自分の思いと人生

「人生は自分の思い通りにならない」と言う人がいます。

方や「自分の思った通りに人生はなっている」と確信している人がいます。

「思い通りにならない」からと言って自暴自棄になる人がいます。

「思い通りになりすぎる」と言って出家する人もいます。

どちらが正しいのでしょうか?

実は両方とも真実なのです。

真理という言い方もできます。

逆に言えば、真理とはそう言うものなのです。

人は自分が見たいと思うことしか見ないので、他人が入る隙間がないのです。

説得しても無理なのです。

「話せば分かる」ことはないのです。

だからこそ、そこにお互いの信頼と尊重が生まれます。

親子でも兄弟でも夫婦でも友人でも仕事関係でも、お互いに信頼と尊重がなければ長続きしません。

日々、自戒しております。

心と身体

正直、ここ数年、自分の感情のたたずまいに振り回されています。

もちろん、楽しいことも沢山あります。

しかし、残念ながら、毎朝、目が覚めた時、何とも言えぬ感情に支配されます。

それは一口ではいえませんが、不安と恐怖と焦燥と後悔と瞋恚と怨嗟と絶望が入り混じったもので、その症状は心痛、不快、発汗、痙攣といった形で現れます。

告白することは、弱さではないと思っているので、今、現象を淡々と叙述しましたが、最近、すごい文章を発見しました。

ゴリラ学者の山極寿一氏の「ゴリラ」(東京大学出版会)に書かれています。
ちなみに、彼の名前は10数年前に出版された立花隆氏の「サル学の現在」で知りました。なんで、人は猿の研究なんかをするのか、と不思議でしたが、結局、人間とは何かを研究する学問だということがその本で初めて分かりました。

彼は言います。「現代人の身体には心の歴史の百倍におよぶ体験が刻印されている。心が身体を思うがままに操れるわけがない」-と。

考えてもみれば、人類の歴史は500万年前から進化したと言っても、文明を築いたのはたかだか1万年前くらい。心の問題を扱う心理学など百年かそこらしか経っていません。何百万年もヒトは、感情を言葉に表されないどころか、思考の範疇で敷衍することさえできませんでした。感情をそのまま身体で受け止め、吐き出すしか、術がなかったのでしょう。

心で身体をどうにかしようなんて、土台無理な話だったのです。心や感情に重きを置くことはほどほどにした方が良さそうです。
これからはもう、心や感情には振り回されず、身体に聞いてみますか。

思考の現実化

最近、自分の思ったことが現実化する場面が多い気がします。
例えば、「あの人、今どうしているのかなあ」と思ったりすると、街中でその人と10ヶ月ぶりぐらいでバッタリ会ったりするのです。

本当に、日常生活の中の細かいことが多いのですが、「アイスクリームが食べたいなあ」と思っていたら、買ってきてくれていたり、「この道を行くと、やばいかなあ」と思っていると、車が急にスピードを上げて曲がってきたりするのです。

いわゆる思考が現実化するということなのでしょうか?

こうなっては、なるべく悪い不吉なことは考えないように、物事を「いい方にいい方に」考えた方が良さそうです。

昔は、何でもかんでも否定的に考えていました。
「仲良きことは美しい哉 実篤八十歳」なんていう色紙をみると、腹が立ってしょうがなかったのですが、武者小路はやはり素晴らしい人格者だったことがこの年になってやっと分かりました。

これからは「明るく前向きに」をモットーにします。

勇気

ロンドン大学で哲学の上級講師を務めるグレイリング氏が、ガーディアン紙に寄稿したコラムから(拙訳)。

戦闘や冒険よりも、日常生活の方がもっと異常とも言うべき勇気が必要とされる。なぜなら、悲嘆、病気、失望、苦痛、競争、貧困、喪失、恐怖、心痛といった人生ではどうしてもありえてしまう、避けられないことが起きるからである。これらのすべては人ならその状況で誰しも味わうことであり、毎日、何十万人の人が体験していることだ。エベレストによじ登ることさえ簡単に思わせてしまうようなある種の忍耐と勇敢さが求められる。
(中略)
夜、苦痛で眠れなかったり、毎朝、悲嘆に暮れて目が覚めたり、それでも起き上がって、その人がベストを尽くして頑張り続けること。それこそが勇気そのものではないだろうか。

