達観の境地

 十勝岳

 

会社の先輩の水川雅紀さん(仮名)と昨日、昼食を一緒にして色々とお話を伺いました。

 

水川さんは、大学の先輩でもあり、私より6歳年長です。でも、童顔でほとんど白髪もないので、私より6歳以上若く見えます。そんな先輩が、大病を患ったのは、昨年の春先。生死を彷徨うほどの大病で、約1ヶ月間の入院で、まさに九死に一生を得て、この世に生還を果たしたという感じでした。

 

病名は「急性大動脈乖離」。石原裕次郎やドリフターズの加藤茶とほぼ同じ病名です。ある日、突然という感じではなく、何か徐々に徐々に体調が思わしくなくなり、救急車で運ばれた時は全く歩けない状態だったそうです。下半身に血の巡りが悪くなり、医者が脚の脈を取ったところ、脚の脈がなかったそうです。

 

約1ヶ月間は、絶対安静の状態で、手術をすると、何か、鉛のような金属を埋め込まなければならなかったそうですが、そこまでしなくても回復してきたので、退院したそうです。しかし、今でも「いつ再発してもおかしくない」時限爆弾を抱えているようなものです。

 

原因を考えても、仕事のストレス以外はあまり考えられないそうです。健康には一応気を使い、食事にも気を使っていた。強いて挙げるとすると、、倒れる前は、よく、焼酎を原酒のまま飲んでいた。それぐらいだったそうです。

 

この世に生還して1年余り。私が「人生観は変わりましたか」と質問すると「変わったなんてもんじゃないよ」と先輩は答えました。「ああ、このまま死んじゃうんじゃないかなあ、と思ったけど、もう少しだけ、生きてみたい。何をしたいというわけじゃないんだけどね。別に何か書いてみたいということでもない。とにかく、細々と、でいいから、生きてみたい。そう思ったんだよ」

 

先輩は、特に宗教や信仰を持っているわけではなく、言葉を巧みにして表現するようなタイプではありませんが、「達観の境地かな」と言いました。私が「路傍に咲く花が一段と可憐に見えたりするんじゃないですか」と言うと「そうそう、その通りなんだよ。うまいことを言うねえ」と声のトーンを上げました。

 

「いつも、家の近くで散歩していた所で、入院前は通り過ぎていた『おせんべい屋』さんがあってね。そこでは80代のお爺さんとお婆さんが店を切り盛りしているんだけど、そこで、色んなおしゃべりをしたりしてね…。細々と生きるということがこんな素晴らしいことなのか初めて気がついたよ」

 

「そうなると、会社の人事とか出世なんかには興味なくなるんじゃないですか」と私。

 

「そう、まったーく、どうでもいい。出世したからと言ってどうなの?ウチの会社の人を見ても、出世しても可哀想なくらい惨めでしょう?人間、生きるということは、そんなもんじゃないということに気付いたんだよ」と、先輩は自信満々の表情でした。

 

これこそ、まさに「達観の境地」です。

私などのように修行の足りない人間は、毎日、焦ったり、後悔したり、地団駄を踏んだり、恨んだり、羨んだりしてばっかりなので、まだそんな境地にまで至りませんが、非常に腑に落ちる話ではありました。