文献引用を明示しないという流儀


中国・大連旧日本人街 Copyright par Duc de MatsuokaSousumu Kaqua

鶴見俊輔座談「近代とは何だろうか」(晶文社)を読了しました。

もう半世紀以上昔の対談もありましたが、少しも古びてないことに驚かされました。

引用したいことは沢山ありますが、一つだけ絞ることにしました。

それは、民俗学者折口信夫博士のことに触れ、今時の学者の流儀について、忸怩たる思いで見つめた部分です。

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歴史学の泰斗林屋辰三郎(1914~98)が、鶴見俊輔との対談「京都文化を語りつぐ」(「思想の科学」1967年12月号)の中で、こんなことを言ってるのです。

…折口さんという人は、論文や史料なんか、何も引用されないけれども、読むべき史料は全部読んでおられます。簡単に、これは日本で一番古い用例だと書いて、それに対して何も証拠をあげておられないわけですよ。だから、果たしてそれが一番古い用例だと言えるかどうか分からないのです。ところが、あとになって後進の我々が一生懸命探し回っても、やはりそれが一番古い用例だと結論づけられるわけですよ。…

折口信夫は、釈迢空という名前の歌人でもあり、学者と同時に芸術家でもあるわけです。ということで、アカデミズムの作法しか知らない学者は、参考文献を注釈として、何十冊も何百冊も書き連ねて、自分の学説が分からないほど、他人の引用で終わってしまう弊害があるのではないか、と暗に自戒を込めて語っているわけです。

折口信夫は芸術家でもあるので、一々引用文献は明記しない。それなのに、悉く正しいというわけです。

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鶴見俊輔は、折口信夫の話ではありませんが(大本教の出口なおについて)、安丸良夫と「民衆の姿と思想」(「思想の科学」1977年6月号)をテーマに対談し、その中でこんなことを語っております。

…学者は常に刺客を恐れて、批判者に貫かれないように鎧を着て、この本もあの本も読んだ、この資料もあの資料も読みましたと、必要以上に引用してしまうもんですよね。…

いやあ、浅学菲才な私は、引用文献が多い論文の方が重要で信頼できるものとばかり思っていましたので、目から鱗が落ちるような話でした。

寺社仏閣巡りの「猫の足あと」はお薦めです

東京・目黒不動尊

IT関係で言えば、私が初めてワープロを買ったのは1985年。エプソンの「ワードバンク」という機種で、ディスプレイにはわずか数行の文字しか掲示されませんでした。

生まれて初めてパソコンを買ったのは1995年。アップルの「マックブック」という機種でした。初めてインターネットに接続しましたが、当時はまだダイヤル回線で遅く、画像が出ると驚きました。ブラウザはネットスケープナビゲーターという「N」のマークが印象的でしたが、今はとんと噂は聞きません。どうなったのでしょうか?

そして、ブログを始めたのが2005年で、10年起きに新しいことに挑戦してます。2015年は、特になく、黄泉の国に行ってましたけど(笑)。

まあ、IT関係は、比較的早い時期に挑戦していることを自慢したかっただけですが、実は、技術的なことは恥ずかしくも全く何も分かっておりません。

それが先日、海城学園の同窓会に参加して、若い後輩の皆さんの中には、結構IT関係の仕事をしている人が多く、「へー」と思っただけででした。

そしたら昨日、何気なく名刺を整理していて、海原メディア会の事務局長でIT会社の社長でもある松長氏の名刺の裏を見たところ、そこには「猫の足あと」と書いてあったので吃驚!知ってるぞ!と思い、彼に連絡して問い糾したところ、彼はあっさりと「へい、あっしがやりやんした」と、かつ丼をペロリと平らげたのです(笑)。

いやはや、少し脱線しました(笑)。

猫の足あと」とは、今のところ、東京、神奈川、千葉、埼玉など関東圏内にある寺院、神社の沿革、観光名所などが網羅されたサイトです。

私の趣味(と言っては怒られますが)に「寺社仏閣巡り」がありまして、たまたま自宅近くに全く知らなかった豪勢な神社を発見して、検索したところ、この「猫の足あと」に巡り合い、それ以降は、分からない時は、このサイトに頼るようになっていたのです。

