「10年連続3万人」を考える

  警察庁の発表http://www.npa.go.jp/toukei/index.htmによると、昨年1年間の全国の自殺者は、前年比2・9%増の3万3093人で、10年連続3万人を超えました。

10年間で30万人。沖縄県の那覇市ほどの住民全員がいなくなってしまった計算になります。

交通事故死は、年間1万人くらいかと思っていたのですが、年々減少傾向にあり、一昨年の平成18年で、6352人http://www.npa.go.jp/toukei/koutuu1/shisha.htmにまで、減っていたのですね。

以上、統計の数字は、ネットで簡単に検索できるようになりました。最近、ネットの掲示板に「殺人予告」するような唐変木が増えてきましたが、これまで、一部の関係者にしか公開されていなかった資料が簡単に手に入るようになったことは、ネットのいい点 upside です。

自殺者統計は、今年からその原因・動機まで、かなり詳しく公表されることになりました。

やはり、健康問題を抱えての自殺(14、684人)が一番多く、そのうち、鬱病が原因が最多(6060人)だったということが分かりました。性別では、男性が2 3 , 4 7 8 人で全体の7 0・. 9 % 。男は弱いんですね。

新聞では、働き盛りの30歳代が過去最多になったということで、大きな活字で見出しになっていましたが、年齢別では、やはり、6 0 歳以上が一番多くて(12、107 人)で全体の3 6・. 6 % 。次いで5 0 歳代(7046人)、4 0 歳代(5096人)、3 0 歳代( 4767 人) の順となっていました。

年間3万人が自殺しているということは、毎日80人以上の人が早まったことをしていることになります。

正直、私自身、若い頃から自殺については何度も考えたことがありますし、それも1つの方便だと考えたこともありますが、今では、どんな苦難に遭っても自殺はしないことを心に決めています。

人間は非常にか弱い動物です。死ぬことは驚くほど簡単にできます。

しかし、何もしなくても、ただ生きているだけで、時間は瞬く間に過ぎて、自死を選ばなくても、死はやってくるのです。

自殺する人の多くは鬱病に罹って、正常な判断ができなくなったことが要因の一つだということが今回分かりました。

今逆境にいる人にとって、その状態が長いトンネルかもしれませんが、事態は必ずに変化しますし、今の境遇が未来永劫続くわけがないということを肝に銘じなければなりません。

秋葉原で無差別殺人を犯した容疑者も閉塞感を感じて将来に夢も希望も持てずに犯行に走ったのでしょう。しかし、どんなことがあっても、人間、夢と希望を持たなければ生きていけません。犯人は「夢のあるやつには、俺の気持ちは分かるまい」とネットに書き込んだそうですが、それでも、若者なら大志を抱くべきです。人生を悟るにはまだ早すぎます。

 

私自身は、教育者でも、コメンテーターでも、官僚でもないので、いい知恵が浮かばないのですが、日本のような恵まれた国で、10年連続3万人もの自殺者を輩出する社会は異常としか言いようがありません。

 

自殺は自分に対する殺人にほかありません。もう少し、自分自身を客観的に見るなり、自分を解放したりして、いい意味で日々のストレスを発散するのもひとつの回避法かもしれません。

あまり、いい言葉が見つかりませんが、今、自殺を考えている人は、もう少し、留まったら違った道が開けることを信じてほしいと思っています。

「はん亭」は素晴らしいお店でした

 

昨晩は、Mさんと一緒に根津の串揚げ屋「はん亭」http://www.hantei.co.jp/nedu.htmlに行ってきました。美味しい串揚げを三人前くらい平らげ、二人で焼酎のボトルを一本空けてしまい、またまた痛飲してしまいました。どうやって帰ったのか覚えていません。

根津はいいですね。下町の情緒が残っていて、妙に落ち着きます。

この「はん亭」の建物は、明治時代に建てられた風格のある総ケヤキ造りの三階建てで、関東大震災も、昭和の戦災にも逃れて、明治ー大正ー昭和ー平成と生き残っているのですから、すごいの何のって…。文化庁の登録有形文化財にも指定されているということです。

