自民党源流の代議士の中には大政翼賛会に反抗した人がいた

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これでも、近現代史関係の本は、自分なりに目を通してきたつもりでしたが、かなり偏っていたことが分かりました(笑)。

パリのクルトル先生お勧めの楠精一郎著「大政翼賛会に抗した40人 自民党源流の代議士たち」(朝日新聞社)を読み進めると、知らないことばかりで、驚きの連続です。

この本は、政府与党自民党の機関紙「自由民主」の連載をまとめたものが、朝日新聞社によって刊行されています。ということは、世間一般、巷間で伝わっているオルタナ真実とは真逆で、朝日新聞社とは、反体制派でも左翼でも何でもなく、エスタブリッシュメント(既得権益者)だということがよく分かります。

そもそも、右翼、左翼という言葉自体、フランス革命後の議会で、王党派と反王党派が席を占めた場所を指して使われ始めたもので、人間そんな単純なもんではありません、

右翼・体制派と言われた人でも、しっかりと「治安維持法」に反対した国会議員(星島二郎、尾崎行雄、坂東幸太郎ら)もいたわけで、本書にも偉大な人物として出てきます。何しろ、本書のタイトル自体が示す通り、東条英機に反旗を翻して、大政翼賛会に反抗した代議士40人を取り上げているわけですから。

デザートはムース

引用したいことは沢山あります。

「憲政の神様」と謳われた尾崎行雄(1858~1954)が、なぜ、「咢堂」と号したのか?ーそれは、尾崎が、大隈重信が結成した立憲改進党に参加した後、明治18年、東京・日本橋区から立候補して27歳で、東京府会議員になります。ところが、明治政府が民権派弾圧のために発布した保安条例によって、東京から退去を命じられてしまいます。酒席で、縁の下に隠れていたスパイによって、冗談が密告されたからです。

どこか、今の共謀罪の匂いがしてきます。

これに驚愕した尾崎は、自分の雅号を最初は「愕堂」とし、後にりっしんべんを外した「咢堂」と名乗るわけです。

チューリップ

今はときめく世耕弘成経産相兼内閣府特命担当大臣。大阪の近畿大学の理事長としても有名ですが、なぜ、早稲田大学出身の彼が近大の理事長なのか、彼の祖父の代にまで遡らなければ分かりません。

世耕弘一。恐らく、日本史上では、こちらの方の方が重要で格上でしょう。何しろ、苦学力行の人で、人望が厚く、「世耕宗」と言われるほど、和歌山の選挙区では熱烈に支持する人が多かったといいますから。

新宮市の貧しい農家の九番目に生まれ、人力車夫をしながら苦学して日大に入学し、ドイツ留学の後、教授にまでなります。昭和9年に日大と関係が深かった大阪専門学校の校長と大阪理工科大学の学長に就任し、学制改革で両校が合併して近畿大学となると、初代の総長兼理事長になった人です。

続いて、「二・二六事件」の首魁として民間人ながら処刑された北一輝(輝次郎)の実弟北昤吉も大政翼賛会に抗して同公会に所属した40人の代議士の1人でした。

彼は、母校早稲田大学哲学科の講師を始め、大東文化学院教授、大正大学教授などを務め、多摩美術専門学校(多摩美大)の創設者になっています。

さらに、国家総動員の軍事体制の真っ只中で、軍部に異議を唱えた国会議員がいました。

昭和15年3月の衆院本会議で、斎藤隆夫議員が、政府による非現実的な日中戦争の処理方針を糾弾すると、「『聖戦』を冒涜するとは何事だ」と軍部の圧力によって議員を除名されます。この時、除名の可否を問う投票で、敢えて反対票を投じる勇気のある気骨な代議士が7人いました。その中に、戦後首相となる芦田均や軍人出身の宮脇長吉、それに弁護士出身の名川侃市(ながわ・かんいち)らがいました。

この中の宮脇長吉は、昭和13年3月のあの有名な「黙れ事件」のもう一方の主役でした。主役は、戦後の東京裁判で52歳の最年少でA級戦犯(終身禁錮刑)となった佐藤賢了中将(当時は中佐、石川県出身、1895~1975)です。衆院委員会で、国家総動員法を審議している際、佐藤は、議員の質問に答弁しているときに、野次に対して「黙れ!」と一喝したのです。一介の中佐に過ぎない説明役の横柄な態度に議会は大混乱に陥ります。

佐藤の回顧録によると、この「黙れ」の後に「長吉!」と言おうとしますが、その名前はぐっと飲み込みます。その長吉こそが、宮脇長吉代議士のことで、実は、宮脇は元々軍人で、陸士第15期。陸士第29期の佐藤より14期も先輩でした。しかも、宮脇は、佐藤が陸士在校中の教官でもあったのです。

この宮脇長吉の子息が中央公論編集者から紀行作家となった宮脇俊三です。

ちなみに、佐藤は、東条英機の悪名高き「三奸四愚」の1人と言われてます。(三奸=鈴木貞一、加藤泊治郎、四方諒二、四愚=木村兵太郎、佐藤賢了、真田穣一郎、赤松貞雄)

もう1人、斎藤隆夫議員除名に反対票を投じた名川侃市は、明大卒業後、判検事登用試験に合格して東京地裁部長などを歴任します。しかし、私学出身ということから将来に見切りをつけて退官し、弁護士となります。そして、何と、大正12年の甘粕事件の弁護人の一人でもあったのです。

甘粕事件の弁護人の中にこういう経歴の人がいたとは、恐れ入りました。知りませんでしたね。