まさか、世代が少し違いますが、高校の後輩が開設していたとは!灯台下暗しでした。

しかも、これらの寺社仏閣は、松長氏が全て自分の脚を使って廻り、自ら写真も撮ってきたといいますから、二重の驚きです。

「サイトの寺社仏閣は、貴兄が(全て・ほとんど・大体)取材、執筆したのですか?」との小生の質問に彼はこう答えました。

…江戸時代は自転車もない中、日本橋を出発したら初日の宿泊は、保土ヶ谷又は戸塚でしょうから、舗道をウオーキングシューズで歩くのは当時よりかなり楽でしょうね。
朝から夕方まで散歩を続けると4万歩、約30km、参詣寺社30~50くらいになります。

御朱印画像をくれる方、汚い画像を綺麗な画像に差し替えるように画像を送ってくる寺社様などの場合は、「画像は◯◯さんからの寄贈」と注記しております。
従って画像の全てが小生の撮影と言ってもいいでしょう。…

ひょっえー!ぶったまげました。

寺社仏閣巡りは、週末と祝日のみらしいですが、1日4万歩、50カ所とは大した魂消たです。

「江戸五色不動尊」や「秩父三十四カ所霊場」なども掲載されていますが、まだ、関東圏内に限られていたのは、1人で廻っているせいだったんですね。

ということで、お忙しい方もこの「猫の足あと」(←こちらをクリック)を覗いてみて下さい。

今度、IT関係に異様に詳しい松長氏から渓流斎ブログのホームページ化について、相談に行こうかと思っております。

日野原重明氏と笹川良一氏

東京・銀座のパリマルシェ

聖路加病院の日野原重明名誉院長が、渓流斎の誕生日である7月18日に105歳で亡くなり、世間では大騒ぎです。

彼の長年の功績、これまで「成人病」と言っていた病名を「生活習慣病」と言い換えるように提唱したこと、1970年のよど号ハイジャック事件で人質となり、「残りの人生は、困った人のために使おう」と決意したことなど、数々の美談が瀬戸内寂聴先生のコメントとともに報じられました。

それに異議を唱えた方がおります。名古屋にお住まいの豊田先生です。

…死者に鞭を打つつもりは毛頭ありませんが、テレビも新聞も、どこも日野原さんと笹川良一さんとの関係に触れていませんね。画龍点睛を欠くのではありませんか?

えっ?何のことですか?

そこで、調べたところ、東洋経済オンラインの記事「日野原氏は理想のために笹川マネーも使った105年の人生で残した多大な功績を振り返る」 (←こちらをクリック)がありました。そこには、こう書かれておりました。(記者はフリージャーナリストの大西康之氏)

…日野原氏が予防医療を目的とした「ライフ・プランニング・センター」の設立にあたって、資金を提供したのは財団法人日本船舶振興会(現日本財団)の笹川良一会長(1899-1995、当時)だった。

笹川氏は自らの主治医でもあった日野原氏の思想に共鳴し、センターの活動資金として日本船舶振興会から3億6000万円を拠出、さらに東京・港区にある笹川記念館の11階フロアを権利金・敷金なしの破格の家賃で貸した。…

へー、そうだったんですかあ。そこには続けてこう書かれてますね。

…毀誉褒貶の激しい笹川氏から支援を受けることについて、周囲は反対したが、日野原氏は「世のため人のためにお金を使おうとしている今の笹川氏は立派な人だ」と話し、堂々と金を受け取った。理想を実現するためには、現実と向き合う。そんなプラグマティズム(実用主義)が氏の真骨頂だった。…

笹川氏は晩年、聖路加病院の一泊数十万円もする高級スイートルームで過ごしていたという噂を聞いたことがありますが、そういう背景があったのですね。

ところで、もう一つ。豊田先生は、面白いサイトをご紹介して下さいました。

笹川良一氏の三男で、現在、日本財団会長の笹川陽平氏のブログ (←こちらをクリック)です。

世界各国を飛び歩き、何処そこに行って、誰と会ったか、非常に事細かく書かれ、写真もアップされております。

7月18日の夜は、何と、元NHKの国際ジャーナリスト、手嶋龍一氏とお会いしているではありませんか!

これは、今や紙衣の伊左衛門になった「安倍日誌」を読むより遥かに面白い!(笑)

あの著名な手嶋氏のことですから手ぶらでお会いすることはなく、応じる笹川氏もまさか手ぶらで返すわけには行かず、どんな密談をされたかというより、どれくらいの太郎さん(隠語)が積まれたのか妄想が逞しゅうなってしまいました。

はい、あくまでも妄想です。

大東亜共栄圏とは何だったのか?

