江戸城趾
稀勢の里ブームで、大相撲人気が再燃して切符が手に入らないそうなので、専らテレビ観戦。
江戸の明暦の大火で、市中20万人の人口のうち、10万人(ほとんどが町民)が亡くなったことは以前書きました。
亡くなった方々は、本所の回向院に葬られたそうです。宗派に拘らない寺だったからだったようです。
その回向院では、資金捻出のため(?)、お上から勧進相撲が許可されていました。闇か、大っぴらか知りませんが、賭け相撲だったようですね。
現在も、相撲興行には顔役さんが欠かせないとか、相撲部屋同士で星取勘定のやり取りがあるとかないとか、といった話は、茲では触れません(笑)。
今日は相撲の土俵の上にある櫓の下の房のことを書きます。
江戸時代の浮世絵を見ると、相撲興行は戸外で行われ、屋根が付いた土俵で、ちゃんと4本の柱があったことが分かります。
この柱は、観客の見る角度では死角となって見にくいせいか、室内興行になると、いつから始まったのか定かではありませんが、屋根は吊り屋根となり、柱はなくなりました。その代わりに、4本の房がぶら下がっています。
ベテランの中継アナウンサーだと、「赤房下で…」とか、「白房下で…」とか解説してくれます。房に色が付いているわけです。
これは出鱈目に付けたわけではなく、風水、陰陽道、四神相応などから決まりがあります。これらは大陸から伝わりましたが、和風にアレンジされるようにもなりました。
何と言っても、相撲は神事ですからね。
まず、テレビ画面の手前を「正面」と言い、行司さんが立っている向こう側を「向正面」と言います。左が「東」、右が「西」です。東の方が西より上位で、番付によって変わりますが、同じ横綱でも東の方がその場所は格上になるわけです。
で、「房」の話でしたが、正面が「黒房」、向正面が「赤房」、東が「青房」、西が「白房」となります。(正確に書きますと、黒房が北西、赤房が南東、青房が北東、白房が南西)
これは、方位学によるもので、北が黒、南が赤、東が青、西が白だからです。
江戸城趾
これには「四神相応」と言って、その方角に四神が当てはまります。
北が玄武(亀みたいな神様)、南が朱雀、東が青龍、西が白虎です。そうです、奈良県明日香村のキトラ古墳にも描かれていたあの四神です。
相撲の話に戻しますと、正面が北、向正面が南…ということになるのです。そして、それぞれが四季にも相当します。色が四季の色だとも言えます。つまり、青は「あはし」赤は「あかし」、白は「しるし」、黒は「くらし」から来ていたのです。
整理しますと、
【東】左側(北東)=青房(青龍)・春
【南】向正面(南東)=赤房(朱雀)・夏
【西】右側(南西)=白房(白虎)・秋
【北】正面(北西)=黒房(玄武)・冬
奈良の平城京、京の平安京も、江戸城を中心にした江戸市中もこのような風水や陰陽道、四神相応などで街づくりされていたことがよく知られています。
特に、家康、秀忠、家光の三代将軍のブレーンだった南光坊天海大僧正が、江戸の都市設計計画に大きく関わったことは有名です。
しかし、その一方で、これら天海上人がつくったと言われる街づくりは、実はこじ付けで、後世の人による作り話だったという説もあるようです。
小生は、来週、休暇を取って、「江戸の五色不動尊巡り」をする予定ですので、自分なりに調べてみました。
かなり知っていたことでしたが、結構面白かったです。
この話はいつかまた。