第6回戦国滝の城まつりと柏の城跡

滝の城まつり

昨日は、すっかり初夏の陽射しとなった天候の中、埼玉県所沢市の第6回滝の城まつりに行って来ました。

知名度が今一つないせいか、程よい人の集まりで、東京のように混んでいたわけではなく、ゆっくり堪能できました。

三の丸跡

場所は、渓流斎さまが御幼少の砌、野山を駆け巡っていたところに近いと言えば、近く、小学校の音楽担当の荻野先生がお住まいになっておられた東京都清瀬市の旭ヶ丘団地の裏手にあります。

昔の記憶でも、確かに「城跡」「城址」と言っていた小高い丘が、旭ケ丘団地の裏手を流れる柳瀬川1本挟んだ向こう側の県境の埼玉県所沢市にあった気がします。勿論、当時は今のように城巡りがブームではなかったので、まさに野ざらし状態で、誰にも顧みられることがなかった覚えがあります。

戦国武将行列

「滝の城(たきのじょう」は、木曽義仲の末裔と言われる信濃守大石氏(関東管領山内上杉氏家臣、武蔵守護代)が15世紀後半に築城したという説と、小田原三代北条氏康の次男で、十三代大石定久の娘婿北条氏照が、岩附領と滝山領の境目の番城とした、という説と、江戸城と河越城を築いた(1457年)太田道灌(扇谷上杉氏の家宰)が、両城を結ぶ清戸道の中間地点に築城したという説など複数あります。

およよ

いずれにせよ、全盛期は、相模の小田原城と関東の岩附城(さいたま市岩槻区)、河越城(川越市)を結ぶ中間地点の北条氏の要衝としての役目を果たし続けますが、最後は、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原攻めで落城し、その後、廃城となってしまいます。

武将行列

大正14年(1925年)に、埼玉県の史跡文化財に指定され、その後、調査が進み、北条氏が多用した「障子堀」や滝の城の名前の由来となった滝跡、三の郭(くるわ)から10メートルの深さの井戸などが見つかったりしています。

いざ出陣!

写真のような戦国武将の格好をした人たちは、1週間前に埼玉県寄居町の鉢形城(文明8年=1476年、関東管領山内上杉氏家臣、長尾景春の築城と言われている)跡で行われる「鉢形城まつり」に出演した人たちを借り受けたものと、地元の人がそっと内緒で教えてくれました(笑)。

暑いなあ、疲れたなあ

その前に、滝の城の所沢市の皆さんが、寄居町の鉢形城まつりにお手伝いに行っているので、その返礼ということらしいです。

志木市柏の城跡

滝の城から数キロ離れた埼玉県志木市に柏の城跡があります。この看板の説明にある通り、ここは大石氏の居館でした。

大石氏は、小田原の北条氏の軍門に下る前に、八王子の滝山城を中心に、所沢市、志木市と今で言う東京三多摩と埼玉県南部を支配下に置いていたことが分かります。

柏の城は、今は小学校になっていて、全く面影も片鱗すらありませんでした。看板もほとんど目立ちませんし、地元の人でさえ知らない人が多いことでしょう。