東京渡辺銀行が破綻しました

目黒不動尊の鷹居松

この渓流斎ブログを、現在病気療養中ながら、病院にスマホやタブレットを持ち込んで、読んでくださっている方もいらっしゃいます。

レハビリ中の方もいらっしゃいます。本当に有り難いことです。

ですから、本来なら、もっとしっかりした少しはまともなことを書かなければならないとは思っておりますが、ま、こればかりは仕方のないことであります(苦笑)。

江戸切絵図

で、最近、江戸五色不動尊巡りをするなど、すっかり江戸散歩に嵌っております。

そんな中、次期首相心待の石破茂さんと同級生の泉麻人さんが書いた「東京いい道、しぶい道」(中公新書)を面白く拝読してます。

この人の場合、江戸散歩とは違い、せめて明治大正、大体は昭和30年代という比較的新しい時代の地図を片手に散歩しているため、少し物足りなさを感じますが、それでも、この渓流斎さえも知らなかったことまで出てきます(笑)。

例えば、彼は慶応ですが、よく野球の早慶戦が終わった後、早稲田は新宿へ、慶応は銀座へ繰り出す、という話を聞いたことがあります。私は、部外者なので、慶応のおぼっちゃまは、あの銀座の何処に繰り出すのか疑問に思ってました。

それが、泉さんが慶応の学生時代によく倶楽部(あの有名な広告学研究会)の仲間と行っていたのが「Brick」だと書かれていて、「なあんだ、あそこならよく行ったことがある」と安心したものです。比較的安いショットバーです。

著者が散歩中に、よく元結不動だの、小岩不動だの、結構不動尊が出てきて、「嗚呼、江戸市中には、五色不動尊以外にかなり不動尊があったんだ」と今さらながら思い出した次第。

彼によると、成田不動尊と幡ヶ谷不動と高幡不動が江戸郊外の三大不動尊らしいですが、高幡不動は日野市にあり、かなり有名です。日野は新撰組の近藤勇と土方歳三の出身地であり、彼らも高幡不動を信仰していたはず。この本を読んで、いつか行ってみようかと思いました。

伊達上屋敷が日比谷公園の中だったとは知らなかった!

また、この本では、西日暮里の開成学園辺りの俗に言う「渡辺町」を取り上げております。ここは、「東京渡辺銀行の渡辺治右衛門が宅地開発した由緒あるお屋敷街」とだけ著者は解説しているので、実に歯痒い。かゆいところに手が届かない、と言いますか、浅薄。ここまで書くのなら何故、もっと東京渡辺銀行のことに触れないのか、がっかりしてしまいます。

東京渡辺銀行は、昭和金融恐慌の引き金となったそれこそ由緒ある銀行でした。

実際は優良経営だったのに、何を血迷ったのか、片岡直温大蔵大臣が、昭和2年(1927年)3月14日の衆院予算委員会で、「渡辺銀行がとうとう破綻を致しました。誠に遺憾です」などと発言し、預金者の取り付け騒ぎが起きて、本当に破綻してしまったのです。

まあ、歴史の教科書に出てくる話ですが、教科書には決して出てこない話として、歌舞伎評論家の渡辺保氏がおります。

彼は、何とこのこの渡辺財閥の御曹司で、まだ物心つかない幼い時分から、芝居好きの祖母に抱っこされて歌舞伎座に通っていたようです。

勿論、六代目も十五代目も生で観ていたことでしょう。(これで分かれば、貴方も歌舞伎通)。

逆に言いますと、歌舞伎は庶民の物見遊山ではなく、財閥の御曹司でなければ観られないような高価な芸術だったわけです。

ローマは一日にしてあらず。渡辺保氏の書く歌舞伎評がパンピーと違うのは年季が全く違うからです。

家計学園物語

滝の城まつり

斉川龍之介 創作「家計学園物語」

阿部関白太政大臣 あたくしは、お友達のことを依怙贔屓したり、公僕に圧力をかけたり、口利きしたりした事実はありません。もし、発覚したら関白を辞めてやろうじゃあ、(一呼吸置いて)ありませんか。

