女優を2号にした映画会社社長

天守台

東京の調布先生です。

たまに渓流斎ブログを見ますが、いつも詰まらないですね。それに、長い!

いつぞやは、gooブログのランキングで第22位に輝いたと自慢しておられましたが、昨日は第7232位に転落してるじゃないですか。実にぶざまですねえ。

共謀罪は所詮、他人事。カジノで100万円の損をして一家離散しようが所詮、他人事。北朝鮮からミサイルが飛んでかようが…あ、これは他人事じゃないか。(笑)

江戸城趾

渓流斎さんはまだお若いから知らないかもしれませんが、今では「ピンク映画」の代名詞になっている大蔵映画の大蔵貢が、新東宝の社長に就任して嵐寛寿郎主演で「明治天皇と日露戦争」(1957年4月29日公開)を製作して大ヒットしたことがあります。当時としては破格の7億円もの興収をあげました。

この大蔵貢(1899~1978)社長、実はもともと活動映画弁士だったんですよ。歌い手の近江俊郎の実兄ですから、声もよかったんでしょう。無声映画時代の大正~昭和初期は、活動弁士は花形で、スター俳優よりギャラがよかったそうです。

時代はトーキー映画となり、花形の活動弁士も職を失います。

先見の明があった大蔵貢は、弁士の多くが漫談家などに転向したのを横目に見て、映画小屋を買収して、興行主の道に進みます。

木曽の極貧の家庭で育ったため、大蔵はお金の大切さは身に染みていました。弁士時代から血の涙が出るほどの節約に努めます。以下は、電脳空間から拝借した大蔵の伝説談話です。

●金を貯めるにはまず使わない。
●女買いはしない。
●煙草は呑まない。
●骨身を砕いて働き、一分の暇があれば読書をして勉強する。
●生活に必要な金以外はすべて貯蓄する。
●貯蓄したら下ろさない。

こうして貯めたお金を元手にして、次々と映画小屋を買収し、実業家としての地位を固めていき、映画会社の社長にまで登りつめるのです。

大手門

大蔵貢の最大のエピソードは、女優の高倉みゆきを愛人にして、先の「明治天皇と日露戦争」での皇后陛下役など数々の映画に主役級で出演させたことでした。

これに対して、大蔵は「女優を2号にしたのではない。2号を女優にしたのだ」と言い放ち、周囲を煙に巻きました。

昭和35年のことです。この逸話は、もう知る人が少なくなってきましたね。

東大新聞のシンクロと共謀罪は一般人には関係ないというお話

東大新聞

 皆さんご存知の松岡総裁こと松岡將氏からご覧の通り、「東京大学新聞」(5月16日付)をその日に送ってこられました。

 ご自身の著作「松岡二十世とその時代」(日本経済評論社)と「王道楽土・満洲国の『罪と罰』」(同時代社)の2冊もが、同時に東大新聞の広告を飾ったということで、送って下さったのです。

 小生は松岡氏の私設応援団長ですから、宣伝になればと存じます(笑)。

 しかし、今時の学生さん、たとえ、名門有名国立大学とは言っても、学生の本分である本さえ読まないと言われていますからチョベリバ(死語)ですね。心もとない限りです。

 松岡將氏の御尊父二十世(はたよ)氏は、特に親しいわけではなかったようですが、あのゾルゲ事件の元朝日新聞記者尾崎秀実とは東大法学部~大学院での同級生。御本人の將氏は、命からがらの満洲引き揚げ者ながら、東大経済学部卒の霞が関官僚。御子息の聡氏は、東大理学部~博士過程修了で、スーパーコンピューターの世界的権威として知られている東工大教授です。

 親子孫の三代続いての東大ですから、遺伝もあるのかもしれません、と無責任にも書いておきます(笑)。

Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 写真の通り、その東大新聞の一面トップを飾っていたのが、大手広告会社に就職しながら過労自死された東大OGの特集で、思わず本文まで読んでしまいました。

 そしたら、昨日のNHKの夜7時のニュースで、亡くなった娘さんの母親が登場され、この東大新聞まで出てきて、編集長さんまで取材を受けていたので、妙なシンクロニシティを感じてしまいました。