中国最北辺の五大連池 par Duc MatsuokaSousumu Kaqua

昨日は、渓流斎の◯回目の誕生日でして、世界各国の首悩から祝電の嵐が押し寄せてきました。

という夢を見ました。

今からでもまだ間に合いますよ(笑)。

昨日予告しました通り、今日は大東亜共栄圏を取り上げます。夏はお盆です。沖縄慰霊の日や原爆忌、終戦記念日だけでなく、戦争で亡くなった方々の御冥福を改めて御祈りしましょうではありませんか。

例によって、今読んでいる鶴見俊輔座談「近代とは何だろうか」(晶文社)に出てきたのです。それは「大東亜共栄圏の理念と現実」という題で、竹内好、橋川文三、山田宗睦の3碩学による鼎談です(初出は、「思想の科学」1963年12月号)。この中で、政治学者の橋川文三(1922~83)が、分かりやすく、大東亜共栄圏の定義をしてくれております。

橋川によると、大東亜共栄圏という言葉が最初に公式に使われたのは、昭和15年(1940年)8月1日に松岡洋右外相が記者会見で行った談話だと言われています。この時、松岡外相は「…我が国眼前の外交方針としては、この皇道の大精神に則り、まず日満支をその一環とする大東亜共栄圏の確立を図るにあらねばなりません」と述べたというのです。

昭和15年と言いますと、その前年に第二次世界大戦の火蓋が切られた欧州では5月にドイツ軍がマジノ線を突破し、6月にオランダが降伏、7月にはフランスが降伏する年です。これによって、日本の帝国陸軍が6月に部内で作成していた「総合国策十年計画」の中に書かれた「大東亜を包容する共同経済圏を建設する」ことが急激に実現性を持ち始めるのです。

つまり、オランダがアジアに持っていた蘭印=インドネシアと、フランスが持っていた仏印=ベトナムが、いわば「持ち主不明」の状態になるわけです。(当事者にとっては、失礼な言い方ですけどね)これをドイツが戦略としてうまく使います。蘭印については、「日本の意向に沿う」と返事をしておきながら、仏印については、態度を曖昧にして日本を焦らす作戦です。

中国最北辺の五大連池 par Duc MatsuokaSousumu Kaqua

橋川によると、これで、日本軍部は非常に焦って、どうしても南進ムードを盛り上げなければならなくなったのではないかといいます。また、その裏には、その3年前の昭和12年(1937年)7月7日に起きた盧溝橋事件を端に発した日中戦争の膠着と泥沼化があったわけです。

ということは、南進ムードと大東亜共栄圏の建設という目標は、膠着状態になった日中戦争の打開策というよりも、「陸軍は一種の病的な興奮に陥って、支那事変をほうかむりする絶好のチャンスをつかもうとする姿勢を示しはじめるということが、いろんな記録から出てきます」(橋川)というわけなのです。

中国最北辺の五大連池 par Duc MatsuokaSousumu Kaqua

繰り返しになりますが、大東亜共栄圏の背景には、泥沼化した日中戦争と、オランダとフランスに勝利を収めたドイツの策略と、「持ち主不明」となって隙間ができた南方進出ムード(と同時に石油資源などの確保)の高まりがあったということなんですね。(ゾルゲ事件を調べていた頃は、浅墓にもそこまで精確に把握できていませんでした)

これに付け加えると、当時日本は、エネルギー資源の石油は66%も米国から輸入していました。政府直接購入を入れると80%にもなったといいます。

これだけ、「鬼畜」米英に経済の根本を依存しておきながら、日本は、よくもあれだけ無謀な戦争を仕掛けたものです。

翌年の昭和16年に入ると、ABCD包囲網が巡らされ、やはり軍部は「一種の病的興奮」に陥って冷静な判断ができなくなってしまったのでしょう。

大川周明が説いたように、大東亜共栄圏の思想信条には、欧米列強から搾取されたアジア諸国の植民地を日本が解放するという高邁な精神がありました。しかし、フィリピンにしろ、インドネシアにしろ、解放した日本は当初は歓迎されても、欧米人と同じような植民地主義的な威圧的態度を彼らに取ったことから、逆に、失望とともに反日感情まで生じさせたのです。

この鼎談で、面白かったのは、次の竹内好の発言でした。

「わたしの実感として今思い出してみると、大東亜共栄圏が直接民衆を捉えたのは砂糖の特配だった。ジャワ(インドネシア)を占領した時、砂糖の特配があった。砂糖など舐められない時に砂糖を舐めたということは嬉しかったね、そういうもんじゃないかな(笑)」

戦争体験者がますますいなくなってきた昨今、こういった歴史的証言は、今更ながら大切だなあと改めて思った次第です。

「ハクソー・リッジ」は★★★★★

者ども、何と心得る!これが見えぬか?頭が高い!

