コントロールドラマ

帽子が似合う女性

人間関係のパターンに「コントロールドラマ」というものがあります。

傍観者、愚問者、脅迫者、被害者、加害者というのがこのパターンの中に当てはまります。こういうどれかのパターンから、人は、人からエネルギーを取るように知らず知らずに生き方を身に着けてしまう心理が、コントロールドラマです。

「ああされたから、こうした」といったエネルギーを取る行為です。取られたら取り返そうというエネルギーの奪い合いです。

今回の場合、あなたは脅迫者で、もしかしたら被害者なのかもしれません。そうなると彼は傍観者になります。メールや電話をしても出なかったり、無視するのは傍観者の典型的なパターンです。傍観者はそうやって人から離れて関わろうとしない。電話に出なかったり、メールを無視したりすることによって、逆に相手から関心を持ってもらおうとしたり、エネルギーをもらおうとしたりするのです。あなたは、返事がこないことが気になっています。それは、彼にエネルギーを注いでいることになり、彼にエネルギーを取られたことになるのです。そして、エネルギーを注いだのに見返りがないことによって、怒りが生じてくるのです。

こうして、コントロールドラマは、ほとんどがエネルギーの奪い合いで結果を争っています。どうしてこのようなコントロールドラマが生まれるのかというと、子供の時に親や周囲からどういう風に愛を与えられているか、どういう風にエネルギーを注がれて生きるかを、無意識にその方法を身につけてきたから、と言われています。

しかし、もうそろそろ、人からはエネルギーを得るものではない、という真理に気づくべきなのです。人からエネルギーを取られたら取り返すという永遠のコントロールドラマから卒業するべきだということなのです。

その代わりに、自分で自分自身にエネルギーを注ぐこと、自分自身を愛で満たすべきなのです。そうすれば、自然に溢れた愛やエネルギーはもう減ることはないし、取られたという感じもすることはない。怒りが生じても、復讐しようとも思わない。エネルギーは泉のように溢れ出てくるから気にならないのです。

彼の不誠実をそのまま認めてあげることさえできるのです。何か理由があるはずだからです。虐待されて育った子供は、殴られる行為を愛されていると思うようになる。それほど、心というものは歪んでしまうものなのです。生きるために自然と身に着いた彼の心の中に流れる深く暗い渇きを想像することができます。しかし、誰も彼の人生の肩代わりをすることはできないのです。

だから、あなたは自分自身にエネルギーを注ぐべきなのです。趣味でもスポーツでも何でもいいのです。もうコントロールドラマは止めるべきなのです。もう人を否定したり裁いたりして生きていくやり方を止めるべきなのです。

力まず、自然に、無理せず、あるがままに。

春の風のようにやさしく、意識すらせず、そのままの姿で。

ボルサリーノ

ヴェニスにて

ついに買ってしまいました。前から欲しかった帽子です。銀座の老舗「トラヤ帽子店」の前を通りかかったら、たまらず欲しくなってしまいました。この店は創業90年だそうです。90年前といえば、1916年。第一次世界大戦、映画「戦場のアリア」の頃ですね。

買ってしまったのは、ボルサリーノ製のハンチング帽です。ボルサリーノといえば、1960年代にアラン・ドロンとジャン・ポール・ベルモンドの「2大スター」の共演映画がありました。てっきり、ソフト帽のことかと思っていたら、ブランド名だったのですね。これは、前にも「007」でも書いた「product  placement」の最たるものです。ボルサリーノ社が相当なお金をこの映画に投資したのでしょうが、1930年代から、ボルサリーノの高級帽子を被れることだけでも社会的ステイタスがあったようです。

本場イタリア製は、目の玉が飛び出るほど高かったので、ボルサリーノのライセンスを得て製造した日本製にしました。イタリア製の半額で済みましたが、ロゴマークも同じだし、外見からは区別できないでしょう。それに、日本製の方がしっかりしていたりして。

この帽子を被って、銀座1丁目のイタリア料理店「イタリー亭」でランチのナポリタン(900円)を食べて(これは美味でした。ちゃんとプチトマトも入ってましたよ。お奨めです)、そのまま銀ブラをして、真珠のミキモトの前を通ったら、ばったり、ノンフィクション作家の松瀬学君(あえて業界の後輩だったもので)に会いました。17,8年ぶりくらいなのに、二人とも、一週間ぶりに会う感じでした。私もちょうど、東京新聞で、この日、彼が連載しているエッセイを読んだばかりで、「どうしているかな?元気かな?」と彼のことを思っていたところだったので、その偶然の一致には驚きました。

