八丁堀 与力・同心組屋敷跡

ホイコーロー定食 680円

為五郎さんから、また、北海道からメールがありまして、「今、札幌鑑別所ですが、明日から網走に護送されることになりました」とのこと。お勤めご苦労様です。

その為五郎さんが嫌いなのが、渓流斎ブログのランチ写真です。娑婆にいた頃は、「何で、渓流斎のランチを見なければならないのか」と大きな疑問を呈しておられましたが、今は、もう暫く娑婆には出てこないので、居候、三杯目をそっと出すことにしました(笑)。

栄光の社員時代は毎日、ランチは銀座で洒落込んでいたのですが、やはり、全国平均の相場から比較しますと、銀座は高い!

ということで、今回は、銀座から築地~新富町、さらには八丁堀まで足を延ばした途中にあった中華料理店に入ることにしたのです。何と、「定食680円」と大看板を掲げているじゃあ、ありませんか。

普段、ランチに贅沢にも1000円也を平気で出費しておりましたから、何と320万円もお得。失礼。増添君と比べて小せえ、小せえ。こんな差配では出世するようなたまではありませんなあ(笑)

八丁堀 与力・同心組屋敷跡

で、何で、昼休みの貴重な時間を使って、銀座から徒歩で八丁堀まで行ったのかと言いますと、「与力・同心組屋敷跡」を再訪したかったからです。

今は、何とかスクウエアとかいう名前だけは立派ですが、数十年前に建てられた古い3階建ての雑居ビルになっていました。

内容は、上記掲載の写真通りです。

そこに書いてある通り、与力は、知行二百石で、三百~五百坪の屋敷住まいですから、かなり身分が高かったんですね。でも、当初の与力は、わずか10人ですから、10人では、百万都市東都江戸の治安を守れるわけがありません。

配下の同心が、蛇の道は蛇で、かつて罪科人だった岡っ引きやその子分の下っ引きをかなり多く雇っていたとはいえ、それにしても、少ない。

日本人は真面目で律儀で働き者だったのでしょうか。世界の大都市の中でも、かなり治安が良かったのかもしれません。

明治十四年の政変

大阪朝日新聞創刊号

太田治子著「星はらはらと 二葉亭四迷と明治」(中日新聞社)を読んでいますと、明治のエポックメイキングの歴史がふんだんに出てきます。

自由民権運動、明治十四年の政変、秩父事件、五日市憲法を草案した千葉卓三郎…

そしたら、私の嫌いな、と以前に書いた榎本武揚も出てきましたよ。明治8年、樺太・千島交換条約条約を締結した日本代表として。日本側は、榎本武揚全権委任公使。ロシア側は外相のゴルチャコフ。文字通り、日本領かロシア領か曖昧だった樺太を千島と交換してしまいます。(幕臣から新政府に寝返った榎本武揚については、福沢諭吉も「丁丑公論」の中で批判しています)

強国ロシアにとってはいい案件だったことでしょう。後に石油が出るアラスカをタダ同然でアメリカに売却してしまったので、その穴埋めをしようと必死だったのでしょう。

明治8年の時点で、樺太には多くの日本人も住んでいました。この条約締結を後ろで糸を引いていたのが、黒田清隆北海道開拓使前長官(薩摩藩士、長州伊藤博文に継ぐ第2代首相)。もともと樺太に住んでいたアイヌ民族を北海道に強制移住させたのも黒田でした。この黒田こそが、周囲の反対を押し切って榎本武揚の助命のために頭を剃った人です。黒田は、開拓使払い下げ事件を起こしたり、明治11年、酔って妻を蹴り殺したのではないかという醜聞を朝野新聞に暴かれたりして、一時失脚しますが、逆に、この情報を流したと噂された大隈重信を明治十四年の政変で失脚させます。薩長藩閥政府に怖いものなし。

反薩長藩閥政府の立場を取った朝野新聞に対して、福地源一郎率いる東京日日新聞(今の毎日新聞)は、政府ベッタリで、黒田の醜聞は書かず、政府の発表ものしか書かないので、太田治子さんは何度も「東京日日は、御用新聞」とハッキリ書くので可笑しくなりました。