昨日は、やっと映画「ハクソー・リッジ」(メル・ギブソン監督作品)を観てきました。

これまで、「プラトーン」「地獄の黙示録」「Dデイ」「ディア・ハンター」などかなり多くの戦争映画を観てきましたが、これほど戦死者をリアルに描いたものは初めてでした。あまりにもの惨たらさには途中で失神しそうになる程です。

以下は、これからこの映画をご覧になる方はネタバレになるのでお読みにならない方がいいかもしれません。

沖縄戦の前田高地(ハクソー=ノコギリ、リッジ=崖)の日米激戦区の話です。主人公は、自己の宗教心から武器を一切持たず、衛生兵として、75人もの負傷者を救出したデズモンド・ドスという実在の人物です。

彼がどうして、武器の使用を拒否して従軍したのか、幼い頃の彼の家庭環境などまで遡って描かれます。美しい看護師ドロシーとの出会いも、戦争の悲惨さと対比されてます。

大団円は、沖縄戦です。

メル・ギブソンは米国人か豪州人か知りませんが、やはり敵の日本人の描き方が、まるで、西部劇のインディアンです。日本軍は、訳の分からない言葉(馬鹿野郎など)をまくし立てて、戦略も知性も何もなく無謀に命を投げ捨てる自爆テロリストのような扱い方です。

一方の米軍は、統制が取れたカウボーイ軍団。正義の味方で、悪いジャップをやっつけるといった感じです。しかも圧倒的な戦力です。火炎放射器で日本軍兵士を焼き殺します。

しかし、彼らにはそれほどの大義があったんでしょうかねえ?

日本軍は、三八式歩兵銃で応戦していたのではないでしょうか。

推計の数字ですが、沖縄戦では、何と日本軍の戦力の10倍もあった米軍が55万人も押し寄せ、迎え討つ日本軍は、牛島満司令官、長諌参謀長以下10万人。犠牲者は、米国側は1万2520人。日本側はその15倍の18万8136人が亡くなったとみられています。このうち、沖縄県の一般の住民は9万4千人も亡くなっておりますが、映画では、住民の虐殺は一切出てきません。

映画は、「美談」の物語です。主人公が意地悪されたり、リンチされたりした仲間まで救ってしまうのですから、美談以外何物でもありません。

以上、最初から貶してばかりしておりましたが、この映画は、非常に考えさせる映画です。映像的に態とらしい表現が散見しましたが、素晴らしい出来栄えでした。実話でしたら、ストーリーをあまり脚色するわけにはいかないでしょう。映画史に残る、いや残さなければならない作品として私は押します。

ですから、最高点を付けます。

私も久しぶりに、大東亜共栄圏について非常に簡潔に書かれた文章があったので、次回はそのことを書きましょう。

能楽は絶滅危惧種か?

熊野神社

昨日、能楽師がこの20年で半減したことをこの渓流斎ブログに書いたところ、大阪にお住まいの堂島先生から「今や能楽は、絶滅危惧種ですよ」と書かれた以下のメールを頂きました。

…聡明な渓流斎居士も御存知のことと拝察致しますが、大阪の能楽会館も年内で閉鎖されます。施設の老朽化が理由になっていますが、全ておカネが無いからです。
 漫才師や落語家は増えても、能楽師もどんどん減っていて、朱鷺やパンダ以上に絶滅寸前ですね。

 CMに出て稼いだり、くだらないテレビのバラエティーショウに出演する”三文能楽師”は目立ちますが、能楽は、家に喩えれば、肝心の屋台骨は傾き、いつ、ひっくり返っても、おかしくないのです。

