ボブ・ディランの話題の映画「No Direction Home」

公開日時: 2005年12月31日 

ボブ・ディランの話題の映画「No Direction Home」を渋谷のイメージフォーラムでみました。

東京でしか公開しないというのは本当に残念ですね。音楽ファンだけでなくて、もっと多くの人に見て欲しいと思いました。

2000円は高いと思いましたが、3時間半の上映時間は決して長いとは感じられませんでした。ディランの世界にのめりこんで、何度も何度も痺れて陶酔してしまいました。見て本当に良かったと思いました。

私自身、ディランに関しては決して熱心なファンではありませんでした。もちろん「同時代人」として気になる存在ではありましたが、例えば「風に吹かれて」にしても初めて意識して聴いたのは、PPMでした。PPMとはピーター、ポール&マリーのことです。

映画では、ポールはノエルというのが本名でしたが、キリスト教的な名前に揃えるために、改名したということを明かしていました。つまり、ピーター、ポール&マリーというのは、ペテロ、パウロ&マリアとなるわけです。

いずれにせよ、PPMを聴いた後、本当は「風に吹かれて」を作ったのはボブ・ディランというフォーク歌手です、ということで原曲をはじめてラジオで聴いたときのショックは忘れません。1965年頃のことです。

第一印象は「ヘタだなあ」でした。しわがれ声だし、ギターもヘタ。「ミスター・タンブリンマン」も初めて聴いたのは、バーズでした。

ですから、決して熱心なディラン・ファンではなかったのです。

しかし、映画「No Direction Home」を見た時、自分は、それほど不誠実なディラン・ファンではなかったということが分ったのです。

1965年のニューポート・フォーク・フェスティバルで、ディランはフォークギターをエレキに替えて舞台に登場した時、熱心なファンから「裏切り者」呼ばわりされて、ディランはすっかり自信を失って、楽屋で大泣きしたという話は、音楽雑誌を通して当時から知っていたのですが、何せ、当時は、海外アーティストが動いている姿を目にすることが、ほとんどできないという時代背景がありました。

今回、その「動く映像」を目の当たりにして、本当に感動したわけです。

当時の雰囲気が如実に迫ってきました。

ディランが実に若い!

この映画のハイライトになる曲は、やはり「ライク・ア・ローリングストーン」ですが、この曲がこんな素晴らしい曲だったのか、と再認識しました。羽振りのよかった男が落ちぶれて、住む家もなく、誰からも相手にされず、「どんな気分だい」と揶揄される歌ですが、レコードの演奏時間も6分10秒という異例の長さ。当初、歌詞は50番くらいまであった、というのですから驚きです。

この曲で、アル・クーパーがオルガンを弾いていたことは、大分後になって知ったのですが、もともとアル・クーパーはギタリストとして参加する予定だったのに、既にブルース・ギタリストの名手マイク・ブルムフィールドが参加していたため、あぶれてしまった。そこで、勝手にオルガンを弾いて、レコーディングに参加したということを明らかにしていました。「ライク・ア・ローリングストーン」にオルガンがなければ、全くスパイスがきかないカレーみたいなものです。

アル・クーパーは1970年頃にBS&T、つまりブラッド・スウェット・アンド・ティアーズを結成しますが、私がアル・クーパーの名前を知ったのはその頃でした。

ディランが全盛期だったのは1960年代です。その頃のアメリカは人種差別反対の公民権運動やヴェトナム戦争反対運動が吹き荒れた10年でした。

その時代を背景にして、ディランは、プロテスト・ソングを歌う若者の代弁者として祭り上げられます。面白いことに、記者会見で、そのことを問われると、つまり、代弁者としての哲学的理念などを問われたりすると、ディランは「別にそんなことこと少しもか考えたことはない」とはぐらかします。世間では、ディランは23歳にして、社会の矛盾や問題を解決する「救世主」として見られていたのです。

