ヤルタ会談が分かれ目

黒河市内を黒竜江へ Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 いつも、いつも、「獅子身中の虫」様からコメントを頂きますと、ドキッと心臓が一瞬止まり、身仕舞いを糺してしまいまする。

 そうですか。御意見賜り、誠に有難う御座いました。

 まさか、ロラン・バルトにまで言及されるとは思いも寄らず、さすが、氏の読書量と教養の深さの甚大なることが拝察されました。

黒河市内を黒竜江へ Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 やはり、昨日書いた「ヤルタ協定」が気になっています。

 1945年2月4日から11日にかけて8日間、忘れっぽい現代人が既に忘れているあのウクライナ半島の南端の黒海を臨むリゾート地ヤルタで行われました。

 まだ、枢軸国の雄、ドイツ帝国も、大日本帝国も降伏しておりません。(イタリアは1943年9月に無条件降伏)

 そんなまだ「時期尚早」の時期に、既に、第2次世界大戦後の世界の構築が米英ソの3人の首脳によって話し合われたのです。

 参加した米大統領ローズベルト(1882~1945)は63歳。英首相チャーチル(1874~1965)は70歳。そして、ソ連首相スターリン(1878~1953)は66歳です。

対岸のブラゴベシチェンスクが見える Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 スターリン君は「憎いのは日本だ。40年前の露日戦争で勝手に奪われた樺太の南半分を返してもらいたい。ついでに、千島列島もくれなきゃ、やだよ」と言ったに違いありません。事実そうなりました。

 「そのかわり」と、その2カ月後に死が迫っていることを知らないローズベルト君は「日ソ中立条約なんか、さっさと反故にして、対日参戦してもらわなきゃ困るよ」と言ったに違いありません。70歳の最高齢のチャーチル君も口を揃えたのかもしれません。

 1945年8月9日。事実そうなりました。

 驚くべきことに、この会談では、特にポーランドとドイツの戦後処理と連合国同盟(国際連合は誤訳!)の設立。その連合国の英米仏ソと中華民国(決して中華人民共和国ではない!!)の5カ国が、拒否権を有することまで決定したのです。

 これらは、「ヤルタ密約」として、日本はおろか、世界中誰にも知らされることなく、「戦勝国の利」として取り決められました。

 日本にとっては、敗戦の半年以上も前に趨勢が決定されていたのです。それなのに、何も知らない青年将校が、ポツダム宣言受諾の玉音放送の録音盤を奪取しようとクーデターを試みた歴史的事実は、彼らが当時の文武両道の超知的エリートだったはずなのに、後世の人間から見ても、どうも、時代錯誤的、自大野郎的、情報収集力の根本的欠如を痛感せざるを得ません。

何かお忘れではありませんか?

戦争時、いや間違い、浅草寺

8月9日は、長崎原爆忌。

目下、リオデジャネイロ五輪、甲子園の高校野球、そしてプロ野球…と生中継のコンテンツが 豊富ですが、辛うじて、長崎原爆忌のニュースだけは、フォローされておりました。

しかし、この世の不条理に異議申し立てをする方もいらっしゃいます。皆様ご存知の松岡総裁です。

…小生にとって、この8月9日は、それこそ、時間単位で出来事を想起させる日である。別に競い合う積もりはないが、新聞などに“長崎原爆投下”のことは出ていても、現今に至る東アジアの政治的・軍事的歴史を大きく塗り替えた、“8月9日、ソ連軍170万満洲一斉侵攻開始”などと言うことは、何処を探しても出てこない。これが、“日本人の歴史感覚” 、と言うものなのですね…

まさに、忿懣遣る方なし、といった感じです。

私も、8月9日付の各紙夕刊の東京最終版6紙を全部チェックしてみましたが、何処もソ連軍の侵攻や暴虐に触れていません。

これでは、日本人の歴史感覚も、レベルが低いまんま、低空飛行を続けていってしまうと考えざるを得ませんね。

私も松岡総裁に敢えて質問してみました。

◇ヤルタの密約は何処まで取り決められたのか?

