僧」と言われるくらい、まだまだこれからの年頃なんですから、一刻も早く社会復帰してほしいと思っています。

「冷戦期内閣調査室の変容」と「戦後日本のインテリジェンス・コミュニティーの再編」=第35回諜報研究会

 4月10日(土)午後にZOOMオンラインで開催された第35回諜報研究会(インテリジェンス研究所主催、早大20世紀メディア研究所共催)に参加しました。ZOOM会議は3回目ぐらいですが、大分慣れてきました。S事務局長様はじめ、「顔出し」しなくてもオッケーというところがいいですね(笑)。今回私は顔出ししないで、質問までしてしまいました。勿論、露出されたい方は結構なんですが、私は根っからの照れ屋ですし、失礼ながら「野次馬根性」で参加していますから丁度いい会合です。インテリジェンスに御興味のある方は、気軽に参加できますので、私は主催者でもないのにお勧めします。

 でも、研究会は、素人さんにはかなり堅い内容で、理解するのには相当厳しいと思われます。お二人の報告者が「登壇」しましたが、正直、まだお二人の著書・訳書は拝読していないので、私自身もついていくのが大変でした。まあ、長年の経験と知識を総動員してぶら下がっていた感じでした。

岸俊光氏「冷戦期内閣調査室の変容ー定期報告書『調査月報』『焦点』を手がかりにー」

◇「冷戦期内閣調査室の変容ー定期報告書『調査月報』『焦点』を手がかりにー」

 最初の報告者は岸俊光氏でした。早大、駒大非常勤講師ですが、現役の全国紙の論説委員さんです。諜報研究会での報告はこれで4回目らしいのですが、私も何回か会場で拝聴し、名刺交換もさせて頂きました。そんなことどうでもいい話ですよね(笑)。報告のタイトルは「冷戦期内閣調査室の変容ー定期報告書『調査月報』『焦点』を手がかりにー」でした。

 何と言っても、岸氏は首相官邸直属の情報機関「内閣調査室」、俗称「内調」研究では今や日本の第一人者です。「核武装と知識人」(勁草書房)、「内閣調査室秘録」(文春新書)などの著書があります。

◇内調主幹の志垣民郎

 何故、岸氏が、内調の第一人者なのかと言いますと、内調研究には欠かせない二人のキーパースンを抑えたからでした。一人は、占領下の1952年4月9日、第3次吉田茂内閣の下で「内閣総理大臣官房調査室」として新設された際、その創設メンバーの一人で20数年間、内調に関わった元主幹の志垣民郎氏(経済調査庁から転籍、2020年5月死去)です。岸氏は志垣氏の生前、何度もインタビューを重ね、彼が残した膨大な手記や記録を託され、本も出版しました。

◇ジャーナリスト吉原公一郎氏

 もう一人は、ジャーナリスト吉原公一郎氏(92)です。彼の段ボール箱4箱ぐらいある膨大な資料を岸氏は託されました。吉原氏は「中央公論」の1960年12月号で、「内閣調査室を調査する」を発表し、一大センセーションを巻き起こすなど、内調研究では先駆者です(「謀略列島 内閣調査室の実像」新日本出版社 など著書多数)。吉原氏は当時、「週刊スリラー」(森脇文庫)のデスクで、内部資料を内調初代室長の村井順の秘書から入手したと言われています。私は興味を持ったのは、この「週刊スリラー」を発行していた森脇文庫です。これは、確か、石川達三の「金環食」(山本薩夫監督により映画化)にもモデルとして登場した金融業の森脇将光がつくった出版社でした。森脇は造船疑獄など政界工作事件で何度も登場する人物で、政治家のスキャンダルを握るなど、彼の情報網はそんじょそこらの刑事や新聞記者には及びもつかないぐらい精密、緻密でした。

 あら、話が脱線してしまいました。実は今書いたことは、岸氏が過去三回報告された時の何度目かに、既にこのブログで書いたかもしれません。そこで、今回の報告で何が私にとって一番興味深かったと言えば、内調を創設した首相の吉田茂自身が、内調に関して積極的でなかったのか、政界での支持力が低下して実力を発揮できなかったのか、そのどちらかの要因で、大した予算も人員も確保できず、外務省と旧内務省(=警察)官僚との間の内部抗争で、中途半端な「鬼っ子」(岸氏はそんな言葉は使っていませんが)のような存在になってしまったということでした。岸氏はどちらかと言えば、吉田茂はそれほど熱心ではなかったのではないかという説でした。