 また、今朝の新聞を読んでいたら、没後39年経ってもいまだに注目されている「暮らしの手帖」の創刊者だった花森安治の展覧会の記事があって、気になって、調べたら、花森安治も東京帝大の学生の時、帝国大学新聞の編集記者だったとか。これもシンクロニシティですねえ。

 花森は戦中に大政翼賛会の外郭団体で、戦意高揚のコピーライターをやっていたという反省から、商品テストが売り物の「暮らしの手帖」を創刊する話は有名ですね。

 亡くなって39年も経つとは、こちとらも歳を取るはずです。

Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 戦後の治安維持法とも言われる「共謀罪」は、昨日の5月19日午後1時13分に強行採決されました。

 「一般人は対象にはならない」ということなので、皆さん安心しましょう。

 この法案の最高責任者の秋田県出身、高砂部屋かどうか知りませんが、金田勝年法務大臣は、まるで悪代官のようで、実に目付きも人相も悪いですね。それにアル中のような答弁。あくまでも個人的感想ですが、そう思っている人は、自民党の中にもいるかもしれません。私が東映の監督ならスカウトしたいぐらいです。

 まあ、日本一の頭脳集団である大蔵官僚出身ですし、法相不信任決議案を否決された優秀な人ですから、前言は撤回した方がいいかもしれませんが…。

 でも、今、政権を握っている皆さんは、いつまでも権力を手中にしていられると堅く信じて、共謀罪など自分には関係ないと、これも堅く信じ切っていることでしょう。

 しかし、今の権力者も、政権が倒れたり、歳を取って引退して一般人になった時、自分たちの蒔いた種が、火の粉となって我が身に降りかかってくるかもしれません。

Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 「そんなはずじゃなかった…」と言っても、もしかして、遅いかもしれませんよ。

大相撲の赤房、白房…て何?

江戸城趾

稀勢の里ブームで、大相撲人気が再燃して切符が手に入らないそうなので、専らテレビ観戦。

江戸の明暦の大火で、市中20万人の人口のうち、10万人(ほとんどが町民)が亡くなったことは以前書きました。

亡くなった方々は、本所の回向院に葬られたそうです。宗派に拘らない寺だったからだったようです。

その回向院では、資金捻出のため(?)、お上から勧進相撲が許可されていました。闇か、大っぴらか知りませんが、賭け相撲だったようですね。

現在も、相撲興行には顔役さんが欠かせないとか、相撲部屋同士で星取勘定のやり取りがあるとかないとか、といった話は、茲では触れません(笑)。

今日は相撲の土俵の上にある櫓の下の房のことを書きます。

江戸時代の浮世絵を見ると、相撲興行は戸外で行われ、屋根が付いた土俵で、ちゃんと4本の柱があったことが分かります。

この柱は、観客の見る角度では死角となって見にくいせいか、室内興行になると、いつから始まったのか定かではありませんが、屋根は吊り屋根となり、柱はなくなりました。その代わりに、4本の房がぶら下がっています。

ベテランの中継アナウンサーだと、「赤房下で…」とか、「白房下で…」とか解説してくれます。房に色が付いているわけです。

これは出鱈目に付けたわけではなく、風水、陰陽道、四神相応などから決まりがあります。これらは大陸から伝わりましたが、和風にアレンジされるようにもなりました。

何と言っても、相撲は神事ですからね。

まず、テレビ画面の手前を「正面」と言い、行司さんが立っている向こう側を「向正面」と言います。左が「東」、右が「西」です。東の方が西より上位で、番付によって変わりますが、同じ横綱でも東の方がその場所は格上になるわけです。

で、「房」の話でしたが、正面が「黒房」、向正面が「赤房」、東が「青房」、西が「白房」となります。(正確に書きますと、黒房が北西、赤房が南東、青房が北東、白房が南西)

これは、方位学によるもので、北が黒、南が赤、東が青、西が白だからです。

江戸城趾

これには「四神相応」と言って、その方角に四神が当てはまります。

北が玄武(亀みたいな神様)、南が朱雀、東が青龍、西が白虎です。そうです、奈良県明日香村のキトラ古墳にも描かれていたあの四神です。

相撲の話に戻しますと、正面が北、向正面が南…ということになるのです。そして、それぞれが四季にも相当します。色が四季の色だとも言えます。つまり、青は「あはし」赤は「あかし」、白は「しるし」、黒は「くらし」から来ていたのです。