とはいっても、最近、私の予感がよく当たってしょうがないのです。いつも、偶然とはいっても、何かその前に予兆や前兆や予感があったりするのです。

彼は通訳・翻訳家の奥さんと一緒で、「印税がたくさん入ったから、今、ミキモトで300万円の指輪を買ったところです」と軽口を叩いていました。彼の性格は昔から少しも変わっていません。

あまり時間がなかったもので、名刺だけを交換したところ、彼は私の帽子に気づき「『刑事コロンボ』じゃなくて『刑事ころんじゃった』みたいですね」と言うではありませんか。これには私も思わず苦笑してしまいました。

彼のことを貶しているのではなく、彼は本当にいい奴、ナイス・ガイです。早稲田のラグビー部出身で、スポーツ関係の本を出しています。彼の本を書店でみかけたら買ってあげてください。

 

希望は絶望を打ち砕く

 ヴェニス

北海道を中心に活躍するゴスペルシンガーにkiki(キキ)さんという人がいます。本名は分かりませんが、(恐らく)30歳代の日本人女性です。

日本人離れした声量と音感の持ち主と言っていいでしょう。聴く人を必ず感動の渦に巻き込むだけではなく、聴く人に、自ら参加したい気持ちにさせます。その通り、彼女の仕事の一つが、一人の歌手としてでなく、100人から200人くらいの素人の人たちをワークショップで鍛え上げて、クワイアー(合唱団)として育て上げ、コンサートで一緒に歌を披露する活動もしています。「アメイジング・グレイス」「オー・ハッピーデイ」「ジョイ・トゥ・ザ・ワールド」などゴスペルでもスタンダードになった曲を200人くらいのクワイアーが斉唱すると、まさしく圧巻そのものです。

彼女がゴスペルに出会ったのも、紆余曲折の末、偶然に近いものがありました。若い時、というより、まだあどけない子供のときから、家庭の事情で、普通の子供とは違う道に踏み込んで、16歳の頃からもうすでに自活せざるを得ない状況になっていたようです。そんな苦悩の連続の中で知り合ったのがゴスペルなのです。何度か渡米して、本格的にヴォイスレッスンを受けて、ついに3年前にCDデビューも果たしました。

そこまでの道に辿り着くのにも大変なものがありました。特に重篤な病魔に襲われた時は、半ば、人生を諦めようかという境地に陥ったことがありました。そんな苦しみと闘っていた入院中に、ある人が見舞いに訪れて、こんな言葉をプレゼントしてくれたそうです。

「忍耐は錬れた品性をつくり、錬れた品性は希望をつくり、希望は絶望を打ち砕く」

聖書に出てくる言葉だそうです。Kikiさんは、この言葉を胸に、辛い境遇を克服して何とか持ちこたえてきたそうです。

もう一度書きます。

「忍耐は錬れた品性をつくり、錬れた品性は希望をつくり、希望は絶望を打ち砕く」

まさしく、言葉の持つ力ではないでしょうか。

モーツァルト生誕250周年

トムラウシ山

公開日時: 2006年12月18日

今年、2006年はモーツァルト生誕250周年でした。1月生まれなので、ほとんど1年近く過ぎてしまいましたが、日本でも各地で記念コンサートが開催されていたことでしょう。と、変な書き方をするのは、結局、今年は、いや、今年だけでもないのですが、一度もクラシックのコンサート会場に足を踏み入れることはなかったからです。専ら、CDを聴いていました。

もう15年前の1991年。モーツァルト没後200年の記念の年では、本当に足繁くコンサート会場に通ったものです。年間80回近く聴きました。この年を前後して発売されたCD190枚付きの「モーツァルト全集」(小学館)全16巻 https://www.mls.ad.jp/sanseidou/gokabon/mozart/ を45万円くらいの値段で買った覚えがあります。

でも、15年も経ち、これほどインターネットが普及するとは思いませんでしたね。今では、ネットでモーツァルトの楽譜600曲以上が無料で手に入るという記事を読みました。

http://dme.mozarteum.at/mambo/index.php?option=com_frontpage&Itemid=1&lang=en

早速、ホームページを覗いてみました。できれば、ドイツ語ができれば便利ですね。楽譜といっても、モーツァルトの手書きの直筆がPDFでアップされていました。学術研究者用に近いので、プロ中のプロしか読みこなすことができないでしょう。記事によると、公開直後の4日間で1200万件以上のアクセスがあったそうです。恐らく、このうち、ほとんどの人は楽譜を読みこなせないので、退散したことでしょう。