しかし、幕臣出身で真面目の塊の二葉亭四迷こと長谷川辰之助は、朝野新聞の成島柳北が明治11年、前米大統領で南北戦争の英雄グラント将軍が来日した際に、接待委員を務めたことから、大いに失望したりするのです。

こういう本を読むと、明治の時代が、歴史としてではなく、現在進行形の出来事として生き生きと感じられますなあ。

二葉亭四迷のこと

江戸歌舞伎発祥の地

(昨日の続き)

お約束ということで、昨日の太田治子著「星はらはらと」(中日新聞社)から。

二葉亭四迷の伝記で、まだ読書中ですが、「へ~、なるほど」と、取り敢えず、勉強になったことを列挙します。

・二葉亭四迷、本名長谷川辰之助は、元治元年(1864年)、江戸市ヶ谷合羽坂の尾州藩上屋敷生まれ。父吉数は、尾張藩御鷹場(おたかば)吟味役江戸詰めの下級武士。江戸市ヶ谷合羽坂尾州上屋敷は、維新後新政府により没収されます。そこには、山縣有朋の画策で陸軍士官学校がつくられ、昭和16年から敗戦まで、陸軍省、陸軍参謀本部が置かれます。敗戦後、米軍に接収されてここで極東国際軍事裁判が行われ、返還後、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地を経て、現在、防衛省の敷地になっています。長谷川家は、バリバリの徳川の幕臣だったのですね。しかも親藩御三家。それで、二葉亭四迷が、最後まで明治の薩長藩閥政府に背を向けていた理由が分かりました。

・東京外国語学校露語科を中退して、職を転々とし、新聞、雑誌などに小説やロシア語翻訳を発表していた二葉亭四迷が、44歳にして朝日新聞ペテルブルク特派員になれたのは、明治41年に来日して、二葉亭が案内役を務めたロシアの作家兼新聞記者のネミーロウィッチ・ダンチェンコの推薦によるものだった。(病を得て、帰国途中のベンガル湾上で死去、享年45)

・転々としていた職業とは、内閣官報局雇員、東京外国語学校教授など。いずれも、短期間しか続かず、外国語学校教授を辞めた後は、満洲のハルビンまで行く始末。徳永商会の顧問になる予定も、不首尾に終わった模様。行動力があり過ぎる。(この事実を知っていたら、ハルビンに行った時、徳永商会を探したものを!)

・明治25年、二葉亭は本郷区菊坂に下宿。そのすぐ側に樋口一葉も住んでいたが、二人が直接会ったかどうかは不明。文語体の一葉は、言文一致の二葉亭より遥かに年長かと思ったら、一葉の方が8歳年下。二葉亭の「革新性」に目を瞠る。

・日本人で最初の世界共通語エスペラントの教本を書いたのが、二葉亭四迷だった。

・二葉亭四迷が、朝日新聞社の特派員としてロシアに居を定めたペテルブルクのアパートは、ドストエフスキーの「罪と罰」のラスコーリニコフが住んでいた下宿としてモデルになったアパートやゴーゴリの「狂人日記」の舞台となったアパートのすぐ近くだった。

・現在、東京・御茶ノ水にあるロシア正教のニコライ聖堂の敷地は、維新後まもなくロシア大使館が建てられていた。その前は、駿河台の定火消(じょうびけし)屋敷跡だった。

・二葉亭四迷は維新の混乱を避けて、一時期、尾張名古屋藩に戻るも、再び上京して住んだ所が、飯田町定火消屋敷跡だった。この飯田町定火消屋敷跡は、現在の飯田橋駅に近い日本歯科大学と富士見小学校辺り。

・定火消とは、幕府常設の消防組織で、当初は、五千石前後の四人の旗本を組頭に、与力六騎、同心三十人で一つの組がつくられた。飯田町、半蔵門外、溜池の内、御茶ノ水、八代洲河岸、市ヶ谷佐内坂、赤坂門外、駿河台などに置かれ、火の見櫓も建てられた。

