帯広畜産大学訪問記


帯広畜産大学のキャンパスには牧場と農場があります。広大です。キャンパスの奥には小川が流れ、川岸で「こごみ」を見つけました。

家に帰って、酢味噌和えにして食べました。生まれて初めて食べました。動物にしろ植物にしろ最初に食べた人はえらい!!見た目には「ぜんまい」に似ていますが、味は「フキノトウ」の「エグイ」所を取った感じです。春の味がしました。本州はもうとっくに初夏でしょうが、北海道はやっと春満開です。


空はいわゆる十勝晴れです。白樺の木が緑の羽をのびのびと伸ばしていました。


白馬の「まつ」。すごい食欲でした。蓄大の学生さんが手塩にかけて育てていますので、全く人を怖がらず「餌をくれ」と近寄ってきます。足元の草を引っこ抜いてあげると、食べるわ、食べるわ…。「まつ」は睫毛も金髪でした。見ているだけで、癒されました。

常識

「やらなければならない」という義務感があると、どうもやる気が起きない。苦しい。

それなのに、自分から進んで「やりたい」と思ってやると楽しい。人も喜ぶ。だから人は、ボランティアに精を出す。

これはどうしたものなのでしょうか。

「真面目に生きなければならない」「仕事をしなければならない」ーこれも苦しい。

逆転の発想をしてみると、
「別に真面目に生きなくてもいい」「仕事をしなくてもいい。遊んでいい」

しかし、すかさず、内なる声が聞こえてきます。
「不真面目に生きていたら、親兄弟や子供に迷惑が掛かる。先生にも叱られる」
「遊んでばかりいては、食べてはいけない」
これは常識です。

だから、人間は悩むのです。

それなら、こうしたらどうでしょうか。
「やらなければならないという義務感を心の中から消し去る」
「やらなければならないこと、そのもの自体がないのだと自分を説得する」
「やらなければならないことは、そもそも、義務感という感情が錯覚させているだけで、その錯覚さえ、取り外せば、苦痛がなくなる」
「やりたいと思ったことだけやる。つまり、やりたいにしろ、やりたくないにしろ、何であれ、これこそが自分のやりたいことだと自ら言い聞かせ、たぶらかせる」

うーん。字余り…ではなくて、「言葉足らず」ですか?

反論をお待ちしております。

自信

自信とは、文字通り自分を信じること。傲慢であったり、過剰であったりしては周囲に迷惑を掛けるだけですが、日々生活する上でこれ程大切なものは他にないでしょう。

生きていく自信、仕事をやり遂げる自信、困難に立ち向かう自信…。こういう時は自分を信じることしか他に解決方法はありません。いや、実は別に解決することなど何もないのですが…。

自分を信じること。自分を信じて、信じ切ること。こうして初めて何かを見い出したり、何かを成し遂げたりすることがあるはずです。

自信がつけば、自分がやりたいことを実現させることができます。自分のなりたいものにもなれます。

魂の浄化

修行者:心配、不安、恐れといった感情をプラスのエネルギーに転化することはできるのでしょうか?

先師:心配、不安、恐れといった感情を感じ切ることです。とことん心配してこれ以上心配してもしょうがないというところまで心配するのです。とことん不安になって、これ以上、不安になることができないというぐらい不安になることです。とことん恐れ、これ以上、恐れることがないというぐらい恐れることです。大事なのは、そういったネガティブな感情を100%感じ切るということです。その時、初めてマイナスエネルギーは上昇してプラスに転じます。マイナスからゼロのレベルに達した時、人は初めて「心の平安」を取り戻すことができるのです。そのゼロの状態を「真我」とも言います。若い頃は、有頂天になる時と落ち込む時とで、プラスとマイナスの揺れ幅が大きいのですが、修行によって、その振幅差が小さくなり、ついに、「心の平安」の「真我」に到達します。修行とは、とことん味わい尽くすということです。どん底に突き落とされて、初めて人は光明を見出すものです。それは、「諦観」と呼ばれるか、「悟り」と呼ばれるか、人それぞれでしょう。いずれにせよ、我々はそれらの行為を「魂の浄化」と呼びます。

トライトーン

公開日時: 2005年5月16日

その五人を初めて某国営放送で見た時、思わず身を乗り出してしまいました。あまり美男美女とは言えない(失礼!)若い男女五人組が何の伴奏もなく歌いだすと、彼らにまるで天使が舞い降りたような神々しささえ感じられたのです。