女優・学者・斉藤とも子さん

女優の斉藤とも子さんが、母親の胎内で被爆した原爆小頭症の家族史をテーマにした修士論文を書いた話を某日、ラジオで聞きました。

名前は、音だけで聞いていたので、「サイトウトモコ」さんと言われても、漢字名が思いつかず、当然、顔を思い出せなかったのですが、後日、新聞に載った記事と写真で、昔よく学園ドラマに出ていた彼女だったということが分かったのです。

彼女は高校を中退していましたが、大検に合格し、三浪の末、38歳で東洋大社会学部に入学したそうです。もう44歳になっていました。新陳代謝の激しい芸能界ですから、若い人は知らないはずです。

彼女が原爆に関心を持ったのは、井上ひさし原作の舞台「父と暮らせば」(宮沢りえ主演で映画化されました)に出演したのがきっかけだったそうです。

偏見かもしれませんが、芸能関係の人がこれほどまで熱心に学問を研究する人は、皆無とは言いませんが、多くはないのではないでしょうか。何度も広島に行き、原爆小頭症の患者の家族を訪ね歩いて、聞き取り調査しながら、「本当は、患者としてそっとしておいて欲しいのではないか。こんなことをして、いいのだろうか」と煩悶したこともあったそうです。

いつか彼女の論文を読んでみたいです。

斉藤さん、あなたは偉い!(小松の親分の口調で)

ミャンマーで得度した日本人僧侶

今日は、ミャンマーで得度した日本人僧侶に会いに行きました。

この人はどういう人で何という名前かは茲では記しません。知る人ぞ知る人で、知らない人は知らないし、必要とする人は神のように崇めるでしょうが、必要としない人は、すれ違っても目に入らないか、素通りしてしまう人です。

その辺は、つまり、自分自身のことは、彼は十分すぎるくらい分かっているようでした。
「私は、よく新興宗教に間違えられます。そりゃあ、私どもの仏教は、まだたった2500年しか経ってませんからね」と、逆説的なことを言えば、
「私は教団を持たなければ、弟子もとりません。寺もなければ、定住する家もありません。私を必要とする人の元へ、世界中を駆け回っているだけなのです」と言います。

ですから、最初の講和の出だしは奇抜でした。神聖な御言葉が聞かれると思ったら、「私はホームレスです」。もちろん、半ばジョークですが…。

昨年末に大被害があったスマトラ沖地震では、世界中から支援物資が届きましたが、その殆どが一番困っている現地の人に行き渡ることがなく、食物は腐り果てていた、と彼は糾弾していました。
物資を運ぶにも、現地の小童役人が小遣い稼ぎに税金を掛けているそうなのです。

私も今回は、ユニセフの募金をしましたが、彼は「東京のユニセフの支部に行ってごらんなさい。建物のあまりにもの立派さに驚くでしょう。そんな支部でも、みんな、天下りの役人が居座っているのです。だから、皆さんが、1000円募金したとしても、何十円しか現地の人に行き届かないのです」と暴きます。

私は彼のことを、世間から隔離して生きて、瞑想に耽ってばかりいる人だと思っていたのですが、なかなかのジャーナリストでした。「最近、子供が親を殺したり、日本では悲惨な事件が多すぎる」と嘆いていました。

私は、彼と個人面談をして、こう言われました。

「私がアドバイスしなくても、もう自分で答えが分かっているじゃないか。自分ではどん底と思える今の境遇でも、本当は一番のチャンスなんだぞ。できないことを無理してやろうとするから悩むんだ。自分の嫌なことをやっているから、自分を生かしきれていないんだ。できることをやっていれば、いい。そうすれば、いいことが、後から木の葉のようについてくる」

