女優を2号にした映画会社社長

天守台

東京の調布先生です。

たまに渓流斎ブログを見ますが、いつも詰まらないですね。それに、長い!

いつぞやは、gooブログのランキングで第22位に輝いたと自慢しておられましたが、昨日は第7232位に転落してるじゃないですか。実にぶざまですねえ。

共謀罪は所詮、他人事。カジノで100万円の損をして一家離散しようが所詮、他人事。北朝鮮からミサイルが飛んでかようが…あ、これは他人事じゃないか。(笑)

江戸城趾

渓流斎さんはまだお若いから知らないかもしれませんが、今では「ピンク映画」の代名詞になっている大蔵映画の大蔵貢が、新東宝の社長に就任して嵐寛寿郎主演で「明治天皇と日露戦争」(1957年4月29日公開)を製作して大ヒットしたことがあります。当時としては破格の7億円もの興収をあげました。

この大蔵貢(1899~1978)社長、実はもともと活動映画弁士だったんですよ。歌い手の近江俊郎の実兄ですから、声もよかったんでしょう。無声映画時代の大正~昭和初期は、活動弁士は花形で、スター俳優よりギャラがよかったそうです。

時代はトーキー映画となり、花形の活動弁士も職を失います。

先見の明があった大蔵貢は、弁士の多くが漫談家などに転向したのを横目に見て、映画小屋を買収して、興行主の道に進みます。

木曽の極貧の家庭で育ったため、大蔵はお金の大切さは身に染みていました。弁士時代から血の涙が出るほどの節約に努めます。以下は、電脳空間から拝借した大蔵の伝説談話です。

●金を貯めるにはまず使わない。
●女買いはしない。
●煙草は呑まない。
●骨身を砕いて働き、一分の暇があれば読書をして勉強する。
●生活に必要な金以外はすべて貯蓄する。
●貯蓄したら下ろさない。

こうして貯めたお金を元手にして、次々と映画小屋を買収し、実業家としての地位を固めていき、映画会社の社長にまで登りつめるのです。

大手門

大蔵貢の最大のエピソードは、女優の高倉みゆきを愛人にして、先の「明治天皇と日露戦争」での皇后陛下役など数々の映画に主役級で出演させたことでした。

これに対して、大蔵は「女優を2号にしたのではない。2号を女優にしたのだ」と言い放ち、周囲を煙に巻きました。

昭和35年のことです。この逸話は、もう知る人が少なくなってきましたね。