前の事務次官後川 「関白の御意向」「神祇官の最高レベルが言っている」との竹簡文書は本物です。不当な圧力で、行政が歪められました。

滝の城まつり

須賀官房長官 文書は、今東が言うところの「怪文書」であり、式部省の聞き取り調査では存在の確認はできなかった。そもそも、後川次官は、不祥事を起こして既に式部省をお辞めになった方で、悪所に通い詰め、夜鷹と遊び、内裏の御意向に背いて恋々と地位にしがみついていた下衆野郎です。何でそんな男の言ってることが信用できようぞ。

前の事務次官後川 私は下衆野郎ではありません。須賀長官こそ大嘘つきです。私は、泉洋人関白補佐官から「関白の口から直接言えないから、俺が代わって言う。関白のお友達の家計学園ために、伊予国に班田収受法を施行して、動物大学をおっ建てなさい」ときつく厳命されました。

滝の城

京都工業大学 それは面妖な。我らは、もう30年も昔から動物大学設立の申請を式部省に毎年してきたのになしのつぶて。これでは、関白のお友達の家計学園を依怙贔屓したことは明々白々の事実じゃあーりまへんか。

須賀官房長官 そういった事実は御座いません。既に正式な手続きを踏んで班田収受法は施行されました。

森朋学園児 こうして安心して暮らせるのは阿部関白のおかげです。阿部関白、万歳!阿部関白、万歳!

つづく

慈眼大師南光坊天海大僧正の都市計画

目黒不動尊

昨年百歳の天寿を全うされた志田忠儀さんの著書「ラスト・マタギ 98歳の生活と意見」(角川書店)を読了しました。

志田さんは大正5年(1916年)、山形県大井町生まれ。戦中は三回も召集されて、足掛け10年間も中国で軍隊生活を送り、戦後は磐梯朝日国立公園の管理人や朝日連峰の救助隊なども務めた方です。

こういう生活をした人がいたとは、私のようなシティーボーイには全く想像もつかず。奇跡のような感じがしました。

目赤不動尊

さてさて、以前から宿題となっていた慈眼大師南光坊天海大僧正による江戸都市計画について、まとめておきましょう。

天海上人(1536?~1643)は、徳川家康、秀忠、家光の三代将軍に仕え、107歳の天寿を全うしたとか、130歳まで生き伸びた聖人だのという伝説の持ち主です。

江戸は、家康が天正18年(1590年)に入府して以来、沼地で人が住めない土地を埋めたり、利根川の水流を変えたりして、100万人が住めるような大都市に変革させていきます。

(江戸城の三の丸辺りで崖地になってますが、そこが武蔵野台地のキワだったようです。日比谷も銀座も築地も全て江戸時代からの埋立地です)

人間に最も大切な飲み水である神田上水や玉川上水を郊外の井の頭や多摩川から市中に引きます。

目黒不動尊
そして、江戸の都市づくりに、風水、陰陽道、五行説、四神相応などを取り入れて将軍に助言したのが、この天海上人です。

風水によると、北には山、南には池や海、東には川、西には道がある街は、邪気を跳ね除けられ、運気が高まると言います。

これを江戸に当てはめると、江戸城を中心にして、北に「山」である麹町台地とその先に富士山がある。南には「海」である江戸湾、東には「川」である平川、隅田川が、西には「道」である東海道があるーといった具合です。

そして肝心なのが、祟りや悪を封じるために鬼門(東北)と裏鬼門(西南)の方角に神社仏閣を設置して怨霊を鎮めるという思想です。

そこで、江戸城の鬼門には、徳川家の菩提寺である上野寛永寺を創建し、大手町にあった平将門の霊を祀った神社を移転して、神田に神田明神(神田祭り)として創建する。中世からあった浅草の浅草寺(三社祭り)も鬼門の範囲内とする。

鬼門の東北の方角には、さらに遠方の日光に家康を祀る東照宮を設置することで完成させます。

西南の裏鬼門には、太田道灌の河越城の山王権現を移転して祀る日枝神社(山王祭り)を創建し、やはり、徳川家の菩提寺である増上寺も設置する。裏鬼門の南西の方角には目黒不動尊も入れる。