業を煮やした記者は「それなら、あなたは自分のことを何だと思うのか」と迫ります。
これに対してディランは明確に答えます。

「僕は歌って踊る芸人に過ぎないと思っている」

何と清々しい心意気でしょう。

ディランはジョーン・バエズにこんなことも言っています。

「僕が、気まぐれに適当に書いた曲でも、後世の人間は色々とこじつけて、難しく色んな解釈をすることだろうね」

この映画で改めてディランの魅力にはまってしまいました。

年の瀬

年の瀬ともなると、誰しも感傷的になるものですが、今年ほど、ひどく感傷的に落ち込む年もなかったです。

2005年という年は「大転換期」として日本の歴史に刻まれることでしょう。

まずは、戦後60年という節目の年でした。

ということは、「もはや戦後ではない」という悠長なことを言っている年ではないのです。「もはや戦後ではない」と「経済白書」で謳ったのは、まだ戦後わずか11年しか経っていない昭和31年のことでした。
戦後も60年も経てば、「戦中派」の人が次々と亡くなります。(元陸軍曹長だった私の父も11月に亡くなりました)戦争体験者が亡くなれば、戦争の記憶も風化するのは当り前です。そうなると歴史は繰り返すのでしょうか?実際に戦争に行くのは若者であるという事実を若い人は自覚した方がいいでしょう。

今年は、場当たり的な少女殺人事件が相次ぎ、日本人の倫理観がどこに行ってしまったのだろうか、と暗澹たる思いをしたのは私だけではなかったはずです。

ライブドアの堀江君、楽天の三木谷君、村上ファンドの村上君らは、皆、私より年下ですが「人生、金こそがすべて」という拝金主義者です。昔は、そういう人も沢山いましたが、人前で公言せず、しこたま金を溜め込んだら、文化人や関取のパトロンになって帳尻を合わせるという美徳がありました。渋沢栄一然り、原三渓然り…。

しかし、今の時代どうでしょう。

耐震偽装問題にしても、関係者は責任のなすり合いで、まるで他人事です。

ー震度5クラスの地震がきたらどうなりますか?
姉歯建築士 「ぺしゃんこになりますね」

そこに住む人の生活や人生に思いを馳せる想像力さえ失っています。しかも、「圧力を受けたから」とか「仕事がなくなるから」といった全く個人的な理由だけを優先しています。

このままでいけば日本はどこへ行ってしまうのでしょうか?

くしくも2005年は日本の歴史上初めて人口が自然減したエポックメイキングの年となりました。

もう10年前の話ですが、ある高名な地球物理学者にインタビューした際、最後に彼が言ったことが今でも忘れません。

「あと100年もすれば、人類は滅亡します。地球温暖化が進み、太陽の熱で、地球に人類は住めなくなります」

これが「事実」だとしたら、パニックになるのですが、パニックにならないところを見ると、この事実を知る人が少ないということでしょう。

彼は言いました。
「でも安心してください。100年後は、今ここにいる殆んどの人は亡くなっていますから」

中川昭一氏と鈴木宗男氏

昨日の鈴木宗男さんに続いて、今日は中川昭一農水相に会いました。

お会いしたと言っても、彼を囲んで20人ぐらい同席していたので、私の顔と名前が一致しているとは思えませんでしたが…。

よく知られていることですが、鈴木宗男さんは、中川昭一氏の父親の中川一郎氏の秘書を長らく務めていました。昭和58年に一郎氏が、不可解な死を遂げてから、「後継者」を巡って、息子の昭一氏と凄まじい闘争を繰り広げたことは、今でも語り継がれています。

結局、宗男さんが帯広から隣の釧路に選挙区を「鞍替え」することで、二人は両立しました。

その後の「宗男バッシング」や、昭一氏の閣僚歴については飛ばします。

ここでは、間近に見た二人の違いについて書きたいと思います。

まさに、「月とスッポン」「水と油」「表と裏」。どちらがどっち、という意味で例を挙げたのではなく、二人はまさに容姿から育ちから性格に至るまで正反対であることを伝えたかったのです。

