必読!起死回生

今日は、立教大学経済学部の山口義行教授の講演を聞きました。最近になく非常に面白かったです。演題は「デフレ経済から付加価値社会へ」というものでした。

1つだけ無断で書かせてもらいますと、三重県尾鷲市にある小さな病院が毎年4億円の赤字を出し、24億円もの赤字を累積していたのに、たった一つの方法を導入することによって逆に2億6千万円の黒字にしたという素晴らしい好例です。

その前に知っておいて戴きたいのは、現在のシステムでは、患者の入院期間が延びれば延びるほど、厚生労働省から降りるお金が減っていくということです。このため、病院の多い都会では、治っていなくても高齢者の入院患者は10日程で「追い出して」他の病院に回してしまいます。しかし、病院の少ない地方ではそういうわけにはいきません。10日で追い出してもまた再入院した場合、その累積で日数が勘定されて「赤字」が増える仕組みになっていたのです。

尾鷲市の病院は何を導入したのかー。それは「NST」と呼ばれるものです。NSTとは、Nutrition Support Team(栄養支援チーム)の略です。医師、看護士、薬剤師、医学療法士、栄養士の共同で、患者の食事メニューを徹底的に改善した結果、患者の免疫力ができ、この結果、患者の褥そう(床ずれ)がなくなり、院内感染もなくなり、これまで、平均24日入院していた患者が15日程で退院できるようになった。このおかげで、厚労省からの補助金も増え、一気に黒字に転換することができたというのです。(これから、入院される方はその病院に「NSTは導入されてますか」と確認された方がいいですよ。)

全国的にまだまだ不況に喘いでいる企業は多いと思いますが、経済再生のカギは現場にあります。一番苦しい所から答えが出る、というのが先生の結論です。この地方の小さな尾鷲病院には、その評判を聞きつけて、何と東大病院から視察が来たそうです。手間暇掛ければコストが下がる。地方が苦しみながら脱却の道を見い出した好例、ということでご紹介しました。

それでもやっぱりがんばらない

日本では自殺者が7年連続3万人を超えています。「異常事態」と言っても良いのに、世間は彼らに「負け組み」のレッテルを貼って葬り去ります。

過労死、過労自殺も増えています。

今、自殺を考えている人に是非読んで欲しい本があります。

長野県の諏訪中央病院の鎌田實院長がこのほど上梓した『それでもやっぱりがんばらない』です。同氏の『がんばらない』『あきらめない』に続く待望の第3弾です。

本書の中のメッセージ。

「がんばらない」とホッとしていると副交感神経が刺激されて免疫機能が高まり、生きる力が湧いてきます。

hiroの「Coco d’or Parfait」

 公開日時: 2005年6月18日

「2 005年1月1日現在7万3500枚突破!ジャズ・アルバムとしては驚異的なセールスを更新中!」という新聞広告に惹かれてつい買い求めてしまいました。

元SPEEDのhiro(島袋寛子)が初めてジャズに挑戦したアルバム「Coco d’or Parfait」のことです。ジャズ・アルバムといえば、1万枚も売れれば「ベストセラー」の範疇に入る。「さすがだなあ」。久しぶりに彼女の歌声を聴いて、色々と昔のことを思い出して、一人感傷に耽ってしまいました。

彼女には一度だけインタビューしたことがあります。とは言っても、SPEED人気が全盛期だった1998年11月、四人のメンバーの一人としてですが。彼女はリードボーカルなのでステージでは前面に立ち、一番目立っていたのに、正直言って、全く印象が薄かったのです。何を聞いても、「うん」とか「はい」と一言二言返すぐらいで俯いてしまう。でも今から思うと無理もない、と納得します。彼女は当時、まだ最年少の14歳だったからです。一番しっかりしていたのは、今タレントとして最も売れている上原多香子ちゃん。現在イラストレーターとして活躍する新垣仁絵ちゃんは芸術家タイプ。今井絵理子ちゃんは、少しやんちゃな感じでした。その彼女はもう一児の母親。歳月の流れの早さには圧倒されてしまいます。

