野坂昭如「文壇」

  ひかりごけ

公開日時: 2007年10月6日

野坂昭如著「文壇」(文藝春秋)を読了しました。「文壇」なりしものが、存在し、華やかりし頃の生態が生々しく描かれていました。私は、あまり、野坂ファンではなく、彼の著作をあまり読んでこなかったので、彼の独特の文体には、時折、戸惑い、時々、閉口し、時折、感心、時折、感服しましたが、まあ、最後まで読ませる力量はさすがでした。

物語は、野坂氏が、初めて文壇パーティーなるものに列席した日(昭和36年の中央公論新人賞=受賞者・色川武大)から始まり、昭和45年の三島由紀夫の割腹自殺で終わります。

本人が、昭和42年に「アメリカひじき」と「火垂るの墓」で直木賞を受賞した前後の頃の文壇の裏表を微に入り細に入り活写され、全く恐ろしいほどの記憶力です。

野坂ファンには至極旧知の当たり前のことなのでしょうが、彼と丸谷才一とのいわば師弟関係、彼のあこがれの作家であった吉行淳之介との関係、意外にも三島に作品を絶賛されて親交を結ぶようになったことなど、私の与り知らなかったことが、事細かく書かれていて、大変興味深かったです。

それにつけても、今の文学界、文壇はどこに消えていってしまったのでしょうか?

文豪・夏目漱石展

両国の江戸東京博物館に「文豪・夏目漱石」展を見に行きました。「閉店間際」だったため、随分、急かされて、駆け足での鑑賞でしたが、何しろ、漱石の本物の原稿(ほとんどが書き損じでしたが)や蔵書等を間近に見ることができて、感激しました。

漱石は、私の最も大好きな作家の一人です。もちろん、全集を持っています。大昔、全作品を一度、ざっと読んだきり、好きな作品は再読していますが、再々読はしていませんので、また、読みたくなりました。

今回、新たに発見、というか、忘れていたことを再発見したことは、漱石は、1歳で塩原家に養子に出されますが、夏目家に戻ったのは、何と、21歳の時だったのですね。49歳で亡くなっているので、生涯の半分近くは塩原金之助の名前だったことが分かりました。そして、北海道にも戸籍を異動している時期もあったようです。

蔵書の多さにも唖然としました。ロンドン留学で、買い込んだものが多かったようです。「ロビンソン・クルーソー」「ガリヴァー旅行記」「シェイクスピア全集」は当然のことながら、社会学や心理学や、ベルグソンンまで原書で読んでいたとは驚きました。当時の知識人の質量とも学識の幅の広さには感服致しました。

漱石は大変、几帳面な人で、弟子たちに貸したお金や蔵書について、すべてノートに記帳していました。返却してくれた人には棒線が引かれていまして、棒線が引かれていない人は「恐らく返却していないものと考えられる」と説明文にありました。苦笑してしまいました。

およそ、90年前に亡くなった漱石ですが、本人が着た着物などが展示されていると、どこか近しい感じを受けました。