 「伝統文化を守る」とか、「世界遺産は、なんたらカンタラ」とか色々言いますが、「金儲け」にならないものはすべて捨て去られ、廃棄処分になるのが今の時代です。

 何とも情けない時代に生きているものです。
 東京・銀座の新ビルに綺麗な「能楽堂」ができたと喜んでいても、その内実、舞台裏はお寒い事情を抱えていることでしょう。…

うーん、なるほど、パンチが効いているといいますか、シニカルな観察眼は相変わらずです。

もう、30年近い昔ですが、今では見る影もないフジテレビが視聴率で三冠も五冠も獲得して飛ぶ鳥を落とす勢いだった頃です。

当時、有名な敏腕プロデューサーのY氏とお会いしてお話を伺う機会がありました。今でも覚えていることは、彼の「才能は金がある所に集まる」という一言でした。

当時は、トレンディードラマとか呼ばれるものが大流行りした頃で、テレビ界には、タレントや歌手、俳優だけでなく、才能溢れる脚本家や振付師、コント作家、カリスマ美容師、ファッションデザイナー、空間プロデューサーまで犇いておりました。まるで蜜に群がるヒアリのように(笑)。

能楽は、その起源は飛鳥時代辺りの猿楽まで遡ることができ、それを伝えたのが秦河勝だという説があります。京都太秦の広隆寺(弥勒菩薩)を創建した秦河勝は新羅(現韓国)からの渡来人でしたね。(渓流斎ブログ2016年5月24日「今来の才伎」などご参照)

観阿弥も秦河勝の子孫だと自称します。

能楽は室町時代の観阿弥、世阿弥親子が大成しますが、それから以後は、信長、秀吉、家康を始め、何れも諸国大名によって庇護されます。

能楽五流派の一つと言われる宝生流は、東京・水道橋に立派な能楽堂があり、石川県にもかなり多く宝生流が伝えられています。何故かと言うと、加賀前田藩が宝生流を庇護していたからなんですね。

維新後、能楽が没落してしまったのは、そのパトロンの大名が職を失ってしまったからです。

それでも、能楽は、細々ながら伝統芸能の根を絶やさないように、関係者一同が、先祖伝来の家宝の面などを売ったり、歯を食いしばったりして頑張ってきたから続いてきたという事実があります。
それなのに、資本主義の原理のせいか、次々と淘汰されてしまったのが現状なのです。

恐らく、「才能は金がある所に集まる」という原理も働いたのでしょう。

今読んでいる鶴見俊輔座談「近代とは何だろうか」(晶文社)の中で、白州正子が「女にはお能が舞えないことが、わたし、五十年やってきてやっと分かりました。あれは男色のもので、男が女にならなくちゃだめだって。精神的にも肉体的にも…」と告白していたので吃驚しました。

白州正子は、このほか、保元平治の乱も承久の変も、 「院政時代は全部男色の取りっこのけんかなんだそうです」という説も唱えておりました。

これまた、腰を抜かすほど驚きましたよ。

秩父の謎と葦津珍彦とGHQの3S政策と伝統文化の絶滅

大連の夏祭り Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 昨日NHKで放送の「ブラタモリ」埼玉県秩父編を見ていましたら、色んなことを考えさせられました。

 何しろ、秩父といえば、日本の高度経済成長を支えたセメントの材料の石灰岩の供給地(武甲山)です。その石灰岩は、サンゴ礁からできているんですね。そうなると、埼玉県どころか日本列島全体は、大昔はまだ海だったということになります。

 番組の解説では、2億年ぐらい前に、ハワイ辺りにあった海底火山が噴火して、冷えて固まった溶岩の上にサンゴ礁ができて、そのまま長い年月をかけてプレートが移動して、日本列島にまで辿り着いて、当該のサンゴ礁石灰岩が今の埼玉県辺りにまでもぐって隆起した(これが武甲山)らしいのです。

  日本列島は太古の大昔は大陸と陸続きだったという説もあり、2億年前、3億年前の話になると、全く想像を絶します。

 しかし、「万物は流転する」ことは確かであり、これからの将来、2億年も経てば、今の日本列島が実在するかどうかさえも怪しくなってきますね(笑)。

 まあ、その頃、人類自体が生き延びているかどうか、分かりませんが。
 大連の夏祭り Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

でも、こんな太古からの自然で出来た溶岩や断崖が信仰の対象となり、「秩父三十四所観音霊場」ができて、江戸時代には月に4万5000人もの観光客(四国霊場巡りなどを上回る日本一)が押し寄せたという話ですから興味がそそります。