昭一氏の父親は、十勝の広尾町の出身ですが、昭一氏は東京生まれの東京育ちで、麻布から東大法学部ー興銀ー国会議員とエリートコースを絵に描いたように渡り歩いた人です。

方や、宗男氏は、足寄町出身で、拓大出身。父親の協(かのう)さんが、彼の学費を捻出するために、一番良い馬を売った話は、有名です。

宗男さんは、人間的な、あまりにも人間的な人です。極めて俗人的な人で、辛酸を嘗めて、地べたから這い上がってきた感じがします。義理人情に厚い人です。57歳にもなれば、達観したり、諦めたり、普通はするのですが、彼に限って、まだまだ、ギラギラとした野心を持っています。「もうそこまで、でしゃばらなくてもいいんじゃないか」と端から見て思うのですが、彼は疲れを知りません。全国を飛び歩いています。そして、憎めないところがあります。

昭一さんは、とっつきにくい感じの人です。本当に信頼する人しか心を打ち明けないタイプで、いつも鎧兜をかぶっています。相手に隙を見せることはありません。理路整然とした話し方をしますが、結局、面白くないのです。事務的というか、心を打ったり、琴線に触れるような言葉を発することはありません。人はそれを都会的エレガンスと呼ぶかもしれませんが、冷たい感じがします。それに、地元の人の一部は、昭一さんのことを快く思っていません。「選挙の時にだけやってくる東京の人」と捉えています。

ここまで、書いて、自分でも、もう詰まらなくなりました。

私という人間は、どうも政治的人間には興味をもてないようです。

足寄

鈴木宗男さんと松山千春さんの出身地、足寄に行ってきました。

寒い日でした。その寒さは、肌を突き刺すほど、痛みを伴いました。

夜、鈴木宗男さんと帯広市内の居酒屋で会う機会がありました。
28日に会う、と以前書いたのでその報告をしなけばなりません。

彼は自信満々でした。
何しろ、9月の総選挙で、44万票も獲得したのですから。
近著『闇権力の執行人』の中で、その醜態を暴露された外務省の松田邦紀ロシア課長や2億円の機密費を流用した杉山晋輔中東アフリカ局参事官らから、名誉毀損なり、何らかのアクションがありましたか?と聞いたところ、鈴木氏は、「何もありませんよ。すべて事実で、正直に書いたのですから。むしろ、向こうから何か言ってくることを待っているくらいですよ。もっと、暴露してあげますから」と胸を張っていました。

鈴木氏によると、これまで、鈴木氏批判的だったいわゆるリベラル派の人間が、最近、「宗男派」に鞍替えしてきたと言います。「『噂の真相』の岡留さんや、ジャーナリストの魚住昭さんや宮崎学さんらが、私の味方になってくれますよ」と言うのです。

やはり、勝てば官軍なんですね。

鈴木氏の出身地は、足寄の大誉地という所です。足寄の街中からまた離れた山奥です。彼の新党『大地』の名前は、松山千春さんが考えたそうですが、大と地の間に「誉」を入れると自分の出身地になる、と一人で悦に入ってました。

居酒屋の隣の座敷では、20代くらいの若い人が宴会をしていて、鈴木氏を見ると、大声で「宗男だ。宗男だ」と大はしゃぎで、一緒に携帯で写真撮影をしてもらうために群がってきました。

