嵐山光三郎「妻との修復」

公開日時: 2008年3月31日

旧友の戸沢君は、奥さんと娘さん二人の四人家族なのですが、絵に描いたような不幸な家族です。もう何年も前から「家庭内別居」で、お互いの親戚の冠婚葬祭にも出席しない。高校生の娘さん二人はぐれて、出奔し、もはや崩壊状態。それでも、離婚しないんですから不思議です。

 

そんな彼と飲むといつも彼の家庭と仕事の愚痴を聞いてあげるのが私の役目になってしまいました。彼は、最近、「やっと、俺の真情を言葉にしてくれた人が出てきたよ。お前も読め」と奨められたのが、嵐山光三郎著「妻との修復」(講談社現代新書)です。どうやら、彼が私淑する作家のAさんから、急に講談社のPR誌「本」が送られてきて、そこには何の手紙も添えられず、黙って、嵐山氏の書いた「妻との修復」のエッセイに栞が挟まっていたらしいのです。

 

何気なく読むとそれがずば抜けて面白い。で、つい、本を買ってしまったというのです。

 

「妻との修復」には、古今東西の男と女が夫婦になったり、修羅場を迎えたり、別れたりして、どうやって先達がこれらの難局を切り抜けたか、「処方箋」が書かれているというのです。

「どれほどかわいらしい娘でも、結婚して7年経つとおばさんになる。14年経つと妖怪となり、21年経つと鬼婆になり、28年で超獣となって、それ以上経つと手の付けられない神様となり、これを俗にカミさんという。

結婚前はいじらしく、弱々しく、虫も殺さないようなお嬢様が、7年周期で化けていく。

死んでから財産や貯金を残さないおやじは貧乏神とバカにされて、線香の1本もあげて貰えず、墓参りにもされずに、やがて無縁仏になる」

 

「このフレーズは100%正しい。人生の真理だよ。おまえには分かるかなあ」と戸沢君。

「『戦争と平和』などを書いたトルストイはロシアの伯爵家に生まれた。私有財産の否定の考えに基づいて、土地や貯金の全財産を妻に譲り、著作権を放棄しようと考えたが妻に反対された。

妻との不和に苦しんだトルストイは、80歳を過ぎてから家出をして、田舎の寂しい駅で死んだ。

トルストイの死を知らされた妻ソーフィアは『48年間連れ添いましたが、夫がどういう人間だったのかは分からず仕舞いでした』と言った。

これはほとんどの妻が同じことを考えているはずで、どれほど長く暮らしていても、妻は夫を理解しない。妻は自分のことだけ考え、自分を補助するために夫を飼育する。妻の幸福に禍いをなす夫は排斥される」

「な、な、な、これ、俺のこと書いているんだよ。『所詮夫婦は赤の他人同士。薄皮一枚でつながっているだけ』というのも真理だなあ。嵐山光三郎なんて、あまり読んだことなかったけど、これは絶対名著だよ。彼はすごい。素晴らしい」とべた褒めの戸沢君。

このブログは、かなり多くの女性の方が読まれていると思いますので、お断りしておきますが、これは、あくまでも戸沢君の意見ですからね。

でも、私も興味をそそられましたので、読んでみようかなあと思っています(笑)。

森の哲人さんが傘寿に

北海道紋別郡滝上町に住む「おじじ」こと徳村彰さんが、3月26日に傘寿、つまり80歳の誕生日を迎えました。今時珍しいガリ版活版刷の「森の子どもの村つうしん」を送ってもらっていますが、そこに書いてました。

おじじのことは、以前、「森の哲人」のタイトルでこのブログでも何回か書いたことがあります。40歳の頃に、病気になり、当時、名医といわれた人から「あと2年の命」と宣告され、子供たち向けの「ひまわり文庫」を(確か)横浜の日吉に創設し、25年ほど前に北海道に移住して「森の子ども村」を創った人です。

 

主に不登校などの問題を抱える子供や、都会の生活になじめない子供たちの受け皿となったり、夏休みのシーズンだけ預かって、キャンプ生活や集団生活を体験させる場を提供してきました。

その間、1985年夏に、移動中に子供二人を交通事故で亡くす災難に遭ったり、一昨年には火事で山小屋を焼失して、「形あるもの全部を失ったり」と散々でしたが、その都度、森を通しての「愛の関係」で乗り越えてきたといいます。