もう一つ、秩父盆地は稲作に適さなかったので、桑の木を植え、養蚕業、絹織物産業が発達し、大正時代にその頂点に達します。

「秩父銘仙」といって縦糸しか通さない独特の織物技法のため、染色すると裏も表と変わらないほど色鮮やかに染まり、大流行したそうです。

残念ながら、日本人は着物を着なくなりましたからね。「復活」は無理にしても、また少し見直されていくといいなあと思ってます。

 大連の夏祭り Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

京洛先生のかつての後輩だった故中川六平氏が編集した鶴見俊輔座談「近代とは何だろうか」(晶文社)をやっと図書館で借りられて少しずつ読んでいます。1996年4月25日初版ですから、もう20年以上前に出版されたものでした。

この中で、京洛先生お勧めの葦津珍彦(あしづ・うずひこ)との対談「尊王攘夷とは」を読んでみました。初出は鶴見らが主宰した「思想の科学」1968年4月号です。ちょうどこの年は、「明治百年」という節目の年で、記念行事が国事行為として行われました。

そう言えば、来年は「明治150年」という記念すべき年なのに、来年、国事行為を行うとかいう話は聞こえてこないですね。どうしたのでしょうか?

葦津珍彦(1907~92)も今ではすっかり忘れられた神道思想家です。今の右翼を自称する人たちでさえ知らないのではないでしょうか。彼の凄いところは、神道思想家でありながら、戦時下の国家神道を否定して東条英機内閣の戦時特別刑法改正に反対して、特高にマークされていたことです。

この対談によりますと、葦津珍彦は戦時中、田辺宗英が経営する「報国新報」の実質的な編集責任者を務めていました。

この田辺宗英は、記憶力の良い皆様方は覚えていらっしゃると思いますが、この渓流斎ブログでも取り上げております。(2016年8月23日「高橋ユニオンズ」など)阪急の鉄道王小林一三の異母弟で、後楽園ホールを作り、初代日本ボクシングコミッショナーにもなった人でしたね。

葦津珍彦は、戦時特別刑法改正反対していたため、田辺に迷惑をかけてはいけないと判断して、当局に目を付けられた報国新報を退社するのです。

「わたしは外国流のリベラリストでもなければ社会主義者でもありません。土着の神道人です。ですから、ドイツ観念論で反訳解釈した官製のような国体神道論がいやで、当時の権力には協力できなかった」と言います。

しかし、原爆を投下しながら公平な文明の裁判官として振る舞う米国の偽善を目の当たりにして、戦後は一転して、「その米国人が敵視している『国家神道』を守ると決断した」と言います。

そして、面白いことに「GHQの態度は公式的に厳しかったですが、正直に告白すると、わたしが見た満洲支那占領中の日本官吏より物分かりのいい連中でした。…彼らは私的感情や憎しみで権力を乱用することは決してなかったのです」とまで言うので、私なんか意外に思ってしまいました。

表題になった尊王攘夷についても「明治維新を生み出した精神の尊皇とは、日本の固有文化を確保し発展させていこうということで、今日流のことばで言う天皇一家の尊重だけのことではないのです。攘夷とは、その根本に立っての積極独立ということで、日本の土着の固有文化を破壊しようとする勢力に抵抗することでもあるのです」と発言しております。

私は右翼でも左翼でもありませんが、日本の固有文化を守ることに関しては深く共鳴しますね。

最近、再び能楽に興味が湧き、古い本を書庫から見つけて驚くことがありました。その本は、20年ほど前に買った「能楽ハンドブック」(三省堂)という本ですが、そこ挟んであった栞に、1997年10月1日時点の日本能楽協会の正会員が1421人とありました。
それが、20年近く経った2016年6月末の時点で、783人にまで減っていたのです。つまり、20年で能楽師が半分近くに減少したことになります。

こういうのが日本の固有文化の危機と言わずに何と言いましょうか?