その名前はトライトーン。初めて聞く名前でしたが、おそらく今、日本でナンバーワンの男女混声アカペラ・グループではないでしょうか。

私もこれまで数々のコーラスグループを聴いてきました。男性四人のダークダックス、ボニージャックスを始め、男女四人のサーカスも一世風靡しましたね。最近ではケミストリー、エグザイルといったところでしょうか。でもトライトーンのように、楽器まで「口」でやってしまうグループは日本にはあまりいなかったと思います。欧米ではマンハッタントラスファーなど沢山います。アカペラとは元々イタリア語で「教会風に」といった意味で、それが転じて、伴奏なしで声だけで歌うパフォーマンスのことを指します。教会音楽の伝統を持つ欧米に多いはずです。

トライトーンは1994年に早稲田大学のアカペラサークルを中心に結成され、96年に現在のメンバーに落ち着いた。それが第1声の松永ちづる、第2声の渡辺愛香、第3声の多胡淳、第4声の北村嘉一郎、ベースの青木肇の五人です。第4声の北村がボイスパーカッションも担当し、小太鼓から大太鼓、シンバルまで声だけで色々表現してしまう。他のメンバーもヴァイオリン、チェロ、フルート、トランペットのような音まで再現してしまう。これでは伴奏楽器がいらないはずですね。

彼らの代表的なCD「にほんのうた~春夏秋冬~」には、「朧月夜」「故郷」など17曲の懐かしい唱歌が収められています。もちろん彼らによるアレンジで、伴奏楽器なし。「村祭」の笛太鼓も彼らの声です。やはり、歌声には人を勇気づけ、癒す力がありますね。

悲しみのどん底にいる人たちへ

「物事の成り行きに対して、汝の心を煩わせてはいけない。事の成り行きは、あなたが悩もうと何をしようと、関係なく進行するのだ。人生に起こる何事についてであれ、驚くということは何と滑稽でおかしなことであろう」

マルクス・アウレリウス(121-180)ローマ皇帝。五賢帝のうちの5代目(在位161-180)。ストア学派の哲学者でもあり、戦陣の中で「自省録」を執筆。ゲルマン諸国と戦い、ウイーンで病死。

【納得】この言葉を友人から教えられた時、まさに目から鱗が落ちるような感慨に襲われた。サラリーマン生活を経験した人なら誰でも一度は考えたことがあるだろう。「俺がいなければこの会社はもたない」「私がいなければ、仕事は進まない」と。しかし、何てことはない。代わりの人間などざらにいる。自分がいなくても会社はなくならないし、仕事だってテキパキと進む。別に、才能だけがすべての芸能、スポーツ界でもいい。いなくなれば、そのポジションを他の誰かが狙うまでだ。社長でも学会のボスでもヤクザの世界でも同じこと。
しかし、この箴言は「悩んでも仕方がない」と謂わんがための言葉では決してない。仏教的諦観でもないし、キリスト教的宿命論でもない。何と言っても、何不自由のない地上の最高権力者ともいえるローマ皇帝から発せられたという事実が興味深い。人生に対する思惟力と洞察力が生半可ではない。

この言葉を今、悲しみのどん底にいる人たちへ贈りたい。

煉獄

今日は、往復10時間掛けて、中部地方に住む友人のお見舞いに日帰りで行ってきました。途中、名古屋で「愛知万博」の看板が溢れており、時間的余裕があればちょっと立ち寄ることができたのでしたが、まさしく、トンボ帰りでした。

友人とは30年来の付き合いですが、去る2月末に、あの長嶋さんと同じような病魔に襲われ、本人曰く、10日間も意識不明の昏睡状態が続いたそうです。まさに九死に一生を得た感じですから、その間、幻覚症状というか、いわゆる臨死体験をしたようです。

彼によると、それは煉獄の苦しみだったそうです。煉獄とはダンテの「神曲」に出てくる、あの煉獄です。地獄ですね。まるで、芥川龍之介の小説「蜘蛛の糸」のような世界だったそうです。若い頃から現在までの自分が走馬灯のように現れ、良心の呵責というか、「自分は一体これまで何をやってきたのか」「人に役立つことをしてきたのか」「傲慢に自分の独りよがりで生きてきただけではないか」…といった様々な呵責に苛まれたそうです。

それでも、「意識不明」の間、家族や医者、看護婦の会話が聞こえてきたそうです。「今日はもう山場だな」とか「危ない状態だ」といった声が聞こえ、自分の体が焼かれそうになるのを必死で抵抗して逃げまくったそうです。そのおかげで、この世に戻ってきたわけです。

