常識について

 上士幌町

 

1969年夏、甲子園球場での高校野球決勝戦。延長18回引き分けで、翌日も投げぬいた三沢高校(青森)のエース太田幸司さんは、当時は「マッサージも酸素カプセルもない。肩は冷やすな、水は飲むな。今は正反対」だったと告白しています。

 

当時は、漫画「巨人の星」が全盛期。私もよく覚えています。とにかく、スポーツしている間、決して水は飲むなという指導でした。肩も冷やしてはいけない。まさしく、今のスポーツ指導法とは正反対です。今のスポーツ選手は、野球でもサッカーでもマラソンでも、選手が途中でガブガブと水を飲むシーンが大写しにされます。投手も投げ終わると、分厚いアイシングの姿です。

 

「水は飲むな」にしても、当時は当時で、それが、常識として正しいやり方として、蔓延していたわけです。しかし、現在では、否定されて、百八十度、逆のやり方が「常識」として通用しているわけです。

 

「物の見方」というのも、そんなもんじゃないかと思います。誤解を恐れずに言えば、今の靖国問題も、従軍慰安婦問題も、さまざまな政治的な歴史問題も、今だから常識として言えるのであって、また、時代が変われば、百八十度違った常識が蔓延するのではないかという危惧を持っています。

 

物事の見方は多面的であって、ある時代は常識であっても、別の時代は非常識になることは大いにありえるわけです。

 

ですから、テレビのような大衆的なメディアに顔を出して、堂々と「自分」の意見を公言している人たちの勇気には大変恐れ多く感じてしまいます。「自信家なんだなあ」と思ってしまいます。

 

私なんか、いつも迷って、思考もコロコロ変わります。それに天邪鬼です。今日、アメリカの下院外交委員会で決議された従軍慰安婦問題も、「確かに悪徳非業で、当事者の中国や韓国に言われるのは分かるが、原爆を投下し、東京、大阪など全国の諸都市の無辜の市民を無差別空爆して殺戮した国の人間に言われたくないなあ」と、つい右翼的言動を振りかざしたくなります。

 

この決議案を提出したホンダ議員という人も名前から分かるとおり、日系の人ですが、華僑から多額の政治献金を得ているという話です。何か、裏があるような気がしてしょうがありません。

 

とはいえ、私はあくまでも、従軍慰安婦は当時の軍当局が直接関与していた申し開きのできない所業だったというスタンスです。捏造だったという説は否定します。