一昨年の9月から4ヵ月半、原因不明の長い下痢に悩まされて、一時は骨と皮の状態で体重も40キロにまで落ちたそうですが、森の中では、寝込もうという気が全く起きず、毎日、雪かきや薪割り、厳寒の沢の水浴びを続けているうちに昨年の2月12日に奇跡的に治ってしまった、と「つうしん」に書いてありました。

私は、おじじとは一度お会いしたことがあります。滝上町は、真冬は零下30度くらいになり、雪も2m近く降ります。まず、普通の人はとても生きていけません。おじじも、当初、郵便配達の人から「これ以上奥地に人は住めないだろうと思ったのに、住もうとするので驚いた」と聞かされたそうです。

 

毎日、雪かきしないと、生きていけません。そのため、肉体労働は必須です。

おじじは、東大卒のインテリらしいのですが、そんなことは全く鼻にかけず、「美学入門」(朝日選書)などの著作もある義父の中井正一の哲学を実践しながら、毎日、森の中に暮らして、環境問題や政治、経済、国際問題について、考えをめぐらしています。

 

自然の大切さを伝えたいがために、無料で「森を語る集い」も開いています。

遅ればせながら、おじじさん、傘寿の誕生日、おめでとうございます。

「青春の門」はいまいちでした

 池袋の「あうるすぽっと」で、北九州芸術劇場プロデュース「青春の門 放浪篇」を見てきました。

原作・五木寛之、脚本・演出は、演劇企画集団THEガジラの鐘下辰男ですから大いに期待して見たのですが、がっかり。面白くなかったです。

 

やたら、殴る暴力シーンが多く、女も男もやたらと喚くシーンが多く、ドタバタでとても安心して感情移入することができませんでした。途中で帰ろうかと思ったくらいです。

地方の文化を東京に逆発信する異例とも言える野心的試みでしたが、これでは観客はついていけないでしょう。

残念でした。

会場で、10年ぶりぐらいに大池君と会い、帰りに一緒に飲みました。同い年なので、お互いに老けたと思ったのですが、彼はちょっと太ったなあという感じで、私より10歳も若く見えました。私はあれから極北の地に流刑されるなど、仕事の面では大変苦労をさせられたので、彼より10歳以上老け込んでしまいました。

彼は今、広告の関係をしていて、スポンサーに会って、色んな内幕話が聞けるので楽しいと話していました。最近、上野駅近くにマンションを買ったらしく、羨ましくなってしまいました。

「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」は85点

若松孝二監督の話題作「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」を見てきました。東京ではテアトル新宿でしか上映しておりません。普段、2000円なのですが、水曜日だけ、1000円で見ることができました。そのせいか、立ち見が出るほどの満員御礼でした。

 

これから見に行かれる方は、水曜日に上映時間の30分前に行かれるといいと思います。上映時間は三時間を超えるので、覚悟して見てください。それほど長さは感じませんでしたが、途中でトイレに行きたくなってしまいました…。

 

 

 

すごい映画でした。どうせ俳優陣は、20代か30代なので、あさま山荘事件の起きた1972年2月28日は、彼らは生まれていないので、実際、どういう事件だったのかについては彼らには皮膚感覚がないので、演技に関しては全く期待していなかったのですが、素晴らしかったです。本当に彼らは役者でした。何人も何人も出てくる俳優の中で、私自身、知っているのは、遠山美枝子を演じた坂井真紀だけでしたが、皆さん、その役にピッタリはまっていました。名前は知りませんが、驚くほどのイケメン俳優がたくさん出演するので、女性には必見かもしれませんね。

 

実録と銘打っているだけに、「史実」を忠実に辿っています。

 

森恒夫、永田洋子、坂東國男、重信房子、田宮高麿、坂口弘、吉野雅邦…当時の事件を同時代として生きてきた人にとっては、忘れられない連合赤軍のメンバーです。しかし、初めて、彼らの名前を聞いた今の若い人にとっては人物関係が複雑すぎて分かりにくいかもしれませんね。

映画では、なぜ、連合赤軍なるものが誕生したのか、1960年安保闘争あたりから、当時のフィルムを多用して歴史を追っているので、分かりやすいです。ヘルメットに角帽、機動隊との小競り合い、お茶の水の石畳の石をはがして投石する学生たち、安田講堂での攻防…懐かしいシーンが沢山出てきますが、今となっては全く異次元か異星人の世界です。あれから36年。学生運動の痕跡すら残っていないからです。