・蛇足ながら、著者の太田治子さんは全く触れていませんが、「東海道五十三次」「江戸名所百景」などで知られる浮世絵師歌川広重は、本名安藤重右衛門。もともとは、この定火消八代洲河岸の同心だった。「江戸名所百景」は、安政の大地震後の江戸復興の祈りを込めて製作したと言われ、広重の元職が定火消役だったからだという説が有力。

・この定火消八代洲河岸屋敷跡には、現在、東京・馬場先門交差点角にある昭和9年建築の「明治生命館」(明治安田生命保険相互会社ビル)=重要文化財=が建っております。

成島柳北、永井荷風、谷崎潤一郎のこと

 キタイスカヤ街にて  Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 皆さんは、わざわざ、この渓流斎ブログの過去の記事を振り返られることはないと、中国的核心的利益として、確信しておりますが、結構、過去記事は訂正、修正、割愛、改訂されております。

 結論が全く逆になっていることもありますので、腰を抜かされることでしょう(笑)。

 かつて、「メディアを売る男」が、ブログは、タスマニアかマダガスカルのサーバーに永久保存されて消えることはない、と豪語しておりましたが、歴史的事実として、小生の過去のブログは抹消されて、永久になくなったことがあります。

 「メディアを売る男」が如何にいい加減かということです。

 キタイスカヤ街にて  Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 さて、今、太田治子著「星はらはらと 二葉亭四迷の明治」(中日新聞社)を少しずつ読んでいるところです。

 実に面白いです。

 太田治子さんは、ご説明するまでもなく、作家太宰治の遺児で、母親は名作「斜陽」のモデルにもなった太田静子さんで、正式な夫婦ではなかったので、かなり苦労して育ったようです。というのは、わざわざ書くまでもなく、ご存知のことと思われます。

 彼女は、太宰の文才の血を引いておられるようで、明治の伝記ものが得意ですね。

 いつぞや、「夢さめみれば…洋画家浅井忠と明治」を走り読みしたことがあるのですが、浅井忠の漢籍の先生だった成島柳北のことに触れた文章が今でも思い出深いです。

 ロシアではなく中国です  Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 成島柳北は、ご案内の通り、明治のジャーナリストで、今の東京・銀座4丁目の四つ角の「和光」にあった「朝野新聞社」の社長兼編集局長を務めたことがあります。成島家は代々幕臣で、将軍侍講という要職にありました。外国奉行なども務めましたが、明治維新になって、新政府のすべての役職を断って、家督を養子に譲って向島に隠居します。

 ここが、誰にでもできない凄いことです。函館の五稜郭に籠もって最後まで新政府に抵抗して戦いながら、あっさり降伏して新政府の要職を歴任した榎本武揚とは全く違うところです。この最期の函館戦争では、新撰組副長土方歳三が戦死しました。

 私は、どうもひねくれ者で、どんな弁解があろうが、榎本武揚のように体制に阿って出世する人間は大嫌いです。

 批評の神様にまで崇め奉られた小林秀雄も、以前書いた通り(2016年7月19日「戦争について」)、戦中は戦意高揚の宣撫活動を得意として多くの読者を獲得し、戦後は「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」と開き直って、さらに多くの読者を獲得したことについて、若い頃は喝采していましたが、今は何てゲスい人だったんだろうと思うようになりました。

 それより、戦中、軍部当局によって出版停止を命じられて、細々と食いつないで名作「細雪」を書き続けた谷崎潤一郎の方が遥かに、はるかに偉い。尊敬に値すると思います。

 もう一人、戦時中、同級生だった人物が威張り散らす姿を見て、最後まで当局に抵抗し続けた永井荷風散人も、心の底から尊敬しています。

 戦後は、それでも二人とも、芸術家として最大の栄誉である文化勲章を受章しているんですからね。授与した日本の国家も凄いもんです。

 永井荷風も愛読した成島柳北は、自著「墨上隠士伝」でこう書きます。

 「われ歴世鴻恩(こうおん)をうけし主君に、骸骨を乞ひ、病懶(びょうらん)の極、真に天地閒無用の人となれり、故に世間有用の事を為すを好まず」

 太田治子さんは「『天地間無用の人』 すさまじい言葉だと思う。他人に言われたら激怒するのが当然である。しかし自分からそう言ってしまったとしたら、何と気が楽になることか」と書いています。