整理しますと、
【東】左側(北東)=青房(青龍)・春
【南】向正面(南東)=赤房(朱雀)・夏
【西】右側(南西)=白房(白虎)・秋
【北】正面(北西)=黒房(玄武)・冬

奈良の平城京、京の平安京も、江戸城を中心にした江戸市中もこのような風水や陰陽道、四神相応などで街づくりされていたことがよく知られています。

特に、家康、秀忠、家光の三代将軍のブレーンだった南光坊天海大僧正が、江戸の都市設計計画に大きく関わったことは有名です。

しかし、その一方で、これら天海上人がつくったと言われる街づくりは、実はこじ付けで、後世の人による作り話だったという説もあるようです。

小生は、来週、休暇を取って、「江戸の五色不動尊巡り」をする予定ですので、自分なりに調べてみました。

かなり知っていたことでしたが、結構面白かったです。

この話はいつかまた。

本丸の加計学園問題は国民の血税が関わっている

大手門

「総理のご意向」「官邸の最高レベルが言っている」ー。ワオ!まるで、江戸時代か、一党独裁の中国か北朝鮮か、はたまたロシアになったような我国です。

首相が拡張販売員となっていると噂されている讀賣新聞を熟読しても、さっぱり分からなかったのですが、スクープした朝日新聞や、後追いした毎日新聞や東京新聞等を読むと、日本も殿様を頂点にした独裁縦社会に回帰したかのように見えます。

獣医大学の創設をタダで面倒みてもらっている加計学園の話ですが、大学の敷地は愛媛県今治市の市有地で36億7500万円。建設費が96億円。これら全てが助成金と称して、私学だというのに無料で払い下げられ、建物までつくってもらえるのですから、笑いが止まらないことでしょう。

わずか(?)8億円程度で土地を値引きしてもらった森友学園の籠池さんがこの話を聞いて、「ウチとこんなにもレベルが違うのに、何でウチだけ叩かれなきゃあきまへんね」と愚痴ったとしたら、大阪なら有権者の同情票が集まるのではないでしょうか?

どうやら、加計学園の理事長さんは、官邸の最高レベルさんの「刎頸の友」だというのですから、「良きにはかれ」と命令したのかもしれません。

この話は、もう三カ月も前から日刊ゲンダイや週刊誌で報道されていたのに、有耶無耶になっておりました。かつては加計理事長の名前は「首相の一日」に何度も登場して、酒を呑んだり、ゴルフをしたりするお仲間だということは世間に知れ渡っていました。

週刊誌等で報道され、殿様もさすがにヤバイと思ったのか分かりませんが、加計理事長さんのお名前は、その後一度も登場しなくなったのです。逆に怪しい。

官邸は「火消し」に必死で、「どこの文書とも分からぬもの。怪文書にとやかくコメントする筋合いはない」と開き直っておりますが、文書は文部科学省が作成したホンマもん。

文科省の誰かが、「文春砲」より影響力の強い朝日新聞に垂れ込んだのでしょうが、文科省もあれだけ「天下り問題」で朝日新聞から叩かれたというのに、見上げたもんですよ。

しかし何と言っても、助成金とは、国民の税金なんですからね。不正に対して国民が黙っている筋合いはないのです。

いくら無産階級でも、殿様から「貧乏人は麦を喰え」などと言われればさすがに怒りますよ。

マリー・アントワネットが「パンがなければ、お菓子を食べればいいじゃん」と言ったおかげでフランス革命が起きたという逸話を信じたくなりますよ(笑)。

100歳の精神科医が見つけた心の匙加減とは?