Mさんは、出版社の編集者ですが、今月末で退社して、取り敢えず、フリーランスになるという話を聞かされ、ビックリしてしまいました。テレビ局にも勤めたことがあり、大変優秀な方なので、色々な所から引き手があったそうなのですが、ライフワークに専念したいという話でした。

いやあ、すごくヴァイタリティのある方です。私も今すぐ組織を辞めて、身を粉にして邁進するほどの仕事や使命感があるのか、と突きつけられれば、自信がないですからね。

でも、大変刺激を受けました。時が経つのは速いですから、ボヤボヤしていられません。

そういうものです

公開日時: 2008年6月18日 @ 22:12

私がブログを始めたのも、世間で認知されている識者と呼ばれている輩の学のなさ、いい加減さに呆れてしまったからです。

私のような人間でも世間に向かって発言してもいいのかもしれない。

それが、きっかけでした。

茂木久平という男

 

再び 「甘粕正彦」の話。同書には、実に多数の有名無名の人物が登場します。それだけに、巻末に索引があればなあ、と思います。

この中で、著者の佐野眞一氏が最も、思わさせぶりな書き方をしている人物の一人に、茂木久平という人がいます。甘粕に取り入って、満洲映画協会東京支社長になる人物です。

佐野氏はこう書きます。

”満洲の甘粕”の周辺には、右翼とも左翼ともつかない正体不明の男たちが数多く出入りした。茂木はいかがわしさという点で、その筆頭格にあげられる人物だった。”阿片王”といわれた里見甫の生涯を追ったノンフィクションを書いたとき、最後まで正体がつかめなかった人物が茂木久平だった。

それくらい、胡散臭そうな男なのです。

この茂木は、早稲田大学時代、後に作家となる尾崎士郎の親友で、尾崎の代表作「人生劇場」に登場する高見剛平のモデルなんだそうです。

売文社に出入りして、大杉栄や伊藤野枝の最初の夫である辻潤らに頻繁に会っているんですね。それでいて、左翼ではなく、周囲は誰も茂木のことを「右翼だった」と証言しているのです。

甘粕が仮出獄後、フランスに逃亡する際に「ばいかる丸」の船内で、茂木と甘粕は知り合うのですが、その辺りの詳細は同書を読んでください(笑)。

茂木に関して、桁外れの超弩級のエピソードが、あのレーニンから「日本に革命を起こす軍資金だ」と偽って5万円を騙し取ったという話です。5万円というのは、今では、1億5千万円という価値があります。その後、この数字は一人歩きして、300万円だったという説も出ています。今の貨幣価値でいうと、90億円だというのです。

嘘か誠かよく分かりませんが、昔の人は随分スケールが大きかったんですね。

僕もあなたもネオフィリア

 

 

つれづれなるままに…

 

 

 

★やっと、夏冬の衣替えをしました。量が多く、冬のスーツやセーター等を近くのクリーニング店に三回に分けて持って行きました。20点くらいあったかもしれません。クリーニング代は2割引きで、およそ1万3000円でした。

 

 

 

 

★作家のYさんからチケットを送ってもらったので、東京セントラル美術館(銀座・名鉄メルサ5階)で開催中の「日本の詩歌と書の世界」を見にいってきました。2枚送ってもらったのですが、一緒に行く相手がいないので、一人で鑑賞。うーん、やっぱり「書」は難しいです。よく読めません(笑)。北原白秋や石川啄木らの詩歌を題材に書かれていましたが、芸術作品なので、全く甲乙の区別がつかないのです。

 

会場に足を運んでいる人たちは、どうも見ても、関係者ばかりのようでした。「書」の世界は詳しくないのですが、誰それ先生を頂点とした結社の世界で、お名前の横に丸括弧でその人の所属する結社名が書かれていました。

 

やはり、外部の人間が気軽に入り込めない所以がこの辺りにありました。

 

 

★「東京の最後の地下鉄」と言われる「副都心線」が開通しました。埼玉県の和光市から直通で、池袋、新宿を通り渋谷まで行けます。将来、東急東横線と繋がり、埼玉から横浜まで乗り換えなしで行けるというのです。