 私は、この文章を読んで、成島柳北に大変好感を持ちました。

 あれ、前置きが長すぎて、太田さんの「二葉亭四迷」のことを書く紙数が尽きてしまいました(苦笑)。

 次回また。

戦後は終わりました

東京・銀座「銀かつ」

戦後は、「戦後70年」の2015年で終わりました。

2016年の夏は、戦争ものの番組は消えたではありませんか。

私はよく覚えているのですが、日露戦争が終わって70年経った1975年は、誰一人「戦後70年」を声高に叫びませんでした。

日本人は、「喉元過ぎれば熱さ忘れる」民族です。70年も経てば、いくら先の大戦で、大和民族が310万人も犠牲になっても、忘れてしまいます。しかも、「戦後生まれ」が80%も占めれば尚更ですよ。

1941年10月に、国際赤色諜報団が逮捕されました。リヒアルト・ゾルゲや尾崎秀実らが「治安維持法」「国防保安法」「軍機保護法」「軍用資源秘密保護法」に違反したためです。

「戦後70年」を過ぎ、長年「自主憲法制定」を党是として、その間ほぼ9割政権を独占支配し、法治国家として地道に作り上げてきた集大成が、「特定秘密保護法」と「通信傍受保護法」です。そして「共謀罪」ではあまりにも名前が露骨過ぎるというので、手を替え品を替えて登場させたのが「テロ等組織犯罪準備法」です。

テロなら大丈夫でしょう。今、世界各地を悩ませていますから、条理が立ちます。

しかし、法治国家としての最低条件である「法の支配」を国是とするからには、これではまだ少し足りないですね。秘密裡に戦いやすい法律の制定が必要です。

取り急ぎ「自衛隊機密保護法」「自衛隊資源秘密保護法」、そして「国防保安法」の復活です(日本は、侵略戦争は行いません。やむを得ない国防のための戦争しか行いません)國體護持のための「治安維持法」は、戦前あれだけ悪い主義者たちを捕まえてくれましたが、拷問虐殺の代名詞になったため、もう使えないでしょう。「特定秘密保護法」と「組織犯罪準備法」があれば十分でしょう。作家小林多喜二の写真の出版は、条例で禁止しましょう。

まずは、首都から遠く離れた無人島国有地の実効支配の確立も大切ですが、銀座や京都を我が物顔で大声で叫びながら、全面的に公道を「実効支配」し、超一等地で投資マンションを買い漁る異国人を逮捕しましょう。

えっ?いくら煩くて鬱陶しくても、逮捕できる法律がない?

大丈夫ですよ。「組織犯罪準備法」違反とでも何でもいいから、デッチあげれば、検察の判断でどうにでもなりますよ。現に異国人でもゾルゲは捕まったではありませんか。

寛政の改革よ、再び

これが天下の「萬朝報」。よろずちょうほうします、から付けたのさ(黒岩涙香)

先の台風10号などは、観測史上稀に見る威力で東北・北海道に上陸して、甚大な被害を及ぼしました。岩手県岩泉町では9人の年配者が犠牲になりました。

私もかつて住んでいた北海道の十勝管区内の大樹町、新得町、芽室町、清水町などでも記録的な大雨で家屋や道路、橋などが損壊したり、行方不明者が出たりしたニュースが流れまして、心を痛めております。

そんな中、久しぶりに札幌の雪祭り先生から、飛脚便が届きました。

…大岡平蔵の子分で、石川島の人足寄場の雇女(やとな)大縄の弘(ひろ)が来週12日からスタートする「規制改革推進会議」の新議長になりますね。

大縄の弘のことですから、また日本の医療・福祉制度を無茶苦茶にして、「民間払い下げ疑獄」が始まりますよ。

この規制改革推進会議には、「強きを助け、弱きを虐める」五代某とかいう日本耶蘇教大学教授もメンバーに入っています。こんなのが耶蘇教の大学の先生ですから、この異国教がいかに強者やごくごく限られたお金持ちや拝金主義者の宗教か分かります。