…自分の不勉強を棚に上げて申し訳ないのですが、ヤルタ秘密協定で、8月9日、長崎原爆投下とソ連軍侵攻は、同時進行として取りきめられたのでしょうか?ソ連は長崎原爆は事前通告されていたのでしょうか?
それとも、米軍が、焦って、戦局を優位に進めるために暴走したのでしょうか?…

夕刊を読んでいたら、ある被爆者が「広島の原爆はウラン、長崎はプルトニウム。米軍はどちらの効き目が高いのか人体実験したに過ぎない」と証言されておりました。

確かに、アメリカは、憎っきドイツに対しては、同じ白色人種ということで、原爆を投下せず、イエローモンキーなら人体実験になると主張した科学者がいた、という話も漏れ聞いたことがありますが、裏を取ったわけでもなく、確実な証拠があるわけでもなく、都市伝説のように、誠しやかに言い伝えられていただけのかもしれませんが。

さて、私の質問に松岡総裁は何と答えるか?

◇日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連

…ご質問の件に関しては、関係歴史的事象を、時系列的に整理・推論していくことにより、自ずと解を得られることと思われます。勿論、後に起こったことが、前に起こったことを規定することはないのです。

小生の「松岡二十世とその時代」(日本経済評論社)には、関係歴史的事象が、次のように精密にえがかれています。

(1)「三大国、すなわちソヴィエト連邦、アメリカ合衆国及び英国の指導者は、ドイツ国が降伏し且つヨーロッパにおける戦争が終結した後二箇月または三箇月を経て、ソヴィエト連邦が、次の条件で連合国側において日本国に対する戦争に参加することを協定した」(618ページ)

(2)なお各地に残存していたドイツ国防軍の首脳部は、五月七日、五月八日発効ということで、フランスのランスで連合国側の無条件降伏文書に署名し、また、ソ連側に対しては、五月九日、ベルリンにて、無条件降伏文書に署名した。(751ページ)
 この五月八日は、その三ヶ月後の八月八日に、ソ連が、ヤルタ秘密協定を援用し、まだ有効期間中であった日ソ中立条約を破棄して対日宣戦布告を行い、八月九日午前零時を期して、満洲への一斉侵攻を開始するに至る、運命の日となった。

(3)マリアナ諸島のテニアン島を発進した第二十一爆撃航空団所属のB29エノラ・ゲイ号は、八月六日午前八時十五分、広島上空で人類最初の原子爆弾、リトルボーイを投下し、同爆弾は、六百メートル上空で核分裂爆発した。(761ページ)

 それから二日経ったモスクワ時間八月八日午後五時(日本時間午後十一時)、ソ連のモロトフ外務大臣は、クレムリンにモスクワ駐在佐藤尚武日本国大使を招き、ソ連の「対日宣戦布告状」を手交した。
 その一時間後、満洲での一大カタストロフィーの幕開け、昭和二十年八月九日午前零時がやってきて、アレキサンドル・ワシレフスキー元帥指揮下の百七十万の極東ソ連軍が、東、西、北の三方面から、怒濤の如き満洲一斉侵攻を開始した。

なお、上記(3)の佐藤尚武日本国大使が、大使館に戻った時は、すでに無線は破壊され、佐藤大使は、「対日宣戦布告状」を本国を含む外部に伝えることは出来なかった由である。

上記(1)~(3)の次第をよくよく整理して考えれば、ソ連を含む連合国間の権謀術数がよく分かると思われます。…

うーん、難し過ぎる。

8月9日の長崎原爆とソ連侵攻の同時進行は、ヤルタ協定で確約されていたのか、それとも偶然だったのか?

日本の歴史家もメディアも、この「同時多発」に関しては少なからず、再検証するべきではないでしょうか?

偶然だろうが、必然だろうが、悲劇は、8月9日に長崎だけでなく、満洲でも起きたことを日本人として、もっと再認識するべきでしょう。

少なくともこの満洲の悲劇(ソ連のスターリンがその引き金を引いた!)で、60万人もの人がシベリアに抑留され、葛根廟事件のように民間人が大量虐殺される悲惨な事件が多発し、世界史上稀に見る残留孤児問題が起きたわけですから、後世の人間としてはもっと認識を新たにしなけらばなりません。

いわんや、松岡氏のように、1945年8月9日に満洲の首都新京(現長春)に住んでいて、ソ連軍による虐殺暴行略奪横暴を目の当たりにした「歴史的証人」にとっては、メディアにさえも取り上げられない現状に怒りを覚えるのも当然かもしれません。

「お気持ち」に接しまして

Skytree

8月8日(月)午後3時。

何故この日、この時間が設定されたのか分かりませんが、天皇陛下の「お気持ち」を表明されたビデオテープが流されました。

政治的色彩は極力排除されようとのお考えか、直裁的な表現は避けておられましたが、「生前退位」したいという「お気持ち」は、多くの国民なら斟酌できたのではないかと思っています。