いずれにせよ、すごい時代になりました。

ばんえい競馬

 帯広畜産大学

公開日時: 2006年12月17日 @ 17:43

久しぶりに私の第二の故郷である帯広が全国的に注目されています。「ばんえい競馬」を存続させることがこのほど市議会で承認されたのです。

ばんえい競馬といっても普通の人には、あまり知られていませんが、昨年の東京国際映画祭でグランプリに輝いた「雪に願うこと」(佐藤浩市、伊勢谷友介、小泉今日子、吹石一恵)をご覧になった方は分かると思います。最高1トンにもなる重量のソリを引きながら、2つの障害を乗り越えて、200メートルの直線コースで争われるレースです。

旭川、岩見沢、北見、帯広の4市共同開催されてきましたが、バブル崩壊とレジャーの多角化、長引く不況を背景に累積赤字が31億円を超え、来年以降の開催をいったんは断念したのですが、ソフトバンク系の「ソフトバンク・プレイヤーズ」(本社東京)の支援で、一転、存続が決定されたのです。

ばんえい競馬が廃止されれば、関係者の家族が路頭に迷うのと同時に、お馬さんも、馬肉になるところでした。私は、競馬はやりませんが、恐らく、このソフトバンク・プレイヤーズはインターネットで馬券の販売を全国的に展開するようですから、試しに覗いてみて、挑戦するかもしれません。

「戦場のアリア」★★★★★

仏・独・英合作映画「戦場のアリア」は本当に名作です。派手な宣伝をしていなかったので、見過ごした方も多いかと思いますが、DVDやレンタルで見られると思います。私は、今年見た映画のベスト5に挙げます。それくらい感動しました。

実話に基づいています。第一次世界大戦真っ只中の1914年のクリスマス・イブ。フランス北部のデルソーという村で、奇跡が起きるのです。フランス軍とドイツ軍と英国スコットランド軍が対峙している最前線で、ふとしたことがきっかけで、「クリスマス休戦」が生まれるのです。お互いに敵同士だというのに、友情さえ生まれます。その休戦に一役買ったのが、オペラ歌手のアナ(ダイアン・クルーガー)とテノール歌手でドイツの一兵卒として徴兵されたシュプリンク(ベンノ・フユルマン)です。

苦悩する指揮官として、フランス軍中尉のオードベール(ギョーム・カネ)とドイツ軍中尉のホルストマイヤー(ダニエル・ブリューム)がとてもはまり役でした。

戦争という極限状態の中で、人間らしさを失わなかった人たちの感動の記録です。この実話を掘り起こして映画化した監督のクリスチャン・カリオンもただものではないと思いました。

歌声が実に素晴らしいと思ったら、ソプラノのアナはナタリー・デッセー、テノールは、ロランド・ヴィラゾンと一流のオペラ歌手が歌っていたのですね。映画見ているときは気づかなかったのですが、これもネット時代の恩恵です。

またまた、英語は難しい

 滝沢さんと会って、英語のあいまい性を教えられましたが、英語が難しいのは、むしろ、その単純性、多義牲にあることに気付きました。

例えば、自分のことを「I」の一言で済んでしまうから、英語は簡単だと考えてはいけないのです。「I」という文字の中に、私、あたし、我、わらわ、俺、おいどん、わし、あたい、余、みども…と思いつくだけでも、これだけの表現が内蔵しているのです。それだけ、多義性があり、あいまい性があるわけです。

日本人にとって英語が難しいはずです。

語学の極意

東京・本郷で建築事務所を開いている滝沢さんと会って、語学の極意を伺ってきました。

滝沢さんは、『青山ベルコモンズ』の名付け親でもあり、建築士・不動産鑑定士が本職なのですが、ライフワークは「語学教育」だというのです。ご本人は米国シカゴの留学経験もあり、英検1級も取得し、日本語と同じくらい英語の読解、視聴能力があります。奥さんがフランス人なので、フランス語にも堪能です。現在69歳です。だからこそ長い間、語学獲得で苦労してしてきた彼のメソードを後世に伝えたいというのです。

彼の理論は明解です。「語学は、自分の頭と体の中に取り込まないと身に着かない」というものです。それは、母国語についても同じことが言えます。いくら英語をシャワーのように浴びて聞き流していても、英語は身に着かない。自分でその言葉や表現を声に出して、自分の耳で聴いて、確かに、ネイティブ・スピーカーと同じような発音で話しているなという実感を得て初めて自分自身に身に着くというのです。

近いうちに、彼の理論をテキスト教材にして出版する予定だそうです。

彼の話の中で、一番面白かったのは、「英語ほどあいまいな言語はない」という彼の理論です。通常、英語ほど、YES、NOがはっきりしていて、ストレートではっきりした物の言い方をする言語はない、と言われています。私もずっとそう思っていました。しかし、彼によると、冗談ではない。would you とか、 could have beenとかを使って、英語ほどあいまいに物事を表現をできる言語はないというのです。

