やくざと日本民族と靖国史観 


今、何冊か並行して本を読んでいます。

溝口敦著「カネと暴力と五代目山口組」(竹書房)は読了しました。でも、内容については、インターネットを通して、世界中に配信できるかなあ、といったものです。ネガティブな意味ではなく、大変勉強になりましたので、ご興味がある方は読んでくださいという言い方しかできません。雑誌に連載された記事の寄せ集めで、さすがに、論旨の重複や不統一が見られ、いかんせん、情報が古びてしまったものもあります。それでも、総会屋関係の人脈組織関係は、非常に参考になりました。
五代目渡辺会長が、宅見若頭の傀儡政権で、そのために、反発した中野会が、宅見若頭を暗殺したという説には大変説得力がありました。

加藤周一氏の「日本文化における時間と空間」(岩波書店)は、途中で挫折しそうです。「羊の歌」「日本文学史序説」など、加藤氏の著作は、まあまあ読んでいるとは思いますが、この本は異様に難しい。硬くなったコッペパンのように、なかなか咀嚼できません。何となく、まだ途中ですが、分かったのは、日本人は「今」「ここ」を重視する民族で、ユダヤ欧米人のように、時間的概念としての「初め」も「終わり」もその概念がない。歴史観がまるで違う、といったものです。だから、日本人はすぐ「水に流す」とかいう言い方ができるというのです。

イスラエルという国家がパレスチナに存在するのは、何千年も昔にあったという時間の延長の概念に意義と存在証明があります。

日本という国家は、歴史上、蒙古とアメリカと露西亜にしか「侵略」された経験がないので、簡単に過去のことを水に流すことができるのでしょう。

いやあ、これ以上書くと、炎上してしまうので止めておきます。

もう1冊は、小島敦著「靖国史観」(ちくま新書)です。これも、なかなかエグイ本です。著者は、最高学府で、いわば国民の税金で最高の教育を受けた母校の助教授(正確には准教授ですか)になったというのに、庶民を上から見下ろして、学問のない人間に対しては徹底的に誹謗して、人を喰ったような言い方をするのが、鼻につきますが、概ね論旨は痛快で、もやもやしていた視界が晴れるようで、爽快感があります。

著者は、司馬遼太郎をはじめ、明治維新を全面的に肯定する歴史観は中立的ではない、と批判し、そのために「国体の本義」や「国体明徴運動」などについて詳細し、歴史的に分析しているのです。

国体というのは、国民体育大会の略称ではないのだよ、お馬鹿さん。と著者は露骨に書いていますが、それは、おいといて、国体という言葉と定義を発明したのは中国人ではなく、日本人だったということを初めて、本書を通じて、お馬鹿さんの私は知りました。水戸藩の正志斎こと会沢安(あいざわ・やすし)です。

この国体の護持ということが、以前書いたポツダム宣言受諾の折に問題になり、その前に、美濃部達吉の「天皇機関説」問題などがあったり、様々な政治問題のキーワードになるわけです。もちろん、今でも続く「靖国問題」もそうです。

正直に書けば、実に面白い本です。真の歴史家を自認している著者の論理には説得力があります。「反司馬遼史観」に立つことにした私にとっても、力強い味方になってくれそうです。

この本については、また、読了後、書くつもりです。