そしてはるか遠方ながら静岡県の久能山東照宮で完成させるといった感じです。

目黒不動尊

これら天海上人による都市づくりを真っ向から否定する人たちもおります。そもそも天海上人は107歳も生きていないと異議を唱えます。江戸城の北に富士山が見えるわけがないので出鱈目だとも言うのです。

また、鬼門に浅草寺を入れたり、裏鬼門に増上寺や目黒不動尊を入れたりするには方角的に無理があると言います。

確かに一理あります。こじつけが散見されますから。

他に外堀の奥の四谷門、牛込門、浅草橋門などにも平将門の手や足を祀った神社もありますが、これらも眉唾ものだと批判する人がいます。

しかし、私はよしんば真実とは遠く、違っていても、天海上人による街づくりは、江戸庶民が信じた「共同幻想」のような気がしてます。

五街道に配した五色不動尊も、鬼門封じの神田明神、裏鬼門封じの日枝神社も非科学的で、効力も何もないのかもしれません。

亀戸「升本」

でも、少なくとも江戸の庶民は、いや武士や殿様も信じようとし、確かに信仰したことは事実です。それが伝統文化というものです。

何でも非科学的だと言って、排除してしまっては、その時代、時代に生きた人々の生活を否定するものだと、私は思っています。

江戸五色不動尊巡り(下)

目黒不動尊

前回の続きです。

【五色不動】
・目黄不動尊(最勝寺・江戸川区平井)⇒奥州道
・目赤不動尊(南谷寺・文京区本駒込)⇒上州道
・目白不動尊(金乗院・豊島区高田)⇒中山道
・目青不動尊(教学院・世田谷区太子堂)⇒甲州道
・目黒不動尊(瀧泉寺・目黒区下目黒)⇒東海道

でしたね。それでは一つずつ辿って行きましょう。

1番【目黄不動尊】

上記のように、現在の目黄不動尊=天台宗最勝寺は、東京都江戸川区平井(総武本線平井駅)にあります。もう一つ、台東区三ノ輪の天台宗永久寺にも目黄不動尊があります。「本家本元」争いをしているわけではないようですが、目黄不動尊は、明治以降に出来たという説もあり、私もよく分かりません。

でも、上記写真の縁起によると、最勝寺は貞観2年(860年)に、慈覚大師円仁(794~864年)が墨田区の本所で開山したようです。

最勝寺

古代中世から寺社仏閣は、荒川掘削や震災、火事など色々な理由で、度々移転するか、させられているようで、江戸川区平井には、他に天台宗の成就寺、浄土真宗の善通寺、日蓮宗の大法寺などが移転してきて、さながら寺町となっています。成就寺には、清元延寿太夫や越知ニ楽(兵学)らの墓もありました。

最勝寺

一説では、家康が鷹狩りした際に、本所にあった最勝寺に立ち寄り、そこで見たお不動様を「目黄不動尊とせよ」と仰せつけられたとか。

最勝寺は、程よい広さと言いますか、目黄不動尊に参拝するにはちょうど良い寺かもしれません。

目黄不動尊

目黄不動尊は、1メートル27センチで、江戸川区の文化財に指定されております。

2番【目赤不動尊】
目赤不動尊

文京区本駒込の天台宗南谷寺(なんこくじ)にあります。上記の縁起を読んで頂ければ、解説することは一つもありませんが、もともと動坂(本駒込)にあった伊賀国の赤目不動尊を、三代将軍家光が、「これからは目赤不動尊とせよ」と命じたらしいですね。

目赤不動尊

目赤不動尊、本来の赤目不動尊は1尺2寸(50センチ)程度の大きさだったらしいので、今の目赤不動尊がいつ頃鎮座されたのかよく分かりません。また、境内も恐らく、江戸時代はもっともっと広かったと思われますが、猫の額ほどの狭さとなっておりました。

目赤不動尊

本駒込もいわゆる寺町で、南谷寺の近くには、十一面観音像で有名な浄土宗定泉寺や、武蔵野市吉祥寺の方が有名な曹洞宗吉祥寺があります。

今回、時間がなくて残念ながら吉祥寺にはお参りできませんでしたが、吉祥寺に関する面白い逸話があります。もともと、吉祥寺は駿河台にありました。それが、例の江戸市中100万人の人口のうち10万人も犠牲になった明暦の大火で被災し、寺の焼失は免れたものの、門前の住人は焼け出されて、武蔵野に移住し、そこで開発した新田に吉祥寺村という地名を付けたそうです。だから、武蔵野市にお寺はないのに、吉祥寺の地名が現代にも残っているわけです。

