分裂抗争とドイツ人追放

もうお腹いっぱい Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 1週間のお勤め、ご苦労様でした。

 私も最近、遊んでいませんねえ。お酒が呑めなくなってしまったので、夜の街を徘徊することはもう全くありません。

 お酒を呑まないと、あまりお金も減りませんね(笑)。貯まったわけではありませんが、財布に月末になっても万札が残っていると、つい気が大きくなってしまい、身分不相応にも、高級腕時計なんか買ってしまうんですよね。駄目ですね。

 長春駅近くの商店街 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur
 昨年の大半は、この世にいなかったものですから、世の中の動きについていけませんでした。

 昨年の夏には、どうやら世界最大の組織が分裂して抗争にまで発展している、ということで、何が原因で、どうしてこうなってしまったのか、さっぱり分からなかったので、先日、T社から出版されている「分裂抗争の全軌跡」を読んでみました。そこで初めて理解することができました。

 この写真図解入りムックによると、今の六代目代表取締役社長は、クーデターを起こして、社長の座についたらしく、それに反感を持った歴代社長の流れを汲む前社長のグループが、度重なる要求に耐えきれず、ついに離反したということでした。

 五代目社長の不意の引退も、芸能界に一番顔がきいた常務取締役が株主総会で追放されたのも、その背景が分かって、やっと納得できました。

 米国風高級住宅 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 ところで、日経の夕刊最終面のコラムで、ドイツ文学者の池内紀さんが連載しておりますが、今日初めて、敗戦後のドイツ国民が、いかに酷い目に遭ったか、知りました。「ナチス=悪」だから、当然の報いだという意見もあるでしょうが、それにしても、一般国民にまで被害が及び、相当苦労したんだなあ、と同情してしまいました。

 ナチスの領土拡大政策の後押しもあったのでしょうが、ドイツ人は、軍人だけではなく、一般庶民も、占領したポーランドやバルト三国などに移民します(勿論、もっと昔から移民したドイツ人も多かったようです。何しろ、地続きですから)。まるで、大日本帝国の赤子が、満洲に移民するようなものかもしれません。

 しかし、ドイツ敗戦後、ソ連を中心にした連合軍によって次々と迫害・追放されます。池内先生によると、その数は1000万人とも言われています。その途中で多くのドイツ人が命を落としました。一説には、50万人から200万人と推測されているそうです。

 もし、その数が本当でしたら、想像したくなくても、どんなに酷くて悲惨なことが起こったことか、手に取るように分かってしまいます。誤解を恐れずに言えば、日本人だけではなかったんだなあ、という「気づき」です。この話は、ひとまず置きます。

 東プロイセンの中心都市だったケーニヒスベルクは、哲学者カントの出身地で、この著名な哲学者は、生涯、この街からほとんど外に出ず、毎日決まった時間に散歩していたので、近所の人は時計がいらなかったという逸話があります。

 そのケーニヒスベルクは、現在、カリーニングラードと名前が変わって、ロシアの領土になっています。ロシア本土から遠く離れた「飛び地」領土です。何か、戦国時代みたいですね。

 これも、第2次大戦の結果です。ケーニヒスベルクは、ソ連を中心とする連合軍による空爆で相当破壊され、戦後、ソ連が占領して、多くのドイツ人は追放されます。

 こんなこと書いていても、池内先生に教えられ、自分で調べ直してみたのですが…(苦笑)。

 「貴男は、そんなことも知らなかったんですか!」と、皆さんからお怒りのコメントが来そうですね。