◇保守派言論人を囲い込み

 もう一つは、内調を正当化したいがために、先程の志垣氏らが中心になって、保守派言論人を囲い込み、接待攻勢をしていたらしいことです。その代表的な例が「創価学会を斬る」で有名な政治評論家の藤原弘達で、内調主幹だった志垣民郎と藤原弘達は東大法学部の同級生で、志垣氏は約25年にわたり接待攻勢を繰り広げたといいます。他に内調が接近した学者らの中に高坂正堯や劇作家の山崎正和らがいます。

 内調が最も重視したのは日本の共産化を防ぐことだったため、定期刊行物「調査月報」「焦点」などでは、やはりソ連や中国の動向に関する論文が一番多かったことなども列挙していました。

小谷賢氏「戦後日本のインテリジェンス・コミュニティーの再編」

 もう一人の報告者は、小谷賢・日大危機管理学部教授でした。ZOOMに映った画面を見て、どこかで拝見したお顔かと思ったら、テレビの歴史番組の「英雄たちの選択」でゲストコメンテーターとしてよく出演されている方だったことを思い出しました。

◇「戦後日本のインテリジェンス・コミュニティーの再編」

 報告のタイトルは「戦後日本のインテリジェンス・コミュニティーの再編」で、岸氏の研究の内閣調査室も小谷氏の専門範囲だったことを初めて知りました。テレビでは、確か、古代から戦国、幕末に至るまで的確にコメントされていたので、歴史のオールマイティかと思っていましたら、専門は特に近現代史の危機管理だったんですね。

 テレビに出る方なので、テレビ番組を見ているような錯覚を感じでボーと見てしまいました(笑)。

 彼の報告を私なりに乱暴に整理すると、戦前戦中にインテリジェンスの収集分析の中核を担っていた軍部と内務省が戦後、GHQによって解体され、それらの空白を埋めるべき内閣調査室が設置されたが、各省庁の縦割りを打破することができず、コミュニティーの統合に失敗。結局、警察官僚の手によって補完(調査室長、公庁第一部長、防衛庁調査課長、別室長のポストを確保)されていくことになるーといったところでしょうか。

◇「省益あって国益なし」

 戦前も、インテリジェンス活動に関しては、内務省と外務省が対立しましたが、戦後も警察と外務省が覇権争いで対立します。小谷氏によると、警察は情報をできるだけ確保しておきたいという傾向があり、外務省は、情報は政策遂行のために欲しいだけで、手段に過ぎないという違いがあるといいます。いずれも、政府に対して影響力を持ちたいという考えが見え隠れして「省益あって国益なし」の状態が続いたからだといいます。これはとても分かりやすい分析でした。将来悲観的かといえば、そうでもなく、若い官僚の中には軛と省益を超えて国益のために活躍してくれる人がいるので大いに期待したいという結論でした。

◇歴史学者の役割

 小谷氏は、明治から現代まで、日本のインテリジェンス・コミュニティー通史を世界で初めてまとめたというリチャード・サミュエルズ(米MIT政治学部教授)著「特務」(日本経済新聞出版、2020年)の翻訳者でもありました。三島由紀夫事件のことも少し触れていたので、同氏の略歴を調べてみたところ、1973年生まれで、若い(?)小谷教授にとって、1970年の「三島事件」は生まれる前の出来事だったので、吃驚してしまいました。別に驚くことはないんでしょうが、歴史学者は、時空を超えて、同時代人として経験しないことまでも、膨大な文献を読みこなしたり、関係者に取材したりして身近に引き寄せて、経験した人以上に詳細な知識と分析力を持ち得てしまうことを再認識致しました。

見つかった! 海軍兵学校の跡が

銀座・イタリア料理店「La Grotta」

ここ最近、ブログのネタに困ると、すぐ「銀座ランチ」に飛びついてしまいます。

 手頃だということもありますが、これには深い訳があります(笑)。

 まず、職場が銀座なのですが、あと、どれくらい今の職場にいられるかどうか分かりません。あと3年ぐらいは働き続けたいのですが、早ければ今秋にもクビを切られてしまいます。

銀座・イタリア料理店「La Grotta」ランチ ロイヤル三元豚肩ロースのグリルステーキ200グラム フレンチフライ添え 1100円

 となると、そう易々と銀座を闊歩していられなくなります。ということは、銀座でランチもできなくなってしまうのです。ですから、これまで高額で、「敷居が高い」と敬遠していたお店でも、無理してでも行くことにしたのです。全部自腹です。取材費も落ちません。釈正道老師が誤解している青色申告の還付金もありませんよ。

