慈眼大師南光坊天海大僧正の都市計画

目黒不動尊

昨年百歳の天寿を全うされた志田忠儀さんの著書「ラスト・マタギ 98歳の生活と意見」(角川書店)を読了しました。

志田さんは大正5年(1916年)、山形県大井町生まれ。戦中は三回も召集されて、足掛け10年間も中国で軍隊生活を送り、戦後は磐梯朝日国立公園の管理人や朝日連峰の救助隊なども務めた方です。

こういう生活をした人がいたとは、私のようなシティーボーイには全く想像もつかず。奇跡のような感じがしました。

目赤不動尊

さてさて、以前から宿題となっていた慈眼大師南光坊天海大僧正による江戸都市計画について、まとめておきましょう。

天海上人(1536?~1643)は、徳川家康、秀忠、家光の三代将軍に仕え、107歳の天寿を全うしたとか、130歳まで生き伸びた聖人だのという伝説の持ち主です。

江戸は、家康が天正18年(1590年)に入府して以来、沼地で人が住めない土地を埋めたり、利根川の水流を変えたりして、100万人が住めるような大都市に変革させていきます。

(江戸城の三の丸辺りで崖地になってますが、そこが武蔵野台地のキワだったようです。日比谷も銀座も築地も全て江戸時代からの埋立地です)

人間に最も大切な飲み水である神田上水や玉川上水を郊外の井の頭や多摩川から市中に引きます。

目黒不動尊
そして、江戸の都市づくりに、風水、陰陽道、五行説、四神相応などを取り入れて将軍に助言したのが、この天海上人です。

風水によると、北には山、南には池や海、東には川、西には道がある街は、邪気を跳ね除けられ、運気が高まると言います。

これを江戸に当てはめると、江戸城を中心にして、北に「山」である麹町台地とその先に富士山がある。南には「海」である江戸湾、東には「川」である平川、隅田川が、西には「道」である東海道があるーといった具合です。

そして肝心なのが、祟りや悪を封じるために鬼門(東北)と裏鬼門(西南)の方角に神社仏閣を設置して怨霊を鎮めるという思想です。

そこで、江戸城の鬼門には、徳川家の菩提寺である上野寛永寺を創建し、大手町にあった平将門の霊を祀った神社を移転して、神田に神田明神(神田祭り)として創建する。中世からあった浅草の浅草寺(三社祭り)も鬼門の範囲内とする。

鬼門の東北の方角には、さらに遠方の日光に家康を祀る東照宮を設置することで完成させます。

西南の裏鬼門には、太田道灌の河越城の山王権現を移転して祀る日枝神社(山王祭り)を創建し、やはり、徳川家の菩提寺である増上寺も設置する。裏鬼門の南西の方角には目黒不動尊も入れる。

そしてはるか遠方ながら静岡県の久能山東照宮で完成させるといった感じです。

目黒不動尊

これら天海上人による都市づくりを真っ向から否定する人たちもおります。そもそも天海上人は107歳も生きていないと異議を唱えます。江戸城の北に富士山が見えるわけがないので出鱈目だとも言うのです。

また、鬼門に浅草寺を入れたり、裏鬼門に増上寺や目黒不動尊を入れたりするには方角的に無理があると言います。

確かに一理あります。こじつけが散見されますから。

他に外堀の奥の四谷門、牛込門、浅草橋門などにも平将門の手や足を祀った神社もありますが、これらも眉唾ものだと批判する人がいます。

しかし、私はよしんば真実とは遠く、違っていても、天海上人による街づくりは、江戸庶民が信じた「共同幻想」のような気がしてます。

五街道に配した五色不動尊も、鬼門封じの神田明神、裏鬼門封じの日枝神社も非科学的で、効力も何もないのかもしれません。

亀戸「升本」

でも、少なくとも江戸の庶民は、いや武士や殿様も信じようとし、確かに信仰したことは事実です。それが伝統文化というものです。

何でも非科学的だと言って、排除してしまっては、その時代、時代に生きた人々の生活を否定するものだと、私は思っています。