この大縄の弘の批判や、こういった世の中の流れを批判するメディア・マスコミは、今は「日刊ゲンダイ」ぐらいしかありません。大朝も国民も時事新報も御用新聞ですよ。

この女がどんな経歴の持ち主か、調べたら驚きますよ。大伝馬町の大丸、日本橋の白木屋、駿河町の越後屋を振り出しに、真珠王のキミモト、北町奉行の景山竹野進、八丁堀与力岡倉鉄之輔ら権力と同衾する、今、大先端を行く女の一人なのです。…

うーん、大縄の弘とな? あ、あれね?さては、悪い女よのお。

寛政の改革がまた必要かも。

ウッドストックでは行われなかった!

Tokyoit

今、電車の中で、スマホで、うろ覚えで書いてますので、多くの記憶違いがあるかもしれませんが、その場合、後からドシドシ訂正、修正、改訂して直していくつもりです(笑)。

私の人生で最も輝かしい黄金時代の年を一つだけ挙げろ、と言われれば。そんなこと、後にも先にも誰にも聞かれませんが、私は躊躇なく、1969年を挙げます。

今、年表がないので詳しくは分かりませんが、この年は、東大安田講堂事件の年であり、米アポロ11号が人類史上初めて月面に着陸した年でもあります。(そんなことなかった、と為五郎さんは主張してましたが…)

また、私のフリークであるビートルズが最期のレコーディング・アルバム「アビイ・ロード」を発表した年です。(LPは擦切れるほど聴きました)

そして、何と言っても音楽史上に残るウッドストック・フェスティバルが開催された年でもあるからです。

このフェスティバルは映画化されて、私もその後、テレビか弐番館か、何処で見たか忘れましたが、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリンらの動く姿を初めて見て感動したものです。

ということで、最近、このウッドストックの「ディレクターズ・カット 25周年エディッション」の4枚組のDVDを、とうとうネット通販で買ってしまい、毎日少しずつ見ているのです。

25周年エディッションというと、1994年で今から22年も昔になります。当時、この4枚組DVDは、1万5000円ぐらいしましたが、今ネット通販では、その4分の1以下で買えましたので、知らぬ間に欲望がクリックしていたのです。おかげで、ネット通販の「ダイヤモンド会員」になりましたよ(笑)。

さて、このウッドストック・フェスティバルですが、私は知っているつもりでしたが、このDVDを見て、何も知らなかったことが分かりました。最初の2枚は、ワーナーが製作公開した映画をDVD化したものです。私がテレビか弐番館で見たやつです。当時としては破格の4時間ぐらいの映画でした。ザ・フーの「サマータイム・ブルース」なんか、この映画に触発されて、シングル盤(400円)を買ったと思います。

3枚目は、映画で公開できなかったグループの演奏などが収録されていました。当時、私の大好きだったクリーデンス・クリアーウォーター・リバイバル(CCR)がしっかり出演して「ボーン・オン・ザ・バイヨー」なんかやっていたんですね。映画ではカットされていて、出演していたこと自体知りませんでした。(このほか、ブラッド・スウェット&ティアーズ=BS&T=なども出演したらしいですか、このDVDにさえ収録されていませんでした)

そして、最後の4枚目が「メイキング」映像で、スタッフや出演者の証言集です。これが見ものでした。

◇ウッドストックの名前が欲しかった?

まず最初に、明確にしなければならないことは、歴史的事実として、約40万人もの大観衆を集めたといわれる「ウッドストック・フェスティバル」は、ニューヨーク市郊外のウッドストックで行われていなかったということです。(二転三転して、最後は49歳の酪農家マックス・ヤスガーのベッセルにある牧場で開催されます。ヤスガーは、周囲の反対を押し切って主催者に土地を貸したため、フェスティバル後は、村八分に遭い、やむを得ずその土地を売却し、その僅か4年後の53歳でフロリダ州で急死します)