かつて、GHQによる「3S(Screen, Sports, Sex)政策」といった陰謀論が流行りましたが、固有文化の破壊勢力は外部にあるのではなく、案外、内部に潜んでいるのかもしれません。

岡本昌巳君の新刊「40年稼ぎ続ける投資のプロの株で勝つ習慣」のお知らせ

京都・祇園祭 菊水鉾 par Kyoraku sensei

 業務連絡です。

海城高校時代の友人の岡本昌巳君が、7月21日に新刊「40年稼ぎ続ける投資のプロの株で勝つ習慣」を出版します。版元はあのダイヤモンド社ということですから、編集者もしっかりしていることでしょう。

 彼は「ノウハウ本を書くのはこれが最後になると思います。ということで、今回はマジに印税狙いで行きます(笑)。次回作は小説か童話か!? それも今までなかったようなものに挑戦したい」と意気込んでおります。

 たまたま、このブログで海城学園の125周年記念誌のことを書いたところに、偶然にも彼からメールが来ましたので、私も1冊、門外漢ながら注文致しました。この1冊で、億万長者になるつもりです(爆笑)。

 岡本君は、高校時代から200枚以上の長編小説を何本も書いていて、野坂昭如や五木寛之らを目指して、早大文学部中退という大先輩作家と同じ道を歩みました。それが、どういうわけか、小説ではなくて、食うために(?)、経済評論家の道を歩んだようでした。

 高校卒業以来、数十年間、全く会っていませんでしたが、彼が幹事役をかってくれて、久しぶりに同窓会を開いたことがあります。あれからもう5年も経ちます。月日が経つのは本当に早い。

 その時、岡本君は、千利休か宗匠さんのような怪しげな帽子(?)と和服を着込んで、いかにも胡散臭そうな怪しい人物を自ら演出して周囲を煙に巻いていました。

 まあ、昔の仲間ですから、頑張ってほしいもです。ご興味のある方は、ネットで検索してみてください。

New Orleans Par Duc de Matsuoka Quaka

 と、「検索してみてください」と書きましたが、今は本当に、ネットなしでは考えられない時代になってしまいました。

 総務省が最近、テレビとネットの1日の利用状況を調べたところ、2016年の年代別の利用で、10代~20代は、テレビの視聴よりもネットを利用する時間の方が長いことが分かったのです。30代になると、やはり、テレビの利用時間の方がネットより長くなり、爺いや婆あになればなるほど、テレビが圧倒的になります。

10代では、テレビが80分でネットが140分に対して、50代は、ネットが100分でテレビは200分と2倍、60代ともなると、ネットが50分で、テレビが250分と5倍にもなっているのです。(数字はアバウトです)

これからの世界を背負って立つのは、10代から~20代ですが、この傾向はますます強まっていくことでしょう。

彼らは英語で、digital native と呼ばれます。つまり、生まれた時から、パソコンやデジタル機器に囲まれて育ってきた世代なわけです。

中学生の将棋の藤井四段が話題になってますが、彼もネットの将棋で強くなったとか。

このまま行けば、メディアの世界も変わり、いや、変わっていかざるをえないことでしよう。

個人的には、あまり悲観してませんが、これからどんな世界になるのか、全く想像もつきません。

祇園祭がやって来た!ヤア!ヤア!ヤア!

祇園祭 函谷鉾

前略

渓流斎様

貴人もご覧になった「祇園祭」の山鉾が今年も立ちました。7月12日は、鉾の曳き初めも行われました。

 13日の午後は菊水鉾、函谷鉾、長刀鉾を見てきました。写真は、その函谷鉾です。
 
今日14日当たりから観光客で、人出がどんどん増えます。
 前祭り(さきまつり)の山鉾巡行は17日ですが、宵宵山(15日)、宵山(16日)は凄い人出でしょう。

貴人と長刀鉾の前でうろついたのはあれは何年前のことでしたかね?大正から昭和になった頃でしたでしょうか。

 汗まみれで銭湯に浸かって、湯船でいい気分になったのを思い出します。後の兜麦酒が美味かったですね。
 
この頃、洛中も蒸し暑い日が続き、先ほど銭湯に浸かってきたところです。

京洛先生与利

追伸…昨晩、電話でお話をしていた治安維持法に詳しい小樽商科大学の荻野富士夫教授のインタビュー記事が、大朝に掲載されており、あまりにもの奇遇に驚きましたね。

海城学園 「創立125周年記念誌」出版記念会

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我が母校、東京・新大久保にある海城学園創立125周年の記念誌出版会が東麻布で催されるということで、12日の夜参加して参りました。ちょっと想像もしていなかった衝撃なことも起こり、人間、長生きはするもんだ、と思いましたよ(笑)。

昨日は、「応仁の乱」の山名宗全の子孫に当たる明治24年(1891年)生まれの山名義鶴さんのことを書きましたが、驚くべきシンクロニシティで、海城学園の前身が創立されたのも明治24年でした!