ただ、「生前退位」に反対する一部の勢力もいるらしく、彼らが「玉音放送」の録音盤を奪取しなかったことは幸いです。「日本のいちばん長い日」の場面を思い起こしてしまいますから。

ビデオテープは、日本だけでなく、英国など皇室と所縁のある王国にも生中継されたらしいですね。リオデジャネイロ五輪が開催中で、世界中の眼がオリンピックに注がれていた半面、それだけ、天皇の言動について世界的にも関心を集めていたということでしょう。

私の世代は、まだギリギリ天皇制に関してはタブー視されていて、友人らとあからさまに議論したことはありません。

昭和天皇の戦争責任に言及しようものなら、右翼から殺害されるという危機感もありました。

しかし、今上陛下が即位されて30年近く経ち、戦後生まれが8割を占めるようになった現代では、天皇制に関しての議論は、それほど身の危険を脅かされるほどの禁忌事項ではなくなったことは、確かでしょう。

「國體護持」という複雑な問題も絡み、茲で自分の意見を開陳することなど烏滸がましいのですが、今や象徴天皇として多くの国民から認められ、尊崇されていることは事実であり、天皇制を否定する人は、左翼主義者の一部の人に留まるのではないでしょうか。

私自身、今上陛下が皇太子時代、小生がまだ高校生だった頃、何か体調が悪くて早退したところ、駅の周囲が異様な人集りで、何が起きたのかと思ったら、皇太子夫妻(当時)が、こんな田舎の養護施設に慰問に来られたという話を駅員さんに聞いて、本当に感激したことがありました。

私は、単なる生来の野次馬ですから、本当に目と鼻の先で、手を伸ばせば届く至近距離で、電車から降りて来られた皇太子夫妻を拝謁することができました。警備は殆どなかったかのように簡素でした。高校生ながら「大丈夫なのかなあ」と心配してしまいました。

そして、もう25年も昔になりますが、ウィーンに行ったことがあり、オーストリア政府の職員の方とお話する機会があったのですが、その方は「天皇がいる日本が羨ましい」と言うのです。

オーストリアは、御案内の通り、第一次世界大戦前までは、神聖ローマ帝国の流れを汲むハプスブルク家が未だ健在で、北はフランドル地方から南はイタリア国境まで、ヨーロッパ大陸の大部分を領土としていました。

それが、敗戦などで王家はドンドン衰退し、領土も欧州中央の小国に堕ちてしまいます。

ウィーンの歴史美術館に何で、フランドル地方の画家ブリューゲルの絵画があるのか、不思議でしたが、ブリューゲルの時代は、フランドル地方はハプスブルク帝国の一部であり、彼の絵画が首都ウィーンに保管されるのは極めて自然だったのですね。

件のオーストリア政府の女性職員は「我々は、ハプスブルク家というバックボーンを失い、小さな貧しい国になってしまいました。その点、日本にはバックボーンがあり、国民一体となって発展しているので、羨ましい」と言うのでした。

さて、今回の「生前退位」の話ですが、一部の反動主義者たちは、何かと、明治時代に革命政権が作った「皇室典範」を金科玉条のように引き合いに出して、反対しています。

天皇家の長い歴史を勉強すれば、推古、持統、斉明天皇ら多くの女帝が存在したわけですし、生前退位の例も数多ありました。

結局、天皇の権威を利用しようとする輩がいるので、話がややこしくなってしまうだけなのです。

皇太子が空位になるのなら、皇太弟の名称でもいいではないですか。元号も引き続き平成でも、改元してもどちらでもいいのではないでしょうか。

焦点は、御高齢になった天皇の健康問題です。激戦のあった旧戦場への海外慰霊の旅、被災地への慰問と、普通の後期高齢者ではとても体力的に持たないことでしょう。

陛下の御希望通り、一刻も早く生前退位されることが望ましいと私も考えております。

日本の将来は暗い?