この続きはまたいつか。

達観した人の意見

「精神世界」や宗教と言うと、抵抗感を持つ方も多いので、あまり使いたくないのですが、要するに「達観」した人の意見というのは妙に一致しているので、「何か共通項があるのではないか」と修行の足りない私なんか考えてしまいます。
「達観した人」とは別に宗教家でなくてもいいのです。倒産を経験した経営者でも、芸能人でも、普通の市民でも誰でもいいのです。有名無名は関係ありません。

例えば、
●人生の問題に正解はない。
だから、自分の選んだ道を進めばいい…。この言葉は、最初、5,6年前に作詞家のA氏が週刊誌での対談で言っていました。また、最近、ある精神世界系の人の著書で同じような文言を発見しました。

●答えは、自らが知っている。
これも、精神世界系のTさんが著書の中で何度も言っていました。それが、先日、精神科医のDさんが、新聞のコラムで次のようなことを書いていたのです。

「(精神科医として)人の話を聞いていると、ほとんどの場合、患者さんは自ら問題点に気づき、答えを見いだしていくことが多い」

どうですか。「達観した人」たちの意見は、大して変わらないでしょう?

ジェーン・グードル博士の逸話から

いい話を聞きました。

チンパンジーの世界的な研究家として知られるジェーン・グードル博士が、まだ研究を始めて間もない頃、アフリカのジャングルの奥深くに分け入って、いくら努力してもチンパンジーを見つけることができませんでした。「声はすれど、姿は見えず」状態が何ヶ月も続きました。

そこで半ば諦めたグードルさんは、ジャングルで不貞寝をする格好で横になってしまったのです。すると、どうでしょう。あれ程追い求めていたチンパンジーの方から好奇心を持って近づいてくるではありませんか。中には大切な食べ物であるドングリを持ってそっと手渡してくれました…。

この話を聞いて、友人の話を思い出しました。彼は新聞記者でしたが、上司と喧嘩をして挙句の果てには、「人が住む所ではない」北海道の激寒地に飛ばされました。そこでは、不慣れな営業マンに「宗旨替え」をさせられました。そこでは、誰一人知る人はいません。地縁、血縁、それに看板もありませんでした。最初はがむしゃらにニュースや本を売り歩きました。しかし、頑張れば頑張るほど空回りして相手は逃げてしまい、契約は1本も取れませんでした。そこで彼は、半ば諦めて、外に出歩くことはやめて、暗い顔をして狭い雨漏りのする事務所で一人、じっとしていました。もう精神的圧迫に耐えられませんでした。

すると、どうでしょう。今まで全く相手にしてくれなかったクライアントの方から徐々に電話が掛かってくるようになり、結局、大きな契約を取ることができたのです。

めでたし、めでたし。

それでもやっぱりがんばらない

日本では自殺者が7年連続3万人を超えています。「異常事態」と言っても良いのに、世間は彼らに「負け組み」のレッテルを貼って葬り去ります。

過労死、過労自殺も増えています。

今、自殺を考えている人に是非読んで欲しい本があります。

長野県の諏訪中央病院の鎌田實院長がこのほど上梓した『それでもやっぱりがんばらない』です。同氏の『がんばらない』『あきらめない』に続く待望の第3弾です。

本書の中のメッセージ。

「がんばらない」とホッとしていると副交感神経が刺激されて免疫機能が高まり、生きる力が湧いてきます。

視床中心正中核

自分の思い通りに物事が進まない時、パニックに陥らないようにブロックするメカニズムが脳の中にあるそうです。

京都府立医科大大学の木村実教授グループ(神経生理学)が「発見」しました。

それは、脳の中心部にある「視床中心正中核」と呼ばれるもので、サルを実験に、脳に電極を刺して脳神経の動きを調べたところ、「期待した通りの報酬を与えられなかった」ケースで、この「視床中心正中核」が一番敏感に反応したそうです。

さしずめ、私なんか、幾星霜の「期待はずれ」を経験したせいか、この「視床中心正中核」が肥大化しちまったのでしょうね。

否、もっといい方に解釈しましょう。この「視床中心正中核」のおかげで我々はこの世に踏みとどまっていられるのです。

「視床中心正中核」さん有難う!