創立者は、佐賀鍋島藩士で維新後、海軍少佐などを歴任した古賀喜三郎です。海軍に優秀な人材を送り込もうと、海軍兵学校を目指す「海軍予備門」として生まれました。ちなみに、創立者古賀の女婿が江頭安太郎海軍中将で、この江頭の孫が文芸評論家の江藤淳(本名江頭淳夫)で、江藤は学園の理事になったこともあります。

また、江頭中将の曽孫に当たるのが皇太子妃雅子さまになります。

海軍予備門は、今、霞ヶ関の厚生労働省がある所にありました。その隣が府立一中(現都立日比谷高校)という時代です。

つまり、霞ヶ関の官庁街などと威張っておりますが、比較的新しくできたものだということが分かります。

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母校は明治24年創立ですから、昨年の2016年が125周年です。その記念誌は、海原会(海城学園卒業生の会)のメディア会が中心になって、3年がかりでOBからの証言を集めたり、座談会を催したりして、方々から寄附金を掻き集めて、今春、やっと完成にこぎつけたわけです。

この本には、私も卒業生の一人として執筆し、歴史的証言が盛り沢山で、装丁もしっかりしていますが、書店では販売されていません。

海原会 (←こちらをクリック)に若干残っているようですので、一部1000円ですが、是非お求め下さい。と、宣伝しておきます(笑)。

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さて、その出版記念会です。場所は、あのスパイ、ゾルゲが住んでいたロシア大使館裏手の東麻布でした。住宅街の一角のような四辻沿いにやっとお目当の「ピリピリ」というカレー店を見つけることができました。(後から分かったのですが、この店は海城OBの伊藤さんという方がやっているお店でした)

15人も入れば満杯になってしまう小さなお店で、窓ガラスを通して外から中の様子が丸見えです。

出入り口が分からず、中の様子を見たところ、超ミニスカートの女性がいるじゃありませんか。あれっ?会場間違えたのかな?それとも、誰か自分の奥さんか家族を連れてきたのかもしれない。意を決して入ったら、やっと一人、松長事務局長の顔が見えて安心したわけです。

小生、一昨年大病で入院したおかげで、会合に参加するのも3年ぶりぐらいでしたから、出席者の方々は、記念誌出版会代表の小西さん以外は殆ど知りませんでした。

で、先程のミニスカートの女性はOBの方でした。海城学園は、男子校なので、あれっ?と思いましたが、…つまり、その…そういうことでした。私より一世代若い方で、スマホのゲームソフト製作者でシナリオライターさんのようでした。

もう一人、後からいらっしゃった方で、小生の四年先輩に当たる川田さんという人もなかなかでした。一見、堅気には見えない服装です。金魚をあしらった派手なアロハシャツのようなものをお召しになっておりました。

名刺を頂くと「金魚銀座 座主(CEO)」とありました。もともと三菱財閥系の超超一流企業にお勤めになっていたのですが、転勤を命じられ、飼っていた金魚が死んでしまうので、その会社を辞めてしまった風流人でした。

川田さんは全国の金魚市に顔を出して、情報収集したり、金魚の飼い方を指導したり、講演活動をしたりしているようですが、その金魚は、販売しているわけではないので、どうやって生計を立てておられるのか、最後まで謎で不思議な人でした。

この方、大変失礼ながら高校時代の不良精神が三つ子の魂のようにお持ちになっており、この川田先輩より5歳年長の先輩と「おい、表に出ろ!」「上等じゃねえか」と大喧嘩寸前までいき、東映のヤクザ映画より迫力があって面白いものを見させて頂きやんした。

恐らく海原メディア会は、私を含めて超破天荒な方々の集まりのようでした。

 海原会の会長は有名なフリーアナウンサーの徳光さんでメディア会にも顔を出しております。そして、メディア会には何と言っても、モハメッド・アリとアントニオ猪木の異業種格闘技などを仕掛けたプロモーターの康芳夫大先輩がおります。

 今年1月には、メディア会の会長だった田所さんが50歳そこそこの若さで急逝され、記念誌の完成を見られなかったことが本当に残念でした。田所さんは、日刊競馬の記者を務め、メディア会には私財をなげうって、会の運営と発展のために努力されていた方でした。

 いずれにせよ、どこに出しても恥ずかしくない立派な記念誌をボランティアで作り上げた皆々様方、本当に御苦労さまでした。