 

恐らく日本で一番混雑する山手線の池袋ー渋谷間は、この地下鉄のおかげで、大分混雑が緩和することでしょうね。私は、高校時代、西武池袋線の東久留米に住んでいて、高校が新大久保にあったっため、池袋ー新大久保間の山手線を3年間通学として使いましたが、それはそれは殺人的な混雑でした。

 

 

 

あまりにもの混雑で、身体が宙に浮くのです!信じられないかもしれませんが本当です。息もできませんでした。あの経験がトラウマになって、絶対に池袋ー新宿間は通勤で利用したくないと思いました。

 

でも、今度、用もないのに「副都心線」に乗ってみようかと思っています。

 

新しもの好きですね(笑)

 

でも、でも、この新しもの好きは、ネオフィリア neophilia といって、脳学者に言わせれば、人類の進歩にとって、欠かせないということです。

 

あなたもそうでしょう?

 

不思議な数字

公開日時: 2008年6月15日 @ 15:34

大正7年7月7日生まれの人は、平成7年7月7日に77歳を迎えた。

昭和33年3月3日生まれの人は、平成3年3月3日に33歳の誕生日を迎えた。

生まれてから25歳までが、世界と歴史を学ぶ学生期(がくしょうき)

25歳から65歳までが、結婚して子供を育て家庭を育む家住期。

65歳から90歳までが、これまでの人生で学んだことを実らせる林住期。

90歳から125歳までが、社会に恩返しをし、あの世に渡る準備をする遊行期。

「甘粕正彦 乱心の曠野」

 

佐野眞一著「甘粕正彦 乱心の曠野」(新潮社)を今、読んでいます。嬉しくなるほど面白い。読んでいる時間の間だけ、幸福に浸ることができます。

一つには、時代といい、人物といい、私自身が一番興味がある対象のせいかもしれません。甘粕といえば、関東大震災のドサクサにまぎれて、無政府主義者の大杉榮と、内縁の妻伊藤野枝、そして大杉の甥に当たる橘宗一君6歳を惨殺したとして知られる憲兵大尉です。残忍非人。情のかけらもない軍国主義者として歴史に名を残していますが、よくよく調べると、甘粕は情愛が深く、頭脳明晰で律儀で、結局、時の軍部幹部に利用されただけで、実際には本人は自ら手をかけていなかったのではないか、という話になりそうなのです。

週刊誌に連載されていた頃から興味深く読んでいましたが、大幅に加筆修正されており、このまま、読み進むのが本当にもったいないくらいなのです。

甘粕といえば、後に映画化されたベルナル・ベルトリッチ監督の「ラスト・エンペラー」で、坂本竜一がその役を演じていましたが、満洲や上海などで、時の中国政権転覆を謀る秘密諜報員、工作員として暗躍したと言われます。実際、甘粕は、大杉ら「主義者殺し」の犯人として服役後、特赦で、2年10ヶ月で無罪放免になった後、フランスに逃亡し、最後は満洲映画の理事長として活躍するのですが、真相が闇に葬られてしまったので、よく分からない部分が多く、そのせいか、さまざな憶測や飛躍的伝説が生まれてしまいました。

そういう意味で、この本は、甘粕を知る人に多く直接取材しており、これまでの甘粕像を覆すと言う意味で、かなり、かなり面白いのです。

この本については、また折に触れてみたいのですが、今日は、今まで読んだ箇所で面白かったことを書いてみます。

例えば、大杉とともに、惨殺された甥の橘宗一君は、大杉の妹あやめの子供だったのですが、大杉事件が「国際問題」に発展したのは、この宗一少年が、米国生まれで、アメリカと日本の二重国籍を持っていたため、あやめが、我が子が虐殺されたことを知って、アメリカ大使館に駆け込んで真相解明を求めたからだった、というのです。へーと思ってしまいました。この宗一少年は、1917年生まれ。先日会った「125歳まで生きる!」渡辺弥栄司さんも1917年生まれなので、「大杉事件」というのは、歴史に書かれるような遠い事件なのではなく、まさしく現代史、昨日のことだったんですね!