寿能城跡

最近は、電車の中でスマホばかりやっているため、読書の時間が疎かになってしまっておりまする(笑)。

書く方と読む方をどちらを優先するかー。どうも、最近は書き残しておきたい事項の方が多く、読むことよりも優先してしまいます。

それでも、最近読了したのが、 高橋幸枝著「100歳の精神科医が見つけた こころの匙加減」(飛鳥新社)です。タイトルの通り、百歳の現役精神科医が書いた本です。

100歳超の大先輩に聖路加病院の日野原さんという大御所がおられますから、あまり目立ちませんが、百歳の現役医師なんて本当に凄いことです。

寿能城主潮田忠之の墓

簡単に著者の略歴に触れますと、1916年11月2日新潟県生まれ。県立高田高等女学校を卒業後、海軍省でタイピストとして勤務。退職して中国に渡り、北京で日本人牧師の秘書。この牧師の勧めで27歳で医師を目指し、帰国。福島県立女子医学専門学校に合格して念願の医師になった人です。1966年に神奈川県秦野市に秦野病院を開設して、院長に就任して今も現役の精神科医として頑張っています。

この本は、著作としては何冊目なのか分かりませんが、自分の経歴や普段のお仕事で患者さんらと接触した感想や、自分自身の老いの問題などを随筆としてまとめたものです。

例えば、こんな調子です。

大宮公園

●人間とは暇があるからさまざまなことを考えてしまうのです。
「悩みがある」ということは、言い換えると「悩むほどの時間に恵まれている」という状態に他なりません。

●他人を気にし過ぎると結局損をします。

●80代でも新しい趣味は始められますよ。

●幸せに生きるためには、周りと仲良くすること。

●「誰かに喜んでもらえた」と感じたとき、人は充実感を感じるようにできています。

●見返りは期待せずに、誰かの幸せをひたすら乞い願う。ちょっと大袈裟に思われるかもしれませんが、そんな姿勢で過ごせることこそ、人として本当に幸せなことです。(著者の実弟高橋由喜雄氏は農水省の官僚を途中でやめて、秦野病院の事務長になった人。目の不調で65歳で事務長を辞め、回復してから市営駐輪場の自転車整理の仕事を続けました)

氷川神社

普通のOL(?)だった高橋さんが、医者を目指すことになったのは、中国で出会った日本人の牧師の勧めによるものだった、ということを経歴で触れました。

本文でも、その日本人の牧師は清水安三先生という名前だけ書いていますが、この人がどういう人なのか一行も書いていません。知らない人は知らないでしょう。高橋さんの人生で最も影響を与えた人のはずなのに、一言だけでも付け加えたらよかったのに、と少し残念に思いました。

私は、山崎朋子著「朝陽門外の虹」(岩波書店、2003年初版)を読んでいたので、清水安三のことを知っていました。この方は、北京のスラム街で、娼婦にならざるを得なかった貧しい少女らのために手に職が付くように女学校をつくった人でした。日本の敗戦で無一文になって帰国しながら、再起を図って、桜美林学園を創設した人です。

あれっ? よく読むと、最後の著者の略歴の中に、「1953年に東京都町田市の桜美林学園内に診療所を開設」とだけ書いてありましたね。これは恐らく、いや、必ず、清水安三先生からの依頼だったはずです。

藤田伝三郎を知っとるどすかえ?


藤田美術館

京洛先生です。

渓流斎さんとやら、駄目ですねえ。関東のローカル、しかも池袋みたいな場末の盛場の話ばかり書いていては駄目ですよ(笑)。

渓流斎ブログは、関西でも、京都三条商店会の「力」の女将さんをはじめ、多くの方に読まれているのですからね(笑)。

昨日取り上げて下さった藤田美術館及び藤田財閥の創業者藤田伝三郎の由来は、もうお分かりだと思います。藤田は長州出身で大阪で活躍した実業家です。甥の久原房之助は、日立、日産等の創業者の一人で久原財閥の総帥。久原の自宅は今、東京・白金の八芳園になっています。

 藤田伝三郎の大阪市都島区の豪邸は戦災で焼け、戦後、美術館や結婚式場の「太閤園」などが出来ました。美術館は老朽化したので、今回、建て替え修復するため、当分休館になったのです。
 そこで6月11日まで、所蔵品の”虫干し”も、兼ねた「ザ・コレクション」展をやっています。
 国宝9件、重文52件を所蔵する同美術館ですが、小生が見てきたのは「曜変天目茶碗(南宋時代)」「仏功徳蒔絵経箱(平安時代)」「紫式部日記絵詞(鎌倉時代) 」「玄獎三蔵絵巻第五(鎌倉時代)」「柴門新月図(室町時代)」「大般若経(奈良時代)」「深窓秘抄(平安時代)」などで、所蔵のほとんどの国宝が惜しげもなく並んでおりました。