「Coco d’or Parfait」は、鈴木明男ら日本を代表する一流のジャズメンをバックにhiroが「ミスティ」「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」などスタンダードに挑戦しています。日本語歌詞は一曲もありません。ほとんど英語ですが、「ドラリセ」では何とポルトガル語で歌っています。すっかり大人のムードたっぷり、といった感じです。それでも彼女はまだ20歳。若くして成功を掴んでしまうといつのまにか消えてしまう芸能人が多い中、「歌で勝負する」hiroちゃんの場合は、これでよかったのはないかと思います。小さなジャズクラブで彼女の歌声を是非聴きたいものです。

視床中心正中核

自分の思い通りに物事が進まない時、パニックに陥らないようにブロックするメカニズムが脳の中にあるそうです。

京都府立医科大大学の木村実教授グループ(神経生理学)が「発見」しました。

それは、脳の中心部にある「視床中心正中核」と呼ばれるもので、サルを実験に、脳に電極を刺して脳神経の動きを調べたところ、「期待した通りの報酬を与えられなかった」ケースで、この「視床中心正中核」が一番敏感に反応したそうです。

さしずめ、私なんか、幾星霜の「期待はずれ」を経験したせいか、この「視床中心正中核」が肥大化しちまったのでしょうね。

否、もっといい方に解釈しましょう。この「視床中心正中核」のおかげで我々はこの世に踏みとどまっていられるのです。

「視床中心正中核」さん有難う!

万物流転

 1960年代の若者たちは、革命を夢見て「学生運動」に邁進しました。
 今の若者たちの中で、革命を夢想する人は皆無ではないにせよ、極めて少数派となりました。
 「世の中全体は変えられない」と悟ったからでしょう。
 「革命?ぶっちゃけ、有り得ねえ」ということなんでしょう。
 
 それより、ホリエモンのようにお金の力で世の中を動かそうと考える若者が増えました。

 しかし、いい加減、世の中をどうにかしようといった概念に振り回されることは止めた方がいいのです。そういった概念に拘らないように自分自身が変わればいいのです。
 
 こんなことを発言すれば、以前でしたら「プチブル」だの「日和見主義」だのと言われて「総括」されていたでしょうね。
 何か懐かしいです。今の私は元気がないので、非常に懐かしいです。
 
 それにしても、言葉はすぐ古びてしまいますね。「総括=殺人」ということを、今の若者はどれくらい知っているでしょうか。

 万物は流転する。

ジェンキンスさん、40年ぶりの帰還

公開日時: 2005年6月15日 @ 16:55

北朝鮮による拉致被害者、曽我ひとみさん(46)の夫ジェンキンスさん(65)が6月14日に母国アメリカ(ノースカロライナ州ウェルドン)の土を40年ぶりに踏み、母親のパティー・キャスパーさん(91)と再会したニュースには本当に感動して涙が止まりませんでした。

何しろ40年ぶりでっせ、親分。さぞかし、浦島太郎さんの気持ちなんでしょうね。

40年前とは、1965年のこと。私のような「ビートルズ史観」に冒された人間にとって、1965年といえば、映画「ヘルプ」が公開され、アルバムは「ヘルプ」と「ラバーソウル」が発売された年。「アイ・フィール・ファイン」「デイトリッパー」「イエスタデイ」「ミッシェル」「ガール」…と沢山のヒット曲に恵まれ、ニューヨーク・メッツの本拠地「シェア・スタジアム」でのコンサートでは5万5千人の観客を集めました。まあ、ビートルズ全盛期でしょうね。

一方で、ヴェトナム戦争が泥沼化した年でもあります。在韓米軍基地にいた25歳のジェンキンス軍曹も、「ヴェトナムに送られて戦死するよりまし」と思ったのか、「北の楽園」北朝鮮に脱走してしまいますが、その後の数奇な運命は、日本人ならもう誰でも知っています。

しかし、詳しい事情を知らない人口1400人の田舎町はさぞかし驚いたでしょうね。いきなり100人もの報道陣が詰め掛けたのですから。ジェンキンスさんの40年ぶりの帰国を歓迎する人がいる一方、退役軍人やヴェトナム帰還兵の中には「彼を英雄視するべきではない。単なる臆病者だ」と批判する人もいましたが、彼らの頭の中の世界では極めて正しい論理なのでしょう。

人間はそれぞれの「小宇宙」の世界で生きているので、話し合っても分かり合えないのです。
だからこそ、ジェンキンスさんは、終始あまり目立たないように控えめに行動していたように見受けられました。