私には、ニューヨーカーどころか米国人の友達がいないので分かりませんが、ウッドストックといえば、ニューヨーカーにとっては特別な響を持つようです。お金持ちの別荘がある避暑地であり、各国から画家や詩人らが集まる芸術村として。

日本で言えば、軽井沢か、清里(GHQのポール・ラッシュが開発)か、那須辺りだと言えば分かりやすいかもしれません。

しかも、ウッドストックは、池袋モンパルナスのような芸術村です。ボブ・ディランやジミ・ヘンドリックスらの別荘があり、画家の国吉康雄らも住んでいたとか。

さらに言えば、ウッドストックは、既に19世紀から開発されていた由緒ある避暑地で、ニューヨーカーなら誰でも知っているのでしょう。だから、主催者は会場がベッセルに変更されても、最後までウッドストックの知名度にこだわったのです。

「無言館」の館長でもある窪島誠一郎さんの最新著作にも、このウッドストック芸術村が出てきます。戦前に活躍した日系二世の画家の話で、彼は、米国共産党に入党し、諜報活動もしたと言われます。

彼の経歴は、まるで米国共産党から日本に派遣されゾルゲ諜報団で活動した沖縄出身の日系人宮城与徳と同じではないですか!

このウッドストック芸術村には、1929年の恐慌によって、街中に失業者が溢れる不景気の30年代、平等社会を目指すと言われた理想的なユートピアの共産主義思想にかぶれた芸術家もたむろしていたわけです。(実際は、粛清の嵐だったのですが)

◇伝説になったウッドストック

そもそも、主催者代表で総合プロモーターのマイケル・ラングは当時25歳の青年で、フェスティバルの収益でウッドストックにレコーディング・スタジオをつくるつもりで、はじめたらしいのです。

1969年当時、第二次大戦直後のベビーブーマーが20歳前後の青春真っ盛りで、ベトナム反戦運動やヒッピー文化やフラワームーブメントが頂点に達していました。

結局、世の中は変わることはありませんでしたが、「ラブ&ピース」を主張する若者たちの異様な熱気が伝説として残り、その後の社会や文化に影響を与え続けました。まさに、60年代の総決算に相応しい年でした。

人間は見たいものしか見ず、責任を転嫁する動物

亜沙久佐

人間、見たいものしか見ず、聞きたいものしか聞かない。そんな思いがあるから、偶然にも、見たいものや聞きたいものに当たる。しかし、それは決して偶然の産物ではない。ただ単に自分が必然的に選択したのだから。ーヘルマン・ヤルシン

今、日本経済新聞の最終面の「私の履歴書」で、牛丼の吉野家グループの安部修仁会長さんが書いているか、担当記者が聞き書きで書いております。

会長さんは、一時期「高卒の社長」ということで大変有名になったことがありますが、その高校時代は、ラグビーに明け暮れ、先輩らの理不尽で不条理な拷問に近いシゴキや命令に耐え抜いてきたそうです。

例えば、何本もダッシュさせられてその場に倒れ込むと、先輩からヤカンの水をかけられ、立ち上がれ、と命令されます。立ち上がると歩け、と言われ、歩くと、「歩けるなら走れるだろ」と再びダッシュを命令されるというのです。

安部会長さんは「ああいった理不尽なことに耐え抜いてきたから、社会に出ても理不尽なことに耐え抜くことができた」と振り返っていました。

あれっ?どっかで、聞いたことがある話ですね?

◇国家社会主義者の過剰な自信

ここ数年、国家社会主義的な言動で、ベストセラー小説も飛ばしている作家の方が、今度は、「人間はそれほど弱い存在ではない。自分が限界だと思っている以上のことは耐えられるし、できる」といった精神論を展開した新書がまたまたよく売れているらしいです。

私は、作家や学者らが自分たちの信じる自分たちの言いたいことを書いて出版することを咎めたりしません。それが、広く読者から共感を得られれば、素直に「おめでとうございます」と祝福します。

しかし、それは、特別な才能を持った恵まれたその人に当て嵌まる話だけであって、万人に効能があって、上手くいくかどうかという話になると、それは別だと私は思っています。