 さてさて、私の職場は、かつては日比谷にありましたが、今は銀座にあります。職場が生活の中心になると、特にランチや夜呑みの店探しで職場近辺を探索します。おかげで、日比谷、新橋、虎ノ門、銀座、有楽町、築地、新富町、八丁堀、明石町辺りは、どんな狭い路地でも、外国人に通訳案内が出来るほど詳しくなりました(笑)。

 でも、おっとどっこいです。まだまだ知らない、行ったことがない路地も沢山ありました。

 今日は、気分を変えて、普段は散策しない路地に入ったら、上の写真の「石碑」を偶然、発見しました。

「海軍兵学寮跡」と「海軍軍医学校跡」の石碑でした。

海軍兵学寮」とは、明治2年(1869年)に前身である海軍操練所が設立された翌年に「海軍兵学寮」と改称されたものです。明治9年に「海軍兵学校」となりますが、明治21年(1888年)に広島県の江田島に海軍大学校が設置されると、同時に海兵学校も移転します。

 海軍軍医学校の前身は、明治6年(1873年)に創設された海軍病院付属学舎です。一時廃止されましたが、日露戦争前に医療スタッフ増強のため、軍医学校が再度設置され、明治41年(1908年)に芝山からこの築地に移転されました。昭和20年11月の閉校まで続きます。

 場所は、築地川の畔で、采女橋の近くです。

 現在、築地川は埋め立てられて、眼下に高速道路が走っています。この石碑は、「新橋演舞場」の対岸といいますか、裏手にあるというべきか、それとも「国立がん研究センター」の裏手にあるというべきか、まあ、その辺りにひっそりと建っています。

 石碑は、あまり宣伝していないので(笑)、まず、知っている人は少ないと思います。

 以前も、このブログに書きましたが、銀座のみゆき通りとは、明治天皇が宮城(皇居のことですよ)から海軍兵学校へ視察行幸される際に通られる道として名付けられました。

 海軍将校養成のエリート学校である築地の海軍兵学校はここにあったんですね!私は、てっきり、今の築地市場場外辺りにあったと思っていました。

愉しみながら米国史が学べる=松岡將著「ドライビング・ヒストリック・アメリカ 懐かしのヴァージニアに住まいして」

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  まさに有言実行の人です。昨年末か、今年に入ってからか、かの満洲研究家の松岡將氏から「今、また本を執筆中です。内容は秘密です」との連絡が入りました。秘密とは…、何か隠したいことでも、御執筆遊ばされているのかと思いつつ、忘れかけていた数日前に、出版社から私の陋屋に「著者謹呈」で本が送られてきました。

 それがこの本「ドライビング・ヒストリック・アメリカ 懐かしのヴァージニアに住まいして」(同時代社、2021年3月26日初版)です。

 「いやあ、凄いなあ」というのが第一感想です。何しろ、本の略歴に書かれていますが、著者の松岡氏は1935年2月7日生まれ。御年86歳ではありませんか!恐ろしいほどの体力、知力です。瀬戸内寂聴さんも吃驚です。

 読み始めてみると、これがめっちゃ面白い。楽しみながら、アメリカの歴史(特に独立戦争と南北戦争)を学ぶことができ、著者ファミリー(御令室、御子息、御令嬢の一家4人)と一緒に米国の名所旧跡を回ることができるからです。

 途中で、「あれ? この話、どっかで読んだことがあったような…?」と思っていましたら、著者が30年ほど前に出版された「ドライビング・アメリカ」(ジェトロ出版部、1992年)から部分的に借用していることが分かりました。私も昨年10月3日付の渓流斎ブログで、「南北戦争と和製英語の話=松岡將著『ドライビング・アメリカ』から」のタイトルで取り上げております。

 「借用」と大袈裟に書きましたが(笑)、本人が書いたものを「引用」しているわけですから、何の問題もなし。この本では、先行の本とは違って、グーグルマップや名所旧跡を訪れた際のプライベートな家族のカラー写真がふんだんに掲載されているので、類書ながら格段の違いです。