目赤不動尊

駿河台の吉祥寺は、その後、焼失して、今の本駒込に移転します。そして、もう一つ面白い逸話は、駿河台吉祥寺境内に文禄元年(1592年)に寺子屋に近い「学寮」が設立されたことです。吉祥寺が本駒込に移転されると、それは「栴檀林」と命名され、これが、「曹洞宗大学」などと名称を変えて、現在の駒澤大学とつながるというのです。

ですから、駒澤大学は今年、創立425年と言ってますから、世界でも最も古い大学の一つと言えるでしょう。

3番【目白不動尊】
目白不動尊

目白不動尊は、豊島区高田の真言宗豊山派の金乗寺にあります。JR目白駅からだと歩くと30分ぐらいかなという感じです。バスに乗っていたので、推測というより感覚に近いですけど(笑)。

でも、正直、ここが一番がっかりしました。境内は狭いし、不動尊も秘仏らしくよく見えませんでしたから。

寺の周囲は超高級マンションなどなどが立ち並ぶ高級住宅街でしたから、時代を経るごとに境内の敷地が狭くなっていったと想像します。

金乗寺も、文京区関口から移転してきたようです。

倶利伽羅不動庚申塔

境内にある「倶利伽羅不動庚申塔」(くりからふどう こうしんとう)が大変有名で、寛文6年(1666年)に建てられたそうです。不動明王の法形(ほうぎょう)を現しているらしい。

目白不動尊

がっかりしましたが、五色不動尊の中で、金乗院だけは一番立派な「しおり」をくださいました。

4番【目青不動尊】
目青不動尊

目青不動尊は、世田谷区太子堂の天台宗最勝寺教学院にあります。

山本さんがお住まいの三軒茶屋の駅の直ぐ近くにありますが、ここに目青不動尊が鎮座されていたとは全く知りませんでした。境内に入ると喧騒から遠ざかり、罰当たりな言い方かもしれませんが、なかなか雰囲気のある静かなお寺でした。

目青不動尊

縁起にありますように、教学院は応長元年(1311年)、玄応大和尚により江戸城内の紅葉山に創建され、その後、度々移転してから慶長9年(1604年)、青山南町に移転し、明治42年に現在の三軒茶屋に移ったようです。

目青不動尊

目青不動尊は、もともと麻布谷町にあった正善寺の本尊でしたが、廃寺となり、教学院に遷されたということです。

像は、慈覚大師円仁の作と言われ、1メートル余。青銅製で、五色不動尊の中で、唯一、牙歯がないそうです。

大久保家歴代の墓碑

境内には相州小田原城主大久保家の歴代の墓もありました。

5番【目黒不動尊】
目黒不動尊

目黒不動尊は、目黒区下目黒の瀧泉寺にあります。

ここは凄い。今まで巡った不動尊の欠点を全て帳消しにしてくれました。

目黒不動尊

何しろ、熊本市と千葉県成田市と並ぶ「日本の三大不動尊」の一つと言われていますから、ここだけは、境内の広さと言い、趣といい、誰に見せても恥ずかしくありません(笑)。

目黒不動尊

逸話では、江戸時代、目黒一帯は、丘陵や滝や川などの自然に恵まれ、風光明媚で、旅籠屋や飯屋などもあり、江戸の庶民の遠足、いわば小旅行地だったらしいですね。富くじも幕府から認められていたとか。

富くじは1本3両(3万円)。やはり、高いので、長屋の連中が何人か集めて共同で買っていたらしい。当たりは千両(1000万円)だったそうな。

目黒不動尊

三代将軍家光も鷹狩りで、8回も目黒を訪れたという記録があるらしい。となると「目黒のさんま」とは、家光公の話だったのかしら?