例えば、今盛んに自分の限界に挑戦するような自己啓発本が出ていますが、私は、やめておいた方がいいと思っています。少なくとも、私は真似しませんね。

案外、作家さんが主張するほど、人間の心身は、想定以上に強くはないのです。か細く脆いものなのです。傷つきやすく、簡単に壊れてしまいます。

その国家社会主義的思想の持ち主の作家さんは、ネットなどで非難されると「さすがに、人間だから、落ち込むことがあるが、気にしないようにしてる。それより自分の信じる道に邁進することで忙しい」といったような趣旨の発言をされていましたが、彼には特別な忍耐力と精神力があるといいますか、普通の人とは比べものにならないほど、生まれつき堅牢強固な性格だと思われます。

まあ、普通の性格の人なら、見たこともない他人から非難されれば落ち込むどころか、2~3日は立ち上がれないのではないでしょうか。

◇自己責任の罠

それと、何があっても「自己責任」を問われる世の中になりました。これまで「学校が悪い」「先生が悪い」「社会が悪い」「政治が悪い」などと他人に責任を転嫁して逃げてきた人を「卑怯者」とみなす風潮が蔓延していました。

しかし、考えても見てごらんなさい。人間は、か弱く脆いものです。責任を転嫁しなければ生きていけない動物だと考えれば気が楽になるのではないでしょうか。(そもそも、他人を非難したところで何も始まりません)

先の大戦での戦争責任も有耶無耶になりました。人間はか弱い動物だからです。中には、切腹して責任を取った軍人や戦争責任を取って新聞社を辞めたジャーナリストもいましたが、全体から見れば僅かでした。

殆どの人間は、逃げました。

私も、弱い人間だという自覚を身をもって体験したので、当時に生まれていたら、逸早く責任転嫁して逃げたことでしょう。

その前に、とっくに心身は壊れてしまっていたかもしれません。

差別のない階級社会

なんじゃこりゃ?

 ◇岩波現代文庫「定本 丸山真男回顧
談」 

(昨日のつづき)

 それから、もう一つ。最近、色々な本を読んでいましたら、共産主義と国家主義とではどちらがより個人の自由を奪って人間の尊厳を蔑ろにして暴虐行為を働くのか、はっきし言いまして、どちらが究極の選択なのか、考え込んでしまいました。

 そしたら、岩波現代文庫版の「定本 丸山真男回顧談」で、元大阪朝日新聞記者丸山幹治(白虹事件で、長谷川如是閑らとともに同社を退社)の子息に当たる政治学者丸山真男は面白いことを言っていますね。

 丸山真男は、敗戦濃厚の1945年3月に帝国陸軍二等兵として懲罰のように徴兵された経験を持ちます。その彼が「軍隊時代に朝鮮人の差別はなかったですか?」との質問を受けて、「ないですね。朝鮮人の上官にもよくぶん殴られた。その点では軍隊というところはすごい。階級だけなんですよ」と、実に明解に答えています。

 「軍隊は階級だけ」「民族差別は一切なし」といった丸山真男の体験談は、本当に凄いの一言です。戦後民主主義残留孤児世代にとっては、まさに目から鱗が落ちるような話でした。

つまり、共産主義も国家主義も共通していることは、矛盾しているようですが、差別のない階級主義社会(だからこそ、グルジア=ジョージア=人のスターリンがロシア人を差し置いて党書記長兼国家防衛委員会議長という最高指導者の地位に君臨でき、政治闘争で3000万人もの人間を粛清・処刑したと言われています)。階級のみで、人間は判断され、命令されるピラミッド社会ですから、そこには、個人の自由も、人権も、人間の尊厳も入り込む隙がないということです。

いや、そういう社会では、反権力者は殺害される運命にあり、尊厳などというものは、入り込んではいけないという社会なのです。

「崩壊 朝日新聞」

駅前客待軽便乗合 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 昨日は、この渓流斎ブログを書いて、校閲して、編集して、出版じゃなかった、オンラインベースに載せるのに3時間も4時間もかかってしまい、我ながら、アニヤッテンノカと思ってしまいました。