ピカチュウ

この渓流斎ブログ。平日は、電車の中で、スマホで書いてます。

いつも、御丁寧に御親切に送って頂いている松岡総裁からの御写真は、パソコンに保存しているため、そのためゆえに、自宅でパソコンに向き合う週末にしか、写真掲載させて頂いていない、という事情が御座いましたのです。

その松岡総裁から久し振りにメールが御座いまして、「渓流斎ブログの中で、小生が『資本論』をドイツ語の原書で二回読破したような趣旨のことが、書かれておりましたが、正確には、日本語で『資本論』第1巻、第2巻、第3巻を一回、ドイツ語は、マルクス自身が書いた第1巻を読んだだけです。『経歴詐称』になりますから、御訂正下さい」とありました。

彼は、非常に超真面目な方です。

無鉄砲な私は「読者は、そんな真面目に読んでいるわけではありませんし、たとえ誇張した言い方でも気にしていません。まして、『経歴詐称』で訴える人はいないのではないてせうか」といったような生意気な返事をして、お茶を濁してしまったわけです。

私は、ぶっきら棒です(笑)。

で、「資本論」を取り上げるきっかけになった「希望の資本論」の中で、佐藤優さんがこんなことを言ってました。

早稲田大学政経学部3年生と、慶応大学総合政策大学院1年生に、「明治維新」や「日露戦争勃発」などの年号を入れろ、という問題を100題出したそうです。

そしたら、早稲田は平均5点、慶応は4.2点だったそうです。勿論、100点満点中です!40点、50点ではありません。

つまり、100問あって、そのうちわずか、4つか、5つしか答えられなかったというのです!

早稲田、慶応と言えば、高偏差値の「私学の雄」で、一応、超一流企業の就職に、その看板だけで有利に働き、一生安泰した生活ができ、希望の未来が保障されている、と言われております。

それが、この体たらくですからね。

はっきり書きましょう。

日本人は、馬鹿になった。

どうせ、私立文系だから、ろくに数学の勉強もしていないでしょう。それなら、重要な歴史の年号を覚える時間なんて有り余るほどあるはずです。単に学生の本分を忘れて、遊び惚けているに違いありません。

この程度なら、お隣りの中国韓国どころか、ミャンマーやカンボジアにも負けます。何処の国の若者も、必死に命を懸けて頑張っているというのに、この日本人の劣化はどうしたことでしょうか?

現に、日本の最高学府東京大学も、世界の大学ランキングで、シンガポール国立大学や香港大学より落ち、ここ2、3年前からアジア首位からも陥落しています。

日本の将来は暗い、のでしょうか?

広島原爆忌に

五大連池 魚はわが店で Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 まさに盛夏。

 昨日は8月6日の土曜日。広島原爆忌。

  不謹慎にも都内の演芸劇場にまで、生の落語を聴きに行こうかと思いまして、開演30分前に並んだのですが、係の人から「もう、ここから、立ち見です」と言われてしまいました。

 まさか、5時間も立って見ているわけにはいきませんから、諦めましたよ。天罰だったのかもしれません。

 係の人に聞いたら、切符を求めて、何と朝の9時から並んでいる人もいたとかで、今の現代人は、つくづく、現実生活が面白くないから、笑いを求めているんだなあ、と思い知らされました。

五大連池 野菜も豊富です Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 このまま、すごすごと帰ってしまうのも、何ですから、何年かぶりに、観音様にお参りしまして、仲見世通りは、あんまりにも、外国人観光客でごった返しているもんですから、比較的空いている北側にある「長寿庵」で、天もりとレモンハイで真昼間から一杯(だけ)きゅーとやって、憂さを晴らして帰りましたよ。

 田舎から遠路はるばる蒸気機関車に乗ってわざわざ、都心に出てきたので、汽車賃を取り戻さなければいけませんからね(笑)。そこの演芸場は、前売りも予約受付もなく、「満員御礼」では、誰も責められず、運がなかったと諦めるしかありません。(もしかしたら、代理店と手を組んで団体客優先だったのかもしれません。定員の320人も並んでいませんでしたからね!)

 まあ、都心に出たおかげで、やっと、ピカチュウを捕まえることができましたので、無駄骨を折らなかったということにしますよ(笑)。

 序ながら、江戸の老舗蕎麦屋のランキングを見てみたら、嘘か誠か、(1)まつや(2)砂場系(3)藪系(4)更級系(5)能登治(6)松竹庵(7)長浦(8)蓮玉庵(9)あさだ(10)吉田屋…あたりで、長寿庵系は圏外でしたね。

でも、そこの長寿庵は、値段もそれなりでしたから、美味かったでしたよ。

五大連池 ロバは良き友 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 広島原爆忌ということで、夜、TBS系の「報道特集」を見ていたら、広島駅の旧国鉄職員の人たちが、被災者の援護、救護のために、鉄道復旧に全力を尽くされていたことを証言を交えて報道していました。

 何か、国鉄の社史にも載っていなかったらしい秘話で、元国鉄職員の方は「原爆の被災者の中には、衣服が燃えて、全身裸で、皮膚もすべて赤むけてしまい、両手を挙げて歩いていました。肘が脇腹や腰に当たると痛いからです」などと証言しておりました。

