誇りと恥

 

 

 

今、日本で最も有名な脳生理学者の一人が、あるインタビューで以下のような趣旨の発言をしておりました。

 

「人間は、困難を乗り越えると、そのご褒美としてドーパミンの快楽が発散され、次の障害や困難を乗り越える力や知恵になる。だから、人間には困難や障害があればあるほど成長するのです」

 

うーん、そうですかねえ?私は、ここ十年近く、困難と障害だらけでしたけど、あまりドーパミンさんにお目にかかることはできませんでした。何か大きな目に見えない力が天の配剤として裁いてくれたのか、時間が解決してくれたのかわかりませんけど、黙ってじっと嵐が去ってくれるのを願っているだけでした。逆風が吹けば耐えるしかないではありませんか。我慢、辛抱、忍耐のみでした。

 

ということで、人は証明できなくても、万人に当て嵌らなくても、人は何を言ってもいいのだと悟りました。

「何を言ってもいい」ーということで、転びまろびつつ、このブログを書き続けています。

ある人が、このブログを読んで、私は「国家転覆を図る左翼主義者で、在○で、某宗教団体会員だ」と思ったそうです。

別に、「何を書いても自由」なら、「どう判断されても自由」だと思いますが、残念ながら、いずれも私には当て嵌まりません。

私は、いつも通勤で同じ車両に乗らないと気がすまない性質ですし、お風呂に入って最初に体を洗うのは左腕からで、バスタブに入るのは右足から、毎日必ず新聞を読み、偶にはお酒を飲み、煙草はきっぱり止め、麻薬は吸わない(当たり前ですか)極めて保守的な信条で生活を送っています。伝統芸能は好きですし、年始は必ず神社にお参りし、いわゆる神社仏閣巡りに無上の喜びと心の平安を感じる典型的な日本人の一人だと思っています。

ある高名な評論家が「人間は、宗教的信条や思想的信条より、自分自身の誇りと恥を最優先して生きていくものだ」と書いておりましたが、妙に納得してしまいました。

あなたは何を誇りとして生きていますか?

あなたは何を恥として生きていますか?

そう、聞かれれば、私自身もその気持ちで生きています。電車の中でお化粧したり、大声で携帯電話でしゃべったりすることは「恥」だと思っているので、絶対にしません。

車内でお化粧したり、携帯で話したりする人はそれが恥だと思っていないからできるのでしょう。

昨晩も、仕事の帰りの車内で大声で携帯で話す若作りのおばあさんがおりました。孫らしき5歳くらいの小児が、靴を履いたまま座席に座り、ぶつかってきても保護者は平気な顔でした。それでいて、「アイン、ツヴァイ」だのと、ドイツ語で二人で会話して「おまえらとは身分が違うんだぞ」といった雰囲気を周囲にばらまいておりました。

私はたまりかねて注意をしました。

しかし、おばあさんは聞こえないふりをして無視しました。

その時、私は「人間は教条主義的な信条で生きているのではないのだ」ということを確信しました。