それにしても40年ぶりとは…。それでも、ジェンキンスさんは「玉手箱」を持って帰らなくてよかったですね。

ヨット単独無寄港世界1周

公開日時: 2005年6月14日 @ 18:30

ちょっと古いニュースですが、6月初めに日本人が相次いでヨットによる単独無寄港世界1周の快挙を成し遂げました。一人は「太平洋ひとりぼっち」の堀江謙一さん(66)。もう一人は71歳という世界最高齢を打ち立てた東京都台東区の斉藤実さん。

堀江さんは「超有名人」ですが、ヨット仲間では「孤高」の存在で、マスコミ嫌いであまり取材は受けない人のようです。今回の「快挙」も後援は某新聞社で、「シャープの太陽電池」を搭載した「SUNTORYマーメイド号」…とやけにスポンサーの名前が目に付いたので、ここではあまり取り上げません。

スポットを当てるの斉藤さんの方です。6月6日、神奈川県三浦市の小網代湾に233日ぶりに帰港した斉藤さんの第一声は「地面が揺れてるよお~」でした。チャキチャキの下町のべらんめえ調で、生来の底抜けの明るさは、打ちひしがれている人々に勇気と感動を与えはてくれました。ほとんどのテレビニュースでは取り上げられていなかったのですが、斉藤さんが記者の質問に応えてこんなことを話していたことが妙に印象的でした。

「サラリーマンだったら、50歳になったらさっさと会社なんか辞めちまって好きなことをすればいい。どうせ、なれるとしたらせいぜい部長ぐらいだろう。何も会社や社長のために身を粉にするこたあねえや。自分の好きなことやりゃあいいんだよ」

ジャガイモの話

 【馬鈴薯の歴史】
・南米インカ帝国を征服したスペイン人が、16世紀末にインカ帝国の主要作物だった馬鈴薯をヨーロッパに持ち帰り、世界中に広がった。

・日本には慶長3年(1598年)に南蛮人によって長崎の平戸に持ち込まれた。

・馬鈴薯は、江戸の学者、小野蘭山が中国の『松渓懸志』(1700年刊)に掲載されていた馬鈴薯(マメ科のアメリカホイド)に似ていることから付けた。

・ジャガイモは、蘭学者の大槻広沢が、インドネシアのジャカルタから命名した。ジャカルタは当時、ジャガタラと呼ばれ、大槻は、オランダ船が馬鈴薯をジャガタラから長崎に運んできたので、「ジャガタライモ」と名付け、いつしかジャガイモとなった。

・ジャガイモの一品種「男爵薯」は、明治時代、函館ドックの川田竜吉専務が、食味と貯蔵性に優れた米国生まれの品種を英国から輸入し、全国的に広がった。川田専務が男爵だったことから、その爵位から命名された。

・もう一つ、今でも大人気の「メークイン」は英国産の品種。中世の春の村祭り「メーデー」の時、村の娘の中から選ばれた女王(クイーン)にちなんだものです。北海道帯広市の「大正メークイン」は美味しいですよ!

シー セッド・シー セッド

彼女は言いました。彼女は言いました。

人生に問題などないのです。
すべては起きてきたことです。
あなたが生まれる前にシナリオを書いてきたのです。
そのシナリオ通りにあなたの人生は展開されています。

だから、何があっても大丈夫なのです。
何が起きても大丈夫なのです。

夏目漱石「吾輩は猫である」100年

今年は夏目漱石が処女作「吾輩は猫である」を発表して丁度100年になります。
明治三十八年、漱石、時に三十八歳。

未完のまま絶筆となった最期の作品「明暗」は大正五年の作。漱石、時に49歳でした。
漱石の晩年の写真を見て、60歳か70歳くらいと勝手に想像していたのですが、随分若かったんですね。

私は、古今東西の作家の中で、漱石が最も好きで、尊敬しています。

全集を読破したのがもう四半世紀も昔なので、細かい所は覚えていないのですが、「三四郎」の中で、先生の口を借りて「日本は滅びるね」と漱石は予言していました。
そして、昭和二十年に、本当に日本は滅んでしまいました。
もし、漱石が生きていれば、78歳でした。

もっと書きたいのですが、今日はこの辺で。