 そう言えば、私は、子供の頃から、これまで多くの原爆絵や写真を見てきていたというのに、被爆者が何故、両手を身体から離していたのか、疑問も想像も、及びもつかなかったことを反省してしまいました。

 広島県郊外から、被爆者を看護するために動員された女子高校生らが、周囲も自身も何の知識もなかったため、そのまま原爆投下地広島市を訪れ、二次感染で放射能を浴びてしまい、それから何年か経って、ガンに侵されて多くの友人を亡くしたという80歳代の女性も出演しておりました。自身も何度もガンの手術をして、死線を乗り越えてきた方でした。

全身、原爆で焼かれて衣服がなければ、身分証明書や本人が分かる何もかもが、焼失してしまったということでしょう。本人も口がきける状態ではないまま、亡くなった方も多かったらしく、となると、何処の誰方かも分からず亡くなり、「無縁仏」のまま、多くの方が亡くなった墓所として「慰霊塔」がありました。

思わず、涙が出てきて止まりませんでした。

こうして多くの非戦闘員である無辜の市民を虐殺した原爆です。「何百万人ものアメリカ人の若者の生命を救うため」と、原爆投下にサインした米国軍最高司令官のトルーマン大統領(民主党)の弁明は、この世に本当に神様がいらっしゃるのなら、正当化できるのでしょうか?

 戦後71年。体験者の高齢化で、今後ますます、直接の証言者の皆様が亡くなられてしまうと思いますが、こうして、語り続けられ、記録に残していかなければならないという強い思いに駆られました。

「希望の資本論」

Quoi ?

鈴木崇夫です。

友人から「必ず読め」と勧められて、池上彰・佐藤優対談「希望の資本論」(朝日新聞出版)をやっと読了しました。

毎日、通勤電車の中では、スマホでこの渓流斎ブログを執筆してますので、なかなか読書の時間が取れませんのですねん(笑)。

正直、この2人とも、あまり好きくありません(笑)。いや、どちらかというと、あまりにも聡過ぎて、許容範囲を越えてます。たかが、と言っては怒られますが、2人とも映画スターでもタレントでもない作家かジャーナリストなのですから、まさか、文豪椎名桜子じゃあるまいし、世間様に対して、見たくもない顔の露出し過ぎではないかしら。プライドの高い本人らが聞いたら、それゃあ怒りまくるでしょうが。

と、こうして、「見た目が9割」みたいな話ばかりしましたが、内容は、残念ながらピカイチでした。私のような不勉強な人間でも、マルクスの「資本論」を読んでみるか、とその気にさせてくれる功績は非常に大きいです。(松岡総裁は、最高学府経済学部時代、ドイツ語で二回も「資本論」を読まれたそうですが)

どうやら、お二人とも、「資本論」に関しては、共産主義暴力革命の理論的支柱として、崇めていないようです。それは私も賛同します。彼らはむしろ、反共主義者と言っていいでしょう。

現代のように、労働の形態が変わって、四年生大学を出ても、非正規労働者になってしまえば、一生低賃金のままで、結婚さえできない。少子高齢化に貢献する要因になっています。

日本人サラリーマンの平均年収が400万円なのに、外資系の投資銀行にでも入れば、二十代でも軽く5000万円も稼ぐというこの格差社会。もっとも、軽く、と書いたのは間違いで、相当心身ともに破壊される程消耗することは確かですが…。

世の中、小賢しい者勝ちで、うまく立ち回ったもん勝ちということになります。

この本は、対談集で、要約しますと、池上は「『資本論』を読めば、自分の社会での立ち位置がよく分かる」と断言します。

佐藤は「『資本論』を読むと、論理的思考が確立する」として、怖いものがなくなる、といった風情です。

確かに、佐藤には怖いものが全くなさそうですね(笑)。論理的思考で彼に勝つことができる人間は、世界中にそういない感じだからです。書物代に6000万円使った!と豪語しているインテリさんですからね。

何しろ、佐藤は、公立高校としては全国ナンバーワンとして知られる県立浦和高校の時代に、当時埼玉大学教授だった鎌倉孝夫氏から、個人教授で「資本論」を読破したというんですからね。

高校生が、ですよ!

彼の強さのバックボーンは、小菅生活か、同志社時代の神学論にあるかと思いましたら、高校時代の「資本論」だったとは!