 東京都内の美術館のように大勢の人でごった返していないので、ゆっくり、じっくり、これら国宝が眺められるのは何とも贅沢な機会でした。
 これで入場料が800円。しかも、道を隔てた宴会場「太閤園」のカレーライス、喫茶の出来る割引券まで付いているのですから有難いですね。

 あの東京・南青山の「根津美術館」内にあるチマチマした喫茶コーナーの混み具合とは雲泥の差です(笑)。

 緑が眼に染みる「太閤園」の景観は撮りませんでしたが、恐らく、渓流斎さんなら 「凄いですね!椿山荘みたいですね。こんな大きな庭を眺めていると気持ちが安らぎます」と感嘆されることでしょう。

 御存知、元勲山県有朋の大豪邸だった東京・目白の「椿山荘」も、今は藤田と縁のある「藤田観光」が経営していますから、同じような雰囲気、景観だと思われたら良いでしょう。

 藤田は長州の酒屋出身ながら、高杉晋作の奇兵隊にも参加しています。維新後、西南戦争で被服、食糧、軍靴、人夫斡旋などで巨万の富を築き、井上馨と手を組んだ贋札事件はじめ、様々な政治・経済の裏工作に関わり、莫大な資産を手に入れた人物です。明治時代、いかに大阪が「商都」として日本の経済を動かしていたかの例証です。

つまり、藤田はこれだけの国宝を収集できるほどの財力を蓄えたということです。

 今の「維新」とか言っても、”チンピラ弁護士”風情に振り回されていただけだったとは実に情けない。昨今、大阪がいかに地盤沈下して、善悪ともにスケールが小さくなったかがよく分かります。

 タレント弁護士さんは、文楽や曜変天目など伝統藝術には全く無関心で、見世物小屋の延長の「万博」程度しか興味がないのですから酷いものです。それをまた支持投票している有権者のおつむの中身も似たようなものでお粗末です。

【追記】

松本清張は、この藤田伝三郎贋札事件を題材にして、1995年に小説「相模国愛甲郡中津村」を発表し、真犯人は大隈重信説を唱えております。

明治十四年の政変で下野し、改進党をつくるために岩崎三菱から資金を得ていた大隈重信が、当時、三菱を脅かすほど台頭してきた藤田組を追い落とすための戦略だったとか。

もっとも、この説も、偽の手紙が根拠になったので、清張自身も眉唾ものとボカしてました。

ライスカレー1700円、一本勝負

東京・池袋の「服部珈琲舎」

江戸城に参内した後、母の日という商業主義者の戦略に引っかかって、カーネーションを届けに実家の母に届けに行きました。

途中で、西武池袋線に乗り換えるので、池袋駅で降りなければなりません。

池袋駅は乗り換えで通ったり、通過したことはありますが、駅の外に出るのは本当に久し振りでした。

10年ぶりぐらいでしょうか。

実は、池袋は、東京の中でも最も嫌いな街の一つなんです。 何故なら、駅構内はあらゆる方向からカオス状態で人混みが押し寄せてくるからです。

不愉快な街なのでできれば避けたい。しかし、何十年も西武池袋線沿線に住んでいたため、都心に出るときは池袋はどうしても通らなければならない。それが嫌で、長じてからは、池袋とは関係のない所を求めてわざわざ住んだぐらいでした。

そして、10年ぶりぐらいに降り立った池袋東口(西武百貨店側)。あまりにもの変わりように呆然としてしまいました。

毎週のように通っていた新栄堂書店が閉店し、その近くのキンカ堂という安価な洋服店とその地下にあったキンカ堂食堂も消えて無くなっていたのです。

唖然、呆然。浦島太郎さんか、リップ・ヴァン・ウィンクルの心境です。

街はすっかり綺麗になって、面影の片鱗もありません。池袋駅東口は昔、今パルコがある所は丸物(まるぶつ)というデパートでした。西口は焼跡闇市がかすかに残るバラック建ての商店も残り、街のあちこちでは、白い薄汚れた傷痍軍人服を着た片腕がなかったり、片脚がなかったりする元帝国兵隊さんたちが、アコーディオンを弾いて物乞いをしていました。東京オリンピックの前の昭和30年代でしたが…。今の若い人は知らないでしょうね。おっ!ついに私も歴史の証人になってしまったか!