 10月から手取り時給わずか◯00円、しかもボーナスなしという日本国家の最低賃金を下回る信じられない仕事になりますから、時間は大切にしなければなりませんね。

 あちらこちらロシア風 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 長谷川熙著「崩壊 朝日新聞」を読了しました。

 著者は、朝日新聞社に1961年に入社し、2014年の週刊誌「アエラ」記者を最後に、この本を書くために退社した人です。53年間、朝日新聞に関わって、禄を食んでこられながら、どうしてこういう批判本を出版したのか、「あとがき」を読んでほしい、と「まえがき」に書いてあったので、「あとがき」を読んでみましたが、それでもあんまり要領を得ませんでした。

 読者としては、少しはぐらかされたような感じでしたが、「なあんだ。極上の愛社精神からこの本を書いたのか」と最後まで読んで、やっと、見破ることができました。

 あちらこちらロシア風 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 私は、昭和史のゾルゲ事件にほんの少し関心がありますので、この本の第2部第2章「尾崎秀実の支那撃滅論の目的」を楽しみにして読みました。風間道太郎の「尾崎秀実伝」を引用して、「尾崎は、アグネス・スメドレーと半ば同棲していた」と断定的に書かれていたので、それはどうかな、と疑問視する点もありましたが、概ね著者の言いたいことは分かりました。。

尾崎は、「中央公論」昭和13年6月号に「長期戦下の諸問題」というタイトルで、前年に勃発した支那事変(日中戦争)について、「今後日本の進むべき道は結局勝つために、まっしぐらに進む以外はないであろう」と主張したことから、著者は、尾崎は和平への打開策を建言するのではなく、中華民国の国民党政府を徹底撃滅するまで戦争を続けよと猛烈な檄を飛ばしている、と結論づけます。

つまり、尾崎秀実は、あくまでも、ソ連を守って強大化し、中華民国の共産党勢力を増大させ、ついでに日本も世界共産主義革命に巻き込もうとしたのではないか、というのです。

そして、最後の第3部「方向感覚喪失の百年」の中の、特に第1章「歴史を読み誤り続けて」は、朝日の報道の歴史を振り返って、ソ連スターリンに阿る報道や、中国共産党に阿って文革を礼賛し、林彪事件をまともに取り上げなかった報道姿勢に対する熾烈な批判を展開されていましたが、それは見事に的を射ており素晴らしかったと思います。

ステファヌ・クルトワら著「共産主義黒書」を引用して、毛沢東率いる中国共産党政権は人民6500万人を虐殺した、と書いておりました。

えっ?6500万人ですか?何かの間違いではないでしょうか?外国との戦争ではなく、国内政権樹立のためだけに、これだけの人民を殺戮するとは…

あちこちにロシア風  Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 ◇浅田次郎「天切り松 闇がたり」

 浅田次郎「天切り松 闇がたり」の中で、明治の元勲で帝国陸軍軍閥の祖のような山縣有朋元帥は、悪代官か悪の大権現の代名詞のような存在として描かれておりました。(最後は、振り袖のおこんを逃してやりますが)

このように、山懸有朋は、後世の作家らには大変評判が悪く、「多くの妾を囲っていた」だの「全国に別荘を建てまくった(東京・椿山荘、京都・無鄰菴など)」などと、あくなき権力を私腹を肥やすことしか目がなかった最悪の男として描かれることが多いようです。

 それが、この長谷川熙「崩壊 朝日新聞」によりますと、この元老山縣有朋は、1915年(大正4年)に大隈重信首相、加藤高明外相が中心になって、歴史的にも有名な「対華21カ条の要求」を中華民国の袁世凱政権につきつけたことに対して、敢然と反対したというのです。

 これについて、1915年5月6日付の東京朝日新聞は社説で、「孰れにしても元老会議は全然無用なり」などと、元老山縣を無視して、対支那侵略戦争を支持、もしくは助長したというのです。

 山縣有朋はあまりにも毀誉褒貶が多い人物なので、知りませんでしたね。あの山懸だけが、歴史的にも悪名高い「対華21カ条」を先見の明で反対していたとは!これは私も不明を恥じます。