圧巻は、森恒夫、永田洋子が中心になって自分たちの仲間である同志たちを次々と「総括」の名前の下で、粛清していく狂気の沙汰を生々しく描いているシーンです。「真の国際連携における、プロレタリアート解放と平等を追及し…」などと左翼の教条主義的言辞だけが空回りして、集団暴行(リンチ)で仲間を殺害していくのですが、所詮、その背景には、若い男と女の感情的嫉妬心があり、全く権力を握った自分たちだけが絶対に正しいというおめでたいほどの独善主義に凝り固まって、見ていて、背筋が寒くなる思いでした。

それでいて、今の私の年齢からみると、彼らは本当に幼く、額に汗水たらして働いたことがない苦労を知らない、付け焼刃の知識だけを頭に詰め込んだお坊ちゃん、お嬢ちゃんたちで、自分たちが信じた正義だけがすべてだと思っているだけに、とても手に負えないなあ、と思ってしまいました。

彼らのほとんどは団塊の世代で、今ではもう50代後半から60代ですが、過激派としてさまざまな事件を海外でも起こし、今でも、「革命」を捨てることなく、闘志として潜伏している者も多いので、生半可な気持ちで活動していたわけではないことは分かっていますが、この映画を見た限りでは、社会を転覆してその後にどういう組織や国家を作っていこうかというビジョンが森や永田にしても持ち合わせていないように見えました。

どこかの評論家が、当時の学生運動家とオウム信者たちは、高学歴で、真摯に現実の社会矛盾を改革しようとした若者たちだったという点で共通項がある、と指摘していましたが、そう感じないではなかったですね。登場人物が初めて画面に出てくる時、肩書きと名前と一緒に、京都大学だの、横浜国立大学だの出身大学まで字幕で出てきます。若松監督の意図が分かるような気がしました。

大団円は、あさま山荘に立てこもった赤軍派と機動隊との銃撃戦です。私も当時は、テレビの前に釘付けになりました。山荘内では、革命を叫んでいた仲間同士で、たった一枚のビスケットを食べたことを巡って、「規律違反は革命主義に違反する。お前はスターリニストだ。自己批判しろ」と大喧嘩が始まりますが、本来ならあまりにもバカバカしいので笑えてくるはずなのに、本当に物悲しくなってしまいました。

ついでながら、山荘に立てこもって、最後には拘束された赤軍派の5人の中には未成年の少年がいましたが、彼は私と同世代でしたので、非常に衝撃を覚えたことを思い出しました。

この映画は若松監督が自費を投入したライフワークに近い作品なので、多くの人に見てほしいなあと思いました。総合85点。

落ち込みます 土浦無差別殺傷事件

 

春爛漫。 桜の咲くいい季節となりました。でも、私の場合、花粉症がひどく、頭がボーとして気分がすぐれません。

 

茨城県土浦市では、23日に無差別殺傷事件が殺傷しましたね。JR常磐線の荒川沖駅構内で、8人もの警察官が張り込んでいながら、次々と8人も殺傷したのです。

 

金川真大(かながわ・まさひろ)容疑者(24)はその後の調べで、「1月ぐらいから、誰でもいいから人を殺したいと思っていた」と自供したそうです。サバイバルナイフをネットで購入した。本当は家族や小学校を急襲するつもりだったという報道もありました。まさに、狂人の発言をしています。通り魔ですから身を守る術もありません。

 

こういう事件が起きると全国で連鎖反応のように、刺傷事件が起きます。実際発生しました。本当に嫌になります。気分が落ち込みます。

「占領期の朝日新聞と戦争責任」を読んで

公開日時: 2008年3月25日 

今西光男著「占領期の朝日新聞と戦争責任」(朝日新聞社)を読了しました。同氏の「新聞 資本と経営の昭和史」の続編で、非常に微に入り細に入り、徹底的に資料に当たって調べ尽くされ、読むのに一週間もかかってしまいました。

朝日新聞という日本を代表する一新聞社の社史に近い話ではありますが、日本の歴史の中で空前、絶後がどうかは知りませんが激動の戦中、戦後の占領混乱期にスポットを当てられたノンフィクションで、そのあたりの歴史に興味がある人なら、面白くてたまらないでしょう。

「占領期の朝日新聞と戦争責任」では、GHQの政略で、はじめは軍国主義者、超国家主義者の戦争責任を追及するために、徳田球一を釈放するなど共産主義者を擁護して大きく左旋回したのに、労働運動が激しくなり、朝鮮戦争が勃発したりすると、大きく右に面舵をいっぱいに振り戻して、今度は左翼主義者のレッドパージを断行します。