とにかく、名詞そのものが抽象的だというのです。例えば、table 日本語では「テーブル」とか「卓」とかに翻訳され、物の実態、具体が明確にあります。しかし、英語のtableには日本語のような具象性はなく、日本語にあえて訳せば「テーブルといったようなもの」といった実にあいまいな意味しか持たないというのです。だから、冠詞の a を付けて、a table にして初めて日本語のテーブルに近い限定された具体的な名詞になるというのです。

ですから、英語の名詞に具象性がないからこそ、例えば time とtableを合成して time table つまり「時刻表」という言葉がすんなり生まれてくるというのです。日本語の概念から、時間とテーブルを合成して時刻表になるという言葉にはなかなか発展しません。これが、つまり、英語の名詞の持つ「抽象性」です。

反対に、日本語の名詞には抽象的概念は乏しい。だからこそ、名詞に「というもの」という接尾辞を付けて初めて、抽象的な意味になるというのです。テーブルと言ってしまえば、もう、具体的な形も質感もあるテーブルそのものになってしまいます。しかし、「テーブルのようなもの」とすれば、テーブルそのものではなく、テーブルから派生する抽象的な概念が生まれてくるわけです。

このような「滝沢説」には本当に驚嘆してしまいました。著作権もあるのでで、あまり多くは語ることができませんが、こんな例を一つ出しただけでも、彼の業績の奥深さを痛感してもらえると思います。

「プラダを着た悪魔」

今日も映画の話題作を取り上げます。

メリル・ストリープ、アン・ハサウェー主演「プラダを着た悪魔」です。私は10月にイタリア旅行に行った帰りの飛行機の中で二回も見ました。目の大きいハサウェーがあまりにも可憐だったので、ついつい見てしまいました。ストリープがファッション雑誌のやり手編集長役で、なかなかはまっていました。

日本アカデミー賞会員のX氏も「面白い映画です。ジャーナリスト志望のやまだしの若い女の子が、遣り手の雑誌編集長に仕込まれて行く様は『丁稚ドンと番頭さん』みたいで良いです」とベタ誉めです。

私自身はわざわざお金を出してまで見ることはないと思っていたのですが、普段めったに誉めない辛口のX氏が太鼓判を押すくらいですから、特に女性が見ると何か発見するものがあるかもしれないと思い直しました。

「硫黄島からの手紙」

クリント・イーストウッド監督の硫黄島2部作の「硫黄島からの手紙」を丸の内ピカデリーで見ました。既にニューヨークの全米映画批評会議とロサンゼルスの映画批評家協会の最優秀賞を獲得し、来年のアカデミー賞の有力候補でもあります。

第一部の「父親たちの星条旗」より、人物描写がしっかりしていて断然、面白かったですね。日本人だからかもしれません。でも、この映画、アメリカ人の監督によるハリウッド映画であることをすっかり忘れさせてくれます。よくぞ、ここまで、日本と日本人について調べ上げて描いたものだという感嘆と、よく、あそこまで、アメリカ人の恥部ともいえるような描写をカットせずに上映したものだという驚嘆の2つがありました。

日本のことについては、台詞の中で「靖国で会おう」とか、「武運長久で」などと出てきます。英語でどう訳されているのか知りたいくらいです。弾避けのおまじないの「千本針」で縫った腹巻も登場しますが、アメリカ人の観衆は理解できたのかしら。

アメリカの恥部とは、戦場で、米兵が日本人の捕虜を持て余して射殺してしまうシーンです。普通、こんな卑劣な場面はわざわざ取り上げないか、隠してしまいますよね。一方で、日本側では、1932年のロス五輪馬術競技の金メダリスト「バロン西」こと西竹一中佐(伊原剛志)が、負傷したアメリカ兵を手厚く手当てさせて、優しく英語で話しかけるシーンを織り込みます。主人公の栗林忠道中将(渡辺謙)も米国経験があり、その言葉遣いからして、ジェントルマンシップの格好いいこと!無様な「やらせ」の旗揚げ兵士たちが主人公だった「父親たちの星条旗」と比べ、何か、日本の方を贔屓目に描いているような気がしてなりません。

こんなんでいいのかなあ、というのが正直な感想です。(もちろん、戦場でボロボロと無残に殺されたり、自決したりしている日本兵を見て、涙なしには見ることができませんでしたが)

これで、アカデミー賞でも受賞したらもっと株をあげるでしょう。色々批判されている超大国アメリカですが、何と言っても「自由の国」アメリカの懐の深さを痛感させてくれます。