パリの銀行が繁栄した秘密とは

昨日は、大学の同窓会(東京・大手町のサンケイプラザ)に参加してきました。春と秋の年2回あります。フランス語を専攻した皆さんなので、ワインと美食にうるさい(笑)人が多く、秋はボージョレヌーボー、春もそれなりの高級ワインが出ます。

昨日もワイン通から、ワインの説明がありましたが、忘れました(笑)。吾人には理解不能で、ワインでしたら、美味しければ何でも戴くタイプだからです。

毎回、多彩なゲストスピーカーをお呼びします。ゲストとは言っても身内の卒業生です。それが、皆さん優秀な方ばかりですので、各方面で御活躍されております。

有名な政治家だけはいないようですが(笑)、官界、財界、学界、文学界のほか、公認会計士や同時通訳者など数多の人材を輩出しております。

昨日のゲストは、東京銀行のパリ支店長などを歴任した渡辺昌俊氏でした。色々な部署を体験され、ベトナム戦争中のサイゴン支店にも勤務されていたそうです。

東京銀行は、今では三菱東京UFJ銀行として吸収合併されましたが、かつては国立の横浜正金銀行で、日本で唯一、外国為替事業を認可された銀行でした。若き永井荷風がこの横浜正金銀行の行員で、リヨン支店やニューヨーク支店で勤務した体験などから、「あめりか物語」「ふらんす物語」を発表しております。

さて、ゲストの渡辺氏は幸運なことに、パリ支店は3回も勤務されたそうで、最初に渡仏した時(1962年)の、東京銀行パリ支店長が、戦後、文民としてただ一人A級戦犯として処刑された広田弘毅元首相の長男広田弘雄で、この方、作家大岡昇平の小学校時代の同級生で小説「幼年」にも登場します。

そして、パリ支店次長が窪田開造。この人は、窪田啓作の筆名を持ち、加藤周一、中村真一郎、福永武彦らと「マチネ・ポエティック」に参加した詩人、文学者で、カミュの「異邦人」の翻訳家としても知られています。

渡辺氏のお話で面白かったことは沢山ありましたが、2点だけ特筆しますと、まず、フランスの銀行には2種類あるということでした。一つは、(1)バンク・ドゥ・デポといって、日本の市中銀行と同じように、預金で運用したりする銀行。もう一つは(2)バンク・ダフェアといって、預金は集めず、証券会社のように投資事業を行ったりする銀行ーの2種類です。

1960年代の日本の銀行には何処にもディーリングルームがなく、渡辺氏らが中心になって、色々と偵察、ではなかった、研修をさせてもらって参考にして、取り入れていったそうです。

もう1点。なぜ、フランスの金融業界が国際的に繁栄したのか?

もともと、国際金融業務は、基軸通貨が中心になります。第1次世界大戦までは、大英帝国のポンドが基軸通貨だったので、ロンドンの「シティー」が。第2次大戦後は、ブレトン=ウッズ体制でドルが基軸通貨となり、ニューヨークの「ウォール街」が中心となります。

金融業界の規模をボールに例えると、ロンドンやニューヨークがサッカーボールだとすると、パリはテニスボールぐらいの規模。金融の中心を自負するフランクフルトやチューリッヒでさえ、ビー玉ぐらいの大きさだというのです。

ですが、それにしても何故、パリにお金が集まるのか不思議です。

それは、戦後の東西冷戦の時期、ロンドン、ニューヨークといったアングロサクソン系の銀行を嫌ったソ連や東独、ポーランドといった旧共産圏がパリの銀行を贔屓にしたからなのでした。

もう一つ、ド・ゴール大統領の手腕で、アラブ諸国との交流を良好にしたため、オイルマネー(もしくはオイルダラー)がそっくりパリの銀行に流れてきたというのです。

ベトナム戦争後は、パリで和平会議が開催されるなど、パリは、アングロサクソンではないのに、国際都市として、世界から注目と信頼を勝ち取ることに成功しました。

なあるほど。プロ野球で言えば、パリの銀行は「アンチ巨人」の受け皿だったわけですね。