それはそれは「死ぬほど怖かった」そうです。「もう2度と経験したくない」と、彼はそれ以上語ることを止めてしまいました。
この話を聞いて、先日見たキアヌ・リーブス主演の映画「コンスタンティン」を思い出してしまいました。見た方はもうお分かりですね。煉獄がリアルに描かれていましたね。

幻覚症状は、ネガティブなものばかりだったので、彼は「これから、明るく前向きに生きるよ」と自分に誓っていました。
彼は今、普通の人以上の努力でリハビリに励んだおかげで、驚異的な、いや奇跡的な回復力を見せています。それが本当に嬉しかった。「往復10時間かけた甲斐があった」と、今日は本当に充実した1日を過ごすことが出来ました。

リアルな生活とは

北海道から久しぶりに関東地方に里帰りしています。「保護観察」の身ではないのですが、個人情報保護法の関係で、お伝えできるのはここまでです。

帰ってみて驚くのはまず情報量の多さですね。電車や駅、その周辺は広告で溢れています。でも北海道の自然に囲まれて暮らしていると、どれも何かそらぞらしいですね。例えば、かわいくて、美しい若い女性モデルかタレントが、南国の海岸や、スキー場やリゾート地をバックに、ニッコリ微笑んで商品を持っているポスターがあったとしても、昔は「おー」と、少しはそそられたでしょうが、今は、何か、生活感がない、というか、リアルじゃない、というか、うそ臭いというか、何か空々しく感じてしまうのです。

何かうまい表現はできないのですが、都会の生活だけしか知らず、優越感を感じていた人間の自信が根底から覆された感じなのです。なくてはならないと感じていた情報のほとんどが必要のないものだったと納得させられた、というべきかもしれません。

満天の星の驚くのほどの数の多さとその輝き。天使が現れるのではないかと思われるほどの雲間から漏れる太陽の縞光。眼前に広がる壮大な牧場と穀倉地帯…。どれも、都会では絶対に味わえません。

もともと性格が天邪鬼なので、早く北海道に戻りたいと思ってしまいました。

TBS部長の記事盗用

公開日時: 2005年5月12日 @ 18:34

TBSのスポーツ局担当部長(47)が、同社公式ホームページのコラムで、読売新聞の記事などから盗用したことが発覚しました。出版物ではなくてインターネットの記事が盗用の罪に問われたのは、これが初めてではないかと思います。時代は変わったなあ、と思いますが、盗用は盗用です。それでも筆者にはあまり罪悪感はなかったようです。担当部長は最初、存在もしないフリーライターに罪をなすりつけて、逃げ隠れしようとしたのですから。許せませんね…。

私は、盗用問題で職を辞めざるを得なかった人を何人か知っています。

それでも、敢えて暴論を言えば、現代は「盗用王国」ではないでしょうか。記事をパソコンで書く時代となり、人の記事を簡単に「コピー」「貼り付け」して自分のものにしてしまう若い記者が増えた、と聞いています。

ある有名作家が文芸誌に連載していた小説が「盗用問題」に引っかかった時、「連載終了時に、すべての参考文献を列挙するつもりだった」と釈明していましたが、何か、聞いていて見苦しいと思いました。最初から誤解を呼ばないように明記するべきだったからです。

そこで、「盗用」と「引用」の境目の問題にぶつかります。学者の論文も「引用」がなければ書けません。小説だって、巡り巡ってみれば、尊敬する先輩作家の「引用」に近かったりします。

いやはや、全然、考えがまとまっていないまま、書き始めたので、自分でも何を言いたいのか分からなくなってしまいました。「明記すれば引用」「明記しないで自分の文章にしてしまうことは盗用」「盗用記事も原稿料をもらっていなければどうなるか」「ブログの記事など所詮、無料で書いている。だから、どんなに書いても盗用は許されるのか?」

ブログの記事など誰も相手にしませんからね。そうでもないのですか?お隣の韓国では、大統領選挙で多大な影響力を発揮したらしいですし、中国の「反日デモ」でも色々あった、とかなかったとか…。まあ、そんなことが入り混じって、結局、結論が出ていません。

時事通信社

私のブログにコメントを寄せてくださった方で、ハンドルネームが「時事通信」というのがありました。関係者の方でしょうか?

時事通信といえば、今日5月11日の夕刊紙「夕刊フジ」に「異例のトップ交代」の記事が載っているそうです。私は北海道に住んでいるので、残念ながらその記事は読めません。

ああ読みたいなあ~