大日如来

瀧泉寺には大日如来様も鎮座しておりました。

【追記】

五色不動尊は、最寄駅からでも結構距離がありましたので、バスツアーで一挙に廻ってしまうことは正解でした。

江戸時代、五色不動尊がある本所=墨田区(目黄)、動坂=文京区本駒込(目赤)、関口=文京区(目白)、青山南町=港区南青山(目青)、下目黒=目黒区(目黒)を歩いたとしても、3日もかからなかったでしょう。

バスツアーには、お昼に亀戸大根の老舗(明治38年創業)「升本」の定食(1980円ぐらいか)が付き、ガイドさんの説明もあり、これで7980円なら安かったかもしれません。

御朱印は一件300円でしたが、私はもう何も収集する趣味も意志もなくなりましたので、御賽銭をして、思い出だけを残しました。

前川喜平様は正義感に溢れた人です!?

東京タワー 赤羽橋

渓流斎ブログの5月25日付「加計学園問題で追い詰められた?」に、unknownさんから「大手マスコミの本性」というタイトルで鋭いコメントを頂きました。どうも有難う御座いました。

いやあ、よく目配りされてますね。私は、朝も昼もワイドショーを見る時間はありませんけど、テレビはすっかり洗脳マシーンになっているようですね。

加計学園問題もいよいよ佳境に入ってきました。

殿外遊中の留守を預かる秋田県出身、法政部屋所属の留守居番菅義偉(すが・よしひで)官房長官も火消しに必死です。

そこで、またまた、火消し役人菅さんに乗り移って、霊言を聞いてみたいと思います。

亀戸「升本」

ー何しろ、殿のイデオロギーに心酔した森友学園の負け賃が8億円。殿の鷹狩り仲間の加計学園は土地代と建設費込みで132億円と桁があまりにも違い過ぎる。どうせ、庶民の税金だから、殿のご意向でどう使おうが知ったこたあ、あらへんけど、何しろ、野党や市民運動家の連中が煩すぎる。早く共謀罪ができないものか!

殿は「俺の意向が働いたという証拠があれば、いつでも殿を辞めてやるわ」なんぞと啖呵を切ってしまったから、これは何としても隠匿せなあかん。こちらのクビも危うくなるからな。

せっかく、文科省に手を回して、「見ざる、聞かざる、言わざる」の箝口令を敷いて、有耶無耶にすることに成功したと思ったら、何だ、文科省の前事務次官という野郎が、文春砲と朝日新聞に垂れ込むだけでなく、記者会見までしやがって!せっかく、穏便に済まそうかと思ったら、首相広報機関紙讀賣新聞や我らが同朋産経新聞まで書きやがって!

この前事務次官、前川清か後藤喜平か知らんけど、あ、前川喜平て言うの?官房機密費を使って、あ奴の下半身を全て調べて、歌舞伎町の出会い系クラブに足繁く通い詰めていた事実を発掘して、マスコミにリークさせてもろたのに、振り出しに戻ってしまったわいな。

あ奴は、記者会見で、まるで何でも鑑定団のように、「あの文書は本物だ」「内閣府に押し切られた」なぞと抜かしやがって!

そもそも、あ奴は、文科省天下り問題で、OBの再就職のあっせんに直接関与していた張本人でっせ!それなのに、責任者として自ら辞める意向を全く示さず、地位に恋々としがみついていた。まさに恋々とね。そんな奴の言うこと、信用できまっか?

ま、殿がいない間、ワシの役目はあ奴の信用を谷底にまで失墜させて、証人喚問を絶対阻止することだもんね。それさえ、うまくいけば、馬鹿な庶民はすぐ忘れるよ。

滝の城まつり

えっ?あ奴が何で、あそこまで虚勢を張っていられるかって? …知らないなあ。事務次官をクビになって、食うに困って、路頭に彷徨っているから、気でも違ったんじゃないの?

えっ? あ奴は、冷凍会社では世界三大メーカーの一角を占める日本最大手の前川財閥の三代目だから、仕事なんかしなくたって、食うに全く困らない?

えっ? 何? あ奴は、今日99歳の誕生日を迎えた大勲位中曽根康弘元総理の御子息中曽根弘文元外相の義兄ですって?