大きく振り子が左から右に揺れる度に、時の権力者や財界人の顔ぶれが変わっていく様は、その時代に生きた人間にとって、価値観もイデオロギーも何もあったものではなく、とにかく、長いものには巻かれろ、泣く子とGHQには逆らえぬ、面従腹背の精神で生きてきたのかもしれませんね。

この本で、戦後インフレで、庶民が飢餓にあえいでいた頃、金持ちを狙い撃ちにした「財産税」もしくは「富裕税」の話が出てきます。1946年11月12日公布。1500万円以上の資産を持つ大地主、財閥、華族、天皇・皇族らに何と最高90%の税率が課せられたのです。

最大の納税者は天皇で、このおかげで、箱根離宮が神奈川県に、浜離宮が東京都へ、武庫離宮が神戸市に下賜されたほか、総額37億2000万円のうち、33億円が財産税として納入され、4億4900万円と算定された美術品も物納されたというのです。さらに、皇居、赤坂離宮、葉山などの御用邸、京都御所、桂離宮、陵墓関係なども皇室用財産として国有財産になり、天皇の手元には1500万円が残されただけだったというのです。

1947年10月14日には、秩父宮、高松宮、三笠宮の三宮家を除いた11宮家51人「皇室離脱」になります。この際に元皇室の旧邸は、プリンスホテルに買収されるのですね。このあたりの経緯については、猪瀬直樹著「ミカドの肖像」(小学館)に詳しいです。

個人的に面白かったのは、若い頃、折りに触れて名前を聞き及んでいた人が意外にも朝日新聞出身者だったということです。例えば、日本水泳連盟会長だった田畑政治氏は朝日新聞社取締役東京代表まで務めてした人だったのですね。浜松出身で、浜名湖で競泳選手としてならしたそうです。旧制一高時代からコーチとして活躍し、朝日に入社しても郷里の浜名湖に帰って後進を指導していたそうです。「フジヤマのトビウオ」と言われた後輩の古橋広之進らも弟子の一人です。

テレビ朝日社長だった三浦甲子二(きねじ)氏は、戦後の労働組合運動華やかりし頃、先頭に立って要求を貫徹した闘志だったとは知りませんでした。発送部員だったのが、その後、異例の抜擢で、編集局に異動し、政治部次長の肩書きで同部実権を握った、と今西氏は皮肉を込めて書いております。

三浦氏は、テレビ電波の許認可権をめぐって政界に隠然たる影響力を持ってテレビ朝日社長にまで登りつめるのですが、その「出自」が分かって、なるほどなあ、と思ってしまいました。

この本には、色んな人の話が出てくるので、一言では書けません。今西氏は、公正中立をモットーに筆を進めていますが、やはり、どうしてもどこかで中立の立場からはずれて、自身の見解を披瀝せざるをえない場面が出てきます。その辺りを見抜くのは難しいのですが、私の場合、その微妙な兼ね合いを見つけるのが楽しくて、大変興味深く読むことができました。

書くよりも語った方が偉い?

外山滋比古さんの話の続き

外山さんはこんなことも言ってます。

「自分が思ったことを書いた文章でも、思ったままを書くことはできない。思ったことの70%ぐらい書ければいい。本当はしゃべる方が自分の考えに近いのではないか。昔はものを書くことが一番、頭が活動するかと思ったけど、そんなことはない。しゃべった方が遥かに頭の回転は速くなります」

これと同じようなようなことを80年以上昔に言った人がいます。彼はこう言います。

「人を説得しうるのは、書かれた言葉によるよりも、話された言葉によるものであり、この世の偉大な運動はいずれも、偉大な文筆家にではなく、偉大な演説家にその進展のおかげをこうむっている、ということを私は知っている」

これを書いた人は誰?

アドルフ・ヒットラーでした。

本は読むな?

 

衝撃的なインタビューの記事(毎日新聞3月21日付夕刊)を読みました。ここ数年で一番、印象に残った記事ではないかと思います。

84歳の評論家、外山滋比古(お茶の水女子大名誉教授)さんです。「75歳ぐらいから知的活力が湧いてきた。これは大変な発見でした」といから驚きです。

私は、読んでいなかったのですが、1983年に発表した「思考の整理学」(筑摩書房)がロングセラーを続けているという話です。86年に文庫化され、この一年だけで27万部も増刷され、44万部も売れているそうです。