さて、昼の1時を過ぎてお腹も減ってきたので、何処かないだろうかと彷徨いたところ、「ライスカレー」の看板が出ていた喫茶店にすかさず入ることにしました。

最近「カレーライス」店は多いのに、「ライスカレー」店が少なくなった、とあの著名なウマズイめんいく村の赤羽彦作村長さんがブログに書いていたので、「ライスカレー」の看板ですぐ反応してしまったのかもしれません(笑)。

そして、席に着いて、メニューを見たら吃驚仰天。珈琲が700円。ライスカレーセットが1700円もするのです。ま、席に着いてしまったので逃げるわけにもいかず、相手に焦った顔を見せることなく冷静に努め、写真にあるライスカレーを注文しました。味?それは、コメントを控えさせて頂きます。

ちょうど同じ時間。京都の京洛先生は、京阪電車に乗って大阪市都島区の藤田美術館にまで出掛け、日本に三つしかない曜変天目の一つを御覧になり、美術館のお隣の太閤園で、優雅にカリーライスを召し上がっておられました。

1700円だったそうですが、間近に綺麗な日本庭園と池袋ではなく池を御覧になられて充実した時間をお過ごしになったようです。

一方の私は、池袋の人混みを見ながら、「いかがなものか」と呟きながらのライスカレー。

どちらに軍配が上がったのか、言うまでもありませんねえ(笑)。

お濠

江戸城参内仕り候

江戸城址

昨日は大雨がどしゃばしゃ降る中、特別講師の引率の下で、江戸城を視察旅行してきました。

長らく、人間生活を営んできておりますが、恥ずかしながら、江戸城に参内するのは今回が生まれて初めてでした。いつでも行けると思っていたら、いつの間にか百歳の老人になっていました(笑)。

いやあ、本当に色々と勉強になりました。参加費3500円也を収めたことですので、備忘録として、その勉強になったことを列挙してみたいと存じます。普通の概説書には書かれていないことから、異説、意外説までありました。

ご興味ある方だけ、この後の関所をお通りください。

大手門

まず基本から。

江戸城を最初に建てたのは、戦国武将太田道灌だと知られています。長禄元年(1457年)のことです。

私が自宅の広大な書斎に常備している山川出版社の「日本史辞典」には、それ以前は、「平安時代に江戸重継が居館を構え、15世紀まで江戸氏が本拠としたと推定される」と書かれています。

あれっ?「江戸」とは「入江の戸口」から、つまり地形から取られた地名と物の本に書かれていたのを読んだことがありますが、江戸という豪族の名前から取られたわけですか?

ま、これは置いといて、扇谷(おおぎがやつ)上杉氏の家宰だった太田資長(すけなが=出家して道灌)は、岩附城、河越城も築城するなど武蔵、相模まで支配しますが、暗殺されます(下手人は諸説あり)。

この後、江戸城を支城として手中に収めたのが、小田原の後北条氏、北条氏綱(北条早雲を始祖とする二代目戦国武将ですが、早雲は北条氏を名乗ったことがなく、伊勢新九郎と称し、入道して早雲庵宗瑞)で、大永4年(1524年)のことです。

そして、ご存知のように、後北条氏は、豊臣秀吉による小田原攻めで滅亡し、秀吉の命で江戸城を治めることになったのが徳川家康です。天正18年(1590年)のことです。1600年の関ヶ原の戦いで勝利を収めた家康は、江戸に幕府を開きますから、徳川氏は明治維新(1868年)まで278年間、居城とするわけですね。つまり、江戸城=徳川城=幕府ということになります。

皇居東御苑

肝心の江戸城ですが、現在、天守台だけはありますが、お城(天守)はないのはよくご存知だと思います。1657年の明暦の大火、いわゆる「振袖大火」で天守も焼け落ち。それ以降、明治になってからも再建されていないのです。驚くことに、江戸城に天守があったのは、江戸時代の最初の50年間だけで、残りの200年間以上はなかったのですね!