なあんだ、早く言ってよ!誰だ、前川喜平様に悪態を吐く奴は!許しませんよ!わたくしは、最初からあんな正義感に溢れた義侠心のある士(おとこ)はいない、とさっきから、そう申し上げているわけで御座いまする。はい。

(事実をもとにした創作です)

江戸五色不動尊巡り(上)

明治38年創業 亀戸大根の老舗「升本」 予約なしでは入れないとか 大根ステーキは超格別、しかし…

5月24日(水)、お休みを頂いて「江戸五色不動尊巡り」のバスツアーに参加してきました。36人の参加者の平均年齢は75歳かなあ…(笑)。5分の4が女性と圧倒的。教養のない下衆男は、文楽の助成金を減らしたりするから、これで日本の伝統文化も安心だあぁ…

目白不動尊

 御説明するまでもないでしょうが、不動尊とは不動明王の尊称で、大日如来がお姿を変えて悪を討ち払うためにこの世に現れた化身のことです。如来とは、悟りを開いたお釈迦様のことです。ちなみに、このブログでよく登場する赤坂不動尊は暗号なので違います。

目黒不動尊 独鈷の滝

 そして、五色不動尊とは、陰陽五行説などの影響で、目の色の違いで、五つに分かれます。すなわち

 【五色不動】とは

・目黄不動尊、目赤不動尊、目白不動尊、目青不動尊、目黒不動尊

 このうち、目白と目黒は、現代でも東京の地名や駅名に残っていますから馴染みが深いことでしょう。

三代将軍家光の頃、慈眼大師天海大僧正の発案などもあって、江戸5カ所に五色不動が建立されたといいます。

大日如来(目黒不動尊)

しかし、「五色には 二色足りない江戸不動」という川柳があるぐらいですから、実は、目白、目赤、目黒の三色は確かにあったものの、目黄と目青は、明治以降につくられたものだ、という説もあります。目黄不動は、他に2カ所あるという説もあります。

とはいえ、江戸庶民の信仰の対象となったことは事実であり、私は、各寺の掲げる「縁起」とガイドさんの説明をもとに、これからお話を展開していくつもりです。

名所江戸百景

まず、これらの五カ所の不動尊は出鱈目につくられたわけではなく、江戸五街道に合わせて置かれたといいます。五街道というと、本来なら、東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道のことを指しますが、上の五色不動は以下の街道沿いにあったと思われます。

【五色不動】の場所

・目黄不動尊(最勝寺・江戸川区平井)⇒奥州道
・目赤不動尊(南谷寺・文京区本駒込)⇒上州道
・目白不動尊(金乗院・豊島区高田)⇒中山道
・目青不動尊(教学院・世田谷区太子堂)⇒甲州道
・目黒不動尊(瀧泉寺・目黒区下目黒)⇒東海道

イラストで地図を書けないのが実に残念ですが、バスツアーは、この通り、上から順番に北から南へ降りてきた感じで廻りました。

バスだと半日、いや早足なら数時間で全部の五色不動尊をお参りできますが、江戸時代は徒歩ですから、3日かかったそうです。

蛙さん(目黒不動尊)

しかし、この話は眉唾ものです。なぜなら、目黄不動尊のある最勝寺は、大正2年に移転したもので、もともと墨田区本所にあったそうです。目白不動尊は、文京区関口にあったようです。目青不動尊の教学院も、かつては江戸城内紅葉山に創建されたそうです(となると、庶民がお参りできないじゃん=笑)。

あっ?堅いことは抜きにしますか?私の今回のお参りの最大の目的は、長い間患った病気平癒の御礼でしたからね。
それでは、各寺の縁起と私の印象記については次回また―。

加計学園問題で追い詰められた?安倍首相は、マルタへ

目黒不動尊

やはり、一連の加計学園問題で、「総理のご意向」「官邸の最高レベルが言っている」などと盛り込まれた文書は、ホンマもんだったんですね。

前の文部科学省の最高責任者である事務次官だった前川喜平氏(62)が、新潮曰く汚れた銃弾「文書砲」と、読売巨人軍嫌いの「朝日新聞」の独占独白インタビューに応えて、「(怪文書ではなくで、正式の文書として)あるものを、ないことにするわけにはいかなかった」「行政が歪められた」などと吐露しております。