 それにしても、86歳の著者の記憶力には驚愕します。

◇スーパー爺ちゃん

 本の巻末やネットの著者略歴に書いてあるので、書いてしまいますが、著者の松岡氏は農水省のエリート官僚で、1972年から76年まで4年間、外務省に出向し、米国の在ワシントン日本国大使館に勤務した人でした。満洲関連本以外に昨年、現地での副産物として、「ワシントン・ナショナル・ギャラリー 三十六肖像」と「ワシントン・ナショナル・ギャラリー 参百景」を立て続けに上梓し、そのスーパー爺ちゃんぶりを発揮しました。

 私が大先生に対して、「スーパー爺ちゃん」などと気安く書けるのは(怒り心頭でしょうが)、御本人とは面識があり、御自宅にも何度もお邪魔したことがあるからです。ほとんどの読者にとって、本の著者とは面識を持つ機会に恵まれることは少ないのですが、(作家が故人なら尚更!)、幸運にも私はかつて、文芸記者という仕事の関係で多くの著者本人とお会いすることができました。そうなると、本を読むとその著者の声や言い回し、時によっては笑い声や怒りの声まで活字を通して聞こえてくるのです。この本を読んでいても、松岡氏の微苦笑が何度も目に浮かび、聞こえてきました(笑)。

 「記憶力抜群」というのは、例えば、在米4年間に乗ったフルサイズ車は、GM、フォードの2台で走った総距離は6万マイル(10万キロ)とか、その間使ったガソリンが6000ガロン(2万3000リットル)とか、サンクスギビングデーで食したディナーが、スッタフドローストターキーとクランベリーソース、それにスイートポテトとパンプキンパイ…等々、もう半世紀近い出来事なのに、よく覚えていらっしゃること! …んーむ、そんなことないですね。恐らく、細かいメモや毎日、日記を付けていて、それを参照されたことでしょう。

 とにかく、逸話が満載です。

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 例えば、米大陸最初の英国人による植民は、メイフラワー号ではなく、それに先立つ13年前の1607年、スーザンコンスタント号、ゴッドスピード号、ディスカバリー号の3艘で、場所はヴァージニア州のジェームズタウンだったこと、南北戦争で南軍の総司令官になったロバート・E・リー将軍の夫人アーリントンは、初代大統領ワシントンの夫人マーサの連れ子パーク・カスティス(後にジョージ・ワシントンの養子)の娘だったことから、南部軍総司令官になるまでリー将軍は、カーティス・リー・マンションに住んでいたこと、ヴァージニア州とウエスト・ヴァージニア州の違い…等々、あまり書くとこの本を読む楽しみが減ってしまうのでやめておきます。

◇超大金持ちのR氏とは何者か?

 とは言いながら、どうしても書きたかったことは、松岡氏と大富豪R氏との交歓です。たまたま、世界一周旅行をしていた米国人のR氏夫妻と東京で知り合った二十代後半の松岡氏は、彼が大富豪だとは少しも知らずに、自分の自宅に招いたりして交際し、その後もクリスマスカードをやり取りする仲を続けていました。そして、ワシントンに赴任している際に、ニューヨークに住むR氏の自宅を訪れると吃驚。マンハッタン島の中心地に聳える1棟5階建てのマンションが、彼の自宅。あのジョン・レノンでさえ、ダコタハウスの何階かのフロアーを所有していただけですから、1棟丸ごと所有するR氏は、超大金持ちです。

 それに加えてロングアイランド島東端イーストハンプトンにある別荘が凄い。松岡氏ファミリーはこの別荘に招待され、車で駆け付けますが、ワシントンから飛ばして6~7時間かかる距離。R氏が住むニューヨークからイーストハンプトンまで2時間半。別荘の間取りの広さや絵画や彫刻が飾られた美術館のような部屋は当然のことながら、キャッチボールどころか軟式野球ができそうな広い芝生の庭。そして、何よりも、R氏一家(とそのゲスト)しか入れないプライベートビーチまで付いているのです。

 プラチナ価格のニューヨーク・フィルの年間席を持ち、冬はフロリダを越えてバハマやバミューダにまで足を伸ばし、何年かに1回は世界旅行をする超富裕層であるこのR氏の職業は何で、どんな人物なのか、最後まで書かれていませんでしたが、あのロックフェラーさんなのかなあ、と思ったりしました(笑)。多分違うと思いますが、この本のエピソードの中で、在米日本大使館勤務の松岡氏の御令室が、当時の副大統領だったロックフェラー氏とあるパーティーで出会った時、向こうから「私はバイス・プレジデントです」と名乗るので、御令室はどこかの中小企業の副社長のおっさんか何かと勘違いしたかどうか分かりませんが、「どちらのバイス・プレジデントですか?」と尋ねたそうな。そしたら、本物の副大統領だと分かって後で冷や汗をかいた、といったことも披露されてます。