皆さんお気づきのことかもしれませんが、天守閣のことを何で天守かと言いますと、こちらの方が正確だからです。天守閣と言うようになったのは、明治以降で、江戸時代は天守とだけ言いました。その前に織田信長は安土城を天主と呼んだそうです。

さて、その明暦の大火では、当時も世界一の大都市だった江戸の人口100万人のうち、何と10万人も焼死しました。天守再建の話があった時に、四代家綱の重鎮で会津藩主保科正之(二代家忠四男)の「天守再建より、江戸市中の復興を優先するべき」との進言で取りやめになったそうです。

外国人観光客

その後、天守再建話が出たようですが、実現しなかったのは、泰平の世の中になって、「別になくてもいいじゃん」ということになったんでしょう。現在残る天守台は八代将軍吉宗の頃のもので、しっかりと神田上水から引いてきた金明水井戸まで設置されております。

さて、幻の徳川氏の江戸城は3回築城されています。

(1)慶長12年(1607年)by 徳川家康
(2)元和 8年(1622年)by二代秀忠
(3)寛永14年(1637年)by三代家光

家康は源氏の末裔を自称していたので、源氏の象徴である白色の天守。家忠の天守は、ピンク色(銅板の色が輝いていた)、家光の天守は白と黒のツートンカラーだったそうです。

これらは、徳川家が出費したのではなく、浅野家や黒田家などに財政、荷役負担させて、大名の財力を落とすために散財させたのでした。

天守だけでなく、石垣もそうです。遠く瀬戸内の小豆島や伊豆半島から切り出された石が多く使われたそうです。これらも、大名の仕事で、石に大名家の刻印もあります。

石垣

江戸時代は、大きなもので7回の地震で、幕末の戦禍を入れると計8回も大火に見舞われました。

その度に石垣も崩れますが、不思議なことに古い石垣ほど崩壊することが少なかったそうです。それだけ、昔の人の方が技術があったということで、隙間があって雑なように見えても、うまく、揺れを吸収する耐震構造になっていたわけです。時代が新しくなればなるほど、整然と綺麗に石垣は積み上げられるようになりましたが、隙間もなく、地震には弱いのではないかと言われています。

松の廊下

現在、江戸城址は皇居東御苑として無料に一般公開されているのに、不勉強な日本人が多いのか、行ってみたら、外国人観光客ばかり、目立ちました。外人だけ、と言っても言い過ぎじゃありませんよ。

特別講師のお話で面白かったことを列挙しますとー。

●明暦の大火で亡くなった10万人は、回向院に葬られた。回向院は当時、宗派を問わなかったらしい。回向院では賭け相撲興業がおこなわれていたとか。

●「二の丸庭園」は小堀遠州作。今で言うレセプション会場で、能舞台もあったそうです。

●外国人の人気の忍者は、明治以降になって言われたもので、本来は「忍び」。ほとんど口伝なので、文献が残っていない。有名な伊賀、甲賀の甲賀は、「こうが」と濁らず、「こうか」が本来の読み。

天守台

●大手門をほどなく行ったところにある百番所。ここには、伊賀、甲賀、雑賀衆などの忍びと、同心100人、侍25人が24時間態勢で詰めていた。が、侍の7~8割が当時、人宿と呼ばれていた口入れ宿から斡旋されてきた派遣社員だったらしい。社員というより浪人か。

●このように、江戸市中は物価が高かったので、地方から参勤交代で江戸に入った大名は、西からなら品川辺りの人宿で人を雇って、行列に加わってもらったとか。江戸は時代の先をいく派遣社会だった。

●桜田門外の変で難に遭った井伊直弼の護衛の70人のうち40人が派遣社員だったとか。もっとも、主君を護衛できなかった彦根藩士は切腹となった。

●江戸城の大棟梁に任じられていたのが、甲良氏。この一家だけが、日本橋の住居に地下室をつくることが許可され、その地下室に江戸城の図面などを保管していたとか。

●幕府お抱えの絵師狩野派は、屏風絵だけでなく、地震災害の度に崩壊した江戸城内の襖絵を描くことが仕事の第一だった。

●城内「西の丸」は家康隠居の場所としてつくられた。

●城内「紅葉山」にだけが唯一、東照宮が祀られ、聖地だった。そのことを知っていた官軍は、一番最初にここを破壊した。

●江戸城は、外堀の奥までの規模を持ち、北は神田上水の流れるお茶の水、東南は海の城と呼ばれた浜御殿(浜離宮)、南は芝口見附門、西は四谷門までが外郭という日本一の広さ。