よほど勇気がいったことでしょう。今の御時世では、国家機密保護法、国防保安法でしょっ引かれるかもしれませんからね。

しかも、前川氏は、天下り問題で文部科学事務次官を辞任して、今や素浪人の身の上。何の後ろ盾もないわけですから、生命の危険に晒されるかもしれません。

よほど、今の安倍首相独裁政権に対して義憤に駆られたのでしょう。

目黒不動尊

その一方で、官邸サイドからの援護射撃は止まることを知りません。

菅官房長は「怪文書」とすっとぼけました。この事実は、「続々日本書紀」に明記しておかなければなりません。

また、前川氏が、新宿・歌舞伎町のデートクラブとかいう、いかにもいかがわしい場所に出入りしていた事実を、電波芸者のスシローや、政府広報機関紙讀賣新聞にリークして、この男がいかにも薄汚くて、信頼に欠ける人間か、一大キャンペーンを張っているんですからね。

それにしても、何で、前川氏がデートクラブに出入りしていたことが分かったのでしょうか?

決まってるじゃあ、あーりませんか。共謀罪法があるので、堂々とGPSやドローンや密偵や忍び、隠密剣士を使って前川氏の一挙手一投足すべてを監視していたわけですから。

何?まだ、共謀罪法は成立してない?そんなもん、あろうがあるまいが、現実はとっくに先に行ってますまんねんがな。

組合幹部、市民運動家、基地反対者、原発反対派といった反政府主義者、それに、身内の政党幹部、公務員、そして、念には念を入れて情報を一番掴んでいる料理屋の女将やミルクホールのマダム、料亭の下足番…みーんな、抜かりなく、張ってますまんねんがな。

治安維持法のおかげです

クレマチス

治安維持法は大正14年(1925年)、普通選挙法と引き換えに「飴と鞭」政策の一環で制定されました。

ときの内閣総理大臣は、憲政会の加藤高明(尾張藩士~東京帝大法首席卒~三菱~外相~貴族院議員)でした。

背後には、大逆事件で、検事として幸徳秋水らに死刑を求刑し、東大新人会壊滅に功績があった枢密院副議長で後に首相も務めA級戦犯にも指名された平沼麒一郎ら司法界の後押しがありました。

治安維持法は、「國體護持」を目的として、私有財産を否定する共産主義者らを取り締まることを主眼に置かれました。

ですから、当局は、帝国議会答弁でも「一般の人に捜査が及ぶことはない」と一貫として説明しておりました。

それが、GPSを駆使して怪しいと思われる個人や結社を尾行し、時にはドローンを飛ばして、24時間365日監視体制の確立に成功しました。

もう特高などという人海戦術では古いですからね。

その収穫が、悪しき思想をばら撒いた北海道拓殖銀行員から作家に転向した小林多喜二や哲学者の三木清です。築地署で拷問を加えた多喜二の写真が密かに出回り、世間を震え上がらせました。これは、実に「一罰百戒」の効果がありました。

この前の国際諜報団ゾルゲ事件では、首魁のリヒャルト・ゾルゲと尾崎秀実を、治安維持法、国防保安法、軍機保護法違反などで処刑しました。

国際社会からは「よくやった」とのお褒めのお言葉を預かりました。

こうして、我々一般人は、枕を高くしてゆっくり眠られるわけです。

マスコミは懲らしめなあかん

ゴーヤチャンプル定食

衆院議員の大西英男様です。

1946年、東京都江戸川区生まれ。70歳。國學院大学法学部出身。

最近、マスコミによく登場するようになりました。「マスコミは懲らしめてやらなきゃいけない」と、つい口が滑ったのではなく、本音の本心を漏らしたことで、マスコミの連中から逆怨みを買っているのかもしれません。

足立神社

確かに、先週(2017年5月15日)、受動喫煙対策に関連した自民党厚生労働部会で、三原じゅん子議員が「働くがん患者に対応した対策を強化するべきだ」と発言したことに対して、「がん患者は働かなければいい」と野次を飛ばしました。はい、野次を飛ばしたのはワシです。はい、はい、はい、そうですよ。でも、謝罪したじゃありませんか。

足立神社

えっ?まさか、ここで昔のワシの発言を掘り起こしてくるわけじゃないでしょうね?