甘粕は、大杉栄一家殺しの首謀者として懲役10年の実刑判決を受けますが、わずか2年10ヶ月で恩赦により仮出獄します。

出獄は、隠密秘密で、緘口令どころか、国家機密として厳重に秘匿されます。

しかし、国民新聞と報知新聞が、極秘裏に出獄した甘粕氏とのインタビューを大スクープするのです。大正十五年十月二十一日のことです。

しかし、これが、とんでもない大誤報。スクープどころか、でっちあげの架空の捏造記事だったのです。

私自身は、朝日新聞による「伊藤律インタビュー」の架空会見(1950年9月27日)のことは、ジャーナリズムの汚点として、知っていましたが、(この辺りは、今西光男氏の著書「占領期の朝日新聞と戦争責任」に詳しい)、それを遡る四半世紀前に、ジャーナリズムの世界で、ありもしない架空インタビューがあったということをこの本で初めて知りました。

実際に、出獄後の甘粕をスクープ・単独インタビューしたのは、1926(大正15)年10月30日、東京朝日新聞社会部の岡見齊という記者で、山形県の川渡(かわたび)温泉「高友旅館」に潜んでいた甘粕をほとんど偶然に近い形で遭遇して、会見に成功しています。岡見記者は自分の4歳になる長男を連れて、新聞記者とは怪しまれないように湯治客として滞在するあたり、そこら辺の探偵小説なんかと比べて、はるかによくできた物語に仕上がっています。この辺りのスクープ合戦の内幕は、手に汗を握るほど面白い。

しかも、著者の佐野氏は、この朝日新聞の岡見記者まで興味を持って、その後の岡見氏の足跡まで調べているのです。面白いことに、岡見氏は、後に朝日新聞の満洲支局に転勤になり、当地で甘粕と再会しているんですよね。というより、律儀な甘粕が岡見記者にわざわざ会いに行っているようです。岡見氏は、その後病気で休職し、大阪本社記事審査部付時代に、甲子園沖で海水浴中に不慮の事故で亡くなっています。昭和17年8月3日。享年50歳。

佐野氏は、そこまで、調べているんですからね。感服してしまいます。

渡辺弥栄司先生にお会いしてきました

公開日時: 2008年6月13日 @ 11:29

 

「125歳まで、私は生きる」http://www.sonymagazines.jp/book/details.php?disp=200305&hinban=012011の渡辺弥栄司さんにお会いしてきました。

 

1917年生まれですから、今年91歳。驚くほど矍鑠としておられ、前向きで、プラス志向で、周囲に知恵と勇気と元気を与えてくれて、明るくしてくれる人でした。

人間ですから、山あり谷ありの人生で、それこそ、辛いことも苦しいこともあったことでしょう。しかし、渡辺さんの著書にもありましたが、愚痴ひとつこぼさないのです。

口から出る言葉も、前向きな言葉ばかりなのです。

「やりたいことがいっぱい。人生楽しくてしょうがない」

「夢と希望にあふれ、楽しくてしょうがない」

さすがに、55歳で英語資格試験TOEICを考案したり、65歳で司法試験に合格したりするバイタリティがある人でした。

確かに、渡辺さんは、東京帝大ー商工省と進む超エリートコースを歩んだ方なのですが、戦争も経験されていますし、49歳で退官した直後は、当初は無報酬で、日中経済交流のために尽力したりします。私はまだ読んでいませんが、城山三郎の「官僚たちの夏」という小説に、渡辺さんのモデルが登場するそうです。義を通す熱血漢の官僚として。

しかし、苦労話ひとつされないんですね。これには驚きました。

しかも、大変腰が低く、全然威張らない。

「人間、威張ったらおしまい。威張っていては進歩しませんよ」

ということで、91歳になるというのに、黒塗りのハイヤーの送り迎えを拒否して、今でも、満員電車で法律事務所まで通勤されているそうです。「真向法」という柔軟運動を朝晩続けているため、今でも体が柔らかいのです。背筋もピンと伸び、60歳代と言われても分かりません。

