戦争時、いや間違い、浅草寺
8月9日は、長崎原爆忌。
目下、リオデジャネイロ五輪、甲子園の高校野球、そしてプロ野球…と生中継のコンテンツが 豊富ですが、辛うじて、長崎原爆忌のニュースだけは、フォローされておりました。
しかし、この世の不条理に異議申し立てをする方もいらっしゃいます。皆様ご存知の松岡総裁です。
…小生にとって、この8月9日は、それこそ、時間単位で出来事を想起させる日である。別に競い合う積もりはないが、新聞などに“長崎原爆投下”のことは出ていても、現今に至る東アジアの政治的・軍事的歴史を大きく塗り替えた、“8月9日、ソ連軍170万満洲一斉侵攻開始”などと言うことは、何処を探しても出てこない。これが、“日本人の歴史感覚” 、と言うものなのですね…
まさに、忿懣遣る方なし、といった感じです。
私も、8月9日付の各紙夕刊の東京最終版6紙を全部チェックしてみましたが、何処もソ連軍の侵攻や暴虐に触れていません。
これでは、日本人の歴史感覚も、レベルが低いまんま、低空飛行を続けていってしまうと考えざるを得ませんね。
私も松岡総裁に敢えて質問してみました。
◇ヤルタの密約は何処まで取り決められたのか?
…自分の不勉強を棚に上げて申し訳ないのですが、ヤルタ秘密協定で、8月9日、長崎原爆投下とソ連軍侵攻は、同時進行として取りきめられたのでしょうか?ソ連は長崎原爆は事前通告されていたのでしょうか?
それとも、米軍が、焦って、戦局を優位に進めるために暴走したのでしょうか?…
夕刊を読んでいたら、ある被爆者が「広島の原爆はウラン、長崎はプルトニウム。米軍はどちらの効き目が高いのか人体実験したに過ぎない」と証言されておりました。
確かに、アメリカは、憎っきドイツに対しては、同じ白色人種ということで、原爆を投下せず、イエローモンキーなら人体実験になると主張した科学者がいた、という話も漏れ聞いたことがありますが、裏を取ったわけでもなく、確実な証拠があるわけでもなく、都市伝説のように、誠しやかに言い伝えられていただけのかもしれませんが。
さて、私の質問に松岡総裁は何と答えるか?
◇日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連
…ご質問の件に関しては、関係歴史的事象を、時系列的に整理・推論していくことにより、自ずと解を得られることと思われます。勿論、後に起こったことが、前に起こったことを規定することはないのです。
小生の「松岡二十世とその時代」(日本経済評論社)には、関係歴史的事象が、次のように精密にえがかれています。
(1)「三大国、すなわちソヴィエト連邦、アメリカ合衆国及び英国の指導者は、ドイツ国が降伏し且つヨーロッパにおける戦争が終結した後二箇月または三箇月を経て、ソヴィエト連邦が、次の条件で連合国側において日本国に対する戦争に参加することを協定した」(618ページ)
(2)なお各地に残存していたドイツ国防軍の首脳部は、五月七日、五月八日発効ということで、フランスのランスで連合国側の無条件降伏文書に署名し、また、ソ連側に対しては、五月九日、ベルリンにて、無条件降伏文書に署名した。(751ページ)
この五月八日は、その三ヶ月後の八月八日に、ソ連が、ヤルタ秘密協定を援用し、まだ有効期間中であった日ソ中立条約を破棄して対日宣戦布告を行い、八月九日午前零時を期して、満洲への一斉侵攻を開始するに至る、運命の日となった。
(3)マリアナ諸島のテニアン島を発進した第二十一爆撃航空団所属のB29エノラ・ゲイ号は、八月六日午前八時十五分、広島上空で人類最初の原子爆弾、リトルボーイを投下し、同爆弾は、六百メートル上空で核分裂爆発した。(761ページ)
それから二日経ったモスクワ時間八月八日午後五時(日本時間午後十一時)、ソ連のモロトフ外務大臣は、クレムリンにモスクワ駐在佐藤尚武日本国大使を招き、ソ連の「対日宣戦布告状」を手交した。
その一時間後、満洲での一大カタストロフィーの幕開け、昭和二十年八月九日午前零時がやってきて、アレキサンドル・ワシレフスキー元帥指揮下の百七十万の極東ソ連軍が、東、西、北の三方面から、怒濤の如き満洲一斉侵攻を開始した。
なお、上記(3)の佐藤尚武日本国大使が、大使館に戻った時は、すでに無線は破壊され、佐藤大使は、「対日宣戦布告状」を本国を含む外部に伝えることは出来なかった由である。
上記(1)~(3)の次第をよくよく整理して考えれば、ソ連を含む連合国間の権謀術数がよく分かると思われます。…
うーん、難し過ぎる。
8月9日の長崎原爆とソ連侵攻の同時進行は、ヤルタ協定で確約されていたのか、それとも偶然だったのか?
日本の歴史家もメディアも、この「同時多発」に関しては少なからず、再検証するべきではないでしょうか?
偶然だろうが、必然だろうが、悲劇は、8月9日に長崎だけでなく、満洲でも起きたことを日本人として、もっと再認識するべきでしょう。
少なくともこの満洲の悲劇(ソ連のスターリンがその引き金を引いた!)で、60万人もの人がシベリアに抑留され、葛根廟事件のように民間人が大量虐殺される悲惨な事件が多発し、世界史上稀に見る残留孤児問題が起きたわけですから、後世の人間としてはもっと認識を新たにしなけらばなりません。
いわんや、松岡氏のように、1945年8月9日に満洲の首都新京(現長春)に住んでいて、ソ連軍による虐殺暴行略奪横暴を目の当たりにした「歴史的証人」にとっては、メディアにさえも取り上げられない現状に怒りを覚えるのも当然かもしれません。