京洛先生の夜はけふも更けて 第3刷

王子稲荷神社

昨晩、京洛先生から電話がありまして、もしかして、最近頂いている無署名のコメントが、京洛先生の手になるものではないかと思い、質問させて頂いたところ、「いやはや、一体誰が書いたんでしょうねえ」と、肯定も否定もしませんでした。それより、「ああたの最近のブログは、長過ぎますね。どうせタダで書いてるんですから、そんなに気張らなくてもいいでせう」と、はぐらかされてしまいました(笑)。

いつも登場する京洛先生ですが、洛中、洛外、上洛なんかもそうですが、この洛がどこから来たのか、賢明なる読者諸兄姉の皆々様方はとっくにご存知のことと拝察致します。

はい、中国の古都、洛陽ですね。隋などの首都にもなりました。「洛陽の紙価を高める」の、あの洛陽です。

京の都は、唐の首都だった長安(現西安)を参考したとばかり私なんか思っておりましたが、実は、東を長安、西を洛陽の街を参考にしたらしいですね。

京の平安遷都は794年、桓武天皇によってでしたが、この都をつくるのに陣頭指揮を取ったのが、造営大夫和気清麻呂(わけのきよまろ)でした。ということは、彼が、洛陽と長安の街づくりを取り入れたわけです。(京都は当時、山背国葛野=かどの=と呼ばれ、新羅系の秦氏が治めていました。桓武天皇の生母新笠は、百済王の末裔高野=または和=氏でした)

和気清麻呂は、現在では全く忘れられた日本の歴史上の人物ですが、戦前は知らない人はいませんでした。なぜなら、彼は、明治から昭和初期にかけて、十圓札紙幣に登場し、庶民から公爵まで、毎日のようにそのお顔を拝んだいたからです。(庶民は、滅多に拝めなかったかもしれませんが)

和気清麻呂は、道鏡事件で一時失脚して、大隈国(現鹿児島)に島流しされるなど波乱万丈の人生を送っています。もっと書きたいですけど、また京洛先生から怒られるのでこの辺で(笑)。