●日比谷、銀座、八重洲などは、江戸時代に神田の山を削ったり、内堀、外堀の掘削などから出た土砂や土を使った埋め立て地だった。だから、三の丸辺りまでが武蔵野台地の縁、もしくは、際(きわ)だったため、名残として断崖になっている。

いやはや、なんと言っても、江戸城は奥が深い。

サイバーテロリストには極刑を

氷川神社

安倍首相は、憲法改正に前のめりですが、石破さんや井上さんなどからは「いかがなものか」との異議申し立てがあるようです。

どうせ3分の2の発議権を利用して、首相としてではなく、総裁として提案されるのでしたら、庶民も困っているサイバー攻撃に重罪を科すことを提案します。庶民だけでなく、省庁のホームページが荒らされている国家も困っていますから。

つまり、憲法第9条第3項に「サイバーテロリストとオレオレ詐欺師は、最高極刑とする」という条文を入れてもらいたいのです。

そしたら、迷惑メールも相当減るのではないかしら?

共謀罪で監視体制を網の目のように設置しているのですから、それぐらい簡単にできるでしょう。なにせ、東京オリンピックを控えてますから。

頑張れ、頑張れ、安倍首相!

森友学園園児一同より

脅迫メールを公開します!

本文と写真は関係ありません

最近、迷惑メールが異様に多くなりました。1日100本以上も来るので唖然としてます。

しかし、今日来たメールはあまりにも悪質なので、全世界に公開することにしました。

私は、なーにも情報サイトに登録していないので、すぐに単なる脅迫、詐欺だと分かりました。

身に覚えがある皆様も、ない皆様も、こんなもんが来たら、無視しましょう!

所詮、犯人は、羞恥心も罪悪感も自尊心も法律知識もない無知で軽薄で卑劣な物体です。

以下、アドレスinfo@enIjJgFPI8qohJO.gen7u8jazwgE.link
から来た脅迫メールです。

【解約処理並びに滞納発生通知書(最終通告)】

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解約処理についての大切なお知らせ

現在お客様においては、提携情報サイト(S;N,S・ニュースサイト・有料アプリ・懸賞サイト・占い番組・アダルトコンテンツ等含む)に登録をされ、2週間の無料期間中に解約処理を行わなかったために、サイト継続の利用意思があるとみなされ、月額の情報サイトの利用料金、並びにサポート費用等が発生し、それが未払いの状態になっており滞納金として【978,650円】をお支払頂かなければいけない状態になっております。

お客様においては、サイトは利用してない、間違って登録をしてしまった等の理由があると思われます。
ですが、実際に何度も運営元がお客様に対して再三に渡り連絡をしたのにも関わらず、そのまま放置され、現在運営元が原告となり民事訴訟並びに刑事告訴を行いました。

今回運営元から弊社に依頼をし、お客様に対して解約処理を行った場合は、現在発生してる滞納金を全額免除にし、訴訟等を取り下げると言うことで依頼を承っております。

本来でしたらお客様ご自身で退会処理手続きを行うことが可能なのですが、滞納金が発生しておりますので、現時点においては、解約処理を行うことができない状態になっております。

つきましては、解約処理を希望する場合は、弊社が代行依頼をお客様から受けまして、解約処理手続きを行いますが、先日解約申請をされたのにも関わらず、その後連絡がない状態で、登録情報の照合ができてない状態です。

もし、現在発生してる滞納金【978,650円】を全額免除にし、個人情報の削除等を希望される場合は、速やかに【解約申請再開】と本通知に記載して頂きましてご連絡下さい。

※重要※
尚、弊社に【解約申請再開】の申請をされましたら、折り返し弊社から連絡をし、手続きを行います。
もし、そのまま放置された場合は、解約申請が破棄となりまして、解約処理手続きを行うことができませんのでご了承下さい。

万が一放置されましたら、民事訴訟並びに刑事告訴を運営元が行いますので必ずご連絡頂けますようお願いします。

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