鈴木氏は「もう、自民党や民主党の時代じゃないよ。大地の時代だよ」と、若い人にアピールすることを忘れませんでした。

さすが、政治家だ、と感心してしまいました。

如是我聞⑨

不安と恐怖は幻です。

もし、不安と恐怖を感じたならば、逃げないで、そのまま、たっぷり不安と恐怖を感じなさい。

もし、真剣に不安と恐怖に立ち向かったのならば、トンネルを抜けるように、その感情は消えてなくなるでしょう。

不安と恐怖は幻だからです。

時間が経てば、最初から不安も恐怖もなかったということは分かるでしょう。

存在の耐えられない痛さ 

帯広で3回目の冬を迎えていますが、今日初めて、地吹雪なるものを経験しました。

昨日、帯広では30センチの雪が降りました。今日は、快晴でしたが、異様な強風が吹き荒れ、昨日降った雪が、周囲に舞い散りました。

こう書くと、多少風情があるように聞こえますが、外を歩くと容赦なく、地吹雪は顔に叩きつけて、まるで砂粒が当たったように痛くて、痛くてしょうがありません。もちろん、目も開けられません。プロレスのデストロイヤーのマスクが欲しくなったくらいです。

私が東京にいた頃、北海道赴任経験者から「あそこは人間が住むところではない」と言った言葉がよぎったほどです。

帯広で生まれ育った人なら慣れているでしょうが、初めて体験した者としては、本当に参りました。周囲を見たら、あまり人は歩いていません。
こういう日に歩いているのは、何も知らない「外地の人」ばかりのようでした。

仕事で清水町にまで行ったのですが、案の定、強風のため、特急列車は運休し、普通列車も50分も待たされてしまいました。
地元の人は「またか」といった感じで、誰も駅員に食ってかかる人はいませんでした。

こういう厳しい自然環境の中で生きている人が、たくさんいるということを今更ながら知った次第です。

27歳の80億円

例のみずほ証券の誤発注事件を今更ながら取り上げます。記録として残しておきたいからです。

25歳の若い証券マンが、人材派遣会社「ジェイコム」株を「1株を61万円」で売るところを、間違って「61万株を1円」で発注し、約400億円の損害を齎したというあの事件です。

なんで損害が約400億円で済んだのかというと、まず、1円で株売買取引は成立せず、「ストップ安」で、約57万円の値が付いたようです。みずほ証券は誤りに気づいて、躍起になって買い戻しましたが、約9万株が、買い戻すことができず、約90万円で取引が成立したようです。要するに、みずほは、90万円ー57万円×9万株=297億円。それやこれやで、約400億円の穴があいたということでしょう。

その間、わずか13分間の出来事だったそうです。

この際に、千葉県市川市に住む27歳の青年が、7100株を取得し、20億円以上の利益を得ていたというのです。20億円の莫大な利益で驚いていたら、何と、彼は、このために34億円の自己資金を投じていたというのです。

何でそんなにお金を持っているのでしょう?

やっと北海道でも発売された「週刊新潮」の記事によると、彼は今年1年だけで、株取引で他に60億円もの利益を出しており、「お金の使い方もよく分からないし、今特に欲しいものはない」と、この青年は話しているそうです。

週刊誌ですから、27歳の「無職男」とか、「ボロ儲け」とか、「大豪邸住まい」とか、綺麗な言葉は使っていませんが、彼はれっきとしたデイトレーダーであり、大変なリスクをかけてリターンを得て税金も払っているとしたら、そこまで非難されるべきものではないとは思いますが、私のような株の素人でも、大変な時代になったという実感があります。

彼が株を始めたのは、1999年頃で、元手は100万円。それがー。

2001年初 300万円
2001年末 6000万円
2002年末  1億円
2003年末  3億円
2004年末  10億円
2005年末  80億円

もう、すごいの一言です。この数字を見て、我も我もと株を始める人が増えることでしょう。まさしく、バブル経済の再現です。

しかし、バブルは必ず弾けます。私は、来年の夏あたりかなと思っているのですが、人伝に聞いたりしただけで、私自身が経済的強固な根拠を持っているわけではありません。初めて私のブログを読んでくださった方は、悪しからず。

鈴木宗男 『闇権力の執行人』(講談社)