執筆のきっかけは、優秀な学生ほど卒論の内容が面白くなく、不勉強の学生の方が発想が奇抜で興味深い卒論を書いてきたからだそうです。これがきっかけに、

知識と思考力は比例しない。極論すると、知識が増えると思考力が下がり、知識が少ないと思考力が活発になるのではないかーという仮説ができたというのです。

彼の発言を少し換骨奪胎して引用します。

「あまり本を読んじゃいけないと考えたんです。本を読みすぎると、どうしてもその知識を借りたくなる。知識がなく、頭が空っぽであれば、自分で考えざるをえなくなる。そのために、新しいことを本で知らないこと。どうせ読むなら賞味期限20年も過ぎた古い本か古典を読むことです」

「思考力を養うには、あまり役に立たない、むしろ有害な知識を忘れること。一番良いのは、体を動かして汗を流すこと。体操、散歩、風呂がいい。酒を飲んで忘れるのもいいが、急激すぎる。じわじわ忘れていくのがいい」

「人間を育てるということは、いい教育、いい環境を与えることではない。むしろ、劣悪な環境を乗り越える力を持たせることによって、能力は高まる。テストの点数を取るのは苦手でも、逆風に耐える力で、人間力は決まる」

ね、すごい意見でしょ?もう、仮説も、意見も超えて、定説に近いかもしれません。

私もそれこそ、本ばかり読んできた人間なので、深く考えさせられ、その逆転の発想で、目から鱗の落ちるような衝撃を受けたのです。あまり、本を読んでこなかった人には、全く、何の衝撃も受けることはないでしょうね(笑)。

75歳を過ぎて、知的な活力が湧いてきたというのは、「信長の棺」で75歳でデビューした作家の加藤廣さんの例でも明らかですが、加藤さんの読書量はそれこそ膨大です。

ただ目先のことに拘らず、「古典を読め」と私は解釈したのですが…。

「ノーカントリー」を見て縮みあがりました

 

月刊誌の敏腕編集者の方から「是非見た方がいいですよ」と奨められて、映画「ノーカントリー」No country for old man を見てきました。

 

コーエン兄弟監督作品。アカデミー賞主要4部門(作品、監督、助演男優、脚色賞)受賞。

うーん、見終わって、グエーという感じでした。何か、二階にまで上げられて降りる階段を外された感じでした。最後は全く唐突に意味もなく終わってしまい、「どう解釈したらいいの?」と戸惑ってしまいました。まさしく、不可解の連続でした。

 

ただ、私にとって、今年、ベスト5以内に入る傑作だと思いました。ハリウッド映画もここまできたか、という感じなのです。日本人の大好きな「勧善懲悪」ではないのです。最後まで悪が勝ち、生き残るのです。カタルシスも爽快感も全くありません。

 

細かいストーリーは省きますが、色んな映画批評家が書いていましたが、「おかっぱ頭」(「そうではない、単なる長髪だ」と的確な指摘をする評論家もいました)の殺し屋アントン・シガー(バビエル・バルデム)が気味が悪いほど、存在感があるのです。非常に頭が切れ、それでいて、全く罪悪感がなく、動機付けも、ただ金のためなのか、そのあたりがさっぱり分からず、見る者にシンパシーを全く拒否するのです。殺害の仕方も大胆で、エアガンのようなガスボンベを使って、鍵の付いたドアをぶち破ったり、人間の脳天を撃ちぬいたり、見ているだけで、縮み上がってしまいます。

 

そこまでしなくていいのではないかと思えるほど、殺戮を繰り返します。感情が全く表面に現れないので、空恐ろしくなります。「追われる男」ルウェリン・モス(ジョシュ・ブローリン)も「追う保安官」エド・トム・ベル(トミー・リー・ジョーンズ)も、別の殺し屋カーソン・ウエルズ(ウッディ・ハレルソン)も、強烈なキャラクターなのですが、アントン・シガーの前では全くお手上げです。

 

脚本がよく書けているのです。全くストーリーと関係のない味わい深い台詞が、次々と飛び出してきます。それが、間接的に意味があるので、ストレートに表現しない奥床しさが漂ってくるのです。例えば、トミー・リー・ジョーンズ扮する保安官は本当に渋い。不可解な殺人事件が連続して、自分の父親やお祖父さんや叔父さんや伯母さんの時代はまだましだったとか、そこにいない人たちの話をするのですが、それが非常に深い意味を持ってくるのです。保安官同士で駄弁っている時も、「今の若者たちは髪の毛を緑に染めて、ピアスをし、全く敬語も使わなくなった」と嘆いたりするのですが、全体のストーリーの流れに関係ないのに、深い重みが出てくるのです。非常に手馴れた台詞です。大抵の甘いハリウッド映画は、物語展開主体で「ワオー」とか「グレート」といった相槌表現ばかり目立っていたのですが、コーエン兄弟の台詞回しには驚くほど感銘してしまいました。

 

映画を見ていて、思ったのですが、先の展開が予測がつかなかったので、こちらが殺されるんじゃないかと、気を張って見ていました。不思議ですね。誰も、被害者の目線で見ており、殺人鬼シガーに感情移入しないんですね。誰も「さて、次は誰も殺そうか」と楽しみながら見る人はいないでしょう?

