稲荷山古墳の国宝鉄剣と相見ゆ

さきたま古墳群

どなた様か分かりませんが、コメント有難う御座います。地方から東京に出てきた多くの若い人は、雑誌かネット情報で、世田谷とか目黒とか吉祥寺辺りに憧れて住みたがりますが、都内には意外と知られていない穴場があるわけです。

昨日は体育の日で、渓流斎の出所記念日に当たりましたので、遠足会を実施しました。

目的は、さきたま古墳群の稲荷山古墳で1978年に出土した115文字の金色の銘が刻まれた国宝の鉄剣の拝観です。

この企画に宇都宮氏の末裔で、古代豪族の流れをくむとも噂される栗林氏が賛同して下さり、十返舎一九さながらの弥次喜多道中で楽しくお参りができました。

まずは、埼玉県行田市の皆様には感謝申し上げます。JR行田駅東口に「行田市観光案内所」がありまして、そこで無料のレンタル自転車を拝借させて頂いたのです。

JR行田駅周辺には、驚くべきことに殆ど商店がなく、はっきり申し上げれば、かなり寂れており、道路の横断歩道の改修も何年もやっていない感じで、表示が薄れていました。市の予算がないのでしょう。

それなのに、無料で自転車を貸し出してくれるのですから、頭が下がります。

さきたま古墳群には、10基ぐらいの古墳がありまして、全てを回りきれませんでした。史料館の入場料は、200円という安さです。

お目当ての鉄剣は、本物は、東博か宮内庁で保管されて、レプリカが展示されているかと思いましたら、当時の埼玉県知事の畑和(はた・やわら=加須市出身。旧制浦和高校~東京帝大~弁護士)氏が「国宝鉄剣は、埼玉県の宝だから、県が責任を持って保管しよう」と提案して、茲、さきたま古墳群史料館で展示されるようになったそうです。これ以上錆びないように、つまり、酸化しないように、窒素ガスで、保存されておりました。

よく知られているように、この古代のさきたまの地名が、入間郡と争って県名になりました。もし、さきたまが敗れていたら、今頃、入間県になっていた可能性があるわけです。

史料館では、運良くボランティアの80歳前後のガイドさんと巡り会い、鉄剣の由来をじっくり説明して頂きました。やはり、第21代雄略天皇の時代のものらしく、鉄剣の銘には、この剣の持ち主の祖先は代々天皇の親衛隊長を務めていたと書かれているそうです。

この埼玉の豪族が、大和の天皇族との交流があった確かな証拠ですが、この埼玉の豪族がもともと大和の豪族で、埼玉に移住したのか、埼玉の豪族が大和に行ってまた戻ってきたのか、不明で、まだ解明されていないそうです。

しかも、これだけ広大な古墳をつくる豪族ですがら、邸宅跡や統治した民の住居跡があるはずなのに、古墳近辺では未だに発見されていないそうです。(周辺の火山噴火による埋没説もあるそうです)

これだけ権力を振るった埼玉の豪族の名前も不明。まさに、謎だらけです。

古墳と言えば、関西や九州にあるとばかり思っていましたが、関東にもかなり多く発掘され、今の千葉県や茨城県にはかなりあることが史料館の地図に描かれていて、私は知らなかったので、大変勉強になりました。

さきたま古墳群は綺麗に整備されて公園のようになっており、家族連れが目立ちました。

天下のNHKでは、今、古墳がブームで、沢山の古墳女子が溢れていると放送してましたけれど、一人も見かけなかったなあ…

忍城

古墳近くの小汚いお店で、名物のゼリーフライ(お好み焼き)を食してから、マイカー(レンタル自転車)で、忍城に行きました。

あの石田三成も落とせなかった「のぼうの城」として、小説化、映画化されて一躍全国区的に有名になりました。

城内は史料館になっていまして(入場料200円)、江戸時代、この忍城は徳川家康の四男が城主になったことから、譜代大名として多くの老中を輩出した雄藩だったということも初めて知りました。

いやあ、今回は、かなり収穫のある遠足会でした。