いやあ、世の中、こんなに志の高い気高い方がおられるとは…。

こういう人に会うことができただけでも、私自身、幸せを感じてしまいました。

堀切菖蒲園

 日暮里から京成線で4駅9分180円

 

梅雨の合間を縫って、堀切菖蒲園にまで出かけ、花菖蒲を観賞してきました。

 

江戸の名所として有名で、安藤広重や歌川豊国らによって錦絵が描かれてきましたが、私は、何十年も人間をやっていますが、訪れるのは初めてです。

 

案内によると、江戸文化年間(1804-1871年)に堀切村の小高伊左衛門さんという人が自宅の庭に栽培したのが最初らしく、現在、約200種、6000株の花菖蒲があるそうです。

 

人ゴミを避けて、平日の昼間に出かけたのですが、シーズン(6月上旬~中旬)とあって、観光バスも何台か停まり、結構、込んでいました。ほとんどが、年配の方でしたが。

 

でも、これだけ沢山の花菖蒲を眺めることができたのは生まれて初めてで、実に壮観でした。

 

江戸の庶民になった感じで、一日中、気分が良かったです。

「125歳まで、私は生きる!」

 

 

 

またまた、個人的ながら、どうも毎日、充実感に浸っているわけではありません。友人と会おうとしても、何度も都合が悪いと言って断られるし、相変わらず仕事も家庭もうまくいっているわけではなく、見えない壁と闘っています。良心とも闘っています。今年は私の人生で一番良運に恵まれている年のはずなのに、もう半分近く過ぎてしまった。焦燥感もあります。

 

自分は何て不幸なんだ、とジャリジャル砂を噛むような味気なさを感じながら、図書館に入りました。完璧にマイナス思考で、軽い鬱状態に近かったと思います。

 

すると、目の前に偶然「125歳まで、私は生きる!」(ソニー・マガジンズ)という本が飛び込んできました。著者は、渡辺弥栄司(わたなべ・やえじ)さんという方です。初めて名前を聞く人です。五年前に出版された本でした。

 

パラパラとページを捲っているうちに、引き込まれてしまい、ついに2時間ほどで、完読してしまいた。

この方は、すごい方です。現在91歳。東京帝国大学法学部から商工省(今の経済産業省)の高級役人となり、49歳で公務員をやめて、日中交流の架け橋になる民間団体の理事となって、国交回復の一翼を担い、60歳で125歳まで生きる決心を固め、英語能力テストのTOEICを考案し、65歳で司法試験に合格し、75歳で、中高年に笑顔を取り戻そうとビューティフル・エイジング協会(BAA)を設立した人なのでした。

単に口だけで、125歳まで生きるというのは簡単です。しかし、渡辺氏は、そのために、真っ向法という柔軟運動を朝晩行い、毎日30分以上ウオーキングも欠かしません。剣道は7段の腕前で、ゴルフも玄人はだしで、エイジシューターを目指しています。まさに文武両道です。

125歳まで生きて、何をするのかー。その答えも明確です。「世のため、人のために尽くす」というのです。そのために、独立して生計を立てるために、65歳で弁護士の資格を得るのです。

こんなすごい人はいないでしょう?

是非、会いたくなりました。

そこで、通訳仲間のUさんが、TOEICに勤めていたことを思い出し、仲介を取ってもらいました。

最終的には明日会えることになったのですが、Uさんからはメールで、「我々スタッフには雲の上の存在です。
朋之介さんに今更申し上げる必要はありませんが、失礼のないようにご配慮をお願い申し上げます」と釘を刺されてしまいました。
「私はそんな無礼な人間なのかなあ。そこまで言われなければいけないのかなあ」と数日間、不愉快でムッとしてしまいました。Uさんはまだ若いし、恐らく、言葉の使い方を知らない人なのだと斟酌し、これからお会いする渡辺氏とは、一切関係ない話なのだと気を取り直すことにしました。

渡辺氏と会見した時の印象は、また次回で!