 

もし、恐怖を感じながら見ていたとなれば、まさしく、「性善説」なのです。これだけが救いでした。

浪花節だよ、日本は!(日銀総裁選の裏舞台)

 

一連の次期日銀総裁問題は、戦後初めて、「総裁空席」となり、京都大学院教授だった白川方明副総裁が総裁を代行するということで、一応の決着をみました。エコノミストの中には「今、日銀総裁がいなくても、大したことはない。ゼロ金利政策が続き、公定歩合の操作などという仕事もないし、世界経済に大した影響はない」と穿った味方をする人がいますが、政党間の抗争もからんでおり、私のような素人には何が起きていたのかさっぱり分かりませんでした。

 

よほど内部の事情に詳しい人か経済に精通している人しか、これらのゴタゴタについてはよく分かりませんよね。

 

そんな折り、昨日の日経と東京新聞がかなり詳しく裏舞台を解説してくれていたので、ほんの少しだけ、分かったような気がしました。こういう記事は本当に有り難いですよね。ネットだけ見ていては、何も分からないでしょう。ネットニュースには、解説記事が少なく、「結果ニュース」が多いので、誰が勝った、負けたとか、といった結果は分かっても、その背景や歴史や途中経過などが分からないからです。

 

部数減に悩む新聞業界は、解説、コラムによって、生き延びる道があるのではないでしょうか。

 

日経の「検証 日銀総裁空席」によると、「武藤敏郎総裁」の布石は、実に五年前にあったというのですから、驚きです。2002年12月26日、東京・赤坂プリンスホテル内で、当時の小泉純一郎首相が、武藤・財務省事務次官に「日銀副総裁を引き受けてくれ」と説得し、5年後の総裁昇格の布石まで作ったと書かれています。

 

そもそも、日銀総裁は、日銀出身者と大蔵(財務)出身者(事務トップの次官)の「たすきがけ人事」が慣例でした。それが、1998年に大蔵官僚によるいわゆるノーパンシャブシャブ接待汚職事件が明るみに出て、大蔵出身の松下康雄総裁が失脚、その後、速水優、福井俊彦と日銀出身者が二代続けて総裁になるという異例の事態が起きたのです。

 

武藤総裁の人事が民主党が多数を占める参院で「不同意」となっても、諦めずに福田首相が、元大蔵事務次官だった田波耕治・国際協力銀行総裁を候補に拘ったのは、背景に財務省による日銀総裁奪回という「10年来の悲願」があったというのです。

 

分かりやすいですね。

 

東京新聞の「こちら特報部」(部創設40周年だそうで、おめでとうございます)の「福田首相『武藤日銀総裁』固執のワケ」によると、背景に角福戦争(佐藤栄作首相の後継を巡って、田中角栄、福田赳夫両氏が激しい政争を繰り広げた)時代の宿縁があったというのです。

 

まず、福田康夫首相は、赳夫元首相の息子。小沢一郎民主党党首は、田中角栄元首相の直々の弟子であったことを押さえておいてください。

1974年に次期大蔵事務次官の人事を巡って、当時大蔵大臣だった福田赳夫氏(大蔵省主計局長出身のトップエリート)が、慣例に従って主計局長の橋口収氏(後に国土庁初代事務次官)を押したのに対し、田中角栄首相は、主税局長の高木文雄氏(後の国鉄総裁)を事務次官にしてしまうのです。このバトルは「角福代理戦争」とも呼ばれました。

 

この橋口収氏の娘婿が何と武藤敏郎氏だったのです。福田康雄首相は、自分の親父が橋口氏に対して果たせなかった「約束」の借りを、武藤氏を日銀総裁にすることによって返したかったのではないかというのが、当時をよく知る与党議員の口から漏れたというのです。

 

これも非常に分かりやすいですね。

 

日本の政治、人事は、いまだに、恐らくこれからも「浪花節の世界」だということがよく分かります。