2014年4月の衆議総務委員会でのセクハラ野次?

上西小百合議員に対して、ワシが「早く結婚して子供を産まないとダメだぞ」と野次を飛ばしたって?

そんなことあったかなあ?…

えっ?まだある?巫女発言?ああ、ああ、ああ…あれは確かに言いました。言いましたよ、言いました。

2016年3月、衆議院北海道第5区補欠選挙の応援で札幌に行った時、神社の巫女から、急に「自民党はあんまり好きじゃない」と言われたもんだから、派閥の会合で、「巫女のくせに何だと思った」と発言しましたよ。はい、はい、はい、しましたよ。

でも、その巫女は、20歳くらいで、今回投票が初めてだというから、「夜のススキノにでも誘って、ひとつ口説いてやろうと思った」などと言ったとか、そこまでマスコミは書くんだからね。

如何なものか!

やはり、マスコミは懲らしめてやらなあかん。

あれっ?何で東京出身のワシが関西弁なん?

第6回戦国滝の城まつりと柏の城跡

滝の城まつり

昨日は、すっかり初夏の陽射しとなった天候の中、埼玉県所沢市の第6回滝の城まつりに行って来ました。

知名度が今一つないせいか、程よい人の集まりで、東京のように混んでいたわけではなく、ゆっくり堪能できました。

三の丸跡

場所は、渓流斎さまが御幼少の砌、野山を駆け巡っていたところに近いと言えば、近く、小学校の音楽担当の荻野先生がお住まいになっておられた東京都清瀬市の旭ヶ丘団地の裏手にあります。

昔の記憶でも、確かに「城跡」「城址」と言っていた小高い丘が、旭ケ丘団地の裏手を流れる柳瀬川1本挟んだ向こう側の県境の埼玉県所沢市にあった気がします。勿論、当時は今のように城巡りがブームではなかったので、まさに野ざらし状態で、誰にも顧みられることがなかった覚えがあります。

戦国武将行列

「滝の城(たきのじょう」は、木曽義仲の末裔と言われる信濃守大石氏(関東管領山内上杉氏家臣、武蔵守護代)が15世紀後半に築城したという説と、小田原三代北条氏康の次男で、十三代大石定久の娘婿北条氏照が、岩附領と滝山領の境目の番城とした、という説と、江戸城と河越城を築いた(1457年)太田道灌(扇谷上杉氏の家宰)が、両城を結ぶ清戸道の中間地点に築城したという説など複数あります。

およよ

いずれにせよ、全盛期は、相模の小田原城と関東の岩附城(さいたま市岩槻区)、河越城(川越市)を結ぶ中間地点の北条氏の要衝としての役目を果たし続けますが、最後は、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原攻めで落城し、その後、廃城となってしまいます。

武将行列

大正14年(1925年)に、埼玉県の史跡文化財に指定され、その後、調査が進み、北条氏が多用した「障子堀」や滝の城の名前の由来となった滝跡、三の郭(くるわ)から10メートルの深さの井戸などが見つかったりしています。

いざ出陣!

写真のような戦国武将の格好をした人たちは、1週間前に埼玉県寄居町の鉢形城(文明8年=1476年、関東管領山内上杉氏家臣、長尾景春の築城と言われている)跡で行われる「鉢形城まつり」に出演した人たちを借り受けたものと、地元の人がそっと内緒で教えてくれました(笑)。

暑いなあ、疲れたなあ

その前に、滝の城の所沢市の皆さんが、寄居町の鉢形城まつりにお手伝いに行っているので、その返礼ということらしいです。

志木市柏の城跡

滝の城から数キロ離れた埼玉県志木市に柏の城跡があります。この看板の説明にある通り、ここは大石氏の居館でした。

大石氏は、小田原の北条氏の軍門に下る前に、八王子の滝山城を中心に、所沢市、志木市と今で言う東京三多摩と埼玉県南部を支配下に置いていたことが分かります。

柏の城は、今は小学校になっていて、全く面影も片鱗すらありませんでした。看板もほとんど目立ちませんし、地元の人でさえ知らない人が多いことでしょう。