感服致しました。

でも、あくまでも、池上・佐藤両氏の意見に100%賛成であるというわけではなく、彼らの理論が100%.世間で通用するわけではないとも思っております。

読書体験の豊富さは、誰にも負けないでしょうが、それが、正義や世間的認知や実効性と関係があるかのかと言えば、残念ながら、必ずしもそうでもないものなのです。

ま、気落ちしない下さい。これは、私のせいであるというわけでもありませんから。

監視社会熱烈到来網

明治年間創業

コメントのunknown様には見事に見透かされましたね(爆笑)。
でも、昨日は、口角泡を飛ばして叱咤激励したおかげで、少し元に戻ったようです(笑)。

◇8月4日(木)のアクセス数
閲覧数=190 PV
訪問者数=110 IP
順位=8063位

今という時代。

やはり、ネット抜きには語れなくなりました。私も普通の人より早く、1995年に初めてインターネットを始めましたが、思い起こせば、1984年のロサンゼルス五輪のときに、その先駆けに触れていました。

コンピューター室がありまして、そこでは、試合結果や選手のコメントまで(英語で)出てきました。勿論、プリントアウトもできました。

そして、何よりも、今のようなメールも使えたのです。今から32年も昔ですよ!ライバル社の人間が、私が彼のメールを覗き込んで見た、と顔を真っ赤にして怒りまくっていたことを思い出しました。

私は見ていませんでしたが、どうせ、そいつは、卑猥な口説きメールをおねえちゃんに書いていたのでしょう。そういう人間でしたから。

その後、パソコンが、ここまでパーソナルなツールになるとは思いもよりませんでした。1980年代末、欲しくて堪らなかった「アップルII」が、1台200万円もしたことを覚えています。買えるわけがありません。

しかし、その進化も頭打ちで、「究極のツール」のiPhoneの売り上げが、最近、世界的にも落ちているということで、もう、イノベーションも終わってしまったのか、危惧しています。

ただ、情報発信の仕方が随分変わりましたね。監督官庁も、多国籍企業も、そして、スポーツ選手や芸能人まで、自分から直接情報を発信することになりましたから、別に、記者クラブに所属しない人間でも、報道関係の人間でなくても、同じように同種類の情報にアクセスすることができるようになりました。逆に言うと、自分たちの都合の良い情報しか流されていないのですが。

ユビキタスで世界中の株式や為替のリアルタイムの数値も入手できますので、誰かさんのように、脱税ではなく節税のために、会社をシンガポールに設立して大儲けすることもできます。

情報に関しては、自分の好きな、自分が信じる正しいと思う記事だけに接触することができます。

ですから、サヨクはますますサヨクに、ウヨクはますますウヨクになることができます(笑)。

ディズニーやキティちゃんなど自分の好きなアイテムだけに囲まれた気持ちの良い空間を築き上げることと一緒です。

「それがネットの悪いところ」と批判する人もいますが、何も新聞でもテレビでも同じです。テレビは、自分の好きな番組だけ見て、嫌いな政治家や評論家やタレントが出てきたら消すか飛ばすし、新聞だって、同じように取捨選択していることでしょう。

SNSにしても、電話の音声コミュニケーションが、文字情報に変わっただけで、内実は変わりません。やってることは一緒。

ますます息苦しい監視社会にはなりましたが、戦前の治安維持法で特高から四六時中監視されていた時代と比べれば、現代は天国ですよ。

勿論、これから先、どうなるか分かりませんけど…。

老婆心にも程がある

Paris, Garia

◆8月03日のアクセス数
閲覧数=159PV
訪問者数=84IP
順位=10379位

何てこったぁ。
昨日は、あれほど長時間掛けて苦労して書いたのに…。しかも、電車の中で…。
老婆心にも程があるものですね。

折角、有識ある知性主義の皆々様を覚醒して差しあげようと思ったのに、この程度の反響では、休刊も考えざるを得ませんね…。疲れてきました。

渓流斎が、このブログに人生の何分の一もの時間を無駄に消費しているのか誰にも分からないと思われます。議員や都知事のように何の報償もありませんから、骨折り損の草臥儲けという古い格言を思い起こします(笑)。

◇勲章大国ニッポン

実らない愚痴不満はこの辺にして、日本人ほど勲章好きの民族は世界でもそう多くはないでしょう。

ソ連が最盛期だった頃の最高指導者たち、スターリンもフルシチョフもブレジネフも、ジャラジャラと胸に納まりきれないほどの勲章をぶら下げておりましたが、それでも、世界的によく知られて権威のある勲章と言えば、フランスのレジョンヌ・ドヌール章でしょう。