 まあ、私から言うのも変ですが、面白い本なので、お読み頂ければ幸いです。

 ちなみに、プライバシーになりますが、写真と文章に頻繁に登場する松岡氏の御子息は今では有名なスーパーコンピューターの世界的権威、御令嬢は、大手国際企業の重役さんです。この本を読むと、子どもの時から好奇心旺盛のようでしたから、大物になるはずです。

知ってましたか?江戸、京都、大坂の庶民の暮らしを

Copyright par Keiryusai

 昨日、私の書斎の机の上は「つん読」状態で、まだ読んでいない本や雑誌で溢れかえっている、といったことを書きましたが、月刊誌「 歴史人」もその一つ。面白い特集ばかりやってくれるので、昨年辺りから毎月のように買うようになりました。

 このブログでも何回か取り上げましたが、情報量が多いので読むのが大変。他の本と併読しているせいか、数週間も掛かってしまいます。

 昨日はやっと、3月号の「江戸 京都 大坂 名所めぐりと庶民の暮らし」特集を読了しました。でも、机の上にはまだ4月号の「戦国武将ランキング」特集と5月号の「日本の城 基本のき」特集があります(笑)。「歴史人」は昨年までKKベストセラーズ社の発行でしたが、どういうわけか、今年1月号辺りから発行がABCアーク社に変わったようです。詳細は分かりませんけど、ABCアークを調べたら、どうも大阪のABCテレビ(朝日放送)の関連会社のようです。テレビは、歴史ものやクイズ番組を放送するので、買収したのかしら?スタッフさんはどうも変化ないようですが…。詳しい方は教えてください。

 またまた前置きが長くなりましたが、「歴史人」3月号「江戸 京都 大坂 名所めぐりと庶民の暮らし」の話でした。私が知らなかったり、へーと思ったりしたことを備忘録として箇条書きすることにします。

◇江戸

 ・享保6年(1721年)、幕府が全国調査したところによると、江戸の町方人口は50万1394人だった。これは推定だが、武家人口50万人を加えると、江戸の人口は100万人を超え、ロンドンやパリを超える大都市だった。(私が先日読んた本によると、幕末ではロンドンの人口は300万人ぐらいだったようです)

・明暦3年(1657年)1月18日、明暦大火(振袖火事)が江戸を襲い、市中の6割が灰となり、死者は10万人に達した。

・天皇は幕府の統制下に置かれ、3万石ほどの領地(禁裏御料)を貰っていた。(1万石以上が大名と言われます。3万石だと美濃・高須藩、上総・久留里藩などと同じになります。「江戸の藩の石高ランキング」による)

・江戸には日銭が3000両落ちるとされた。そのうち千両ずつ落ちるのが、朝の魚市場、昼の芝居町、夜の吉原だった。

・忠臣蔵、赤穂浪士で有名な泉岳寺は、もともと徳川家康が幼年時代に身を寄せた今川義元の菩提を弔うために、慶長17年(1612年)に外桜田の地に創建したものだった。しかし、寛永18年(1612年)の大火で喪失し、三代将軍家光の命により今の地に移設・再建された。

・江戸四宿とは、品川、千住、、板橋、内藤新宿のことを指す。

ソメイヨシノとは違う変わった種類の桜 色まで違う! Copyright par Keiryusai

◇京都

・京都の三条大橋は、天正17年(1589年)、小田原征伐が決まった直後、豊臣秀吉が増田長盛に命じて修復・架橋させた。この三条大橋の河原では、石川五右衛門をはじめ、豊臣秀次、石田三成らが処刑された。

・京都・妙心寺は臨済14派の中でも最大宗派で、全国の臨済宗寺院約6500のうち約3500を有する。

◇大坂

・人口の約半分が武士だった江戸に対して、大坂の人口40万人のうち武士はわずか8000人だった。

・元禄年間の地図に描かれた大坂は、現代の北区、西区、中央区の3区に当たる範囲だった。東西約8キロ、南北約6キロと歩いて回れるサイズの街に、最盛期に40万人以上の人が暮らした。

・大坂も、大地震や火災が多く、「坂」は土に返るに通じて縁起が悪い、ということから、大「阪」に変更したという説がある。