高橋ユニオンズ

花やしき

で、前回の続きです。

◇高橋トンボユニオンズ

さて、田辺宗英は、ボクシングの殿堂後楽園ホールをつくり、初代日本ボクシングコミッショナーになるなど、ボクシング界に貢献した人として名を残しますが、一方で、後楽園には野球場「後楽園スタヂアム」をつくり、当時勃興したばかりの職業野球の殿堂にもなります。

後楽園スタヂアムは、1937年9月にできます。何とこの年は、支那事変の発端となる盧溝橋事件や南京事件が起きた年です。

と、ここまで書いて、よくよく調べて色んな説を参照しますと、後楽園スタヂアムをつくったのは、田辺宗英ではなく、日本野球草創期に、早稲田大学野球部選手などとして大活躍した河野安通志と押川清(仙台の東北学院大学の創設者押川方義の子息)の2人のようです。

河野と押川は、1920年に日本で最初のプロ野球球団「日本運動協会」もつくったそうです。私は、日本で最初の職業野球は、読売新聞社主の大正力による今の巨人の大日本東京野球倶楽部(1934年創立)かと思っておりました。そして、職業野球第1号選手も、この巨人の三原脩かと思っていましたが、どうやら間違いでした。とはいえ、嬉しい発見です。

で、後楽園スタヂアムの話でしたが、河野と押川の提案で会社が設立され、出資者として、読売の正力松太郎や阪急の小林一三、東急の五島慶太、松竹の大谷竹次郎らに協力を求めました。小林の異母弟の田辺は、専務取締役として名を連ね、後に第四代後楽園スタヂアム社長に就任するわけです。

当時はまだフランチャイズやホーム制度が確立されておらず、後楽園スタヂアムは、後の読売巨人軍や後楽園イーグルスというチームなど多球団が併用して使っていたようです。

この聞き慣れないイーグルス球団というのは、先の河野と押川がつくった念願のチームで、戦時下に敵性用語を使うとは何事か!と指弾されて、大和軍などと改名します。戦後は紆余曲折を経て、高橋ユニオンズというチーム名になります。

このチームも散々名前が変わり、途中でトンボ鉛筆の資本が入り、トンボ・ユニオンズと名乗っていた時期があります。かつて、私はこのチームの名前を知った時、「野球に何でトンボ?おかしな名前だなあ」と不思議に思っただけで、深く調べようともしませんでしたが、鉛筆会社が球団を持っていたとは!今さらながら感心しました。

トンボ鉛筆は、今でも健在で東京都北区の王子に本社があり、私は、外からチラッと見たことがあります。確かに、昔は、学生のほぼ全員が鉛筆を使っていた時代で、プロ野球の球団のオーナーになれるほど儲かっていたでしょう。

しかし、パソコン、スマホの時代となり、鉛筆の消費は大幅に減少しました。噂では、トンボ鉛筆の現在の収入の大半は、鉛筆より消しゴムらしいですが、裏は取っていません(笑)。

で、今回一番書きたかったことは、プロ野球のチーム名に「高橋」などと自分の名前を付けた人は、一体何者か?という素朴な疑問でした。

そしたら、驚き、桃の木、山椒の木じゃありませんか!

この「高橋」とは、戦前、大日本麦酒(今のアサヒとサッポロ)社長を務め「ビール王」と呼ばれた大実業家高橋龍太郎(1875~1967)のことで、戦後は日本商工会議所の会頭を務め、参院議員や通産相も歴任した政治家。プロ野球だけでなく、日本サッカー協会会長も務めた人だったのです。

さらに、彼は、ノーベル賞作家大江健三郎と同じ愛媛県内子村出身で、大江の大先輩として、旧制松山中学(松山東高校)も出ているのです。(その後、東京高商や三高に進学)

旧制松山中学は、夏目漱石の「坊ちゃん」の舞台でもあり、漱石の親友の正岡子規の出身校(他校に転校して卒業していないようですが)でもあります。

この話は、先日、友人と話したばかりでしたので、我ながら可笑しくなりました。

「ボクシングと大東亜」

世久阿留

名古屋にお住まいの海老普羅江先生から書簡が送られてきて、ある本を読みなさい、とのお勧めでした。

それは、乗松優著「ボクシングと大東亜 ~東洋選手権と戦後アジア外交」という本でした。

未読です。

著者の乗松優(のりまつ・すぐる)さんという方は、1977年生まれの若き、といいますか、新進気鋭の社会学者で、現在、関東学院大学兼任講師なんだそうです。

渓流斎の興味や関心事は、近現代史とその表舞台に出てこない裏社会の人やフィクサーにありますが、この本もその知られていない歴史に埋もれた真実を暴いた力作のようです。

私の世代の子どもの頃は、今以上にボクシングブームで、ファイティング原田や海老原ら多くの世界チャンピオンを輩出して、テレビの視聴率も異様に高く、よく言われていますように、敗戦で打ちひしがれていた日本人に勇気を与えた、と言われています。

当時は、WBAやWBCの世界戦だけでなく、東洋太平洋級までもが大いに注目されました。

あの「あしたのジョー」も、確か、最初はこの東洋太平洋級チャンピオンになったと思います。

で、この乗松さんの本は、宣伝文句を換骨奪胎しますと、関係者の証言や資料をもとに、太平洋戦争で100万人以上が犠牲になったフィリピンとの国交回復をめぐる葛藤と交流の軌跡を描いた力作なんだそうです。

そこには、「鉄道王」小林一三の異母弟で、「ボクシングの聖地」後楽園を築いた田辺宗英、稀代のフィリピン人興行師と共に暗躍した元特攻隊ヤクザ、「メディア王」正力松太郎、そして「昭和の妖怪」で現首相の祖父岸信介らが登場します。

またまた、宣伝文句を引用しますと、「テレビ史上最高視聴率96%を記録した戦後復興期のプロボクシング興行の舞台裏で見果てぬアジアへの夢を託して集った男達の実像に迫る、『もうひとつの昭和史』」ともいえる作品なんだそうです。

ここまで、引っ張られれば、読みたくなりますよね?

で、ここまでは、表面的なご紹介で、海老普羅江先生は、「後楽園」をつくった田辺宗英と、読売新聞の社主にして東京読売巨人軍の創設者である正力松太郎との関係について触れます。

「二人は、いわゆる『刎頸の友』で、巨人と後楽園球場との契約も、ほとんど『口約束』だったと言われますよ」などと、超極秘情報を掴んでおられましたの。さすがです。

長くなるので、続きは次回。