でも、この勲章を創設したのはナポレオンですから、まだ200年かそこらしか経っていません。

恐らく、世界で最も古い冠位や勲章は、大陸中国かもしれませんが、異民族が何度も交差支配する断続的な歴史を持つ国でしたから、「万世一系」で現代まで連綿と続いているのは、我が国日本ということになるでしょう。

1200年前の律令国家がつくった「正六位」だの「従五位」といった冠位を、いまだに、この21世紀という時代にですよ、地方の小学校の元校長先生や消防団団長さんらに米寿のお祝いに贈与したり、亡くなった後に授与したりしている事実を一体何人の国民の皆様がご存知でしょうか?

芸術の世界も然り。

一番偉い芸術家は、「人間国宝」(無形重要文化財保持者)と思いきや、上には上がありまして、人間国宝よりも、定員120人の終身会員制である「芸術院会員」の方が、格が上になります。

文学、美術工芸の世界だけでなく、能狂言、文楽、歌舞伎の世界も同じです。

さらに、芸術院会員よりも上がありまして、それが、「文化功労者」となります。功労賞ではありませんよ(笑)。功労者です。毎年、この中から「文化勲章」受章者が決まるわけです。

これらの格差は、年金に如実に現れます。

人間国宝=200万円
芸術院会員=250万円
文化功労者=350万円

文化勲章は、功労者としての年金があるだけで、授与されるのは勲章だけ。ですから、日本国では最高の栄誉となります。

ノーベル賞を受賞しますと、自動的に文化勲章が授与されますが、文学賞の大江健三郎さんが辞退したことは有名ですね。詳細は分かりませんが、思想的な側面があったようです。

文化勲章を辞退した芸術家の中に、私の大好きな陶芸家河井寛次郎を見つけました。

彼に関しては、大変な職人気質の人で、そんな栄誉や威光に自分には縁がない、といった理由で辞退されたようで、彼らしいなあ、と思いました。

権威を認めない反骨精神のような大上段にも構えていません。

ますます、河井寛次郎が好きになりました。作品は、自分では買えないので、見に行きたくなりました。確か、湯河原にありましたよね?

【補記】河井寛次郎さんの作品は、京都・東山五条の「記念館」か、東京・駒場の「民藝館」で拝謁できますね。

「日本のいちばん長い日」と講談社

Ginza. Tokio

ポケモンGOの郷しろみです。

渓流斎ブログには、「偶然の一致」という文字はありません。

またまた、「必然」が起こりました。

一昨日、映画「日本のいちばん長い日」のことを書きました。そして、昨日は、講談社のことを書きました。

実は、この両者は、必然的に繋がりがあったのです。

具体的に言いますと、「日本のいちばん長い日」の主人公で、最後の陸相を務め、終戦記念日に割腹自決を遂げた阿南惟幾(あなみ・これちか)中将と講談社とは、姻戚関係があるということです。

ご説明申し上げましょう。

講談社の創業者野間清治という人は、今の群馬県桐生市出身です。(1878年生まれ)1909年に大日本雄弁会を設立し、11年には講談社と改称して「講談倶楽部」「少年倶楽部」「キング」などを発行します。それら雑誌は大当たりして、彼は「雑誌王」と呼ばれ、一代にして、大出版社に育て上げますが、1938年、まだまだこれからというのに59歳の若さでで急逝します。

その後、長男恒(ひさし)が2代目社長に就任しますが、彼も既に病に冒されており、1カ月も経たないうちに、29歳で早逝してしまいます。

そこで、創業者清治の妻サヱが3代目社長に就いて株式会社化し、1941年(真珠湾攻撃の年)、サヱの姪っ子の夫で、講談社に勤めていた高木三吉(のち取締役)の弟省一を、長男恒の寡婦登喜子に婿入りさせます。

当時、高木省一は、東京帝大卒業後、満鉄に勤めていました。彼は、終戦直後の荒波を乗り越えて講談社を復興し、「講談社中興の祖」と呼ばれた4代目社長野間省一です。

ちなみに、妻登喜子の父は町尻子爵家、母は賀陽宮家の出です。また、2代目恒社長には、3人の弟がいたと言われていますが、何故後継者にならなかったのか不明です。(ただし、次男も早逝されたようです)

