満洲国通信社の広告を担った金井勝三郎

東京・早稲田 大隈庭園

先週の土曜日は、2年振りぐらいで20世紀メデイア研究会に顔を出してみました。

興味深いテーマがあったからです。いつも不思議に思うのは、会場の早稲田大学は、私のような全く卒業生でも何でもない一般人にも幅広く開放して、しかも、資料のコピー代や講師の皆さんへの謝礼もあってお金がかかるはずなのに、無料で、そして、出欠の連絡なしに参加できることです。何一つボディチェックのないオープンキャンパスなので、私のような怪しい疑い深い人間にとっては、変な人が入ってきたら大丈夫なんだろうか、テロが起きないのだろうか(何で?)と心配になってくるほどです(苦笑)。

2年前は、失礼ながら、オンボロ校舎でしたが、今では改築されて見違える程、外見も内装もトイレも、まるでホテルのように立派になりました。会場は3号館でしたが、3号館といえば、何学部なのか事情通の方はすぐ分かることでしょう。

当日発表されたテーマは三つありましたが、私は二つだけ聴講して帰りました。今回は、そのうちの一つの「満洲国通信社の広告部門」についてです。

発表者は、元新聞記者ながら今は市井の研究者さんのようで、わざわざ大阪から来られまして、久し振りに高度な関西弁を聴きました。

配布された資料には明記されなかったのですが、文字として書かれていないお話だけの中に多くのキーワードがあったので、後から調べ直そうかと思いましたら、あまりにも専門的過ぎるのか、ネットには殆ど登場しない人ばかりでした。

それでも、私は個人的に大変興味があるので、同氏の資料等も参考にさせて頂き、勝手に許可なくこのブログに備忘録として残したいと思います。

世に知られているように、戦前の国策通信社として同盟通信社があります。これは、1936(昭和11年)に、陸軍の情報に強い電報通信社と、外務省情報に強い聯合通信社が、半ば強制的に、特に、対外情報発信の一本化を目的に、政治の大政翼賛会のように設立されたものです。

その同盟通信社が設立される4年も前に、大陸満洲では諸々の通信社を一本化する満洲国通信社が設立されます。日本政府の肝いりと言っていいでしょう。初代社長にはあの「阿片王」の異名を持ち、東京裁判では司法取引で「釈放」された里見甫が就任します。

しかし、研究発表会では、全くといっていいぐらい里見の話は出てきませんでした。

主に取り上げられたのは、金井勝三郎という人物です。この方は、非常に変わった人で、里見甫と同じ上海の名門東亜同文書院で中国語をマスターして、通訳をしたり、樺太日日新聞の記者となり、犬ぞり探検をして本を出版したり、青島(チンタオ)新聞の記者になったりします。

それがどういうわけか、縁も所縁もない大阪に来て、樺太日日新聞と青島新聞の日本支社と広告代理店「日華社」の看板を掲げて、事務所を開いたというのです。

この事務所で、満洲国通信社の広告を扱ったそうです。何故、東京ではなく大阪だったのか?ーそれは、昭和の初期は東京より大阪の財界の方が規模が大きく、新聞やラジオに出稿する大手企業の広告主は大阪に多かったからだそうです。

例えば、寿屋(現サントリー)、中山太陽堂、福助といった会社です。

実は、これらの企業広告を一手に手掛けていたのは、当時「大阪広告界のドン」と言われていた満洲の新聞社「盛京時報」にかつて勤務していた瀬戸保太郎という人物で、満洲国通信社の広告を引き受けた金井勝三郎の事務所は、この瀬戸保太郎の事務所に間借りしていたというのです。

結局、満洲国通信社の広告部門は、この日華社に乗っ取られる形で、何もできないまま、撤退したらしいですが、今日はここまで。

(間違いがあれば、後から何度でも修復訂正致します)