上田正昭著「帰化人」 25th edition

聖地「長白山」山頂より観る神秘な天池Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 今年3月13日に88歳で亡くなった日本古代史の泰斗上田正昭京大名誉教授の著作をほとんど読んでいなかったので、慌てて、手始めに「帰化人 古代国家の成立をめぐって」(中公新書)を読んでみました。

 初版は1965年6月25日ですから、半世紀以上昔。「えっ?まだ読んでいなかったの!?」「何でいまさら…!?」などと賢明なる読者諸兄姉の皆々様方には怒られてしまうことはガッテン承知の介ですが、「読んでいなかったので仕方ない」と開き直って(笑)、続けていきます。

 この本が世に出た時、著者の上田氏はまだ38歳でしたから、新進気鋭の学者として注目され始めた頃でしょう。

 まだ戦後20年です。戦前の皇国史観からGHQによって真逆の戦後民主主義を教えられた時代ですから、そんな時に、こういう本が出版されていたことは意義深いものがあったのでしょう。

 この本で上田氏が記述した「(平安京を開いた)桓武天皇の母であった高野新笠(たかのにいがさ)は、百済の武寧王の後裔とされる和(やまと)氏の出身であり、帰化氏族の血脈につながる人であった。そのことは、『続日本紀』に明白に物語られている」(16~17ページ、一部変更)という部分で、右翼団体から「近く天誅を加える」「国賊は京大を去れ」などとの電話や手紙で嫌がらせを受けたそうです。

 しかし、平成13年(2001年)12月18日の「天皇陛下お誕生日に際し」で、今上天皇は「私自身としては,桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると,続日本紀に記されていることに,韓国とのゆかりを感じています。」と記者会見でお話しされておりますから、今上陛下も「続日本紀」の記述を認められていることは確かです。

宮内庁ホームページ参照

 先を進めます。

 天女かとおもって見たらロケだった Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 上田氏は、帰化人のことを渡来人と言うように提唱した人ですが、古代律令制を確立した大和朝廷は、現代人が想像する以上に文字や技術や法律に詳しい渡来人を受け入れ、歓迎していたのですね。真偽は不明ですが、万葉集の歌人、山上憶良も柿本人麻呂も渡来人という説を聞いたこともあります。

 この本では、大きく東漢氏(やまとのあやのうじ)と秦氏(はたのうじ)という大和朝廷の重要な官職にも就いた渡来人を主に取り上げています。(他に、古渡=ふるわたり=として、千文字と論語を伝えたと言われる王仁の末裔とされる西文氏=かわちのふみうじ=も。雄略天皇期から飛鳥時代までの渡来人は、今来才伎=いまきのてひと=と呼ばれた)

 9世紀後半になって(663年の白村江の戦いで、倭遠征軍が唐水軍に惨敗し、その後、遣唐使が廃止され、朝鮮半島を統一した新羅との交流も閉ざされた頃)、漢氏は、その名前から後漢の霊帝の後裔だと主張し、秦氏は、秦の始皇帝の血脈を継ぐと、半島からではなく、今の大陸中国からの渡来人と自称したりします。しかし、上田氏の説(というより、記紀によりますと)では、漢氏は百済系、秦氏は新羅系となっています。つまり、今の韓国です。(ちなみに、今の北朝鮮は古代の高句麗に当たり、首都も平壌としていました。高句麗は長らく倭と敵対し、倭政権は百済に援軍を送ったりします)

 百済系の漢氏は、軍事(鉄器や馬なども)、土木、外交などに強く、蘇我氏と結びつき朝廷内で台頭します。蘇我氏は、仏教を日本に取り入れる崇仏派で、仏教導入に反対した排仏派の物部氏を滅ぼします。法隆寺「釈迦三尊像」をつくった止利仏師や蝦夷を征伐したとして知られる坂上田村麻呂らも漢氏の子孫です。

 新羅系の秦氏は、大蔵官僚となり大和朝廷の財務を司ります。聖徳太子や藤原氏との結びつきが強く、国宝第1号に指定された弥勒菩薩像で有名な広隆寺は秦河勝(はたのかわかつ)が創建したもので、御本尊様は、聖徳太子から賜っています。映画村として知られる太秦(うずまさ)も勿論、秦氏と関係があります。

また、地方で治水や農耕で活躍した秦氏もおり、今の神奈川県秦野市も秦氏と関係があるそうです。

 天池を水源とする川の滝 Copyright Par

Duc Matsuocha gouverneur

 今年は、正月早々、神社めぐりをして「厄除け」願いをしたり、「健康」を祈ったりしたので、「そもそも」の神道についても俄然興味を持ち、今さらながら、勉強しはじめて、色んな疑問が出てきました。でも、この本でそれらの疑問のかなりの部分が解消されました。

 第32代の崇峻天皇は、皇子時代に、蘇我氏による反旗を翻した物部氏(大連=おおむらじ)の征伐軍に加わりますが、その後、蘇我氏に謀反があると察知した崇峻天皇が蘇我馬子を暗殺しようとします。しかし、事前に密告されて、逆に暗殺されます。直接の下手人は、渡来人の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)だったと言われています。下臣に暗殺された天皇は、崇峻天皇が最初だと言われています。

話は前後しますが、6世紀の大和朝廷には内憂外患の危機が押し寄せます。その一番は、第25代武烈天皇に世継ぎがいなかったことです。そのため、直系の王族ではない越前の三国の男大迹王(おほとおう)(古事記では、袁本杼命)を迎え入れて即位することになります。この方が第26代の継体天皇です。ですから「王権断絶」で、今上天皇は、継体天皇までしか遡れないという説もありましたが、継体天皇は、第24代仁賢天皇の娘で、第25代武烈天皇の姉に当たる手白香(たしろか)皇女を皇后に迎えましたので、王族の直系とつながることになりました。

 高句麗は668年に唐軍によって滅ぼされ、少なくない人数の高句麗人が倭に亡命します。しかし、権力が集中している今の畿内では、漢氏や秦氏が抑えていて、新参者が入る隙もありません。そこで、技術を持った人々による地方開拓の意味もあって、高句麗人は常陸や武蔵国に移住させられます。

 個人的なことながら、渓流斎が小中学生の頃、よく、西武池袋線の飯能駅近辺の小高い山や川に遠足やハイキングに行ったので、その辺りに高麗(こま)という地名があったことを覚えています。

 今調べたところ、やはり、そうでした。高麗は、関東にいた高句麗人1799人を集めて716年に集団移住させた所で、「高麗郡」と呼ばれました。現在は埼玉県日高市になっています。日高市は、巾着田で有名な所です。市では、その高麗郡が置かれて今年でちょど1300年目に当たる節目の年なので、記念のイベントを催すそうです。

 私も行こうかしら。