そして、ここからがハイライト。1965年、「中興の祖」省一の一粒種だった長女佐和子の婿に迎えたのが、 「日本のいちばん長い日」の阿南惟幾(あなみ・これちか)陸相の五男惟道(これみち)というわけです。惟道は、 東大卒業後、三菱電機に勤務しておりました。

4代目野間省一が長い闘病生活の末、亡くなった後の1981年、この野間惟道が、5代目社長に就任します。しかし、この阿南陸相の血を引く5代目も87年に、 49歳の若さで急逝してしまいます。新雑誌創刊など、次々と新機軸を生み出しますが、ストレスと過労と深酒が祟ったようです。

6代目社長は、寡婦となった野間佐和子が就任し、2011年には、急逝した佐和子社長を継いで、息子の野間省伸(よしのぶ=47)が7代目の社長になっています。

こう見ていくと、講談社の経営方式も、特別に優秀な番頭を婿入りさせて、代々継いでいく江戸時代の商法とほとんど変わりませんね。

意外と知られていませんが、マスコミという出版社も新聞社も、実は創業者一族による経営がほとんどで、個人商店みたいなものなのです。

それを多くの人が勘違いして、「不偏不党」で「公明正大」やら「社会の木鐸」とやらと不作為の信頼を置いているから、間違いを起こすのです。

マスコミ報道は、GHQの「3S政策」と同じように、恣意的です。情報発信には必ず裏があります。よおく心得よ、かし。

「大陸新報」「戦線文庫」「陣中倶楽部」

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大島テラスです。

もうツィッターやめよかなあ、と思ってます。

私の通勤電車は、最近とみに頻発に遅れることが多く、その理由が、人身事故なのか、パンタグラフの故障なのか、急病人なのか、駅で緊急停止ボタンが押されたのか、ツィッターで路線検索すれば、何らかの情報が即座に入るので、便利に使っていたのです。

でも、他のページの中には不愉快な側面もありますね。特に、ネット業界特有の隠語を使った脅し、貶し、侮蔑、蔑視、威丈高、讒謗、誹謗中傷、見下しには不愉快を越えて、怒りすら覚えてきました。

「そっかあ!こんなもん、見なきゃいいんだ」。こんな簡単な、単純な動作すら忘れていました。

◇宣撫活動を率先した大手マスコミ

ここ数年、ネット上に現れる論調の中に、「朝日新聞は、サヨクで反体制的で怪しからん」というものが多数占めているようです。

そう言う方は、山本武利著「朝日新聞の中国侵略」を読んでいないのでしょうね。2011年に文藝春秋から刊行されました。

朝日新聞は、競合他紙に先駆けて、戦争中に、上海で邦字紙「大陸新報」を創刊。休まず発行し続けて、挙国一致の戦意高揚の宣撫活動を行ってきました。同書は、山本氏がその実態を余すところなく暴いた労作です。

これで、朝日新聞は決してサヨクでもリベラルでも何でもなく、まして反体制派でも何でもないことが分かります。大衆迎合、いや部数拡張のために尖兵となって、体制と武器商社と手を結ぶ単なる営利企業に過ぎないことが分かります。何しろ航空部門(後の全日空)を創設するほど大儲けしたわけですから。

山本武利氏の著作を公にした文藝春秋も、同じような、これまでひた隠しに隠してきた「脛の傷」と言いますか、「武勇伝」があります。

これまた、戦時中に海軍からの委託で発行された「戦線文庫」という雑誌がありました。版元の興亜日本社は、実質的に文藝春秋の子会社です。

この雑誌は、今で言う「週刊プレイボーイ」とまで言っては、言い過ぎかもしれませんが、当時のアイドルだった原節子、高峰秀子、田中絹代、山田五十鈴ら大スターのグラビア写真が満載の娯楽誌です。前線の兵隊さんらのために無料で配布されたそうです。

まあ、慰問誌みたいなものでしょう。

春陽堂、改造社、実業之日本社、新潮社などを押しのけて、昭和初期には日本一の版元に躍り出た大日本雄弁会講談社も黙っていません。

戦後、講談社に改称されるこの大出版社は、帝国陸軍からの委託を受けて、「陣中倶楽部」を発行します。海軍と同じような慰問誌です。

この二誌は、他誌が言論弾圧や紙の配給の停止に脅えながら発行しているのを尻目に、戦時中は一度も休刊されず、発行し続けられました。

武勇伝が逆巻く現在では、隠すも隠さないも、この「戦線文庫」も「陣中倶楽部」も復刻版が発売されています。

以上、押田信子著「兵士のアイドル」(旬報社)などを参照しました。