2002年に鈴木宗男代議士が、斡旋収賄容疑で逮捕された時、ほとんどブラウン管の中の異次元の人の世界で、他人事のように、眺めていたものですが、北海道に住んでみると、全く、他人事ではありえず、大都会と強者中心の市場原理が苛立つほど、身近に感じる今日このごろです。

変な書き出しですが、今日、彼の新著『闇権力の執行人』を買って、読み始めてみると、その観念を強くしたのでした。

3年前のあの「事件」で、テレビの前の観衆(そう、お客さんといってもいいのです。今では、もうすっかり、鈴木宗男事件など忘れ、今は、姉歯や、内河や小嶋の偽装建築問題に心を奪われております)が、印象に残っているのは、演出されたテレビの画像で流された鈴木宗男の悪相と、ムネオハウスと、ムルワカとか呼ばれた異様に背の高いアフリカ人、田中真紀子の常軌を逸した我侭、それぐらいです。

いずれにせよ、「鈴木宗男=悪」という単純構造が刷り込みされたことは確かです。当時、東京近辺に住んでいた私もその一人でした。

それが、事件の渦中の一人であった外務省の元主任分析官の佐藤優氏の『国家の罠ー外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮社)を読んで、目からウロコが落ちるように初めて真相を知らされたような気分に陥ってからは、これまでの単眼的思考を改めなければならないという自覚に迫られました。

佐藤氏の著作を読んだ後だったので、鈴木氏のこの本も、「なるほど」と思わされるものがあり、次のページをめくるのがもったいないほど、今、のめりこんでいます。ここまで、実名と写真を掲載してしまって大丈夫なのだろうかと心配してしまうほどです。

これまで、政治家が企業にたかる話は五万と聞いたことがありますが、外務省の官僚がここまで、一人の政治家(鈴木宗男氏のこと)にたかりまくっていたとは、俄かに信じられません。

この本は出版されたばかり(奥付は2006年1月1日 第1刷発行)なので、「名誉毀損」問題を含めて、今後の展開が注目されそうです。

鈴木宗男氏は「真実を書いたまで」とつっぱねるでしょうが、槍玉に上がっている外務省官僚は立つ瀬がないですね。ロシア課長の松田邦紀という男については、こいつがどんな人格の持ち主なのか、税金を払っている日本国民は全員知るべきでしょう。知らないというのは、怠慢に他なりません。彼がどんな悪行を犯して、ロシア課長のポジションにおさまっているのか、普通の企業に勤めている一般人にはとても想像つかないはずです。(これも鈴木氏の一方的な開陳なので、心してかからなければならないのですが、もし鈴木氏の陳述が事実なら、松田は刑罰に値する最悪の人間です)

12月28日には、たまたま鈴木宗男氏と会う機会があるので、この本を巡って、色々と聞いてみたいと思います。

その時また。

外国語と日本語

「バーゲン」とか「コンピューター」などはもちろん、外来語です。「掘り出し物」とか「電子計算機」と書くより、もう外来語の方が響きがいいというか、変な意味で日本語のニュアンスをうまく伝えています。

これらの言葉は、もともと日本になかったのか、あったとしても、概念として発達しなかったから日本語として定着しなかったのでしょう。最近のコンピューター用語は、例えば「ダウンロード」や「インストール」にしてもほとんどカタカナですからね。

同じように、というより、全く正反対に日本語がそのまま「外来語」になった言葉もあります。「寿司」「てんぷら」などはもともと日本にしかないから、当然でしょうが、 TUNAMI(津波)などはもう立派な国際語になっています。

KAROUSI(過労死)も「外来語」としてOEDに載っています。英国に過労死の概念がなかったわけではないでしょうが、日本ほど当該件数が少なかったから言葉として定着しなかったのでしょうか。日本にとっては不名誉な言葉ですが…。

言葉って面白いですね。